中国 黒竜江・綏芬河 東清鉄道で発展したロシアと国境を接する町

绥芬河
スエイフェンホー/Suífēnhé (中国語/北京語)
スイフェンヘ/Суйфэньхэ (ロシア語)
スプナ/수분하 (朝鮮語)

中华人民共和国黑龙江省绥芬河市
中華人民共和国黒竜江省綏芬河市

中国 黒竜江・綏芬河 東清鉄道で発展したロシアと国境を接する町

 綏芬河(绥芬河/スエイフェンホー)市は、旧満洲の中国黒竜江(黑龙江/ヘイロンチャン)省南東部の牡丹江(ムウタンチャン)地級市にある人口約6万人の町。ロシア連邦と国境を接しており、ロシア語では「Суйфэньхэ」(スイフェンヘ)と表記される。また、満洲族や朝鮮族も住み、朝鮮語読みでは「수분하」(スプナ)と呼ばれている。

 綏芬河の「綏芬」(绥芬/スエイフェン)は、満洲語で「錐」を意味する。綏芬河(绥芬河/スエイフェンホー)は吉林省東部から黒龍江省の綏芬河市の南の東寧(东宁/トンニン)県を東へロシア連邦領内へと流れる川で、ロシア連邦内ではラズドーリナヤ(Раздольная)川と呼ばれている。

 綏芬河市のあたりは、古くは高句麗や渤海国に属し、満洲族の祖先が住んでいた。清国時代の1860年に、清国とロシア帝国が結んだ「北京条約」により、外満洲にあたるウスリー(Уссури)川より東がロシアに割譲された。これによって綏芬河はロシアと国境を接する町となった。

 1897年よりロシアによって「東清鉄道」(Китайско-Восточная железная дорога、КВЖД)の建設が始まり、1903年に開通し、鉄道付属地はロシア当局が管理した。中華民国建国後、東清鉄道は中東鉄道と呼ばれるようになり、1921年にロシアが統治していた中東鉄道の付属地の行政権を中華民国に引き渡し、同付属地は中華民国東省特別区となった。1922年にソビエト連邦が成立すると、「東清鉄道」自体はソ連が引き続き経営したが、1932年(大同元年)に満洲国が建国されると、翌1933年(大同2年)に中東鉄道は「北満鉄道」に改名され、1935年(康徳2年)にソ連が北満鉄道を満洲国に売却し、鉄道付属地も満洲国の行政区と一体化したところが多かった。1945年(康徳12年)に満洲国が崩壊後は、一時ソ連に接収されたが、そのあとすべて中国に引き渡された。

 綏芬河市は1992年に第1次辺境開放都市に指定され、ロシアとの交易が盛んになった。1999年には、東に隣接するロシアのポグラニーチニ(Пограничный)とともに貿易区が設置され、両市の往来が活発になった。このため、綏芬河の市街地にはロシア製の商品がたくさん販売され、街の看板もロシア語が併記されたものが多い。但し、綏芬河市の市街地とポグラニーチニの市街地は隣接しているわけではないので、歩いて国境を渡ることはできず、綏芬河駅とポグラニーチニのグロヂェコヴォ(Гродеково)駅を結ぶ 国際列車や国際バスでの連絡となるようだ。

 ところで、かつての東清鉄道時代の線路の幅はロシアの規格である広軌(1520mm)であったが、満洲国時代に朝鮮や中国と同じ標準軌(1435mm)に改軌したため、線路はつながっていても黒竜江省の省都であるハルビン(哈尔滨)方面からロシアのウラジオストク(Владивосток)やハバロフスク(Хабаровск)へ向かう国際列車は台車を交換しなければならず、国境となる駅で長時間停車する必要があった。そのため、飛行機が普及するにつれ利用者が減少し、ハルビンからウラジオストク方面へ直通する国際列車は2012年に中断されたとの情報もあるが、国際列車は旅の魅力でもあるので、何とか走り続けてほしい。

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中国語とロシア語が併記されている綏芬河駅

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中国 吉林・琿春 豆満江(図們江)開発に期待沸くロシアと北朝鮮と接する中国の国境都市

훈춘
珲春
フンチュン (朝鮮語)
フンツン (中国語/北京語)
フンツン (満洲語)

중화인민공화국길림성연변조선족자치주훈춘시
中华人民共和国吉林省延边朝鲜族自治州珲春市
中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州琿春市

中国 吉林・琿春 豆満江(図們江)開発に期待沸くロシアと北朝鮮と接する中国の国境都市

 琿春(珲春/훈춘/フンチュン)は中華人民共和国(中国)吉林省東部の延辺(연변/ヨンビョン)朝鮮族自治州にある人口約25万人の都市で、人口の約43%を朝鮮(조선/チョソン)族が占める。また、満洲族も約9%を占めている。

 琿春市の南端は、朝鮮語で豆満江(두만강/トゥマンガン)、中国語で図們江(图们江/トゥーメンチャン)と呼ばれる川の河口付近にあたるが、中国側の領土は河口の手前までで、日本海側には達しておらず、河口側はロシア連邦と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の国境となっている。このため、琿春市はロシアおよび北朝鮮と国境を接し、それを生かした貿易都市としての発展が期待されている。

 琿春は、高句麗時代に柵城府が置かれ、8世紀の渤海時代には、渤海第3代王の大欽茂によって784年に東京竜源府が置かれ、794年までの8年間、渤海国の都となり、日本とも交流があった。渤海が滅びると女真(満洲)人の土地となった。琿春の地名の由来も満洲語で「尻尾」を意味する「フンツン」から来ており、辺境の町という意味を持つ。それが中国語で「渾蠢」と漢字表記されるようになり、後に「琿春」となった。朝鮮と接しているため、古くから朝鮮人の開拓移民が多く住み、清朝時代には漢人の移民も増えた。1910年に朝鮮(大韓帝国)が大日本帝国に併合され、1912年に中華民国が建国されて満洲も中華民国領となると、豆満江が日本と中国の国境となり、琿春などの間島(간도/カンド)地区(いまの延辺朝鮮族自治州)は中国側に属し、朝鮮独立運動の拠点となった。満洲国時代を経て、中華人民共和国になると、朝鮮族自治州となったが、北朝鮮に建国された朝鮮民主主義人民共和国が閉鎖的な政治体制のため、朝鮮民族の両地の往来は、満州国時代より少なくなっている。

 中国が共産主義経済から改革・開放政策に舵を切り、1991年にソビエト連邦が崩壊して、沿海州(プリモルスキー地方/Приморский край)のウラジオストク(Владивосток)も外国にも開かれると、これに北朝鮮の羅先(라선/ラソン)地区も交えた豆満江開発「環日本海経済圏」構想が盛り上がるようになった。これは、日本海に面していない中国にとって、日本海側に進出しやすくなり、経済効果も大きく期待できる魅力的な構想であり、琿春はロシアのザルビノ(Зарубино)、北朝鮮の羅先を結ぶゴールデントライアングル(金三角)の一都市として注目された。さらに中国延辺朝鮮族自治州の州都である延吉(연길/ヨンギル/イエンチー)、ロシアのウラジオストク、北朝鮮の清津(청진/チョンジン)を結ぶ大トライアングルの交流強化、経済活性化も期待されている。近年は韓国からの投資も増えているようだ。

 しかしながら、この構想は順調に進んでいるとはいい難い。その最大の原因は、北朝鮮の政治的閉鎖性であり、外資の投資も進まない。また、ロシアについても、中国の影響力拡大を嫌うのか、あまり積極的ではないようだ。ロシア側のザルビノ港については、日本からも新潟―ザルビノ港を結ぶ国際貨物船が2011年に就航し、琿春との往来も増えてきているようだが、鉄道はロシアが広軌、中国が標準軌と線路の幅が違い、中ロ国境でワンクッション置くことになるので、長い目で見れば、琿春やザルビノの重要性も増してくる流れではあると思うが、中国東北部(旧満洲)への玄関港としては、現時点ではやはり遼寧(辽宁/リャオニン)省の大連(大连/ターリエン)港のほうが利用しやすいようだ。

 琿春市内には貨物列車が走るほか、1990年代後半から琿春駅が建設されていたが、旅客列車はまだ走っておらず、ほかの朝鮮族自治州の町とはバスで連絡している。琿春は炭鉱が多くあり、石炭の産出量が多い。琿春を走る貨物列車は、1990年代後半でも蒸気機関車が現役で走っていた。

 琿春市の南端の国境地帯である防川(방천/パンチョン/ファンツォワン)という町は、琿春市中心部から途中から舗装されていない悪路をバスで3時間ほどかかったが、現在は道路も舗装されたらしく、バスもスピードアップしたようだ。

 途中の圏河では、北朝鮮側につながる圏河大橋がある。その先の張鼓峰(张鼓峰/ツァンクウフォン)は、満洲国時代の1938年(康徳5年)に満洲国とソビエト連邦の国境紛争が起こった地で、ソ連軍が張鼓峰を占拠したことがきっかけで、日ソ両軍の戦闘となった。両軍に大きな被害が出た引き分け状態で停戦となった。満洲領を引き継いだ中国領は維持され、防川の町はその先にある。

 防川の展望台からは、ロシアのハサン(Хасан)地区と、豆満江(図們江)を挟んで北朝鮮の豆満江(두만강/トゥマンガン)地区が一望できる。ロシアとハサン駅と北朝鮮の豆満江駅を結ぶ鉄橋(露朝豆満江親善橋)も見える。その先約15キロの河口の向こうが日本海である。ロシア側はヨーロッパ風の石造りの建物が目立ち、北朝鮮側は荒れ地が広がっている。北朝鮮が自由で開放的な国となって、この国境三角地帯が開発ブームに沸くのは果たしていつになるだろうか。

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放置されている琿春駅の駅舎

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琿春駅予定地から見た琿春の市街地

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琿春市内を走っていた蒸気機関車

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防川の中露朝国境、左がロシア、手前が中国、右が北朝鮮

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防川展望台から見た豆満江と北朝鮮

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中国 吉林・図們 豆満江(図們江)が流れる北朝鮮との国境の町

도문
图们
トムン (朝鮮語)
トゥーメン (中国語/北京語)

중화인민공화국길림성연변조선족자치주도문시
中华人民共和国吉林省延边朝鲜族自治州图们市
中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州図們市

中国 吉林・図們 豆満江(図們江)が流れる北朝鮮との国境の町

 図們(图们/도문/トムン/トゥーメン)は中国吉林省東部の延辺(연변/ヨンビョン)朝鮮族自治州にある人口約14万人の都市で、そのうち6割近くを朝鮮族が占める。

 延辺朝鮮族自治州の州都である延吉(연길/ヨンギル/イエンチー)からは東に約30キロ離れていて、バスで1時間強。

 図們は朝鮮語で豆満江(두만강/トゥマンガン)、中国語で図們江(图们江/トゥーメンチャン)と呼ばれる川を挟んで北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国/조선민주주의인민공화국)と接している。対岸は北朝鮮の咸鏡北道(함경북도/ハムギョンブクト)穏城(온성/オンソン)郡の南陽(남양/ナミャン)という町だ。

 図們と南陽は、かつては満洲国と大日本帝国(日本統治下の朝鮮)との国境だった。戦後はソ連の影響を受け、満洲側が中華人民共和国となり、北朝鮮側はソ連占領を経て朝鮮民主主義人民共和国となった。国境があるのは変わらないが、両岸の多数派民族は同じ朝鮮民族であり、豆満江を越えて人的往来がある。

 満洲国時代の図們は、北朝鮮との交流も緊密で、満洲の新京(長春)や牡丹江などから図們を経由して京城(ソウル)へ向かう列車も運行されていた。現在は、北朝鮮が異常な閉鎖体質のため、人的往来は極めて制限されており、一般旅客を運ぶ国際列車も運行されていない。

 図們の中朝国境には図們口岸(图们口岸/トゥーメン コウアン)という検問所があり、ここから図們国境大橋(图们国境大桥)が北朝鮮側とつながっている。韓国と北朝鮮の国境の川は軍事的な緊張感があるが、図們側の国境警備は厳しいわけではなく、ひっそりとしている。1998年頃にここを訪れた際、緊張感はさほどないが、人道橋を渡っている人はほとんどいなかった。

 国境近くでは、記念写真を撮れるところがあり、図們側から望遠鏡で北朝鮮の南陽の集落を眺めることができる。また、近くには北朝鮮の記念品を販売するお土産屋もある。図們市内は人力車が多く走っており、割高なタクシーより手軽な市民の足となっている。

 図們は、環日本海経済圏の開発構想の主要都市の一つであるが、なにしろ北朝鮮が異常な閉鎖性のため、国境の町ならではの国境貿易を活かした発展ができない。それどころか、冬に凍結する豆満江を命がけで渡ってくる脱北者がいるのだという。中国側は不法滞在する脱北者の取り締まりを強化しているが、脱北者が北朝鮮に強制送還されると北朝鮮当局に大変な目に遭わされるので、現地の朝鮮族に匿われて生活する人もいるようだ。

 中国国鉄の図們駅(도문역/图们站)は、延吉や長春(ツァンツン)を結ぶ長図線と、牡丹江(ムウタンチャン)や佳木斯(チアムウスー)を結ぶ図佳線が乗り入れている。北朝鮮の南陽とは鉄道の線路はつながっているが、定期国際列車は運行されていない。北朝鮮の開放が進み、国境の行き来が活発になれば、図們の町も変化しそうではあるが、北朝鮮の開放は期待されながらも進まないままである。延辺側の朝鮮族の人々は、漢民族が優位な中国社会に多少の不満はあるにせよ、北朝鮮と比べて自由は享受しており、冷戦終結後は韓国との交流も増えている。また、地元の朝鮮語の新聞などには北朝鮮観光の広告なども掲載されており、北朝鮮に観光や親戚訪問に訪れる中国の朝鮮族も結構いるようだ。

図們エリアの主な駅

图们 / 도문 / トゥーメン(トムン) 駅
中国国鉄 長図線、図佳線

tomun1
中朝国境の図們口岸

tomun2
図們側の豆満江岸の中朝国境展望台

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中国 吉林・延吉 延辺朝鮮族自治州の州都

연길
延吉
ヨンギル (朝鮮語)
イエンチー (中国語/北京語)

중화인민공화국길림성연변조선족자치주연길시
中华人民共和国吉林省延边朝鲜族自治州延吉市
中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州延吉市

中国 吉林・延吉 延辺朝鮮族自治州の州都

 延吉(연길/ヨンギル/イエンチー)は中国吉林省東部の延辺(연변/ヨンビョン)朝鮮族自治州
の州都で人口は約50万人。人口の約60%の約30万人を朝鮮族が占め、街の看板には中国語の漢字のほか朝鮮文字(조선글/チョソングル)で書かれている。

 延吉は北緯42度にあり、北海道の札幌とほぼ同じ緯度であるが、山がちで夏は涼しく、冬は非常に寒い。7月の平均気温は最低約17℃、最高約27℃、1月は最低約マイナス19℃、約マイナス7℃で川も凍る寒さとなる。

 延吉は朝鮮族自治州の中心地であり、東に図們(图们/도문/トムン/トゥーメン)市、南に竜井(龙井/룡정/リョンジョン/ロンチン)市、西に安図(安图/안도/アンド/アントゥー)県、北西に敦化(돈화/トナ/トゥンホア)市、北東に汪清(왕청/ワンチョン/ワンチン)県と接している。

 延吉朝陽川空港(延吉朝阳川机场)には韓国ソウル仁川(서울・인천)からの国際線が乗り入れているほか、延吉駅には吉林省の省都である長春(长春/ツァンツン)を結ぶ列車が運行されており、満洲国時代は北朝鮮から延吉(間島)を経由して満洲国首都・新京(長春)を結ぶ列車も運行されていた。

 延吉には朝鮮族自治州の州都にふさわしく、延辺人民放送(연변인민방송/ヨンビョニンミン バンソン)や、延辺電視台(연변텔레비죤방송/ヨンビョン テレビジョン バンソン)、延辺日報(연변일보/ヨンビョニルボ)などの朝鮮語を用いるラジオ局、テレビ局、新聞などのメディアがあり、朝鮮語で高等教育を行う延辺大学(연변대학/ヨンビョン デハク)もある。

 延辺は北朝鮮の北に位置し、北朝鮮から豆満江(두만강/图们江/トゥマンガン/トゥーメンチャン)を渡ると延辺なので、朝鮮語も通じる延辺朝鮮族自治州は北朝鮮からの亡命者が非常に多い。また、延吉の住民も、もともとは北朝鮮の出身者が多い。また、北朝鮮のラジオ放送も受信できるようだ。

 延辺は中国、北朝鮮、ロシアの国境地帯を開発するゴールデントライアングルの一角をなし、環日本海経済圏の重要都市の一つでもある。豆満江のゴールデントライアングルは、中国・延辺の延吉(연길/ヨンギル/イエンチー)、北朝鮮の清津(청진/チョンジン)、ロシアのウラジオストク(Владивосток)の大三角形で、特に延辺では延吉、図們、琿春(珲春/훈춘/フンチュン/フンツン)などが今後発展する都市として注目されている。北朝鮮側も国境に近い羅先(라선/ラソン)特別市を経済特区にしようと試みたが、閉鎖的な政治体制のため、開放・交流は進んでいないため、同構想は進展していない。延吉は近年は、北朝鮮よりも飛行機が乗り入れる韓国との交流が盛んになってきている。

延吉(ヨンギル)エリアの主な駅

延吉 / 연길 / イエンチー(ヨンギル) 駅
中国国鉄 長図線

yongil
朝鮮語の看板が目立つ延吉駅


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中国 吉林・延辺 北朝鮮の北に広がる延辺朝鮮族自治州

연변
延边
ヨンビョン (朝鮮語)
イエンピエン (中国語/北京語)

중화인민공화국길림성연변조선족자치주
中华人民共和国吉林省延边朝鲜族自治州
中華人民共和国吉林省延辺朝鮮族自治州

中国 吉林・延辺 北朝鮮の北に広がる延辺朝鮮族自治州

 延辺(연변/ヨンビョン)朝鮮族自治州は、中国・満洲の吉林(チーリン)省東部にある朝鮮(조선/チョソン)族の自治州で、人口は約220万人。そのうち朝鮮族が約4割を占めているが、漢族の流入で、漢族が6割近くを占め、多数派となっている。

 延辺は古くは朝鮮北部や満洲に広がっていた高句麗(고구려/コグリョ)や渤海(발해/パレ)などの国に属し、もともとは満洲・ツングース系の民族が住んでいたようだが、韓国・朝鮮と中国の歴史解釈の違いからも、どこまで朝鮮系のルーツになっているのか謎が多い。

 そのあと延辺は満洲族の先祖である女真の金国に属すようになり、後に満洲人が建てた清国の領土となった。清国はもともと満洲への移民を制限していたが、清朝後半の1860年頃から、豆満江(두만강/ トゥマンガン)を渡って延辺に移住する朝鮮人が増え始め、開墾が盛んとなった。朝鮮が日本統治下に入った後は、日本統治下ではない延辺や満洲各地へ移住する朝鮮人がさらに増えた。間島(간도/カンド)地区と呼ばれていた延辺は、朝鮮独立運動・抗日パルチザンの根拠地にもなった。

 満洲国が建国されると、1934年(康徳元年)に延辺に間島省が置かれ、当時朝鮮族住民が約75%を占めていた。満洲国崩壊後は、間島省は中国領に編入され、中華人民共和国建国後には1952年に「省」と同格の「延辺朝鮮族自治区」となったが、1955年に吉林省の下の「延辺朝鮮族自治州」に降格され、中国化が進められたが、現在も同自治州の公用語は朝鮮語と中国語で、朝鮮族の一定の自治が行われている。

 延辺朝鮮族自治州の州都は延吉(연길/ヨンギル/イエンチー)市で、そのほか図們(图们/도문/トムン/トゥーメン)、琿春(珲春/훈춘/フンチュン/フンツン)、竜井(龙井/룡정/リョンジョン/ロンチン)、和竜(和龙/화룡/ファリョン/ホーロン)、敦化(돈화/トナ/トゥンホア)の各市と、汪清(왕청/ワンチョン/ワンチン)、安図(安图/안도/アンド/アントゥー)の各県からなる。

 中国側の延辺朝鮮族自治州と北朝鮮の国境を流れる川は朝鮮語で豆満江(두만강/ トゥマンガン)、中国語で図們江(图们江/トゥーメンチャン)と呼ばれる。また、北朝鮮との国境となっているカルデラ湖が美しい山は、朝鮮語で白頭山(백두산/ペクトゥサン)、中国語で長白山(长白山/ツァンパイサン)と呼ばれる。延辺では朝鮮語でも長白山(장백산/チャンペクサン)とも呼ばれている。延辺朝鮮族自治州の西南の白山(パイサン)市には、長白(长白/장백/チャンペク/ツァンパイ)朝鮮族自治県もある。また、琿春市はロシア連邦沿海州の国境を接している。

 延辺朝鮮族自治州の最大の都市は延吉であり、延吉朝陽川空港(延吉朝阳川机场)には韓国ソウル仁川(서울・인천)からの国際線が乗り入れているほか、延吉駅には吉林省の省都である長春(长春/ツァンツン)を結ぶ列車が運行されており、満洲国時代は北朝鮮から延吉(間島)を経由して満洲国首都・新京(長春)を結ぶ列車も運行されていた。

 延吉には朝鮮族自治州の州都にふさわしく、延辺人民放送(연변인민방송)や、延辺電視台(연변텔레비죤방송)、延辺日報(연변일보)などの朝鮮語を用いるラジオ局、テレビ局、新聞などのメディアがあり、朝鮮語で高等教育を行う延辺大学(연변대학)もある。

 延辺はもともとは川を挟んで陸続きの北朝鮮との交流が比較的盛んだったが、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)が極めて閉鎖的であり、しかも近年は中国当局による北朝鮮からの亡命者の取り締まりも厳しく、自由な交流は制約が極めて厳しい。一方、冷戦終結後は韓国との交流も盛んになってきており、ソウルとの国際航空路線も開設されて、人的往来が盛んになっている。 
 

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中国 吉林・長春 長春の都市鉄道

长春
ツァンツン/Chángchūn (中国語/北京語)

中華人民共和国吉林省長春市

中国 吉林・長春 長春の都市鉄道

 長春(长春/ツァンツン)が満洲国の首都・新京(シンチン)だった時代、地下鉄建設計画があった。

 その路線は満鉄新京駅(現・長春駅)から大同大街(現・人民大街)を南下し、大同広場(現・人民広場)を通って南湖(ナンフウ)の南側を曲がって西へ向きを変え、孟安屯(モンアントゥン)駅から満鉄の西側の新京市西部を北上し、再び向きを南東に変え、興安大路(現・西安大路)から大同広場に至る「の」字型の環状ルートと、興仁大路(現・解放大路)と吉林大路を東西に走り、南新京駅(現・解放橋駅)、順天広場(現・文化広場)、大同大街を通る東西ルートと、南新京駅から南下する南北ルートの3路線が計画された。新京の冬は寒いことから、満洲国の首都として開発されたエリアに、徒歩15分~20分以内に歩いて駅へ行けるようルート設定されていた。が、結局満洲国時代に着工されることはなかった。

 このほか、新京には1935年に新京交通の路面電車が開業し、新京駅周辺の旧満鉄付属地や、新京の主要道路沿いを走っていた。満洲国崩壊後、その路線の多くは廃止され、トロリーバスやバスに転換されたが、「54路」線の路面電車のみいまも菜こっており、西安大路(シーアン タールウ)と工農大路(工农大路/コンノン タールウ)の間約7.7キロを走っている。2000年頃にリニューアルされて、満洲国時代の車両はほとんど廃車になったが、観光用に旧形車両が一部保存されているようだ。

 近年、中華人民共和国の急速な経済成長によって、長春でも都市鉄道網が整備されるようになった。まず、最初に開業したのが長春ライトレール(轻轨/チンクエイ)3号線で、長春駅南口から京哈線(旧満鉄連京線)沿いの遼寧路(辽宁路/リャオニンルウ)を南西方向へ走り、衛光街(卫光街/ウェイクァンチエ)駅まで開業。その後、2006年に長影世紀城(长影世纪城/ツァンイン スーチーツェン)駅まで東へ延伸された。

 3号線の主な駅は長春(长春/ツァンツン)、西安橋(西安桥/シーアンチャオ)、朝陽橋(朝阳桥/ツァオヤンチャオ)、解放橋(解放桥/チエファンチャオ)、湖西橋(湖西桥/フウシーチャオ)、南湖大路(ナンフウ タールウ)、硅谷大街(クエイクウ ターチエ)、前進大街(前进大街/チエンチン ターチエ)、衛光街(卫光街/ウェイクァンチエ)、衛星広場(卫星广场/ウェイシン クァンツァン)、伊通河(イートンホー)、臨河街(临河街/リンホーチエ)、仙台大街(シエンタイ ターチエ)、会展中心(ホエイツァン ツォンシン)、世紀広場(世纪广场/スーチー クァンツァン)、東北師大(东北师大/トンペイ スーター)、浄月公園(净月公园/チンユエ コンユエン)、長影世紀城(长影世纪城/ツァンイン スーチーツェン)など。
 
 ライトレール4号線は、主に高架で建設され、長春駅北口から永寧路(永宁路/ヨンインルウ)、偽皇宮(伪皇宫/ウェイホアンコン)から臨河街(临河街/リンホーチエ)を南下する。

 そのほか、1号線と2号線は地下鉄として建設されており、1号線が南北、2号線が東西を結ぶ。これが開業すれば満洲国・新京時代に計画された地下鉄計画の一部が実現することになる。

 現在建設中の1号線は、長春駅から人民大街を南下し、省政府(センツェンフゥー)、人民広場(人民广场/レンミンクァンツァン)、衛星広場(卫星广场/ウェイシン クァンツァン)、南部新城(ナンプウ シンツェン)、光谷(クァンクウ)、永春(ヨンツン)方面を結ぶ路線で、全長約38キロ、12駅が設置される予定。

 同じく建設中の3号線は西から警備路(警备路/チンペイルウ)、西旅客ターミナル(西客站/シーコーツァン)、解放橋(解放桥/チエファンチャオ)、文化広場(文化广场/ウェンホア クァンツァン)、南関(南关/ナンクワン)、吉林大路(チーリン タールウ)、長春経済技術開発区(长春经济技术开发区/ツァンツン チンチー チースウ カイファーチュィー)方面を結ぶ路線で、全長約29キロ、9駅が設置される予定。

 このほか、長春と吉林(チーリン)を結ぶ都市間鉄道である長吉高速鉄道(长吉城际铁路/ツァンチー ツェンチー ティエルウ)が2011年1月に開業した。同路線は長春~吉林の約111キロを、最高速度250キロ、29分で結ぶ。途中に吉林省九台(チョウタイ)市の長春竜嘉空港(长春龙嘉机场/ツァンツン ロンチア チーツァン)に竜嘉(龙嘉/ロンチア)駅が設置され、長春空港への交通の便がよくなった。

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中国 吉林・長春 満洲国の仮皇宮

长春・伪满皇宫
ツァンツン・ウェイマンホアンコン/Chángchūn・Wěi Mǎn Huánggōng (中国語/北京語)

中华人民共和国吉林省长春市宽城区
中華人民共和国吉林省長春市寛城区

中国 吉林・長春 満洲国の仮皇宮

 長春市寛城(宽城/クワンツェン)区の光復路(光复路/クァンフウルウ)にある「偽満皇宮博物館」(伪满皇宫博物馆/ウェイマン ホアンコン ポーウークワン)は、かつて満洲帝国の皇帝、愛新覚羅溥儀(愛新覺羅溥儀/アイシンギョロ・プウイー)が住んでいた仮皇宮のあったところであり、満洲国の歴史や、溥儀の波乱万丈な人生が展示されている。以前は「偽皇宮陳列館」と呼ばれていたが、2001年に「偽満皇宮博物館」と改称された。中華人民共和国は1932年~1945年に存在した満洲国を認めない立場なので、満洲国のことを「偽満」(ウェイマン)と呼んでいる。

 1932年(大同元年)に「執政府」となった「勤民楼」(チンミンロウ)は、1913年に旧運局として建てられた建物で、1934年(康徳元年)からは「宮内府」(帝宮)として、溥儀が公務を行った。「緝煕楼」(チーシーロウ)は溥儀の生活スペースとして使われた。このほか、仮皇宮として「同徳殿」(トントーティエン)が1938年(康徳5年)に建てられたが、実際には溥儀はここを使用しなかったのだという。

 本宮殿は、朝陽(朝阳/ツァオヤン)区のかつて順天広場と呼ばれた文化広場(文化广场/ウェンホア クァンツァン)の北側に建設していたが、未完成のまま1945年(康徳12年)に満洲帝国は崩壊した。その建物は後に長春地質学院(长春地质学院/ツァンツン ティーツー シュエユエン)として用いられ、1997年に長春科技大学(长春科技大学/ツァンツン コーチー ターシュエ)と改名した後、2000年に吉林大学(チーリン ターシュエ)に統合された。建物は赤い柱と緑色の屋根が印象的だ。

 「偽満皇宮」の中は溥儀の住んでいた部屋などが展示されている。このほか、私が十数年前にここを見学したときには、「A級戦犯東条英機」の特別展が開催中で、残虐な場面の写真を多用して反日的な展示が行われていた。

 溥儀は、清国時代の1906年に北京(ペイチン)生まれ、清国「最後の皇帝」(ラストエンペラー)として1908年にわずか3歳で皇帝(宣統帝)に即位したが、孫文らによって清朝が倒され、中華民国が建国されると、1912年に退位した。

 溥儀はその後も北京の紫禁城で暮らすことが許されたが、1924年に中国国内のクーデターで溥儀は紫禁城から追放された。溥儀はその後、日本に保護され、天津(ティエンチン)の日本租界などに住んだ。もともと中国が「東北」(トンペイ)と呼ぶ土地は満洲人の住む土地であったことから、溥儀は満洲皇帝が統治する清朝の復活を夢見て、日本と協力して「満洲国」の元首として担がれることになる。

 1932年(大同元年)に満洲国が建国されると溥儀は「執政」に就任し、1934年(大同3年)に溥儀は満洲国皇帝に即位し、元号が「康徳」となった。満洲国は表面上は日本人、満洲人、漢人、朝鮮人、モンゴル人の「五族協和」を掲げていたが、実際には日本の関東軍のコントロール下にあった。1945年8月にソビエト連邦軍が満洲に侵攻すると関東軍は敗走し、8月10日に首都・新京(シンチン)が放棄され、8月15日に大日本帝国が降伏すると、満洲国も8月18日に崩壊した。

 溥儀はソ連に捕らえられ、シベリアの強制収容所に抑留された。溥儀は1946年に第二次世界大戦で敗戦した日本を裁くための東京裁判の証人としてソ連当局に連れられて出廷した。溥儀は自分の命を守るためにも、日本の傀儡であったことを強調した。溥儀は1950年にソ連から建国されたばかりの中華人民共和国に引き渡され、その後、満洲の新たな統治者である中華人民共和国によって溥儀は撫順(抚顺/フウスン)の政治犯収容所に「戦犯」として収監された。それから1959年に劉少奇(刘少奇/リョウ サオチー)国家主席による特赦で釈放され、晩年は北京動物園の勤務を経て、1964年に中国人民政治協商会議全国委員に選出され、中国と満洲の和解が演出された。溥儀はそれからガンを患い、1967年に死去した。

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偽満皇宮博物館

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中国 吉林・長春 新京動物園と長春市動植物公園

长春・南关
ツァンツン・ナンクワン/Chángchūn・Nánguān (中国語/北京語)

中华人民共和国吉林省长春市南关区
中華人民共和国吉林省長春市南関区

中国 吉林・長春 新京動物園と長春市動植物公園

 人民大街(レンミン ターチエ)から自由大路(ツーヨウ タールウ)を東へ歩いた。自由大路は満洲国時代は至聖大路と呼ばれていた。満洲国時代に造られたこの道路は、広くゆったりとしていて、車道と歩道の間に小さな御花畑があって美しい通りである。

 しばらく歩いたところにある長春動植物公園(长春动植物公园/ツァンツン トンツーウー コンユエン)は、かつて満洲国時代に新京動物園があったところ。このあたりは満洲国都建設計画の第2期工事の南嶺開発で動植物公園と運動競技施設が建設されたところで、新京動物園は1940年(康徳7年)に開園した。新京動物園は満洲国崩壊時にソ連軍が侵入してきたことから閉園され、猛獣は殺処分されてしまったが、それから数十年後、長春動植物公園として1987年に再オープンした。

 長春動植物公園にはサル、ゾウ、トラなどの動物のほか、園内に日本庭園がある。この日本庭園は日本の仙台市と長春市の友好都市を記念して造られたもの。

 動植物園からさらに東へ行くと、伊通河(イートンホー)が流れており、自由大橋(自由大桥/ツーヨウ ターチャオ)が架かっている。伊通河の東側は長春経済技術開発区(长春经济技术开发区/ツァンツン チンチー チースウ カイファーチュィー)となっており、工場や研究所が集まっている。

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中国 吉林・長春 満洲国首都の官庁街と南湖公園

长春・朝阳
ツァンツン・ツァオヤン/Chángchūn・Cháoyáng (中国語/北京語)
長春・朝陽

中华人民共和国吉林省长春市朝阳区
中華人民共和国吉林省長春市朝陽区

中国 吉林・長春 満洲国首都の官庁街と南湖公園

 満洲国の皇居前広場となる予定で整備された旧・順天広場だった文化広場(文化广场/ウェンホア クァンツァン)から南に伸びる、新民大街(シンミン ターチエ)は、満洲国時代は順天大街(スンティエン ターチエ)と呼ばれ、満州国の首都機能が集まる官庁街だった。

 新民大街は幅60mで、木が生い茂る緑豊かな大通りとなっている。この周辺は医療を通じて中国共産党を支援したカナダ人医師ノーマン・ベチューン(Norman Bethune)から名前をとった白求恩(ベチューン)医科大学のキャンパスであったが、現在は吉林大学(チーリン ターシュエ)の医学部に編入されている。

 文化広場の向かいにある日本の国会議事堂に瓦屋根をのせたような興亜式デザインの重厚な建物は、旧・満洲国国務院の建物で、現在は吉林大学基礎医学院となっている。

 満洲国の首相にあたるのは1932年(大同元年)(から1934年(大同3年)までが「国務院総理」(國務總理/クオウーツォンリー)、愛新覚羅溥儀(アイシンギョロ・プーイー)が満洲帝国皇帝に即位してから1934年(康徳元年)から1945年(康徳12年)は「国務総理大臣」(國務總理大臣/クオウー ツォンリーターツェン)であり、満洲国初代首相(1932~1935)は福建省福州出身の鄭孝胥(ツェン・シャオシュィー)、第2代(1935~1945)は満洲遼寧省出身の張景恵(張景惠/ツァン・チンホエイ)が務めた。両者とも所属政党は満州国共和会だった。満洲国共和会は「五族協和」「王道楽土」を掲げる満洲国の政権党であり、名誉会長を溥儀が務め、会長を首相が務めていたが、実際は日本の関東軍の影響下にあった。

 満洲国の大臣は大臣レベルは漢人系が担っているものの、次官レベルでは日本人系が入り込んで影響力を行使していた。また、初代外交部総長(外相)の謝介石は台湾の新竹出身だった。謝介石は後に満洲国駐日大使となった。満洲国国務院は民政部、文教部、外交部、軍政部、司法部、財政部、実業部、交通部などの省庁が置かれた。関東軍司令官は日本人が務め、関東軍司令官が日本駐満大使を兼任する例が多かった。

 このほか、新民大街には治安部(現・吉林大学第一医院)、司法部(現・吉林大学医学部)、経済部(現・吉林大学第三医院)、交通部(現・吉林大学予防医学院)、合同法衙(現・空軍長春461医院)などの庁舎が建てられた。

 ところで、満洲国国務院の建物デザインは日本の国会議事堂に似ているが、その機能は国会(立法)ではなく、行政最高機関の首相官邸に相当する。では、満洲国の国会議事堂はどこなのかというと、それが結局最後まで設置されなかったのである。満洲国は一院制の国会「立法院」(リーファーユエン)を組織する予定であったが、日本が戦争に突入したこともあり、満洲国崩壊まで一回も立法委員(国会議員)選挙は行われず、そのため「満洲国憲法」も結局制定されず、中途半端な憲政体制であった。

 旧・順天公園は、現在は朝陽公園(朝阳公园/ツァオヤン コンユエン)となっており、ここに長春テレビ塔(吉林省广播电视塔/チーリンセン クァンポー ティエンスーター)が立っている。ここに上れば、現在の長春(长春/ツァンツン)、かつての満洲国首都・新京(シンチン)の都市建設が一望できる。

 新民大街の南側に広がる大きな公園は南湖公園(南湖公园/ナンフウ コンユエン)。南湖は新京の水源として造られた人造湖であり、湖が公園と一体化していて非常に美しい。公園を東西に貫く道路は南湖大路(ナンフウ タールウ)で、満洲国時代は盛京大路(センチン タールウ)と呼ばれた。緑豊かな街路樹が印象的で、公園都市を目指した満洲国の首都・新京の都市計画がこのあたりにまだ息づいている。

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旧満洲国国務院(現・吉林大学基礎医学院)

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旧満洲国治安部(現・吉林大学第一医院)

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長春テレビ塔から見た旧満洲国の官庁街と皇居

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旧満洲国交通部(現・吉林大学予防医学院)

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旧満洲国民生部(現・吉林省石油化工設計研究院)

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旧満洲国合同法衙(現・空軍長春461医院)

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南湖公園

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中国 吉林・長春 満洲国の幻の皇居

长春・朝阳
ツァンツン・ツァオヤン/Chángchūn・Cháoyáng (中国語/北京語)
長春・朝陽

中华人民共和国吉林省长春市朝阳区
中華人民共和国吉林省長春市朝陽区

中国 吉林・長春 満洲国の幻の皇居

 満洲国の首都として建設された「新京」(シンチン)の都市計画の名残りを確認するため、旧大同広場である人民広場(人民广场/レンミン クァンツァン)から長春(长春/ツァンツン)の市街地を歩いた。

 満洲国時代に建設された大同大街(現・人民大街)には、道の途中に「孝子塚」があったが、地元の漢人の信仰を集めているということでそのまま残されていたというが、現在はなくなっているようだ。

 1998年頃に長春を訪れた際、満洲国時代に日本人街だった旧・東順治路(現・東中華路/东中华路/トンツォンホアルウ)へ行ってみたところ、ちょうど住宅が取り壊されているところだった。もうこのあたりから満州国時代に建てられた住宅は消えているのかもしれない。

 ここから西へ歩いたつき当たりが東民主大街(东民主大街/トン ミンツウ ターチエ)で、この通りは満州国時代は東万寿大街と呼ばれ、ここから西側が満洲国の皇居となる予定だった。

 この南側を東西に走る道路は興仁大路と呼ばれていたが、現在は解放大路(チエファン タールウ)となっている。解放大路の北側に広がる文化広場(文化广场/ウェンホア クァンツァン)は、満洲国時代は順天広場と呼ばれる皇居前広場だった。

 しかしながら皇居の政殿は満洲国時代は工事中で、未完成のまま満州国が崩壊した。満洲国皇居の建物は、中国によって完成され、後に長春地質学院(长春地质学院/ツァンツン ティーツー シュエユエン)として用いられ、1997年に長春科技大学(长春科技大学/ツァンツン コーチー ターシュエ)と改名した後、2000年に吉林大学(チーリン ターシュエ)に統合された。建物は赤い柱と緑色の屋根が印象的だ。

 文化広場はきれに公園のように整備され、私が行ったときには古本市が開かれていて、中国語の世界地図や、「ドラゴンボール」(七龙珠/チーロンツウ)や「ドラえもん」(小叮当/シャオティンタン)などの日本の漫画の中国語版も売られていた。

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満州国の皇居となる予定だった吉林大学の建物(旧長春地質学院)

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