ベトナム インドシナ半島東部の越南国

Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam
共和社會主義越南
ベトナム社会主義共和国

ベトナム インドシナ半島東部の越南国

 ベトナム社会主義共和国(Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam)は、インドシナ半島東部にある国で、漢字表記すると「共和社會主義越南」。通称は「ベトナム」(Việt Nam/ヴィェッナム/越南)である。北が中華人民共和国(中国)、西がラオス人民民主共和国、カンボジア王国と接し、東と南には南シナ海が広がっている。

 ベトナムは、漢字で書くと「越南」であり、「越」の南にある国という意味である。面積は約33万平方キロメートルで、人口は約9300万人。通貨はドン(銅)で、一人当たり国内総生産(GDP)は約2100ドルで約130位。一人当り購買力平価(PPP)は、6430ドル程度で、約120~130位であり、経済は世界平均を下回り、決して豊かとはいえないが、近年は成長が著しい。

 ベトナムの国民は、ベトナム語を母語とするベト(Việt/越)族とも呼ばれるキン(Kinh/京)族が85~90%を占める。ベトナムは古くから中国文化の影響を強く受けており、ベトナム語は本来はカンボジアのクメール語と同様にオーストロアジア語族に属するが、中国の影響で古くから漢字が用いられ、漢語由来の語彙が非常に多い。漢字はベトナムでは、「チュハン」(Chữ Hán/𡨸漢)や「チュニョ」(Chữ Nho/𡨸儒)、「ハントゥ」(Hán Tự/漢字)などと呼ばれる。漢字で表記するのが難しいベトナム語独自の表現を漢字で表記するための「チュノム」(Chữ Nôm/𡨸喃)と呼ばれるベトナム独自の漢字も用いられてきた。

 一方で、1919年に科挙制度が廃止され、フランス統治時代を経てベトナム語のローマ字で表記する「クォック・グー」(Quốc Ngữ/国語)が普及し、ベトナム独立運動の指導者らが積極的に使用し、独立後の正式表記となったことから、漢字やチュノムは廃止され、排除することにより、中国とは別の国であることを明確化した。

 ベトナムはベト(キン)族のほか、タイ系のタイー族、ターイ族(タイ人)、キン族にも近いムオン族、中国では苗(ミャオ)族と呼ばれるモン族、中国では瑶(ヤオ)族と呼ばれるザオ族、華(ホア)族(広東人、客家人、福建人など)、カンボジア系のクメール族などが住んでいる。

 ベトナムは、中国広西チワン族自治区の南に細長く南シナ海沿いに伸びている。古くはベトナム北部に文郎(Văn Lang/ヴァンラン)、甌越(Âu Việt/オーベト)、雒越(Lạc Việt/ラックベト)などの部族国家があり、紀元前257年に蜀?によって文郎、甌越、雒越などが統合され、甌雒(Âu Lạc/オーラク)が建国された。紀元前207年にはベトナム北部、広西、広東東部にまたがる南越(Nam Việt/ナムベト/ナムユッ)国ができた。

 紀元前111年に漢・南越戦争で南越国が漢に滅ぼされ、漢の支配下の北属期に入る、漢統治時代の南越は交州と呼ばれた。徴(Trưng/チュン)姉妹らによる蜂起が西暦40年に起こったが、後漢に鎮圧され、6世紀半ばまで第二次北属期が続いた。544年に李賁により独立し前李朝が建国されるが、隋李戦争の末、602年から10世紀まで第三次北属期となり、唐により「安南都護府」が置かれた。

 一方、ベトナム中部では192年にオーストロネシア語系のチャム族がインドのヒンドゥー教の影響を大きく受けた「チャンパ王国」(Chăm Pa)を建国し、後漢から独立した。また、ベトナム南部では、1世紀頃にメコン川下流域にヒンドゥー教の影響を強く受けた「扶南国」が6世紀頃まであり、6世紀から8世紀にかけてはクメール人による「真臘」(Chân Lạp/ចេនឡា/チャンラ)という国がベトナム南部からカンボジアにかけてあった。

 ベトナム北部では、唐の勢力の弱まりを受けて、939年に初の越人王朝である呉(ゴー)朝が成立し、独立を果たした。その後、丁(Đinh/ディン)朝、黎(Lê/レー)朝、李(Lý/リ)朝となり、李朝の時代より宋から朝貢国の「安南国」として承認された。一方、国内では「大越」(Đại Việt/ダイベト)と自称し、陳(Trần/チャン)朝でも引き継がれた。一方、その頃、ベトナム中部はチャンパ王国が独立を保ち、ベトナム南部からカンボジア、タイにかけてはクメール王朝の領域となっていた。

 15世紀の初め、一時的に明の支配を受けたが藍山(ラムソン)蜂起により明を駆逐した黎利(Lê Lợi/レー ロイ)により後黎朝が成立した。後黎朝はベトナム中部にも勢力を伸ばし、チャンパ王国の一部を支配した。その後、北部の東京(Đông Kinh/トンキン)鄭(Trịnh/チン)氏と中部の広南(Quảng Nam/クァンナム)阮(Nguyễn/グエン)氏が対立し、鄭阮戦争を経て、分裂状態が続いた。広南阮氏はクメール人のカンボジア王国領だったメコンデルタ地域を併合した。

 1771年に西山(Tây Sơn/タイソン)阮氏による「西山党の乱」により、1777年広南阮氏が滅ぼされた。西山阮氏はさらに北進して鄭氏も滅ぼし、1778年に西山朝が成立した。港南阮氏で逃げ延びた阮福暎(Nguyễn Phúc Ánh/グエン フック アイン)は、フランス人宣教師やチャンパ遺臣の支援を得て、西山朝を滅ぼし、1802年に阮(グエン)朝を建て、ほぼ現在のベトナムと同じ領域となった。阮福暎は初代皇帝の嘉隆(Gia Long/ザーロン)帝となり、阮朝は「南越」を国号にしようとしたが、清国は南越がかつて支配していた広西や広東への領土的野心を警戒し、越の南の国という意味で「越南」を国号とし、嘉隆帝を越南国王として朝貢させた。これにより「越南」(Việt Nam/ベトナム)という国号が誕生した。

 阮朝は、清国の制度を倣って科挙制度や省の地方制度を採り入れ、中央集権化を進めた。それに反発する黎氏の反乱や、カンボジアやラオスをめぐり、シャム(タイ)との関係が悪化した。阮朝は、2代目の明命(Minh Mạng/ミンマン)帝の時代に、清国と対等の国であるとみなし、「越南」(ベトナム)を「大南」(ダイナム)に改め、自国を「中国」と呼んだ。フランス人宣教師の支援を受けて権力をつかんだことから、当初は欧米人やキリスト教にも寛容であったが、中華的な儒教に傾倒するようになると、キリスト教を禁止した。建国に貢献したフランス人に対する優遇措置もなくなり、越仏関係が悪化した。

 1847年に即位した第4代皇帝の嗣徳(Tự Ðức/トゥドゥック)帝が鎖国を強化してキリスト教の弾圧も強め、フランス人とスペイン人の宣教師を斬首刑にすると、フランスとスペインの連合軍が1858年にベトナムに侵攻し、コーチシナ戦争が勃発。1862年にサイゴン条約を結び、阮朝はキリスト教布教の自由を認め、一部領土をフランスに割譲し、ベトナム南部の一部が仏領コーチシナとなり、フランスの東南アジア進出の拠点となった。

 フランスはさらに紅河の通商権を求め、徐々にベトナムへの勢力を拡大していった。その頃、太平天国に参加していた客家人の劉永福(リュウ ユンフゥク)が1864年の太平天国崩壊後、清国による太平天国残党狩りで追われ、劉永福の黒旗軍がベトナム北部のトンキン(ハノイ)に逃れた。黒旗軍は清国に抵抗していたが、ベトナムの阮朝がトンキンを占領したフランスを追い出すための作戦への参加を要請し、ベトナムで反仏闘争に参加する。ベトナムの阮朝が弱体化する中、フランスは清国とベトナムの利権について争うようになり、清国は1883年に劉永福を説得して黒旗軍にフランス軍を攻撃させ、フランスの指揮官であるリビエールを殺害するが、フランスから援軍が増派され、清仏戦争に突入する。

 清仏戦争の結果、1885年にフランスは苦戦しながらも有利な状態で講和条約である天津条約が結ばれ、フランスが北ベトナムを獲得し、黒旗軍が解散させられた。フランスは南ベトナムやカンボジア、ラオスなどを勢力下に置き、1887年に仏領インドシナを成立させた。これにより、ベトナムはフランスの植民地となった。

 一方、黒旗軍の劉永福は、清に戻った後、1894年に日清戦争が勃発すると清国から台湾防衛を命じられ、台湾で黒旗軍を結成した。1895年の下関条約で台湾が日本に割譲が決まると、台湾民主国独立に参加して大将軍となり、日本軍に抵抗。台湾民主国初代総統の唐景崧が清に逃亡すると劉永福が実質的な台湾民主国第2代総統となったが、清の支援を失った台湾民主国は日本によって攻勢を受け、劉永福は清に逃亡して、台湾民主国は崩壊し、台湾は日本統治下に入った。

 仏領インドシナとなったベトナムは、南部のコーチシナ(Cochinchine)がフランスの直轄植民地となったほか、形式的に阮朝が残され、中部の安南(An Nam/アンナム)を阮朝が行政を担い、フエ(Huế/化)に宮廷が置かれた。北部のトンキン(東京)は阮朝から任命されたハノイ(Hà Nội/河内)総督が行政を担う形であったが、実験はフランス人が握るフランスの保護領であった。

 仏領インドシナは、1931年から第14代フランス大統領を務めることになるポール・ドゥメール(Paul Doumer)が1897年~1902年にインドシナ総督を務め、この時代には増税と塩・酒・アヘンの専売、鉄道や道路、港湾などのインフラ建設を進める一方で、フランスとの同化政策を推進し、フランス人入植者に土地を与えるなど、フランス本位の植民地経営を進めた。1902年~1908年にインドシナ総督を務めたポール・ボー(Paul Beau)総督の時代は、教育の普及やベトナム人の人材育成・活用に力を入れた。経済面では石炭の炭鉱や米作プランテーションなどが行われ、フランスからは繊維製品が輸入された。

 ベトナム語の公文書は、これまで漢文が用いられていたが、17世紀にフランス人宣教師により考案され、カトリック教会で布教用に用いられてきたローマ字によるベトナム語表記がコーチシナで普及が始まり、1867年にサイゴンで初のローマ字表記のベトナム語による新聞『嘉定報』が創刊された。ベトナム語のローマ字化は、フランス語習得と普及のための補助的役割に過ぎず、ベトナムの知識人からもベトナムの伝統や文化を軽視するものとして、知識人の間ではやはり伝統的な漢文が重視された。一方で、難解な漢字より、ローマ字表記のほうがベトナム語の話し言葉と書き言葉を一致させることができるメリットから、ベトナム人のアイデンティティー確立に有利と考える知識人もいて、1905年にハノイで漢文とローマ字(Quốc Ngữ/クオック・グー)を併記した『大越新報/Đại Việt tân báo』が創刊された。徐々にクオック・グーの識字率が上がり、漢文派とクオック・グー派が拮抗・併存していた。

 フランス統治に反抗し、ベトナム独立を目指す運動も活発化し、1919年にはホー・チ・ミン(Hồ Chí Minh/胡志明)が安南愛国者協会を設立し、1930年に香港でインドシナ共産党を立ち上げた。また、1930年にはイエンバイ(Yên Bái/安沛)省でベトナム国民党によるイエンバイ蜂起なども起こった。

 フランスによるベトナム支配が揺らいだのは、第二次世界大戦中の1940年にドイツのフランス侵攻によりパリが陥落し、フランスはヴィシーに政府を置いたが、中華民国と戦争していた日本がフランス・ヴィシー政権にトンキン(北部仏印)に日本軍の駐屯を認めさせた。翌1941年には日本が南部仏印にも進駐を求め、フランスは日本軍の進駐を認めるかわりにインドシナにおけるフランスの主権を認めるよう要求した。日本が米国と決定的に対立し、大東亜戦争(太平洋戦争)に突入すると、太平洋および東南アジア各地へ進軍し、支配していた欧米の勢力を追い払った。そして1943年に日本、中華民国汪兆銘政府、満洲国、フィリピン、タイ、ビルマ、インドによる「大東亜会議」が開かれ、大東亜の自存自衛を謳った「大東亜宣言」が採択されたが、仏領インドシナはこの時点では独立していなかった。1944年にフランスのパリが解放されると、日本に非協力的なフランスの勢力を1945年3月に『明号作戦』で解体する「仏印処理」を行い、仏領インドシナだったベトナム帝国、カンボジア王国、ラオス王国の3カ国を独立させた。

 ベトナム帝国は阮朝の保大(Bảo Đại/パオダイ)帝を元首としたが、日本の降伏により、1941年より共産主義者のホー・チ・ミンによりベトナム独立同盟(ベトミン/Việt Minh/越盟)結成がされ、1945年に日本の敗戦が濃厚になると蜂起し、保大帝を退位させ、日本が降伏した9月2日にハノイで「ベトナム民主共和国」(Việt Nam Dân Chủ Cộng Hòa/越南民主共和)の独立を宣言した。

 ところが、ベトナム人の意向に反して、ベトナム(仏領インドシナ)の戦後処理の方針が決められていて、北ベトナムが中華民国軍、南ベトナムが英国軍が進駐することになっていた。日本軍を武装解除し、フランス軍に引き渡し、1946年に英国軍は撤退し、中華民国とは広州湾租借地の返還と取引して北ベトナムの中華民国軍も撤退した。その後、フランス軍がベトミン軍を攻撃し、ベトナムの独立戦争ともいえる第一次インドシナ戦争が勃発する。1949年に中国が赤化して中華人民共和国が建国されると、共産国家のソビエト連邦と中華人民共和国がベトミン軍を支援した。南ベトナムには保大帝を元首とするフランスの傀儡国家である「ベトナム国」(Quốc gia Việt Nam/國家越南)が「ベトナム民主共和国」に対抗した。フランスは「ディエンビエンフー(奠邊府)の戦い」に敗れ、1954年にジュネーヴ協定により、ベトナムは北緯17度線で南北に分割され、フランス軍が北ベトナム、カンボジア、ラオスから撤退し、ベトミン軍が南ベトナムから撤退することが合意された。

 南ベトナムでは、反共のため米国が支援してゴ・ディン・ジエム(Ngô Ðình Diệm/吳廷琰)を初代大統領とする「ベトナム共和国」(Việt Nam Cộng Hòa/越南協和)が1955年に建国された。しかし、「南ベトナム解放民族戦線」(越共/ベトコン)などの親北反政府ゲリラとの内戦状態となった。1964年に米国はベトナムに介入するため北ベトナムが米艦に魚雷を発射したとするトンキン湾事件を起こし(後に米国による自作自演と発覚)、これをきっかけに米軍がベトナム戦争に本格介入し、北ベトナムへの爆撃を開始した。1968年に北ベトナム人民軍と南ベトナム解放民族戦線による「テト攻勢」により、北ベトナムが巻き返した。1969年に南北ベトナムと解放戦線、米国の4者によるパリ和平会談が始まるが、同年にホー・チ・ミンが死去し、レ・ズアン(Lê Duẩn/黎筍)が北ベトナムの指導者となる。1973年にようやく南北ベトナム(ベトナム民主共和国、ベトナム共和国)、南ベトナム共和国臨時革命政府、米国の4者による「パリ和平協定」が調印され、ベトナム戦争の終結となり、米軍が南ベトナムから撤退することになったが、1975年に北ベトナムと解放戦線による「春の大攻勢」により、南ベトナムのズオン・バン・ミン(Dương Văn Minh/楊文明)大統領が降伏し、北ベトナムによってサイゴンが接収され、ベトナム共和国が崩壊した。サイゴンはベトナム共産党の革命家ホー・チ・ミンを記念して「ホーチミン市」(thành phố Hồ Chí Minh/城舗胡志明)に改名された。

 南ベトナムには南ベトナム共和国臨時革命政府により「南ベトナム共和国」(Cộng hòa Miền Nam Việt Nam/共和沔南越南)が建国され、1976年に南北統一選挙が実施され、ベトナムは「ベトナム民主共和国」(Việt Nam Dân Chủ Cộng Hòa/越南民主共和)が南ベトナムを吸収する形で統一され、「ベトナム社会主義共和国」(Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam/共和社會主義越南)として再出発した。

 統一を果たしたベトナムだったが、隣国のポル・ポトを指導者とするクメール・ルージュ(カンボジア共産党)政権で混乱するカンボジア(民主カンプチア)がベトナムに国境侵犯し、ベトナム住民を虐殺した「バチュク村の虐殺」がきっかけとなり、1978年にベトナムはカンボジアに侵攻し、ポルポト政権を倒したた。中華人民共和国は民主カンプチアのポルポト政権を支援していたことから、中国はベトナムを非難し、1979年に中国人民解放軍がベトナムを懲罰するとして中越戦争っが始まった。しかし、ベトナム戦争で豊富な戦闘経験を持つベトナム軍は強く、中国軍を撃退した。

 レ・ズアン書記長が1986年に死去すると、チュオン・チン(Trường Chinh/長征)国家評議会議長が、ベトナム経済を立て直すため、社会主義型市場経済を目指す「ドイモイ(Đổi mới/𣌒𡤓)」(刷新)政策を発表し、1989年にはカンボジアからも撤兵した。1991年にヴォー・チ・コン(Võ Chí Công/武志公)国家評議会議長が訪中して中国との関係も正常化した。1993年にフランス、1995年と米国とも和解し、外交関係を樹立した。その後、1995年に東南アジア諸国連合(ASEAN)、1998年にアジア太平洋経済協力(APEC)にも加盟し、2007年には世界貿易機関(WTO)にも加盟し、ベトナム共産党独裁の社会主義国でありながらも、西側諸国とも良好な関係を維持して、外国からの投資も積極的に受け入れ、中国以外のアジアの投資先として日本や台湾からの進出も盛んだ。

 現在のベトナムは社会主義共和制であり、ベトナム共産党による一党独裁制が維持されている。ベトナム共産党中央委員会書記長が実質的な最高指導者であり、国家元首の国家主席、政府のトップの首相、立法のトップの国会議長の4人を「四柱」とする集団指導体制となっている。

 ベトナムの都市は、ベトナム北部にある首都ハノイ(Hà Nội/河内)が約760万人で第2位。人口最大の都市はベトナム南部のかつてサイゴン(Sài Gòn/柴棍)と呼ばれたホーチミン市(thành phố Hồ Chí Minh/城舗胡志明)で約825万人。そのほか、ハイフォン(Hải Phòng/海防)210万人、カントー(Cần Thơ/芹苴)160万人、ダナン(Đà Nẵng/沱灢)105万人が、中央直轄市となっている。そのほか、ヴィン(Vinh/榮)45万人、フエ(Huế/化)35万人、ホイアン(Hội An/會安)12万人、ニャチャン(Nha Trang/芽莊)35万人などの主要都市がある。

 北回帰線より南に位置するベトナムは、冬でも暖かいが、北部は温帯夏雨気候なので冬はわりと涼しく、7月が26~33℃であるのに対し、1月は14~19℃まで下がるので過ごしやすい。一方、南部のホーチミンは、熱帯のサバナ気候であり、7月は24~32℃、1月は21~32℃と一年中暑い。

 温暖な気候のため、米が豊富にとれ、米輸出国である。また、カシューナッツ、黒コショウ、コーヒー、茶、ゴムなどの生産も盛んである。鉱業はスズ、石油、石炭などの鉱物資源に恵まれている。

 宗教は大乗仏教が広く信仰されているほか、道教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教なども信仰されているが、ベトナム共産党の影響で信仰には制限もある。

 ベトナム料理は、「ザウムイ」(rau mùi)と呼ばれるパクチー(香菜)が多用され、南方中華料理の影響も大きく、「フォー」(Phở)と呼ばれる米の汁麺や、「ブン」(Bún)、「フーティウ」(Hủ Tiếu)、「ミエン」(Miến)、「ミー」(Mì)などの麺料理、米飯(Cơm/コム)を用いた料理、生春巻き(Nem cuốn/ヌムクオン)などがよく知られている。

ベトナム社会主義共和国(ヴェッナム/共和社会主義越南)
Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam(ベトナム語)
(1945年フランスより独立、1976年北ベトナムが南ベトナムを吸収統一)
面積:33.0万平方キロ
人口:8424万
通貨:ドン
主要言語:ベトナム語、(クメール語、広東語、客家語、福建語、華語、ムオン語、モン(ミャオ)語、チャム語、ヤオ語など)
首都:ハノイ/河内/Hà Nội(ベトナム語)(人口760万) 

参考:Wikipediaなど

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タイ バンコク・ドーンムアン 旧バンコク国際空港のドンムアン空港

กรุงเทพ・ดอนเมือง 
クルンテープ・ドーンムアン (タイ語)
バンコク・ドーンムアン

タイ王国バンコク都ドーンムアン区

タイ バンコク・ドーンムアン 旧バンコク国際空港のドンムアン空港

 ドーンムアン国際空港(ท่าอากาศยานดอนเมือง)は、タイの首都バンコク(クルンテープマハーナコーン/กรุงเทพมหานคร)の北部にあるドーンムアン(ดอนเมือง)区にある空港で、2007年までバンコク(クルンテープ)国際空港(ท่าอากาศยานกรุงเทพ)と呼ばれていた。

 ドーンムアン国際空港は、バンコクの中心部から約20キロ北に位置し、長らくバンコク国際空港として首都バンコクの空の玄関口として機能していた。タイ国際航空(การบินไทย /Thai Airways International)の国際線もここを拠点としていた。日本からも日本航空や全日空が2006年まで乗り入れていた。

 同空港は平行する2本の滑走路があり、その間にはタイ空軍が管理する細長いゴルフ場がある珍しい設計となっている。

 同空港は国際線の増加にともない余裕がなくなってきたことから、バンコクの中心部から約30キロ東に新バンコク国際空港(スワンナプーム国際空港/ท่าอากาศยานสุวรรณภูมิ)を建設し、2006年9月に開港した。その際に、バンコク国際空港の旅客便は国内線・国際線ともにスワンナプーム国際空港に移転した。ドーンムアン空港は引き続き空軍基地やチャーター機や貨物専用機、政府専用機などに利用されるようになった。

 しかし、スワンナプーム国際空港が施工不良などのトラブルが続いたため、2007年3月に国内線の一部が再びドーンムアン空港に就航するようになった。その後、2011年10年の大洪水で一時閉鎖され、同空港の国内線がスワンナプーム国際空港に移転したが、2012年3月に再開した。

 2012年10月には格安航空のエアアジア(Air Asia)とエアアジア系合弁のタイ・エアアジア(ไทยแอร์เอเชีย /Thai AirAsia)、インドネシア・エアアジア(Indonesia AirAsia)がスワンナプーム国際空港からドーンムアン空港に再移転した。このほか、タイ国内線はノックエア(นกแอร์ /Nok Air)、オリエント・タイ航空(โอเรียนท์ ไทย /Orient Thai Airlines)、タイ・エアアジアなどの格安航空がチェンマイ(เชียงใหม่)、チェンラーイ(เชียงราย)、プーケット(ภูเก็ต)などの各都市を結んでいる。

 このように、近年はスワンナプーム国際空港が世界の主要都市を結ぶ首都空港としての地位を確立した一方で、ドーンムアン空港が格安航空の国際・国内ターミナルとしての役割を担うようになった。

 ドーンムアン空港の近くにはタイ国鉄北本線のドーンムアン駅がある。同駅はバンコク国際空港時代はドーンムアン駅からバンコク・ホワランポーン駅を結ぶ空港シャトル列車も運行されていたが、スワンナプーム国際空港開港後は、列車の本数が大幅に削減された。空港から市内へのアクセスはエアポート・バスか路線バスが主要交通機関となっている。

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タイ・バンコク 天使の都、クルンテープ

กรุงเทพมหานคร
クルンテープマハーナコーン (タイ語)
バンコク/Bangkok (英語)
バンコク/曼谷 (潮州語)

タイ・バンコク 天使の都、クルンテープ

 タイ王国(ราชอาณาจักรไทย / ラーッチャー アーナーチャック タイ)の首都は、バンコク(クルンテープ)の人口は都市部で約830万人。郊外も合わせた都市圏人口は約1460万人であり、東南アジア有数の大都市である。

 外国からはバンコク(Bangkok/曼谷)として知られているが、現地のタイ語ではクルンテープマハーナコーン(กรุงเทพมหานคร)と呼ばれ、略称はクルンテープ(กรุงเทพ)で、「天使の都」という意味である。また、バンコクの中国語漢字表記は「曼谷」で北京語読みでは「マンクウ」だが、バンコクに多く住む潮州(ティオチウ)系住民が話す潮州語読みでは「バンコク」となる。 

 バンコクは、タークシン(ตากสิน)王を処刑したチャクリー王朝初代シャム国王・ラーマ1世(รัชกาลที่ ๑)が1782年に、チャオプラヤー川(แม่น้ำเจ้าพระยา)西岸にあった都・トンブリー(ธนบุรี)から、その対岸に都を移したことが町の起源である。建設された王宮の周囲には運河が掘られ、ラッタナーコーシン島となった。ここには王室関係者のほか、王室と深いつながりがある潮州(ティオチウ)系華人が多く住んだ。

 その後、市街地が徐々に周辺にも広がり、現在、バンコクのチャイナタウンを代表する通りであるヤオワラーッ通り(ถนนเยาวราช /耀華力路)が経済の中心地として発展し、20世紀後半になるとシーロム(สีลม)のあたりが経済の中心となった。

 バンコクは熱帯なので、一年中、どの月も平均気温が25℃~30℃であり、平均最高気温はどの月も30℃を超える。北半球であるが、日本の四季とは大きく異なり、2月~5月はあまり雨が降らなくて高温となり、5月~10月は蒸し暑い雨季、11月~2月はやや涼しい乾季となる。

 バンコクはタイ最大の都市であるとともに、東南アジア有数の大都市、経済の中心であり、バンコク市内にはいくつも高層ビルが建ち並び現代的であり、外国人観光客も非常に多い。一方、貧富の格差は大きく、路地や鉄道の線路沿いなどを歩けば、スラム街もある。

 高架鉄道のスカイトレイン(รถไฟฟ้า/ロッファイファー)や地下鉄(バンコク・メトロ)の整備が進められているが、市内の道路の渋滞は激しい。チャオプラヤー川の水上交通(チャオプラヤー・エクスプレス)や、3輪バイクタクシーのトゥクトゥク(รถตุ๊กตุ๊ก)も市民や観光客の足として機能している。

 バンコクからタイの各都市を結ぶタイ国鉄の中心駅は、バンコク市民からフワランポーン(หัวลำโพง/Hua Lamphong)駅と呼ばれるクルンテープ(กรุงเทพ/Bangkok)駅。2004年にバンコク・メトロのフアランポーン駅が開業し、市内各地への利便性が向上した。クルンテープ駅からはタイ北東のイーサーン(ภาคอีสาน)方面、北部のチェンマイ(เชียงใหม่)方面、南部のマレーシア国境に近いスンガイコーロック(สุไหงโก-ลก)方面、カンボジア国境に近いアランヤプラテーッ(อรัญประเทศ)方面などの長距離列車が発着している。このほか、タイは長距離バスの運行も盛んで、主に北・東・南の3つのバスターミナルがあり、パッタヤー(พัทยา)やプーケット(ภูเก็ต)方面などへ向かうバスも運行されている。

 バンコクの空の玄関は、バンコク北部のドーンムアン区(เขตดอนเมือง)にあるドンムアン国際空港(ท่าอากาศยานดอนเมือง /Don Mueang International Airport)が、長らくバンコク国際空港として機能していたが、手狭になったため、新空港の建設が進められ、2006年にスワンナプーム国際空港(ท่าอากาศยานสุวรรณภูมิ /Suvarnabhumi International Airport)が開港、バンコクの新しい玄関口となった。現在は、この2つの空港の棲み分けが模索されており、スワンナプーム国際空港は各国の主要航空会社の路線が乗り入れ、ドーンムアン空港は、格安航空会社が再移転してにぎわっている。スワンナプーム空港からバンコク市内へは、エアポート・レール・リンク(รถไฟฟ้าเชื่อมท่าอากาศยานสุวรรณภูมิ)が2010年に正式開業し、シティエアターミナル(สถานีรับส่งผู้โดยสารอากาศยานในเมือง)があるマッカサン(มักกะสัน)駅と、スカイトレイン・スクムウィット線のパヤータイ(พญาไท)駅を結んでいる。

 バンコクには、タイの華麗な歴史を感じさせる王宮(プラボーロマラーチャワン/พระบรมมหาราชวัง)や、仏教寺院のワット・アルン(ワット・アルンラーチャワラーラーム/วัดอรุณราชวราราม ราชวรมหาวิหาร)、世界中のバックパッカーが集まるカオサン通り(ถนนข้าวสาร)、ニューハーフバーなどもある歓楽街のナナ・プラザ(NANA PLAZA)など、国際的に知られる観光地が多く、日本や中国、台湾などアジアだけでなく、欧米からの観光客も多い。

 また、産業面ではタイと日本の関係は緊密であり、バンコクには3万人を超える日本人が住んでいて、バンコク日本人学校もある。 

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タイ インドシナ半島の中央にある仏教王国

ราชอาณาจักรไทย
ラーッチャ アーナーチャック タイ
タイ王国

タイ インドシナ半島の中央にある仏教王国 

 タイ王国(ราชอาณาจักรไทย / ラーッチャー アーナーチャック タイ)は、東南アジアのインドシナ半島中央とマレー半島の北部に位置する国で、ASEAN(東南アジア諸国連合)加盟国の一つ。タイ王国はタイ国(ประเทศไทย /プラテーッ タイ)とも呼ばれる。南にマレーシア、東にカンボジア、北にラオス、西にミャンマーと接している。

 タイの人口は約6650万人。面積は約51.3万平方キロメートル。気候は熱帯気候で、夏は非常に暑く、長い。モンスーンの影響を受け、夏は雨季で、スコールも降り、降水量が多い。

 通貨はバーツ(บาท /Baht)で、一人当たり国内総生産(GDP)は約5000ドル、一人当たり購買力平価(PPP)換算では約9200ドルで、マレーシアよりは低いが中国よりは高い。1980年代から高度経済成長が続き、首都のバンコク(กรุงเทพมหานคร /クルンテープマハーナコーン)は高層ビルが建ち並ぶ現代的な都市となっているが、首都と地方の格差や、富裕層と貧困層の貧富の格差は大きい。

 タイは立憲君主制の王国であり、1782年からのチャクリー王朝が現在まで続き、1946年からラーマ9世(รัชกาลที่ ๙)が国王として在位し、タイ語ではプーミポンアドゥンラヤデート(ภูมิพลอดุลยเดช)と呼ばれ、日本語では「ブミポン国王」と呼ばれる。プラボーロマラーチャワン(พระบรมมหาราชวัง)と呼ばれる王宮は、首都バンコクにある。

 タイの多数民族であるタイ民族は、古くは中国の華南のあたりに住んでいたといわれ、徐々に南下して、雲南(ユンナン)からいまのタイへと13世紀頃までに南下してきた。当時のタイはクメール人のアンコール王朝の支配下にあったが、13世紀にタイ族による初の王朝であるスコータイ王朝(ราชอาณาจักรสุโขทัย)が成立した。この時代にクメール文字を基にタイ語に合わせて改良されたタイ文字が確立された。1350年からは、タイ中部のアユッタヤー(อยุธยา)を拠点とするアユタヤ王朝(อาณาจักรอยุธยา)が成立し、積極的に海外と交易することによって発展を築いた。アユタヤ王朝はその後、たびたびビルマからの侵攻を受け、滅ぼされた。1767年には潮州(ティオチウ)系タイ人であるタークシン王(ตากสิน /鄭昭)により、チャオプラヤー川(แม่น้ำเจ้าพระยา)の左岸のトンブリー(ธนบุรี)を都とするトンブリー王朝が成立した。しかしタークシン王はその後、精神錯乱になり、反乱に遭い、最後は処刑され、1782年にラーマ1世(รัชกาลที่ ๑)が現在まで続くチャクリー王朝の初代国王に即位した。

 近代になると、隣接するカンボジア、ラオスにフランスが、マレーシア、ビルマにイギリスが侵出し、タイのチャクリー王朝の領土も一部割譲された。しかし、タイはラーマ5世らによる近代化改革を進め、イギリスとフランスの緩衝地帯の役割を果たし、どちらにも支配されない中立的な地位を維持して、第二次世界大戦中に植民地になることなく乗り越えることができた。戦後は、ベトナム、カンボジア、ラオスが共産化していくなかで、アメリカとの良好な関係を築いて共産化はされず、1967年に東南アジア諸国連合(ASEAN)創設メンバーとして加盟した。1980年代からは外国高度経済成長が続き、外国企業が進出し、工業化が進んだ。

 タイは立憲君主制なので、国家元首は国王であるが、政治のトップは、議院内閣制の首相である。タイ国会(รัฐสภา)は、上院に相当する元老院(วุฒิสภา)と下院に相当する人民代表院(สภาผู้แทนราษฎร)の二院制である。2012年現在の与党はタイ貢献党(พรรคเพื่อไทย)であり、タイ愛国党(พรรคไทยรักไทย)、国民の力党(พรรคพลังประชาชน)を前身とするタクシン チナワット(ทักษิณ ชินวัตร)元首相派の反共左派・親米保守の政党であり、2011年よりタクシン元首相の妹であるインラック チナワット(ยิ่งลักษณ์ ชินวัตร)がタイ首相を務めている。最大野党は、2008~2011年に与党を務めた中道・リベラル・穏健派のタイ民主党(พรรคประชาธิปัตย์)。そのほか少数政党は、インラック政権の連立政権に参加しているタイ団結国家開発党(พรรครวมใจไทยชาติพัฒนา)や、タイ国民発展党(พรรคชาติไทยพัฒนา)、野党のタイ誇り党(พรรคภูมิใจไทย)などがある。

 携帯電話事業の成功で富豪となり、地位を築いたタクシン首相(当時)は、既得権益層に切り込む一方で、自身の一族の権益を保護しているとみられたことにより、タイは2006年に軍事クーデターが発生、タクシン首相は辞任し、国外亡命した。この後、タイではクーデターで失脚したタクシン派の反独裁民主戦線(赤シャツ隊)と反タクシン派の民主市民連合(黄シャツ隊)の対立が先鋭化した。2008年に国民の力党のサマック スントラウェート(สมัคร สุนทรเวช)が首相に就任。しかし、半年ほどで退陣を迫られ、同党のソムチャーイ ウォンサワット(สมชาย วงศ์สวัสดิ์)氏が首相に就任したが、首相府(สำนักนายกรัฐมนตรี)やスワンナプーム国際空港(ท่าอากาศยานสุวรรณภูมิ)が黄シャツ隊の反対派に占拠され、タイ憲法裁判所が国民の力党に解答命令を下し、一ヶ月余りで退陣。政権交代となって2008年末に民主党のアピシット ウェーチャチーワ(อภิสิทธิ์ เวชชาชีวะ)首相が就任した。2010年、タクシン派の赤シャツ隊がバンコク都内を占拠し、軍を動員して排除させたが、2011年の選挙でタクシン派のタイ貢献党が勝利して、アピシェット首相は退陣し、再び政権交代となってタイ貢献党のインラック政権が発足した。

 タイの国民は、タイ族が約75%であるほか、華人が約14%とされる。華人は広東省出身の潮州(ティオチウ)人や、客家(ハッカ)人が多い。そのほか、マレー系、インド系、モン族、カレン族などの少数民族が住んでいる。そのほか、タイ北部には、中国の国共内戦で逃れた旧国民党兵士をルーツとする中国人も住んでいる。

 タイの公用語であるタイ語は、スコータイ王朝時代に考案された独特の丸みを持つタイ文字を使用する。中国語や広東語のように声調言語でもあり、インド的な要素とシナ的な要素を両方併せ持つ言語であるといえる。また、隣国のラオス語とも近い関係があり、タイ東北部のイーサーン(ภาคอีสาน)地方の方言は特にラオス語に近い。

 タイは国民の約95%が仏教徒であり、仏教の中でも上座部仏教であり、オレンジ色の袈裟を着た修行僧が熱心に修行する光景が見られる。タイ仏教の寺院はワット(วัด)と呼ばれている。

 タイの主要都市は首都バンコク(กรุงเทพมหานคร /クルンテープ マハーナコーン)のほか、ムアン チエンラーイ(เมืองเชียงราย)、ムアン チエンマイ(เมืองเชียงใหม่)、プーケット(ภูเก็ต)、アユッタヤー(อยุธยา)、パッタヤー(พัทยา)などの都市がある。なお、首都のバンコクは対外的には英語でバンコク(Bangkok)と呼ばれるが、タイ語ではクルンテープマハーナコーン(กรุงเทพมหานคร)や、クルンテープ(กรุงเทพฯ)と呼ばれている。漢字では主に「曼谷」と表記され、潮州語読みでは「バンコク」と読む。

 タイを代表する国際航空会社はタイ国際航空(บริษัท การบินไทย จำกัด / Thai Airways International)で、バンコク・スワンナプーム国際空港(ท่าอากาศยานสุวรรณภูมิ)を拠点として日本にも東京、大阪、名古屋、福岡などに乗り入れている。

 タイではタイ式のキックボクシングであるムエタイ(มวยไทย)が国技とされているほか、タイ式のキックバレーボールであるセパタクロー(ตะกร้อ)などのスポーツが盛んである。

 タイ料理はエビが入った酸っぱいスープであるトムヤムクン(ต้มยำกุ้ง)、エビやモヤシが入ったライスヌードルの炒め物であるパッタイ(ผัดไทย)、青パパイヤのサラダであるソムタム(ส้มตำ)などが有名である。魚醤を多用するところなどがタイ料理の独特な風味を出しており、クイティアオ(ก๋วยเตี๋ยว /粿條)のように潮州料理をルーツとするものもある。
 

タイ王国
ราชอาณาจักรไทย(タイ語)
面積:51.4万平方キロ
人口:6776万
通貨:バーツ
主要言語:タイ語、(潮州語、モン語)
首都:
バンコク(クルンテープ・マハーナコーン)/กรุงเทพมหานคร(タイ語)
バンコク/曼谷(潮州語)(人口816万)

(参考:Wikipediaほか)



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(参考:Wikipedia、外務省HPほか)

ベトナム社会主義共和国(ヴェッナム/共和社会主義越南)
Cộng Hoà Xã Hội Chủ Nghĩa Việt Nam(ベトナム語)
(1945年フランスより独立、1976年北ベトナムが南ベトナムを吸収統一)
面積:33.0万平方キロ
人口:8424万
通貨:ドン
主要言語:ベトナム語、(クメール語、広東語、華語、ムオン語、モン(ミャオ)語、チャム語、ヤオ語など)
首都:ハノイ/河内/Hà Nội(ベトナム語)(人口623万)

カンボジア王国(カンプチャ)
cambodia
ព្រះរាជាណាចក្រ កម្ពុជា(クメール語)
(1953年フランスより独立)
面積:18.1万平方キロ
人口:1481万
通貨:リエル
主要言語:クメール語
首都:プノンペン/ភ្នំពេញ(クメール語)(人口133万)

ラオス人民民主共和国
laos(ラオス語)
(1949年フランスより独立)
面積:23.7万平方キロ
人口:632万
通貨:キープ
主要言語:ラオス語
首都:ヴィエンチャン/ວຽງຈັນ(ラオス語)(人口20万)

タイ王国
ราชอาณาจักรไทย(タイ語)
面積:51.4万平方キロ
人口:6776万
通貨:バーツ
主要言語:タイ語、(潮州語、モン語)
首都:
バンコク(クルンテープ・マハーナコーン)/กรุงเทพมหานคร(タイ語)
バンコク/曼谷(潮州語)(人口816万)

ミャンマー連邦(ビルマ)
ြည်ထောင်စုမြန်မာနိုင်ငံတော်(ビルマ語)
(1948年、イギリスより独立)
面積:67.7万平方キロ
人口:5002万
通貨:チャット
主要言語:ビルマ語、(シャン語、カレン語、華語、モン語)
首都:ネピドー/နေပြည်တော်(ビルマ語)(人口93万)

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