台湾 花蓮・吉安 アミ文化村と吉野村
吉安
Cikasuwan(Yoshino)
ケラン/Kiat-an (台湾語/ホーロー語)
チカソワン/Cikasuwan (アミ語)
キッオン/Kit-on (台湾客家語)
チーアン/ㄐㄧˊ ㄢ (台湾華語/北京語)
よしの/吉野 (日本語)
台湾花蓮県吉安郷
台湾 花蓮・吉安 アミ文化村と吉野村
吉安(台:ケラン/客:キッオン/華:チーアン)は、花蓮県北東部にある人口約8万人の村。先住民族のアミ語ではチカソワン(Cikasuwan)と呼ばれている。北が花蓮(台:ホアレン/ア:カリンコ/華:ホアリエン)、西が秀林(台:シュウリム/タ:ブスリン/華:ショウリン)郷、南が寿豊(壽豐/台:シウホン/ア:コトブキ/華:ソウフォン)郷と接している。
吉安郷は平地が多く、花蓮県の県庁所在地である花蓮市と隣接していることから花蓮の市街地の拡大とともに人口が増えている。木瓜(ボッコエ)渓が寿豊郷との境となっており、木瓜渓を上流方向へ上っていくと、秀林郷のタロコ族が住むトモン(Tomong/銅門)集落がある。
吉安郷は、古くよりアミ(阿美)族(パンツァ)が住み、「薪の多いところ」を意味するチカソアン(Cikasuan)と呼ばれる村があった。清国時代に福建からのホーロー系の人々が住むようになり、台湾語の漢字で「竹腳宣」(ティッカーソワン)や「七腳川」(チッカーツォワン)と表記されるようになった。
日本統治時代には、日露戦争の後に当時の台湾総督府がアミ族を使って山地部に住んでいたタロコ族を警備していたが、警備の待遇をめぐってアミ族の反抗が起きると、日本軍による鎮圧に出た「チカソワン事件」が発生した。
その後、チカソワンには日本人移民の開拓村が造られ、徳島県の吉野川沿い出身の人が多かったことから「吉野」(よしの)村と命名された。吉野村には、宮前(現・慶豐)、清水(現・福興)、草分(現・永興)の3つの集落が開墾され、学校や吉野神社、真言宗吉野布教所(現・慶修院)なども建てられた。
日本が大東亜戦争に負け、台湾が中華民国に接収されると日本人移民は日本内地に引き揚げることになり、「吉野」の地名は日本色が強すぎるという理由で「吉安」(チーアン)に改称された。
吉安郷には台鉄台東線が通り、急行の莒光(キーコン)号が停車し、特急の自強(ツウキョン)号、タロコ(太魯閣)号、プユマ(普悠瑪)号なども一部の列車が停車する。吉安駅は日本時代の1914年(大正3年)に吉野駅として開設され、戦後の1948年に吉安駅に改称された。1982年に台東線がナローゲージ(762mm)から北廻線と同じ狭軌(1063mm)に改軌され、台北(臺北/タイパッ/タイペイ)まで直通運転が可能となった。
吉安駅の西側に、旧・吉野村の街が広がっており、真言宗吉野布教所は弘法大師を本尊とする「慶修院」として今もその面影を伝えており、吉安郷の観光スポットにもなっている。また、吉野神社跡には、明治45年の「吉野神社鎮座記念碑」や当時の中川健蔵・台湾総督の題字による「拓地開村記念碑」などが残されている。
吉安郷のアミ族文化については、吉安駅近くに「アミ族文物館」があり、「黄昏市場」は現地の生活文化が感じられる。また、海側には「アミ文化村」があり、民族衣装を着たアミ族の伝統的な歌や踊りのショーが楽しめる観光スポットとなっている。
花蓮・吉安エリアの主な駅
吉安 / ケラン(ヨシノ/チーアン) 駅
台鉄 台東線(東部幹線)

アミ文化村の歌と踊りのショー

アミ文化村の歌と踊りのショー

アミ文化村の歌と踊りのショー

台鉄台東線・吉安駅

台鉄台東線から見た吉安郷の車窓

木瓜渓
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Cikasuwan(Yoshino)
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吉安(台:ケラン/客:キッオン/華:チーアン)は、花蓮県北東部にある人口約8万人の村。先住民族のアミ語ではチカソワン(Cikasuwan)と呼ばれている。北が花蓮(台:ホアレン/ア:カリンコ/華:ホアリエン)、西が秀林(台:シュウリム/タ:ブスリン/華:ショウリン)郷、南が寿豊(壽豐/台:シウホン/ア:コトブキ/華:ソウフォン)郷と接している。
吉安郷は平地が多く、花蓮県の県庁所在地である花蓮市と隣接していることから花蓮の市街地の拡大とともに人口が増えている。木瓜(ボッコエ)渓が寿豊郷との境となっており、木瓜渓を上流方向へ上っていくと、秀林郷のタロコ族が住むトモン(Tomong/銅門)集落がある。
吉安郷は、古くよりアミ(阿美)族(パンツァ)が住み、「薪の多いところ」を意味するチカソアン(Cikasuan)と呼ばれる村があった。清国時代に福建からのホーロー系の人々が住むようになり、台湾語の漢字で「竹腳宣」(ティッカーソワン)や「七腳川」(チッカーツォワン)と表記されるようになった。
日本統治時代には、日露戦争の後に当時の台湾総督府がアミ族を使って山地部に住んでいたタロコ族を警備していたが、警備の待遇をめぐってアミ族の反抗が起きると、日本軍による鎮圧に出た「チカソワン事件」が発生した。
その後、チカソワンには日本人移民の開拓村が造られ、徳島県の吉野川沿い出身の人が多かったことから「吉野」(よしの)村と命名された。吉野村には、宮前(現・慶豐)、清水(現・福興)、草分(現・永興)の3つの集落が開墾され、学校や吉野神社、真言宗吉野布教所(現・慶修院)なども建てられた。
日本が大東亜戦争に負け、台湾が中華民国に接収されると日本人移民は日本内地に引き揚げることになり、「吉野」の地名は日本色が強すぎるという理由で「吉安」(チーアン)に改称された。
吉安郷には台鉄台東線が通り、急行の莒光(キーコン)号が停車し、特急の自強(ツウキョン)号、タロコ(太魯閣)号、プユマ(普悠瑪)号なども一部の列車が停車する。吉安駅は日本時代の1914年(大正3年)に吉野駅として開設され、戦後の1948年に吉安駅に改称された。1982年に台東線がナローゲージ(762mm)から北廻線と同じ狭軌(1063mm)に改軌され、台北(臺北/タイパッ/タイペイ)まで直通運転が可能となった。
吉安駅の西側に、旧・吉野村の街が広がっており、真言宗吉野布教所は弘法大師を本尊とする「慶修院」として今もその面影を伝えており、吉安郷の観光スポットにもなっている。また、吉野神社跡には、明治45年の「吉野神社鎮座記念碑」や当時の中川健蔵・台湾総督の題字による「拓地開村記念碑」などが残されている。
吉安郷のアミ族文化については、吉安駅近くに「アミ族文物館」があり、「黄昏市場」は現地の生活文化が感じられる。また、海側には「アミ文化村」があり、民族衣装を着たアミ族の伝統的な歌や踊りのショーが楽しめる観光スポットとなっている。
花蓮・吉安エリアの主な駅
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