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南アフリカ 人種差別政策から民主化したアフリカ大陸最南端の多民族国家

IRiphabliki yaseNingizimu Afrika (ズールー語)
IRiphabliki yaseMzantsi Afrika (コサ語)
Republiek van Suid-Afrika (アフリカーンス語)
Republic of South Africa (英語)
Rephaboliki ya Afrika-Borwa (ペディ語、ソト語)
Rephaboliki ya Aforika Borwa (ツワナ語)
南アフリカ共和国

南アフリカ 人種差別政策から民主化したアフリカ大陸最南端の多民族国家

 南アフリカ共和国(IRiphabliki yaseNingizimu Afrika / IRiphabliki yaseMzantsi Afrika / Rephaboliki ya Afrika-Borwa / Republiek van Suid-Afrika / Republic of South Africa)は、アフリカ大陸最南端にある国で、中央にレソト王国を囲み、東がエスワティニ王国とモザンビーク共和国、北がジンバブエ共和国、ボツワナ共和国、ナミビア共和国と接している。南西には南大西洋、南東にはインド洋が広がっている。

 南アフリカ共和国の面積は約122万平方キロメートルで、人口は約5570万人。通貨はランド(Rand)で南アフリカ準備銀行が発行し、南アフリカのほか、レソト、エスワティニ、ナミビアなどでも使用されている。南アフリカの一人当たりのGDP(国内総生産)は約6400ドルで、85位前後。一人当たりの購買力平価(PPP)は約1万2000ドルで100位前後。1990年代の民主化後、国際社会との関係改善による経済成長が期待され、アフリカ最大の経済大国であるとはいえ、長年の人種差別政策による人材育成の遅れと貧困、エイズ(AIDS/後天性免疫不全症候群)の蔓延、治安の悪化などにより、社会格差もいまだ大きく、一人あたりのGDPは低い。

 南アフリカ共和国の国民は、アフリカ・バントゥー系の黒人が約80%を占め、カラード(混血)が約9%、ヨーロッパ系白人が約8%、アジア系が約3%である。黒人はズールー人、コサ人、ペディ人、ツワナ人、ソト人、ツォンガ人、スワジ人、ヴェンダ人、ンデベレ人らが住み、ヨーロッパ系白人はオランダ人移民および宗教的自由を求めて移住したフランスやドイツなどを祖先とするアフリカーナー(Afrikaner)と、イギリス系の住民が住んでいる。このほかサン人、コイコイ人などのコイサン系少数民族・先住民が住んでいるが、混血が進んでいる。アジア系はインド系が多く、近年は中国系も増えている。また、カラードと呼ばれる人々は、オランダから入植した男性と現地のコイサン系や奴隷として連れて来られたマレー人やインド人の女性と結婚した子孫であり、その多くがアフリカーンス語を話す。

 このように南アフリカ共和国は極めて多民族であることから、公用語も複数あり、バントゥー諸語の9言語(ズールー語、コサ語、ペディ語、ツワナ語、ソト語、ツォンガ語、スワジ語、ヴェンダ語、ンデベレ語)と、オランダ語系のアフリカーンス語、そして英語の11言語が公用語となっている。

 南アフリカの家庭で用いられている言語は、ズールー語23%、コサ語16%、アフリカーンス語14%、英語10%、ペディ語9%、ツワナ語8%、ソト語8%、ツォンガ語5%、スワジ語3%、ヴェンダ語2%、南ンデベレ語2%であり、ズールー語話者が最も多いが、バントゥー諸語は地域性が強く、南アフリカ全体の共通語にはなっていない。かつてはアフリカーンス語と英語が共通語として使われていたが、アフリカーンス語は人種隔離政策(アパルトヘイト/Apartheid)を進めた白人政権の支配者の言語であったため、1994年の民主化以来、アフリカーンス語の共通語としての地位は低下し、代わりに英語がエリートになるための言語として重要視されるようになった。

 ズールー語(isiZulu)を話すズールー人(Zulu)は、南アフリカ共和国最大の民族グループで、南アフリカ東部のクワズール・ナタール(KwaZulu-Natal)州を中心に、ハウテン(Gauteng)州、ムプラマンガ(Mpumalanga)州などに計約1000万人余りが住んでいる。多民族の地域ではズールー語が異民族間の言語として用いられることもあり、約1160万人の話者がいる。2009年~2018年に大統領を務めたジェイコブ・ジェジェイレ・ズマ(Jacob Gedleyihlekisa Zuma)はズールー人である。ステップを踏みながらアカペラで歌う「イシカタミア」(Isicathamiya)や音楽スタイル「ムバカンガ」(Mbaqanga)などのズールー人発祥の文化がある。

 南アフリカ共和国第2の民族グループであるコサ語(isiXhosa)を話すコサ人(Xhosa)は、南アフリカ南部の東ケープ(Mpuma-Koloni / Eastern Cape)州を中心に、西ケープ(Wes-Kaap / Western Cape)州、ハウテン州などに約800万人住んでいる。民主化を成し遂げた第8代大統領のネルソン・ホリシャシャ・マンデラ(Nelson Rolihlahla Mandela)や、第9代大統領のタボ・ムヴイェルワ・ムベキ(Thabo Mvuyelwa Mbeki)はコサ人である。

 3番目の言語グループは、アフリカーンス語(Afrikaans)を母語とするブール人・ボーア人(Boer)とも呼ばれたアフリカーナー(Afrikaner)およびカラード(Kleurling/Coloured/混血)で、約700万人余りが話し、さらに第二言語を含めると1000万人以上の話者がいる。隣国のナミビアも南アフリカ共和国領時代が長かったことからアフリカーンス語も用いられている。

 アフリカーンス語は、南アフリカオランダ語ともいえるオランダ語に極めて近い言語であるが、オランダ語を基礎にフランスやドイツなどの欧州の言語、バントゥー諸語、コイサン諸語、マレー語などの要素が加わり、さらに英領時代の英語による影響も受けた。南アフリカの白人社会の共通語として広がり、1925年にアフリカーンス語が正式にオランダ語に替わって南アフリカ連邦の公用語に加えられた。アパルトヘイト時代の1976年に黒人の学校の授業もすべてアフリカーンス語を導入しようとし、アフリカーンス語強制に反対する「ソウェト蜂起」につながった。アパルトヘイトが撤廃された1994年以降もアフリカーンス語は公用語の一つではあるものの、共通語としての地位は失われた。

 南アフリカには白人が20%を占めていた時代もあったが、民主化した1994年には約14%、2009年には約9%まで減少した。アフリカーンス語にはアパルトヘイトの支配者言語のイメージがつきまとうため、民主化後はアフリカーンス語排除の動きが強まり、地方言語と英語が重視される流れのなか、今後のアフリカーンス語はカラードの割合が高い南アフリカ西部の地方言語となりそうだ。

 アフリカーンス語は、カラードが人口の約4割を占める北カープ(Noord-Kaap / Northern Cape)で母語話者が5割を超えるほか、西カープ(Wes-Kaap / Western Cape)州でも約半数がアフリカーンス語を使用している。ハウテン(Gauteng)州にある首都のプレトリア(Pretoria)もアフリカーンス話者が多いほか、ハウテン州は多民族であるためアフリカーンス語を使用する人も多い。そのほか自由州(フレイスタート/ Vrystaat / Free State)、東カープ(Oos-Kaap / Eastern Cape)、北西州(Noordwes / Bokone Bophirima / Northwest)などでも使用されている。一方、ズールー人が大多数を占める東部のクワズール・ナタールではほとんど使用されていない。

 英語は、イギリス系白人やインド系の住民を中心に、ヨハネスブルク(Johannesburg)やケープタウン(Cape Town)、ダーバン(Durban)の大都市での使用率が高く、西ケープ州でも母語話者が多い。近年はアフリカーンス語の地位低下と反比例して英語の共通語としての役割が高まり、高等教育言語としても重視され、黒人のエリート層も英語を話す。一方で、英語が話せないと社会的に成功できないことが、バントゥー諸語の地位向上につながらないという問題もある。

 ペディ語(北ソト語/Sepedi/Sesotho sa Leboa)を話すペディ人(Bapedi)は、北ソト人とも呼ばれ、ソト人(南ソト人)やツワナ人と関係が近い。主に北東部のリンポポ(Limpopo)州で話され、ハウテン州でも話されている。話者数は約460万人。

 ツワナ語(Setswana)を話すツワナ人(Batswana)は、北に隣接するボツワナ(Botswana)にまたがって住む民族グループで、ツワナ語は隣国ボツワナの公用語でもある。ボツワナと接する南アフリカ北部の北西州(Bokone Bophirima)に多く住み、南アフリカでのツワナ語話者は約410万人。

 ソト語(Sesotho)を話すソト人(Basotho)は、中央の自由州(Foreistata)で多く話され、南アフリカで約390万人の話者がいる。ソト語は南アフリカ共和国に囲まれたレソト王国の公用語でもあり、ソト人はレソトと南アフリカの中央部にまたがって住んでいる。

 ツォンガ語(Xitsonga)を話すツォンガ人(Tsonga)は、南アフリカ東部のリンポポ州東部に住み、隣国のモザンビークにまたがって住んでいる。ツォンガ人はモザンビークではシャンガーン人(Shangaan)と呼ばれている。南アフリカ領内のツォンガ語話者数は約230万人。

 スワジ語(siSwati)を話すスワジ人(Swati)は、隣国エスワティニ王国とまたがって住み、スワジ語はエスワティニ王国(weSwatini)の公用語でもある。東部のムプマランガ州で最も話者が多く、南アフリカ領内には約130万人の話者がいる。

 ヴェンダ語(TshiVenḓa)を話すヴェンダ人(VhaVenda)は、リンポポ州の北東部に住み、ジンバブエにもまたがって住んでいる。南アフリカ領内のヴェンダ語話者は約120万人。

 南ンデベレ語(Isindebele)を話すンデベレ人(Ndebele)は、東部のムプマランガ州で主に話され、話者数は約110万人。ジンバブエの北ンデベレ語と近い関係にある。ンデベレ人はかつてズールー人から攻撃を受けて北のムプラマンガ州の高原に逃げ、さらに多くがジンバブエまで逃げたため、南北に分かれた。ンデベレ人はジンバブエの人口の約14%を占めている。

 南アフリカは、古くより狩猟民族のサン人(San)と、牧畜民族のコイコイ人(Khoikhoi)が住んでいた。その後、西暦300年~900年頃にバントゥー系民族が南下し、サン人やコイコイ人を追い払ったり、同化したりしながら南アフリカに定住するようになった。コサ人、ズールー人、ソト人、ツワナ人らによる小首長国が形成された。1050年~1270年頃には南アフリカとボツワナとジンバブエの国境付近のリンポポ川とショナ川の合流地点の近くにはショナ人らによりマプングブエ(Mapungubwe)という都市が形成されていた。

 南アフリカに初めてヨーロッパ人が到達したのは1488年のことで、ポルトガル人の探検家バルトロメウ・ディアス(Bartolomeu Dias)がケープ半島の「喜望峰」に到達した。ディアスはこの岬を海が荒れていたことから「嵐の岬」(Cabo des Tormentas)と命名したが、香辛料貿易のルートとなることからポルトガル王のジョアン2世(João II)が「希望の岬」(Cabo da Boa Esperança)と改名した。この岬は後にオランダ語で「Kaap de Goede Hoop」、アフリカーンス語で「Kaap die Goeie Hoop」、英語で「Cape of Good Hope」と呼ばれるようになり、日本語では「喜望峰」と訳されて伝わった。続いて、1497年にポルトガル人の探検家、ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)が喜望峰を通り、そのままインドへの航路を発見した。

 ヨーロッパとインドの貿易が盛んになると、アフリカ大陸の南端付近に位置する喜望峰のあたりに補給基地が必要となり、当時盛んにアジア進出していたオランダ東インド会社(Verenigde Oost-Indische Compagnie)のヤン・ファン・リーベック(Jan van Riebeeck)らが1652年に上陸して補給のための港町を建設し、カープスタット(Kaapstad)と命名し、後に英語でケープタウン(Cape Town)として知られるようになった。

 1657年よりオランダ人を中心に自由移民がカープスタット(ケープタウン)に入植を始め、1683年にはカープスタットから東50キロにステレンボッシュ(Stellenbosch)という町が建設された。ステレンボッシュは、オランダ領ケープ植民地総督のシモン・ファン・デル・ステル(Simon van der Stel)にちなんで「ステルの森」という意味である。フランスの改革派教会でフランスで弾圧を受けたユグノー(Huguenot)と呼ばれるフランス人やドイツなどヨーロッパ諸国のプロテスタントらも自由を求めてカープスタットに入植し、後にアフリカーナーと呼ばれるブール人(Boer)というヨーロッパ白人系民族グループが形成された。ブール人らは先住民のサン人を「藪の民」という意味のブッシュマン(Bosjesman)と呼び、コイコイ人をホッテントット(Hottentot)と呼んだ。

 オランダ系を中心とするブール人はインドネシアやマレーシアからのマレー系、インド、スリランカからのインド系、モザンビークなどからのアフリカ系の人々を奴隷とし、サン人やコイコイ人の土地や家畜を奪い、農園を営み、ワインなども製造した。オランダ人らは先住民を差別しながらも、入植者は男性が多かったことから奴隷との同棲で混血化も進み、カープ(ケープ)のオランダ語は次第に多様な民族との接触により変化していき、独特のアフリカーンス語に発展し、オランダ人にとっても分かりやすい言葉であることから、アフリカーンス語への変化は、オランダ系移民にも受け入れられた。

 1795年にフランス革命をめぐり、フランス革命軍がオランダのネーデルラント共和国を占領した。この混乱に乗じて、イギリスがオランダ東インド会社が所有していたカープ(ケープ)植民地を占領した。ネーデルラント共和国はフランスによる衛星国のバタヴィア共和国となり、東インド会社も1798年にバタヴィア共和国に移管された。1803年にイギリスが占領したカープ植民地はナポレオン戦争中の「アミアンの和約」(Peace of Amiens)によりバタヴィア共和国に返還されたが、英仏間の対立でイギリスはオランダのバタヴィア共和国を攻め、1806年にカープ植民地を再占領し、1814年にカープ植民地は英領ケープ植民地となった。

 一方、南アフリカの東部では1817年にズールー人によるズールー王国が成立した。ズールー人のシャカ(Shaka)が初代国王に就任した。国内で恐怖政治を行いながら他部族を制圧し、勢力の拡張を続けた。初代国王シャカは1828年に異母弟によって暗殺されたが、その後もズールー王国は南アフリカ東部を支配した。

 イギリス領となったカープスタットはケープタウン(Cape Town)と呼ばれるようになり、公用語も英語に変わった。1833年に大英帝国で奴隷制が廃止され、英領ケープ植民地ではオランダ系のブール人(アフリカーンス)が経営する大農園の奴隷も解放されたが、これまで支配層だったブール人(英語読みはボーア人)は被支配階層に転落することとなり、不満が高まっていった。ブール人らは外来のイギリス人に対して先住の自らをアフリカーナー(Afrikaner)と呼ぶようになり、オランダ語が南アフリカで変化してできたアフリカーナーの共通語をアフリカーンス語と呼ぶようになった。

 アフリカーナーらはケープ植民地よりさらに内陸へと移住を始めるようになった。ンデベレ人の住む土地を侵攻し、さらに東へ、南アフリカ東部のナタール(Natal)へと移住を始めた。ズールー人との衝突となったが、1938年にアフリカーナーの軍隊がズールー人を破り、1839年にアフリカーナーによる「ナタール共和国」(Natalia Republiek)を建国した。

 しかし、これにイギリスが介入し、1843年にナタール共和国が解体され、アフリカーナーらはさらに内陸へと移り、イギリスは干渉しようとしたもののアフリカーナーやソト人の抵抗に遭った。1852年にプレトリア(Pretoria)を首都とする南アフリカ共和国(Zuid-Afrikaansche Republiek)が建国され、現在の南アフリカ共和国と区別して「トランスファール共和国」(Transvaal Republic)と呼ぶことが多い。1854年にはイギリスとアフリカーナーとの「ブルームフォンテーン協定」(Bloemfontein Convention)によりブルームフォンテーン(Bloemfontein)を首都とする「オラニエ(オレンジ)自由国」(Oranje-Vrijstaat / Oranje-Vrystaat / Orange Free State)の独立が認められた。

 また、ソト人が住むレソトはアフリカーナー(ブール人)の侵攻から守るため1943年にイギリスに保護を求め、「オラニエ自由国」とも戦闘になった。1869年にレソトは領土のうち肥沃な平原部をオラニエ自由国に割譲し、山間部がイギリスの保護領である英領バストランド(Basutoland)となった。イギリスは1871年にバストランドをケープ植民地に編入したが、抵抗に遭ったため、1884年に英領バストランドを復活させ、一定の自治を認めた。この英領バストランドが後に1966年に「レソト王国」として独立することになる。

 ズールー王国は、第4代国王セテワヨ・カムパンデ(Cetshwayo kaMpande)の時代に、キリスト教宣教師を追放し、国境付近で英国人測量士を拘束したことがきっかけで、イギリスの怒りを買い、イギリスはズールー王国の保護国化を要求した。ズールー王国がイギリスの要求を拒否すると、1879年にイギリス軍がズールー王国に攻め込み、ズールー戦争となった。ズールー王国はイギリスに敗北し、イギリスにより分割統治されるようになった。

 トランスファール共和国は、ファール川(Vaalrivier)の北方にあり、内陸国であるため、海への出口がないことが国の発展において不利であった。そこで、モザンビークの出ラゴア湾(Delagoa Bay)へ勢力を伸ばそうとしたが、イギリスの反対に遭い、1877年にイギリスはトランスファール共和国の併合に動いたが、アフリカーンス(ブール人/ボーア人)の抵抗により第1次ボーア戦争となり、1881年のプレトリア協定でトランスファール共和国の独立が回復された。

 しかし、その後、トランスファール共和国のヨハネスブルグ近郊で金鉱が発見されると、外資が進出し、鉄道が英領ケープ植民地やモザンビークのロウレンソ・マルケス(Lourenço Marques)、英領ナタールのダーバンなどへ建設されると、イギリスがトランスファール共和国への野心を強め、1899年に第2次ボーア戦争となった。

 ズールー王国の第4代国王セテワヨの息子であるディヌズールー・カセトシュワヨ(Dinuzulu kaCetshwayo)は、アフリカーンスの力を借りてライバルのジヘブを倒したが、第2次ボーア戦争の際にディヌズールーが支配していた領域はトランスファール共和国に併合され、その他のズールー人の土地であるズールーラント・クワズール(KwaZulu)は英領ナタール植民地に編入された。また、1902年にはトランスファール共和国が崩壊し、英領トランスヴァール植民地(Transvaal Colony)となった。

 また、オラニエ自由国では、1860年代にダイヤモンド鉱山が発見され、多くのヨーロッパ白人がやってきた。イギリスは1899年の第2次ボーア戦争の際にオラニエ自由国を攻め、1902年に英領オレンジ川植民地(Orange River Colony)となった。

 エスワティニのスワジ人は、ズールー人と敵対していたため、敵の敵は味方の論理で、イギリスおよびトランスファールのアフリカーナーといずれも友好関係を維持していた。しかし、ズールー王国が崩壊すると、ヨーロッパ白人がエスワティニに進出して利権を抑えるようになり、エスワティニはトランスファールの保護国となったが、第2次ボーア戦争でトランスファール共和国が崩壊したため、エスワティニはイギリスの保護国スワジランド(Swaziland)となった。

 イギリスは、保護国となっていた英領バストランド(レソト)と英領スワジランド(エスワティニ)を除く南アフリカの各植民地を1910年に統合し、英領ケープ植民地(旧蘭領カープ)、英領ナタール植民地(旧ナタール共和国・旧ズールー王国)、英領トランスヴァール植民地(旧トランスファール共和国)、英領オレンジ川植民地(旧オラニエ自由国)による英自治領・南アフリカ連邦(Union of South Africa / Unie van Zuid-Afrika)を発足させた。この目的は、鉱山における白人の権益を守ることにあり、1911年に白人労働者の保護を規定した人種差別的な「鉱山労働法」(Mines and Works Act)が制定された。

 南アフリカの北西のナミビアは、1884年よりドイツ領南西アフリカ(Deutsch-Südwestafrika)となっていたが、第一次世界大戦により、英領南アフリカ連邦軍がドイツ領南西アフリカを攻め、1915年にドイツが降伏し、戦後イギリスの管理下に置かれることになり、1921年より南アフリカ連邦委任統治領南西アフリカ(South West Africa / Zuidwest-Afrika)となった。

 1925年、オランダ語から現地化したアフリカーンス語が英語と並ぶ公用語となり、南アフリカ連邦においてオランダ語よりも正式な地位を獲得した。「南アフリカ連邦」はオランダ語では「Unie van Zuid-Afrika」であるが、アフリカーンス語の綴りでは「Unie van Suid-Afrika」となった。

 1931年、イギリスで自治領の独立を認めるウェストミニスター憲章(Statute of Westminster)が採択され、南アフリカ連邦が事実上独立国家となり、1934年にイギリス国会で正式に主権国家として認められ、英連邦の一員として「南アフリカ連邦」が正式に独立を果たした。

 南アフリカ連邦は、一つの国となったものの、その中身は白人が黒人を支配する極めて人種差別的なものだった。南ア領南西アフリカ(ナミビア)でも同様に白人が黒人を支配する南アフリカ連邦のやり方が持ち込まれた。第二次世界大戦後、南アフリカ連邦は国際連盟が解散(国際連合に移行)した機に乗じて南西アフリカの委任統治の終了と併合を宣言したが、これは国際承認は得られず、不法占領とされた。

 1948年からは国民党(Nasionale Party)政権により「アパルトヘイト」(Apartheid)と呼ばれる人種隔離政策が進められた。それ以前にも1927年に制定された白人と非白人(黒人、カラード、インド系)の恋愛や性行為を禁止した「背徳法」(Immorality Act)などの人種差別法があったが、1950年代以降はより露骨に、公共施設や飲食店、居住区、生活圏なども白人と黒人がくっきり分けられ、教育面でも白人と黒人の共学が禁止された。このようなことをすると当然、黒人側からの抗議や抵抗運動が起こることになるが、南アフリカ連邦政府は共産主義鎮圧法、反社会的組織法、暴動的集会法などにより、反対運動を取り締まり、弾圧した。

 アパルトヘイト体制の下では本来アジア人は非白人であるが、経済が発展し、反共の共通点もあった日本人、台湾人、香港人などは「名誉白人」扱いで優遇された。つまり、人種差別の本質は、白人支配体制を脅かす恐れがある人口が多い黒人を徹底的に弾圧する一方、黒人に比べて人口が少ないカラード(混血)やインド系については黒人より優遇することで白人側に取り込み、分断を図った。外資や技術をもたらす東アジアの先進国は「名誉国民」として優遇したということだった。

 アパルトヘイトは、ヘンドリック・フルウールト(Hendrik Verwoerd)首相の時代にさらに加速された。南アフリカ連邦では白人は黒人から土地を奪うためにホームランド(Homeland)という制度を作り、黒人を民族ごとに一定の地域に集めていたが、1959年のバントゥー自治促進法により、白人地域(87%)と黒人地域(13%)に分け、黒人は民族ごとのバントゥースタン(Bantoestan)に分けた。抗議や暴動を抑えるためにますます警察国家化していった。

 1960年には黒人にだけ身分証携帯を義務付けるパス法に対する抗議活動に参加した群衆に発砲した「シャープビル虐殺事件」(Sharpeville massacre)が発生し、さすがの宗主国のイギリスも南アフリカ当局を非難。これに対し、南アフリカ連邦は1961年に英連邦を脱退し、イギリスのエリザベス女王を元首とする立憲君主制を廃止して、共和制に変更し、国名も「南アフリカ共和国」(Republiek van Suid-Afrika / Republic of South Africa)に変更した。

 人種差別の国として国際社会から孤立するようになった南アフリカ共和国は、国民党のバルタザール・フォルスター(Balthazar Vorster)首相の下、1970年に「バントゥー・ホームランド市民権法」を導入し、南アフリカ国民がいずれかの「ホームランド」の所属とすることが定められた。各バントゥースタンには自治、さらには独立を認めると定められた。そういえば聞こえは良いが、黒人地域はやせた土地に多くの人々が集められ、バントゥースタンの独立国(黒人地区)から南アフリカ(白人地区)で働くには「外国人労働者」という扱いとなり、国民の権利が認められないというカラクリになっていた。白人支配を脱却して独立したいという願望はあっても、南アフリカ国民の権利が不当に奪われる口実であることはすぐ分かることなので、それでも独立を選択するバントゥースタンのホームランドがある一方で、独立を拒否するホームランドもあった。

 コサ人の「トランスカイ共和国」(iRiphabliki yeTranskei)と「シスカイ共和国」(iRiphabliki ye Ciskei)、ツワナ人の「ボプタツワナ共和国」(Repaboleki ya Bophuthatswana)、ヴェンダ人の「ヴェンダ共和国」(Republiek van Venda)は独立国のバントゥースタンとなったが、国際承認は得られなかった。また、バントゥースタンの独立国は事実上は南アフリカ共和国の治安当局がコントロールしているため、それらの指導者は白人に媚びを売る黒人の裏切り者と認識されることが多かった。また、クワズールー、レボワ、ガザンクル、クワクワ、カングワネ、クワンデベレなどのバントゥースタンは自治区とされた。

 バントゥースタン政策は、南ア領南西アフリカ(ナミビア)でも実施され、ヘレロランド、カバンゴランド、オバンボランド、東カプリビなどの自治区が設けられた。一方、1962年に南西アフリカ人民機構(SWAPO)が結成され、1966年よりナミビア独立戦争が始まり、長年の闘争を経て1990年に「ナミビア共和国」(Republic of Namibia)として独立した。

 1976年に南アフリカ共和国政府は、黒人の学校でもアフリカーンス語での授業を行うことを決定したが、ほぼオランダ語のアフリカーンス語は、南アフリカの黒人からすると白人支配階級の言語であるため、授業ボイコットの抗議活動が起こった。この抗議集会に警察隊が催涙ガスなどで鎮圧しようとしたため、暴動となり、約500人が死亡する「ソウェト蜂起」(Soweto-opstand)となった。

 1980年代になると人種差別に対する国際社会からの風当たりは厳しく、南アフリカは経済制裁を受け、文化交流も断られる状況となってうた。ピーター・ウィレム・ボータ(Pieter Willem Botha)首相は、白人、インド人、カラードによる(多数派の黒人は除外)人種別三院制議会を1984年に開設。1985年には雑婚禁止法、背徳法、分離施設法を廃止するなど、少しの緩和は見られたが、依然中途半端な改革であり、アパルトヘイトへの批判の声はますます強くなった。

 政治改革により、大統領が政治的実権を握るようになってから1989年に就任したフレデリック・ウィレム・デクレルク(Frederik Willem de Klerk)大統領は、これまでの国民党の人種差別的な方針を転換。1990年に反アパルトヘイト活動で1964年に国家反逆罪で終身刑となっていたコサ人のネルソン・ホリシャシャ・マンデラ(Nelson Rolihlahla Mandela)を釈放し、1991年にデクレルク大統領はアパルトヘイトの廃止を宣言し、人種登録法、原住民土地法、集団地域法などが廃止され、南アフリカ民主化へと大きく舵を切った。

 しかし、改革は一気に進むものではなく、まだ人種差別的な条項が多数残っていたため、それを巡り、激しい運動と抵抗が繰り広げられた。また、南アフリカ共和国内の独立国家とされていたホームランドの一部が独立の維持を求めたりしたが、紆余曲折を経て1994年に全人種による普通選挙がようやく実施され、アフリカ民族会議(ANC)が63%、国民党20%、インカタ自由党(IFP)11%の得票で、ANCのネルソン・マンデラが大統領に就任した。副大統領にはANCでコサ人のタボ・ムヴイェルワ・ムベキ(Thabo Mvuyelwa Mbeki)に加え、国民党のデクレルク前大統領も就任することで、南アフリカのすべての民族の和解に向かって進むこととなり、マンデラ大統領とデクレルク元大統領はノーベル平和賞を受賞した。南アフリカ共和国の国旗デザインも1994年に新しくなり、アパルトヘイト時代から決別を果たした。

 民主化した南アフリカ共和国は英連邦にも復帰し、再びイギリスと緊密な協力関係が築かれるようになった。マンデラ政権では、新憲法の制憲が推進され、1996年に新憲法が採択された。一方で、かつての白人独裁政党の国民党は政権から離脱した。

 民主化後の南アフリカ共和国大統領は、アフリカ民族会議(ANC)政権がずっと続いている。ネルソン・マンデラ大統領が1999年に引退した後、マンデラ政権の副大統領だったタボ・ムベキが2008年まで大統領を務め、2009年~2018年にズールー人のジェイコブ・ゲドレイーシュレキサ・ズマ(Jacob Gedleyihlekisa Zuma)大統領、2018年よりシリル・ラマポーザ(Cyril Ramaphosa)大統領が務めている。

 南アフリカ共和国は、建国時の連邦の歴史的な経緯から、首都機能が分散しており、大統領官邸がある行政府がツワネ・プレトリア(Tshwane / Pretoria)、立法府がケープタウン(カープスタット/Kaapstat / Cape Town / IKapa)、司法府がマンガウング・ブルームフォンテーン(Mangaung / Bloemfontein)に分かれており、大統領府と行政府のあるツワネ市都市圏のプレトリア地区が南アフリカ共和国の首都と認識され、各国の大使館も置かれている。

 南アフリカ共和国の議会は、下院の国民議会(Nasionale Vergadering / iSishayamthetho sikaZwelonke)、上院にあたる全国州評議会(Nasionale Raad van Provinsies / UMkhandlu kaZwelonke weziFundazwe)の二院制で、「アフリカ民族会議」(African National Congress、ANC)が過半数を占める。アパルトヘイト時代はネルソン・マンデラが獄中闘争を繰り広げ、黒人の参政権を主張した。民主化後は、マンデラ大統領により、民族の和解と協調を呼びかけ、白人と黒人の格差の是正と、黒人部族間の対立の解消と、経済の回復を推進した。社会主義インターナショナルに加盟する中道左派政党である。

 南アフリカ共和国の最大野党は「民主同盟」(Demokratiese Alliansie / Democratic Alliance)で、アパルトヘイト時代からの白人リベラル政党として知られ、ケープタウン(カープスタット)を中心に大きな支持を得ている。白人が支持基盤であるが、アフリカーンス語を話すカラードからも支持を得ている。

 第3党は左派の「経済的解放の闘志」(Ekonomiese Vryheidsvegters / Economic Freedom Fighters)であり、ANCから分かれたマルクス・レーニン主義政党であるが、白人資産を没収して黒人に返還すべきと主張している。第4党はズールー人の民族派政党である「インカタ自由党」(Inkatha Freedom Party)で、そのほかいくつかの少数政党がある。

 1990年代のアパルトヘイト廃止と新憲法制定により、南アフリカ共和国は民主化を果たし、政治制度的には人種差別はなくなった。しかし、スタートラインがみな同じというわけではない。特に教育分野においては、裕福な家庭に生まれた白人は高学歴で、差別により教育が与えられなかった黒人世代は貧困を引きずることになった。バントゥー系の言語の権利は回復されたものの、南アフリカでエリートになるには、バントゥー系の母語よりも英語が重要であり、これがバントゥー系言語の地位向上の妨げになっている一因でもある。しかし、バントゥー系の言語でも最大部族のズールー語を全国に広げる一強化は、コサ人をはじめ他部族は望んでいないため、「バントゥー母語」プラス「英語」が今後の南アフリカにおける言語教育の方向性となりそうである。いずれにせよ、バントゥー諸語のによる教育や公共サービスの充実が、長期的な貧困脱却や産業育成など国民生活の底上げに欠かせない。

 一方で、アパルトヘイトで少数派白人の特権的地位を享受してきたアフリカーンス語の地位低下は避けられず、支配階級の共通語から、南アフリカ西部の地方言語へと役割が変化していくことだろう。しかし、オランダ語をベースにバントゥー諸語やマレー語の要素も加わったアフリカーンス語は、南アフリカの歴史を体現するものでもあり、黒人差別が解消され、社会的平等が実現した後は、アフリカーンス語の歴史的、文化的価値も改めて見直されるのかもしれない。

 南アフリカの農業は、ブドウやグアバ、アボカドなどの果樹栽培や、マカダミアナッツ、トウモロコシ、サトウキビ、小麦などの栽培が盛んである。また羊の牧畜も盛んで、羊毛の生産はオーストラリアに次ぐ。ワインの醸造も盛んで主要な輸出製品の一つとなっている。

 南アフリカは金、ダイヤモンド、プラチナ(白金)、鉄鉱石、銅、石炭、ウラン、クロム、マンガンなどの豊かな鉱物資源があり、特に金についてはかつては世界最大の産出国であったが、近年は中国、米国、オーストラリアなどのほうが産出量が多くなっている。工業はドイツ系や日系企業による自動車工業が発達し、アフリカ各国への輸出拠点となっているほか、食品、製鉄、化学、繊維工業などが盛んである。

 南アフリカを含む南部アフリカ諸国は、1990年代よりHIV(ヒト免疫不全ウイルス)感染によるエイズ(後天性免疫不全症候群)の蔓延が平均寿命の大幅低下をもたらすほど深刻化している。最も深刻なのは南アフリカに隣接するボツワナであり、2001年頃のピーク時には国民の4割近くが感染していた。2011年の国連統計によるとボツワナ、レソト、エスワティニは国民の20%以上がHIVに感染しており、南アフリカ共和国も15~20%、ナミビア、ジンバブエ、モザンビークも10~15%がHIVに感染している。予防啓発や治療薬の普及などにより、平均寿命は回復に向かいつつあるが、依然深刻な医療保健の課題である。また、2020年には中国からの新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が南アフリカでも猛威をふるい、南アフリカ型変異株はワクチンが効きにくいとされ、終息までには時間がかかりそうだ。

 南アフリカ共和国の首都は、南アフリカ北東部のハウテン州(Izifundazwe sase IGauteng / Gauteng provinsie / Gauteng Province)にあるツワネ(Tshwane)都市圏の
プレトリア(Pretoria)地区。プレトリアは、イギリスから逃れてオランダ系アフリカーンスの北東部移住を進めた指導者であるアンドリース・プレトリウス(Andries Pretorius)にちなみ、初代南アフリカ共和国(トランスファール共和国)の大統領となった息子のマルティナス・ウェッセル・プレトリウス(Marthinus Wessel Pretorius)により命名された。プレトリアは、トランスファール共和国の首都となり、その後も南アフリカ連邦、南アフリカ共和国の行政の首都となった。アパルトヘイト撤廃による民主化後、バントゥー民族の権利回復の流れのなかで、アパルトヘイトに抵抗したンデベレ人の首長ツワネ(Tshwane)にちなみ、プレトリアを「ツワネ」に改名する動きが起きたが、アフリカーンスの激しい反対に遭った。2000年にプレトリアは周辺の自治体と合併し、「ツワネ市都市圏」(City of Tshwane Metropolitan Municipality)が発足することになった。プレトリアはツワネの一地区として地名はそのまま残されたが、行政区としてはツワネの一部となった。

 プレトリアの旧市は人口約52万人で、白人が約68%を占め、黒人は約25%と少数派である。プレトリアでの言語は、アフリカーンス語61%、英語15%、ペディ語6%、ツワナ語4%。標高約1270mの高原都市であり、南緯26度であるが、気候は涼しく、平均気温は夏の1月が18℃~29℃、冬の7月が5℃~20℃である。冬場は降水量は少なく乾燥する。

 プレトリアの「ユニオンビル」(Uniegebou / Union Buildings)は、南アフリカ共和国政府庁舎で、大統領官邸がここに入っている。プレトリアには、南アフリカを代表する学術機関であるプレトリア大学(Universiteit van Pretoria / University of Pretoria / Yunibesithi ya Pretoria)や南アフリカ大学(Universiteit van Suid-Afrika / University of South Africa)、トランスファール・ディツォング国立自然史博物館(Ditsong Nasionale Natuurhistoriese Museum / Transvaal Museum)、球技場「ロフタス・フェルスフェルト・スタジアム」(Loftus Versfeld Stadium)などがあるほか、鉄道のターミナルであるプレトリア駅(Pretoria railway station)がある。

 南アフリカは鉄道交通が比較的充実しており、メトロレール・ハウテン(Metrorail Gauteng)がハウテン州のツワネ・プレトリアとヨハネスブルクの都市間および近郊をきめ細かく結んでいる。プレトリア駅からヨハネスブルク・パーク(Johannesburg Park)駅へは、普通電車が約1時間45分、快速が約1時間15分で結んでいる。このほか、2010年のサッカー・ワールドカップ開催に合わせて開業した最高時速160キロの快速新線であるハウトレイン(Gautrain)がプレトリア~ヨハネスブルク・パークを約35分で結んでいる。ハウトレインは、ヨハネスブルク・ORタンボ国際空港(Johannesburg O. R. Tambo International Airport)にも乗り入れている。ハウトレインは運賃が高いぶんセキュリティーと快適性も高いため、富裕層や外国人駐在員・観光客などがよく利用する。

 このほか、プレトリア駅からは長距離旅客列車の「ショショローザ・メイル」(Shosholoza Meyl)が運行されており、ヨハネスブルク~プレトリア~ポロクワネ(Polokwane)~ムシナ(Musina)方面、ヨハネスブルク~ネルスプリット(Nelspruit)~コマティプルト(Komatipoort)方面への列車がある。また、ヨハネスブルクからはダーバン(Durban)、イーストロンドン(East London)、ポート・エリザベス(Port Elizabeth)、ケープ・タウン(Cape Town)方面などへの長距離列車が運行されている。

 南アフリカの豪華寝台列車は「ブルートレイン」(Bloutrein / Blue Train)と呼ばれ、プレトリア~ケープタウン約1600キロを約26時間で結んでいる。青地に白帯のブルートレインは、日本の昭和時代の国鉄寝台特急客車ブルートレインは、南アフリカのブルートレインがモデルになったとも言われている。

 ツワネ市都市圏は、人口約290万人で、黒人が約75%、白人が約20%、言語はペディ語19%、アフリカーンス語18%、ツワナ語15%、ツォンガ語8%、英語8%、ズールー語8%と非常に多用な言語が話されている。

 南アフリカの空の玄関口であるヨハネスブルクORタンボ国際空港は、ケープタウン、ダーバン、ポートエリザベスなどへの国内線のほか、マプト(モザンビーク)、ウィントフック(ナミビア)、ハラレ(ジンバブエ)、ルサカ(ザンビア)、キンシャサ(コンゴ民主)、ナイロビ(ケニア)、ラゴス(ナイジェリア)、アクラ(ガーナ)、ダルエスサラーム(タンザニア)、リロングウェ(マラウイ)、モーリシャス(モールシャス)、ロンドン(英国)、アムステルダム(オランダ)、フランクフルト(ドイツ)、ニューヨーク(米国)、ワシントン・ダレス(米国)、パース(オーストラリア)、ドーハ(カタール)、ドバイ(アラブ首長国連邦)などへの国際路線が運航されている。

 ヨハネスブルク(Johannesburg)はハウテン州の州都であるとともに南アフリカ最大の都市である。都市人口は約560万人で、郊外も含めた都市圏人口は約1000万人に達する。黒人約76%、白人約14%、カラード約5%、インド・アジア系約5%で、使用言語は英語31%、ズールー語20%、アフリカーンス語12%、コサ語5%である。南アフリカ各地から移住した人が多く、非常に多民族であるため、しかも外国人も多く住む国際都市であるため、結果的に共通語として英語の使用率が高い。日本語表記は慣用的にヨハネスブルクが使用されているが、アフリカーンス語では「ヨハネスブルフ」、英語では「ジョウハニスバーグ」と発音する。また、ズールー語では「IGoli」(イ・ゴリ)と呼ばれている。

 ヨハネスブルクは近郊で19世紀後半に金鉱が発見されたことにより、アフリカ各地から多くの移住者が住むようになった。アパルトヘイト時代は白人居住区と黒人居住区が分けられ、黒人らはヨハネスブルク南西部のソウェト(Soweto)地区に集められた。「Soweto」は「South Western Townships」の短縮形で、白人居住区は優遇されてインフラが整備された一方で、アパルトヘイト時代のソウェトはバラック街となり、アパルトヘイトの象徴の地と言われた。1976年には黒人の学校教育にアフリカーンス語を強制しようとしたことがきっかけで抗議の「ソウェト蜂起」が起こった。ソウェトの住民は98.5%が黒人であり、カラードが1.0%、白人は0.1%であり。言語はズールー語37%、ソト語16%、ツワナ語13%、ツォンガ語9%。

 民主化後は、ソウェトの再開発とインフラ整備が行われ、日本も集合住宅の建設などを支援した。2010年のワールドカップでは競技場など「サッカーシティー」(Soccer City)が建設され、そのほか黒人による起業や会社経営を支援し、大規模な商業施設「マポーニャ・モール」(Maponya Mall)が開設された。ソウェトにはネルソン・マンデラ元大統領の旧宅である「ネルソン・マンデラ国立博物館」(Mandela's House)やソウェト蜂起記念碑などがある。

 一方、アパルトヘイトの撤廃で、白人居住区だったヒルブロウ(Hillbrow)などの中心部にも黒人が仕事を求めて流入するようになった。しかし教育が受けられなかった黒人らの雇用は思うように生まれず、街は失業者であふれるようになり、治安が極度に悪化してしまった。白人や富裕層はヒルブロウから逃げ出し、北部のサントン(Sandton)に移住するようになり、そこに新都心が形成されている。2010年にはハウトレインのサントン駅も開業した。南アフリカ最大規模のショッピングセンター「サントン・シティー」(Sandton City)がある。サントン地区では英語64%、アフリカーンス語7%、ズールー語6%など、英語が最もよく使われている。

 ハウテン州にはこのほか、ヨハネスブルクの東にかつて金鉱の町として栄えたベノニ(Benoni)、鉄鋼業や炭鉱とレンガ・タイル製造などの工業が盛んなフェリーニヒング(Vereeniging)などの都市がある。

 南アフリカ西部最大の都市であるカープスタット(ケープタウン/イ・カパ/Kaapstad / Cape Town / IKapa)は、西カープ州(Provinsie Wes-Kaap / Western Cape Province)にあり、インドやインドネシア方面へ向かうオランダ船の寄港地としてオランダ人によりカープスタットとして開発された港町で、南アフリカにおけるオランダ系移民を中心とするヨーロッパ人の拠点都市として発展した。その後、19世紀になると英領ケープ植民地の中心都市となった。南アフリカ共和国の立法府が置かれ、議会の中心都市である。

 ケープタウンの人口は約380万人で、都市圏人口は400万人を超える。人口構成はカラード48%、黒人31%、白人19%、アジア系1%であり、使用言語はアフリカーンス語37%、コサ語30%、英語28%と主に3つの言語が使われており、コサ語ではイ・カパ(IKapa)と呼ばれている。ケープタウンの旧市街地の中心部では英語使用率が高く、郊外ではカラードを中心にアフリカーンス語がよく話されている。また、ケープタウンの東にコサ人が多く住む地区があり、コサ語が話されている。

 南緯34度のカープスタット(ケープタウン)は、地中海性気候であり、冬に雨が降り、夏は乾燥する。平均気温は夏の1月が16℃~26℃、冬の7月が7℃~18℃で、夏涼しく冬温かいので過ごしやすい。気候が良いことからブドウなどの果樹栽培が盛んで、ケープ・ワインが輸出産業となっている。また、港町であり、遠洋漁業の拠点になっている。アパルトヘイトの時代は、ネルソン・マンデラがケープタウン近郊の沖合のロベン島(Robbeneiland / Robben Island)の刑務所に1964年~1990年の27年間収監されていた。

 民主化後は、大都市への人口流入で失業者による治安悪化がみられたが、ヨハネスブルクほどは悪化しなかったため、南アフリカ最大の観光都市として海外からの観光客も多い。喜望峰(Kaap die Goeie Hoop / Cape of Good Hope)やテーブル山(Tafelberg / Table Mountain)、オランダ東インド会社が17世紀に建造したグッドホープ要塞(Kasteel die Goeie Hoop / Castle of good hope)、ケープマレー文化が感じられるボ・カープ(Bo-Kaap)地区、商業施設の「キャナル・ウォーク」(Canal Walk)、「ヴィクトリア&アルフレッド・ウォーター・フロント」(Victoria & Alfred Waterfront)などの見どころがある。

 カープスタットの交通はメトロレール・西ケープ(Metrorail Western Cape)による都市鉄道が運行されており、南部線(Southern Line)、ケープ・フラッツ線(Cape Flats Line)、中央線(Central Line)、北部線(Northern Line)などの路線が運行されている。また、キンバレー(Kimberley)を経由してツワネ・プレトリアを結ぶ豪華寝台列車「ブルートレイン」や、「ショショローザ・メイル」(Shosholoza Meyl)の長距離列車も運行されている。

 西カープ州は、カラード49%、黒人33%、白人16%、アジア系1%であり、使用言語はアフリカーンス語50%、コサ語25%、英語20%となっている。アフリカーンス語はアフリカーナーおよびカラードの共通言語となっており、西カープ州では最も使用されている。カープスタットの東約50キロにあるステレンボッシュ(Stellenbosch)は、ワインの産地として知られている。

 北カープ州(Noord-Kaap provinsie / Northern Cape Province)は、ナミビアやボツワナと国境を接し、国境周辺にはカラハリ砂漠(Kalahariwoestyn)が広がり、人口は希薄である。晴天が多いことから太陽熱発電所がある。州都のキンバレー(Kimberley)は、オレンジ川中流の都市で、かつてゴールドラッシュで栄えた。1871年に開山し1914年に閉山したダイヤモンド鉱山で、露天掘りが行われた跡地の「ビッグホール」(Groot Gat / Big Hole)がある。北カープ州の人口構成は黒人50%、カラード40%、白人7%で、使用言語はアフリカーンス語54%、ツワナ語33%、コサ語5%、英語3%。

 東カープ(ンプマ)州(Mpuma-Koloni / Oos-Kaap provinse / Eastern Cape Province)は、西部がアフリカーンス、東部がコサ人が多く住み、アパルトヘイト時代はホームランドとしてコサ人が住む「トランスカイ共和国」(iRiphabliki yeTranskei)と「シスカイ共和国」(iRiphabliki ye Ciskei)となっていたが、アパルトヘイト撤廃後に再び南アフリカ共和国の一員として復帰した。人口構成は黒人86%、カラード8%、白人5%で、州の住民の8割をコサ人が占め、使用言語はコサ語79%、アフリカーンス語11%、英語6%である。

 州都はシスカイの首都だったビショ(Bhisho)で、2000年の自治体再編でビショとイーストロンドン(East London / eMonti / Oos-Londen)、キングウィリアムズタウン(King William's Town / Qonce)が合併してバッファローシティー(Buffalo City)となった。州最大の都市は人口約75万人のポート・エリザベス(Port Elizabeth)でコサ語ではイバイ(IBhayi)と呼ばれる。民主化後にネルソン・マンデラ・ベイ(Nelson Mandela Bay)都市圏と呼ばれるようになり、英国色を薄め、反アパルトヘイト闘士のコサ人の大統領の名が都市名に使用されるようになった。

 フレイスタート(自由)州(Foreistata / Vrystaat / Free State)は、1854年にアフリカーナーにより「オラニエ(オレンジ)自由国」(Oranje-Vrystaat)が建国された地域であり、第2次ボーア戦争でイギリスに占領され、南アフリカ連邦に組み込まれてオレンジ自由州となった。民主化後の再編で、1995年に自由州となった。オラニエ(オレンジ)川が流れ、レソト王国と接しており、ソト人が多数を占める。人口構成は、黒人88%、が白人9%、カラード3%で、使用言語はソト語64%、アフリカーンス語13%、コサ語8%、ツワナ語5%、ズールー語4%、英語3%である。

 州都のマンガウング(Mangaung)都市圏にあるブルームフォンテーン(Bloemfontein)は、アフリカーンス語で「花咲く泉」という意味で、オレンジ自由国の首都であった。南アフリカ共和国の最高裁判所が置かれ、司法の中心となっている。ソト語はレソト王国の公用語でもあり、もともとは自由州もレソトと同じモショエショエ王の国であったが、ズールー人やオランダ系アフリカーンスの進出を受け、モショエショエ王は山岳部を拠点とし、平野部がアフリカーンスに奪われてオラニエ自由国となり、モショエショエ王はイギリスの保護下に入ってレソトの領域を守ったという経緯から、ソト人が住む領域はレソト王国(旧英領バストランド)と南アフリカ共和国自由州(旧オラニエ自由国)に分かれている。

 東部のクワズール・ナタール州(KwaZulu-Natal Province)は、「クワズール」(KwaZulu)はズールー人の土地、「ナタール」(Natal)はポルトガル語で「クリスマス」を意味し、ヴァスコ・ダ・ガマがクリスマスの日に寄航したことにちなむ。19世紀にズールー王国があり、西側はアフリカーンスにより1839年に「ナタール共和国」(Natalia Republiek)を建国したが1843年にイギリスの攻撃で崩壊し、英領ナタール植民地となった。ズールー王国は1879年のズールー戦争でイギリスに敗れ、南アフリカ連邦のナタール州となった。アパルトヘイト撤廃後の再編で1994年にクワズール・ナタール州となった。

 クワズール・ナタール州の人口構成は、黒人87%、インド・アジア系7%、白人4%、カラード1%で、使用言語はズールー語78%、英語13%、コサ語3%、アフリカーンス語2%。インド系の住民が多く、インド系は主に英語を話している。他州に比べてアフリカーンス語の通用度は低い。

 クワズール・ナタール州の州都は、ムスンドゥジ(Msunduzi)にあるピーターマリッツバーグ(Pietermaritzburg)で、ズールー語では「ゾウ(王)の土地」という意味のウムグングンドロヴ(umGungundlovu)と呼ばれている。ここは、ナタール共和国の首都として建設されたところで、その後は、南アフリカ連邦ナタール州の州都となり、アパルトヘイト撤廃後にクワズール・ナタール州の州都となった。

 ピーターマリッツバーグの南東約50キロにある港湾都市・ダーバン(Durban)は、人口約350万人の州最大の都市で、ズールー語ではエテクウィニ(eThekwini)と呼ばれ、エテクウィニ都市圏が形成されている。ズールー人のほかインド系住民が多く、市人口の約4分の1を占めるため、住民の約半数が英語を用いている。南緯30度で冬は温暖、夏は涼しく、1月が21℃~28℃、7月が11℃~23℃。リゾート地としても人気がある。都市交通はメトロレールの都市鉄道の路線もある。自動車工業が発達し、トヨタ自動車の工場もある。2010年にズールー王国の初代国王シャカ・ズールーからとったダーバンの新空港「キング・シャカ国際空港」(King Shaka International Airport)が開港した。南アフリカ国内線のほか、マプト(モザンビーク)、ルサカ(ザンビア)、ハラレ(ジンバブエ)、ドーハ(カタール)、ドバイ(アラブ首長国連邦)、イスタンブール(トルコ)などへの国際線が運航されている。

 東部のムプマランガ州(iMpumalanga / Mpumalanga)は、トランスファール州(Eastern Transvaal)の東部が再編されて1995年に発足した州で、「ムプマランガ」はスワジ語やズールー語で「太陽が昇る場所」という意味。人口構成は黒人91%、白人8%で、黒人が圧倒的に多いが、民族は多様であり、使用言語はスワジ語28%、ズールー語24%、ツォンガ語10%、南ンデベレ語10%、ペディ語9%、アフリカーンス語7%、英語3%である。

 ムプマランガ州の州都はネルスプロイト(Nelspruit)と呼ばれていたムボンベラ(Mbombela)で、スワジ人が多く住み、人口約60万人のうち約79%がスワジ語話者である。ムプマランガ州はスワジ語を公用語とするエスワティニ王国と接しており、ムプマランガ州もスワジ人が多数派である。また、ズールー人も多く、エスワティニは英領スワジランド時代に王政を確立したことから、南アフリカとは統合せず、スワジランド王国として独立し、独立50周年の2018年に対外的な国名についてもスワジ語のエスワティニ王国(Umbuso weSwatini / Kingdom of Eswatini)へと改名した。

 ムプマランガ州はモザンビークとも接し、ツォンガ人はモザンビークではシャンガーン人と呼ばれている。ツォンガ語は南アフリカ領内で約165万人、モザンビーク領内で約150万人の話者がいる。ンデベレ人は19世紀にズールー王国からの攻撃を受けて北へ逃れ、多くがジンバブエに逃げ込み、ンデベレ王国を築いたため、南北に分かれ、ムプマランガ州に住むンデベレ人は南ンデベレ語を話す。

 リンポポ州(Limpopo)は、北トランスファール州が北部州を経て2003年に改名された。リンポポ川が南アフリカとジンバブエとの国境になっている。人口構成は黒人が97%と大多数を占め、白人は3%に満たない。使用言語はペディ語53%、ツォンガ語17%、ヴェンダ語17%、アフリカーンス語3%、ツワナ語2%、南ンデベレ語2%。ペディ語は北ソト語とも呼ばれ、ソト語と近い関係にある。ヴェンダ人はジンバブエ国境近くに多く住む。州都はかつてピーターズブルク(Pietersburg)と呼ばれたポロクワネ(Polokwane)で、2003年に改名された。ポロクワネはペディ語で「安全な場所」を意味する。ポロクワネの使用言語はペディ語46%、アフリカーンス語20%、英語10%、ヴェンダ語7%。

 北西州(Porofense ya Bokone Bophirima / Provinsie Noordwes / Northwest Province)は、ボツワナと国境を接し、ツワナ人が多く住む。人口構成は黒人90%、白人7%、カラード2%で、使用言語はツワナ語63%、アフリカーンス語9%、ソト語6%、コサ語6%、ツォンガ語4%、英語4%である。州都はマフィケング(Mafikeng)で、ツワナ語で「巨大な岩」を意味する。ボツワナはイギリス保護領ベチュアナランドから1966年に独立した。マフィケングは長年にわたりベチュアナランド統治の拠点となっていたが1961年にハボローネに移り、ボツワナ独立とともにボツワナの首都となった。

南アフリカ共和国
IRiphabliki yaseNingizimu Afrika(ズールー語)
IRiphabliki yaseMzantsi Afrika(コサ語)
Republiek van Suid-Afrika(アフリカーンス語)
Republic of South Africa(英語)
Rephaboliki ya Afrika-Borwa(ペディ語、ソト語)
Rephaboliki ya Aforika Borwa(ツワナ語)
(1910年、イギリスより独立、1961年に南アフリカ連邦から改名)
面積:122.0万平方キロ
人口:5570万
通貨:ランド
主要言語:ズールー語、コサ語、アフリカーンス語、英語、ペディ語、ツワナ語、ソト語、(ツォンガ語、スワジ語、ヴェンダ語、南ンデベレ語)
首都:
プレトリア/Pretoria(アフリカーンス語、英語)
ツワネ/Tshwane(南ンデベレ語、ツワナ語)(人口290万)

(参考:Wikipedia)

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