ロシア領サハリン(樺太)・ホルムスク(真岡) 間宮海峡に面する樺太西部の港町

Холмск
真岡
ホルムスク (ロシア語)
まおか (日本語)
マオカ (アイヌ語)

ロシア連邦極東連邦管区サハリン州
Российская Федерация
Дальневосточный федеральный округ
Сахалинская область

ロシア領サハリン(樺太)・ホルムスク(真岡) 間宮海峡に面する樺太西部の港町

 ホルムスク(Холмск)は、サハリン(Сахалин)島の南西部にある日本の樺太(からふと)庁時代は「真岡」(まおか)と呼ばれた町で、現在の人口は約3万人。

 サハリン州の中では州都のユジノサハリンスク(Южно-Сахалинск/豊原)に次ぐ第2の都市で、1990年代前半には人口が5万人を超えていたが、その後の経済の混乱などで人口が減少した。

 ホルムスクは、もともとアイヌ語で「静かな場所」や「河口が入江の海岸」などの意味の「マオカ」と呼ばれていて、1870年以降、ロシア帝国時代はロシア語でも「マウカ」(Маука)と呼ばれていた。

 日露戦争後、1905年(明治38年)より南樺太が日本領になると、「マウカ」に「真岡」という漢字が当てられ、1908年(明治41年)に読み方も「まうか」から「まおか」に変更された。日本時代の真岡は、樺太庁の真岡支庁が置かれ、樺太の西部の本斗(ほんと/現ネヴェリスク)~真岡~泊居(とまりおる/現トマリ)~久春内(くしゅんない/現イリインスク)を結ぶ樺太西線と、真岡~豊原を結ぶ豊真線がつながる交通の要衝として発展した。日本敗戦の混乱にまぎれて1945年(昭和20年)8月、ソビエト連邦軍(ソ連軍)が南樺太に侵攻した。真岡には、すでに日本が終戦後の8月20日、ソ連軍が艦砲射撃で真岡に侵攻し、真岡郵便局の日本人女性電話交換手が青酸カリを飲んで集団自決した「真岡郵便局事件」も発生した。この郵便局の9名の犠牲者は、北海道・稚内(わっかない)に「殉職九人の乙女の碑」が建てられ慰霊されている。

 ソ連占領後は真岡は「岡の町」を意味するホルムスク(Холмск)に改められた。日本時代は漁業と製紙工業の町として発展したが、それはソ連時代にも引き継がれ、王子製紙真岡工場は、ホルムスク・パルプ製紙工場(Холмский целлюлозно-бумажный завод)として1990年代前半まで稼働していた。

 1990年代以降は、経済の混乱で町がさびれて人口も減少したが、ソ連時代よりホルムスク港は間宮海峡を渡るワニノ・ホルムスク鉄道連絡船が発着し、ロシア・シベリアのバム鉄道(第2シベリア鉄道)のワニノ(Ванино)からの貨物列車が乗り入れ、サハリンの物流を支えている。樺太の鉄道は、日本の国鉄と同じ狭軌(1067mm)で建設されたため、シベリアの鉄道とは線路幅が異なるので、ホルムスク港で車両を交換する。この手間を省き、将来のシベリアとサハリンをつなぐ橋またはトンネルの建設を見据えて、狭軌(1067mm)からロシア標準の広軌(1520mm)への改軌プロジェクトが進められて、枕木の交換などの準備工事が進められている。

 日本時代の真岡駅は現在、ホルムスク南(ホルムスク・ユージヌイ/Холмск-Южный)駅となっている。日本時代の駅舎は1990年代に解体され、今はローカル駅となっている。ネヴェリスク(Невельск/本斗)方面の列車は1997年に旅客列車が休止され、ホルムスク南駅から旧樺太西線の旅客列車は、チェーホフ(Чехов/野田)、トマリ(Томари/泊居)方面に1日数本が運行されている。

 ホルムスク(真岡)からユジノサハリンスク(豊原)を結んでいた旧豊真線は、峠越えで宝台(たからだい)ループ線があり、日本の鉄道ファンからも人気があったが、1990年代にトンネル崩落など路線老朽化のため運休となり、事実上廃止されている。旧豊真線はかつて手井(てい)駅と呼ばれたホルムスク操車場(ホルムスク・ソルチローヴォチヌイ/Холмск-Сортировочный)駅から分岐し、旧・池ノ端(いけのはた)駅だったニコライチュク(Николайчук)駅までは夏季のみ旅客列車の運行が続けられている。ユジノサハリンスクへはバスのほうが速く、しかも頻繁に運行されているので、旅客はバスに移っている。

 ホルムスク(真岡)の中心市街地は、ホルムスク南(真岡)駅からホルムスク北(ホルムスク・セヴェルヌイ/Холмск-Северный/北真岡)駅にかけて細長く伸びている。日本時代の建物はほとんど残っておらず、ロシアらしい建物が並び、日本から非常に近いのに、ものすごく異国情緒を感じる。

 ホルムスク南駅から約500mほど北にあるホルムスク・バスターミナルは、ユジノサハリンスクを結ぶバスが頻繁に運行されており、約1時間30分でユジノサハリンスクへ行けるので便利だ。また、サハリン西部の各都市を結ぶバスも発着しており、ユジノサハリンスクからサハリン西部を旅する場合は、先にホルムスクまで出て、このバスターミナルで乗り換えると便利だ。バスターミナルから約300mほど北へ行ったところにある郵便局は、建物は新しくなったが「真岡郵便局事件」が発生した場所が今も郵便局として使われている。バスターミナルとホルムスク南駅の間には、真岡(Маука)=ホルムスク(Холмск)の先住民アイヌの歴史から町の成り立ちを伝える記念碑がある。

 ホルムスクは東側に丘が広がり、鉄道の東側に広がる市街地を結ぶ歩道橋があり、そこからホルムスクの市街地を眺めることができる。街路が鉄道と海岸の地形に沿って曲がっており、市街地の風景が美しい。日本時代にはどのような建物が建っていたのだろうか。すでに75年近く経過し、その姿を想像することは難しい。

 ホルムスクからユジノサハリンスクを結ぶバスは、熊笹峠を越えて行く。S字カーブが続く難所であるが、すばらしい風景が広がり、サハリン(樺太)の豊かな自然を感じることができる。

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ホルムスク(真岡)のバスターミナル

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ホルムスク港のモニュメントと市場

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ホルムスク(真岡)市内を通る鉄道(樺太西線)

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ホルムスク(真岡)市内を通る鉄道(樺太西線)

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ホルムスクの風景

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ホルムスクの風景

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ホルムスクの風景

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ホルムスクの風景

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ホルムスクの街並み

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ホルムスク港の風景

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真岡郵便局があった場所(現・ホルムスク郵便局と銀行)

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真岡=ホルムスクの歴史を伝える記念碑

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ホルムスクの街並み

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ホルムスク南駅前の住宅

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ホルムスク南(真岡)駅

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ホルムスク南(真岡)駅

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ホルムスク南(真岡)駅

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ホルムスク南(真岡)駅

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ホルムスク(真岡)~ユジノサハリンスク(豊原)の難所、熊笹峠の連続S字カーブ

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ロシア領サハリン(樺太)・コルサコフ(大泊) 稚泊航路とアニワ湾の港町

Корсаков
大泊
コルサコフ (ロシア語)
おおどまり (日本語)
ポロアントマリ (アイヌ語)

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ロシア領サハリン(樺太)・コルサコフ(大泊) 稚泊航路とアニワ湾の港町

 コルサコフ(Корсаков)は、サハリン(Сахалин)島の南部にある日本の樺太(からふと)庁時代は「大泊」(おおどまり)と呼ばれた町で、現在の人口は約3万人。サハリン州の中ではユジノサハリンスク(Южно-Сахалинск/豊原)、ホルムスク(Холмск/真岡)に次ぐ第3の都市である。

 コルサコフには、江戸時代から日本人が進出し、17世紀後半には松前藩の出先機関が設けられ、漁業基地となっていた。当時は、「クシュンコタン」(久春古丹)と呼ばれた。クシュンコタンは、アイヌ語で「対岸にある村」を意味する。

 19世紀に入ると、樺太南部にもロシア人が進出し、争いが起こるようになる。江戸時代の1855年(安政2年)に日露和親条約が結ばれたが、樺太の領有権や国境が確定できず、引き続き日露雑居の地とされた。しかし、領土主権が不明瞭の中、日本人、ロシア人、そしてアイヌ人などの先住民族との摩擦が強まった。明治時代に入ると、1870年(明治3年)に樺太開拓使が久春古丹に置かれ、日本による樺太の開拓を本格化させようとしたが、樺太を放棄して北海道の開拓に全力を注ぐべきとの意見が日本政府内にあり、日本はロシアとの国境確定交渉を進め、1875年(明治8年)に「樺太・千島交換条約」により、樺太(サハリン)はロシア領、千島(クリル)列島は日本領とすることが決まった。

 「コルサコフ」(Корсаков)の地名は、ロシア帝国の東シベリア総督だったミハイル・セミョノヴィチ・コルサコフ(Михаил Семёнович Корсаков)総督から命名されたもので、ロシアは1853年にムラヴィヨフ砦を開いたが、翌年に一旦閉鎖され、1869年に再び砦を開いた際に当時のコルサコフ総督を記念してこの町が「コルサコフ」と呼ばれるようになった。

 日露戦争を経て、1905年(明治38年)にポーツマス条約により、北緯50度以南の南樺太が日本に割譲されることになると、コルサコフは日本風の「大泊」(おおどまり)に改名された。久春古丹の南側は、アイヌ語で「ポロアントマリ」(大きな港)と呼ばれていたことから、これを日本語に意訳して「大泊」と命名したのだった。

 日本統治時代の大泊は、初代の大泊駅が町の北西にあたる楠渓町(なんけいちょう)に開設された。鉄道からオクルジュナヤ通り(Окружная ул.)が東に伸びるところが楠渓町に相当する。1908年(明治41年)には大泊~栄町が延伸され、1913年(大正2年)に栄町駅が新たに大泊駅となり、旧・大泊駅が楠渓町駅に改称された。栄町は、神楽岡の南に開発された市街地で、ここから北東に本町大通(現・ソヴィエツカヤ通り)が伸び、今のコルサコフの中心市街地である。

 1923年(大正12年)に北海道の稚内(わっかない)と樺太の大泊を結ぶ稚泊(ちはく)連絡船が運航されるようになると、1928年(昭和3年)に大泊~大泊港が延伸され、桟橋から稚泊連絡船に乗ることができるようになり、北海道との連絡が便利になった。1929年(昭和4年)に大泊駅が栄町~楠渓町の現・コルサコフ駅の場所に移転した。

 1945年(昭和20年)以降、ソビエト連邦(ソ連)時代になると大泊は「コルサコフ」(Корсаков)に再改名され、稚泊連絡船は廃止され、北海道との往来が途絶えた。また、樺太在住日本人は樺太からソ連に追い出される形で北海道などに引揚げた。ソ連崩壊により、再び夏季に稚内~コルサコフのフェリーが運航されるようになり、北海道・稚内とのつながりが復活した。

 現在、ユジノサハリンスク~コルサコフの鉄道は、日本時代からの樺太東線の路線がそのまま使われているが、あまり重視されておらず、運行便数は極めて少ない。とはいえ、日本の狭軌(1067mm)からロシアの広軌(1520mm)への改軌プロジェクトが進められており、廃止されることはなさそうだ。

 コルサコフ駅は、市街地からやや離れており、その先に旧・栄町駅のあたりにプリスターニ(Пристань)駅、栄町の南側のロータリー付近にピャーチウグロフ(Пять Углов)駅があり、その先はさらにコルサコフ港まで線路は伸びているが、ピャーチウグロフ駅が旅客列車の終点となっている。小さなホームが1本あるだけの寂しい終着駅で、日本人旅行者はとまどうかもしれない。

 ピャーチウグロフ駅前には市場(ルィノク/рынок)があり、野菜や魚介類、朝鮮食材なども売っている。市場のすぐそばにはバス停もあり、ここからコルサコフ市街経由でユジノサハリンスク方面を結ぶバスが頻繁に運行されており、鉄道の便数が少なくても不便はない。東側の丘にはかつて王子製紙の工場があった。

 旧・栄町には旧・北海道拓殖銀行大泊支店の建物が残る。戦後70年以上が経ち、建物の老朽化が進んでいるが、歴史的建造物として保存のための改装工事が行われている。この近くに稚内との友好を記念したワッカナイ(Вакканай)広場があり、ここからコルサコフ中央広場まで伸びるソヴィエツカヤ(Советская)通りがコルサコフの中心部にあたり、商店が並び、露天市場も出ていて楽しい。かつて神楽岡と呼ばれた丘にはかつて亜庭神社があり、今も石段などが残っている。

 コルサコフ中央広場は「レーニン広場」とも呼ばれ、ソ連時代からのレーニン像が建っている。コルサコフ市役所庁舎もあり、コルサコフの行政の中心となっている。この先は、旧・楠渓町方面にオクルジュナヤ通りが伸びていて、このあたりからもユジノサハリンスク方面へのバスに乗ることができる。

 コルサコフ~ユジノサハリンスクは、バスのほうが速いが、景色は鉄道のほうがよい。コルサコフの北はアニワ(亜庭/Анива)湾沿いを走り、海沿いの風景は美しい。旧・大泊町の北は日本時代に旧・大泊郡千歳村で、ピェールヴァヤ・パーチ(Первая Падь)駅、フトラーヤ・パーチ(Вторая Падь)駅、トゥリェーチヤ・パーチ(Третья Падь)駅は意味がそのまま一ノ沢駅、二ノ沢駅、三ノ沢駅。日本時代は「一ノ沢駅」と「三ノ沢駅」があり、「二ノ沢駅」はなかった。その先、ソロヴィヨフカ(Соловьёвка)駅はかつての貝塚駅、ダーチノイェ(Дачное)駅は新場駅、マツリョーフカ(Мацулёвка)が中里駅で、その先のフリストフォーロフカ(Христофоровка)が豊南駅から豊原市となっていた。

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コルサコフ駅(旧・大泊駅)

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コルサコフ駅(旧・大泊駅)

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終点のピャーチウグロフ駅

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ピャーチウグロフ駅と日本製ディーゼルカー

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コルサコフ港(旧・大泊港)へと線路は続く

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ピャーチウグロフ駅前の市場(ルィノク)

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改装中の旧・北海道拓殖銀行大泊支店だった建物(2017年)

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稚内広場

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コルサコフの街並み

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亜庭神社跡と石段

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コルサコフ・ソヴィエツカヤ通りの街並み

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コルサコフ・ソヴィエツカヤ通りの街並み

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コルサコフ・ソヴィエツカヤ通りの街並み

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コルサコフ中央広場(レーニン広場)

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コルサコフの街並み

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旧・楠渓町と市中心部を結ぶコルサコフ・オクルジュナヤ通り

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コルサコフ・オクルジュナヤ通りの商業施設

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旧樺太東線の列車から見たアニワ湾の眺め

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旧樺太東線の列車から見たアニワ湾の眺め

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樺太の原野を走る旧樺太東線


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ロシア領サハリン(樺太)・ユジノサハリンスク(豊原) サハリン州郷土博物館と旧豊原公園と旭ヶ丘

Южно-Сахалинск
豊原
ユジノサハリンスク (ロシア語)
とよはら (日本語)

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ロシア領サハリン(樺太)・ユジノサハリンスク(豊原) サハリン州郷土博物館と旧豊原公園と旭ヶ丘

 1945年(昭和20年)まで「豊原」(とよはら)と呼ばれ、樺太庁の所在地だったユジノサハリンスク(Южно-Сахалинск)は、ソビエト連邦(ソ連)に接収されて以降、サハリン(Сахалин)州の州都となった。

 かつて「神社大通り」と呼ばれたメインストリートは、ソ連時代にコミュニスト(共産主義者)通り(Коммунистический пр.)に改名され、ソ連崩壊後のロシア連邦時代になっても、コミュニスト大通りの街路名が維持されている。

 コミュニスト大通りは、ユジノサハリンスク駅(旧・豊原駅)から東にまっすぐ、かつて樺太神社があった栄光広場(Прощадь Слава/プローシシャチ スラーヴァ)まで伸びている。

 ユジノサハリンスク駅からコミュニスト通りを東へ約1キロ、ミール(平和)大通り(пр. Мира)との交差点の手前に大きな広場がある。この北側にある白い大きな建物がサハリン州庁舎があり、夜はライトアップされて美しい。

 南側には「チェーホフ劇場」(Драматический театр им. А. П. Чехова)と「チェーホフ記念文学館」(Литературно‐художественный музей книги А.П. Чехова "Остров Сахалин")がある。ロシア文学の小説家、アントン・チェーホフ(Антон Чехов)は、1890年にサハリンの流刑地を訪ね、『サハリン島(Остров Сахалин)』を記したことから、サハリンの歴史文学として非常に重視されている。

 ミール(ミーラ)大通りの東、コミュニスト通りの周辺には、ハバロフスク通り側に、丸太造りが美しいベルカホテル(Гостиница Белка)がある。また、サハリン・ユジノサハリンスクには朝鮮系住民も多く、コミュニスト大通りの南側に朝鮮・韓国料理の「Пак Дэгам」(パク デガム/박대감)というレストランもある。

 コミュニスト通りを先に進んでいくと、「サハリン州郷土博物館」(Сахалинский государственный областной краеведческий музей)がある。ここは、日本時代の1937年(昭和12年)に「樺太庁博物館」として開館し、その建物が今も使われている。樺太の日本時代を伝える代表的な帝冠様式の歴史建築物の一つで、現在もユジノサハリンスクのシンボル的な建物として大切に保存され、観光スポットとなっており、日本とロシアをつなぐ友好の象徴でもある。

 「サハリン州郷土博物館」には、樺太・サハリンの動物や自然、アイヌ、ウィルタ(オロッコ)、ニブフといった樺太先住民の生活用具や民族衣装、流刑地時代のサハリン、日本統治時代の南樺太、ソ連時代から現代のサハリン州の歴史などを豊富な資料とともに展示している。樺太先住民族の民族衣装は、美しい刺繍などは台湾先住民族と似ているが、北方民族ならではの毛皮を使った防寒対策の知恵が感じられる。日本時代の展示については、北緯50度線の国境の碑や、外の庭園には千島列島最北端の占守(しゅむしゅ)島を守っていた日本軍の戦車や、明治時代の大砲なども展示されている。ロシアの立場上、日本時代を肯定するわけにもいかないのか、「頌徳碑」は倒されたまま放置する形で展示しているが、樺太の製紙産業を発展させた中川小十郎(なかがわ こじゅうろう)氏の功績を記念する「中川並木の碑」はきちんと展示されている。

 サハリン州郷土博物館からさらに東へ行くと美しいロシア正教の教会である「復活大聖堂」(ヴォスクリェシェンスキー カフェドラリニ サボール/Воскресенский Кафедральный Собор)がある。共産主義のソ連が崩壊したことにより、ロシア正教の信仰の自由が認められ、まさに復活したといえるが、ソ連時代より前は日本時代なので、ソ連崩壊により1990年代に新しく建てられた教会である。

 さらに先には、「北海道センター(Хоккайдо Центр)」というビルがあり、ここには「在ユジノサハリンスク日本国総領事館」や北海道ユジノサハリンスク事務所、日系企業及び外国企業のオフィスなどが入っている。隣接して日本料理レストラン「Хоккайдо(北海道)」がある。

 コミュニスト大通り(旧・神社大通り)の終点は、樺太神社の跡地に整備された「栄光広場」(Площадь Славы)で、ここはソ連が第2次世界大戦でサハリンを日本から取り戻したことを象徴する広場で、樺太神社の遺構は公園の奥のほうに一部残されているが、広場には神社だった面影はない。

 栄光広場の北側に広がるガガーリン記念文化公園(Парк культуры и отдыха им. Ю. Гагарина)は、1961年に世界初の友人宇宙飛行を実現したユーリイ・ガガーリン(Юрий Гагарин)を記念した名称の公園であるが、ガガーリンとは直接的な関係はなく、日本時代は「豊原公園」と呼ばれた。公園にある大きなヴェルフニェー(Верхнее)池はかつて「王子ヶ池」と呼ばれていた。この公園には、かなり本格的な750mm軌間の「子供鉄道」が園内を一周している。公園の近くには「メガパラスホテル」(Мега Палас)や、「ガガーリンホテル」(Гагарин)などユジノサハリンスクの代表的なホテルがある。ガガーリン公園の東に広がる山は、かつて「旭ヶ丘」(あさひがおか)と呼ばれ、今は「山の空気」という意味のゴールヌイ・ボースドフ(Горный воздух)と呼ばれ、昔も今もスキー場として親しまれている。

 ユジノサハリンスクのショッピング施設は、ミール大通り周辺に集まっている。サハリン州庁舎からミール大通りを南へ向かう。チェーホフ記念文学館の南にあるオレンジ色が目立つ商業施設「ドーム トルゴヴリ」(Дом Торговли)は、服飾や雑貨のほか、ロシア・サハリン土産店もある。

 ミール大通りをしばらく南に歩いていくと、室内商店街のような細長い平屋の商業施設「ヤンタリ」(Янтарь)があり、ここが北海道からわずかに北の日本と近いところなのに、ロシア語のキリル文字とロシア人に囲まれるとものすごい異国感を感じる。エメリヤノヴァ通りとの角にショッピングモール「パノラマ」(Панорама)があり、服飾や電子関連の店舗が並ぶ。さらに団地が並ぶミール大通りを歩いて行くと、プルカエヴァ通りとの角に「プラザ」(Плаза)という商業施設がある。さらに南のエセニナ通りとの角には「メガポリス」(Мегаполис)という商業施設がある。

 このほか、ミール大通りの東のコムソモリスカヤ通り沿いには、プルカエヴァ通りとの角に「スタリツァ」(Столица)という商業施設とオフィスビルがあり、ここに日本料理「とよ原(Тоёхара)」が入っている。エセニナ通りとの角には、スーパーマーケット「フレッシュ25」(Фреш25)や商業施設「グラント」(Гранд)などがある。

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サハリン州政府庁舎

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夜のサハリン州政府庁舎

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チェーホフ劇場

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丸太造りが美しいベルカホテル

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サハリン州郷土博物館(旧・樺太庁博物館)

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サハリン州郷土博物館(旧・樺太庁博物館)

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サハリン州郷土博物館にある旧日本軍の戦車

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サハリン州郷土博物館にある明治時代の大砲

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サハリン州郷土博物館の「中川並木の碑」

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サハリン州郷土博物館で倒された状態のままの「頌徳碑」

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ユジノサハリンスクのロシア正教会「復活大聖堂」

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在ユジノサハリンスク日本国総領事館が入る「北海道センター」ビル

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レストラン「北海道」(右)と「北海道センター」ビル

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栄光広場(旧・樺太神社跡)

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ガガーリン公園(旧・豊原公園)のガガーリンの碑

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ガガーリン公園(旧・豊原公園)

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ガガーリン公園(旧・豊原公園)のヴェルフニェー池(旧・王子ヶ池)

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ガガーリン公園(旧・豊原公園)のヴェルフニェー池(旧・王子ヶ池)

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ガガーリン公園(旧・豊原公園)の子供鉄道

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ガガーリン公園のそばにあるメガパラスホテル

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商業施設「ドーム トルゴヴリ」

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ミール(ミーラ)通りから見た旧旭ヶ丘とスキー場

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商店街のようになっている「ヤンタリ」

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商業施設「パノラマ」

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ユジノサハリンスク・ミール(ミーラ)大通り

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商業施設「プラザ」

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ユジノサハリンスク・プルカエヴァ通り

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商業施設「スタリツァ」

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ユジノサハリンスク・コムソモリスカヤ通り

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スーパーマーケット「フレッシュ25」

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商業施設「グラント」

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ユジノサハリンスク・エセニナ通り

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エセニナ通りの日本雑貨店

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商業施設「メガポリス」

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ロシア領サハリン(樺太)・ユジノサハリンスク(豊原) ユジノサハリンスク駅とレーニン広場とデパート「サハリン」

Южно-Сахалинск
豊原
ユジノサハリンスク (ロシア語)
とよはら (日本語)

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ロシア領サハリン(樺太)・ユジノサハリンスク(豊原) ユジノサハリンスク駅とレーニン広場とデパート「サハリン」

 ユジノサハリンスク(Южно-Сахалинск)は、ロシア・サハリン(Сахалин)州最大の都市で人口約19万人の都市。日本統治時代は「豊原」(とよはら)と呼ばれ、樺太庁が置かれていた。

 サハリンの鉄道は、その多くが日本時代に樺太庁鉄道として建設されたもので、現在のユジノサハリンスク駅は、日本時代の豊原駅であり、ソ連時代になってからはソ連南サハリン鉄道局、後にソ連極東鉄道局サハリン支局が運行し、ソ連崩壊後はロシア・サハリン鉄道局、2003年からはロシア鉄道サハリン支社、2010年からはロシア鉄道極東支社サハリン地域部により運行されている。

 ユジノサハリンスクの前身は、1882年に開かれたウラジミロフカ(Владимировка)村で、当時南サハリン(コルサコフ)管区長官だったウラジーミル・ヤンツェビッチ(Владимир Янцевич)の名が地名の由来である。囚人を監獄に収容しきれず、物流などの必要性から都市の開拓が進められたのだった。徐々にロシア人の住民が増えていったが、(明治38年)の日露戦争で日本がロシアに勝利すると、ポーツマス条約で樺太の南半分(北緯50度以南の南樺太)が日本領となった。

 その後、ススヤ(鈴谷)川が流れるウラジミロフカは、穏やかなススヤ(鈴谷)平野が広がっていることから、「豊原」(とよはら)へと改称され、北海道の札幌(さっぽろ)をモデルにした碁盤目状の街路が広がる都市計画に基づき、都市が建設された。その間、ロシアは共産革命により、1922年(大正11年)にソビエト連邦(ソ連)となった。

 1945年(昭和20年)、大東亜戦争で日本が敗戦になる直前にソ連の軍が南樺太に侵攻し、豊原をはじめ日本領だった南樺太がソ連に占領された。ソ連は南樺太を自国領に編入し、日本人を追い出した。「豊原」(とよはら/Тоёхара)は、ロシア語の「ユジノサハリンスク」(Южно-Сахалинск)に改称された。ユジノ・サハリンスクは「南サハリン」(南樺太)という意味。

 ユジノサハリンスク駅は、日露戦争後の1906年(明治39年)にコルサコフ(大泊)から日本軍の軍用軽便鉄道が敷かれた際にウラジミロフカ駅として開業。翌年、樺太庁発足により、樺太庁鉄道に移管され、さらに翌年の1908年(明治41年)に豊原駅に改称された。1910年(明治43年)には日本の国鉄と同じ1067mmに改軌された。後に豊原駅は大泊~豊原~落合(おちあい/ドリンスク)~敷香(しすか/ポロナイスク)方面を結ぶ樺太東線と、豊原~真岡(まおか/ホルムスク)を結ぶ豊真線が発着する樺太を代表するターミナル駅となった。

 1945年(昭和20年)にソ連軍が南樺太に侵攻し、樺太の鉄道はソ連に接収され、翌1946年(昭和21年)に豊原駅がユジノサハリンスク駅に改称された。ソ連時代のサハリン(樺太)の鉄道は、広軌のシベリア鉄道とは異なり、旧・南樺太の路線は日本時代の国鉄の規格のまま運行を続けた。日本を代表する蒸気機関車D51形(デゴイチ)がソ連時代も大活躍し、日本時代の樺太庁鉄道の流線形気動車キハ2100形もソ連国鉄Д(D)21系として運行されていた。ソ連時代においても狭軌のサハリンの鉄道には、日本製の富士重工のステンレス気動車Д2系が1985年に導入された。

 ソ連崩壊後、サハリンの対外開放および日露関係の改善が進むと、日本のJR東日本よりキハ58系がサハリンの鉄道に譲渡され、再び国鉄車両が樺太の地を走ることとなった。キハ58系車両はすでに引退し、ユジノサハリンスク駅近くの「鉄道博物館」(Железнодорожный музей/ジェリェズノドロジュニ ムジェイ)で保存されている。

 現在のユジノサハリンスク駅は、日本時代の駅舎はすでに建て直され、ガラスを多用した新しい現代的な駅舎となっているが、運行本数が少ないので、駅の中は閑散としており、地方空港のような雰囲気である。駅には2つの時計があり、一つは現地の時間、もう一つは首都のモスクワ時間であり、その時差は8時間もあり、ロシアの国土の広さには驚くが、ユジノサハリンスクにはモスクワからの直通列車はないので、鉄道の時刻表はサハリン現地時間で表示されている。

 現在の運行のメインは、ユジノサハリンスクから日本時代に建設された樺太東線のドリンスク(Долинск/落合)、アルセンチエフカ(Арсентьевка/真縫)、ポロナイスク(Поронайск/敷香)、ポベージノ(Победино/古屯)、スミルヌィフ(Смирных/気屯)を経由して、戦後にソ連が建設した北樺太のノグリキ(Ноглики)まで結ぶ列車が運行されている。また、ユジノサハリンスクからアルセンチエフカ(真縫)を経由して樺太西線のイリインスク(Ильинск/久春内)、トマリ(Томари/泊居)方面を結ぶ列車も運行されている。

 ユジノサハリンスク~コルサコフ(Корсаков/大泊)については、並行して路線バスが頻繁に運行されており、鉄道の需要は少ないが、2017年の時点で平日に1往復、休日に3往復のみ運行されている。コルサコフは、より港に近いピャーチ・ウグロフ(Пять Углов)駅が終点となっている。ソ連時代から活躍するД2系気動車は、見た目は日本とは異なる感じがするが、日本製であることから、車内は国鉄のような雰囲気がする。狭軌のサハリンの鉄道は、日本時代に建設された樺太の鉄道の面影を感じることができる。ユジノサハリンスク駅の発車ホームは、なぜか駅舎から行くことができず、一旦駅舎から出て地下通路を経由してホームに上る形となるので注意が必要だ。

 ユジノサハリンスク~ホルムスク(真岡)へは、日本時代からの豊真線があり、南樺太の東西連絡の交通を担っていたが、道路の整備でバスのほうが速くなり、さらに1990年代にトンネル落盤事故があり、その後にその区間が運転休止となり、ユジノサハリンスクからはノヴォデレヴェンスカヤ(Новодеревенская/奥鈴谷)駅止まりとなって、現在に至っている。

 旅客列車の本数は少なくなったが、それでも雪に強く、長距離の貨物輸送に便利な鉄道をロシアは重視しており、サハリンの鉄道は、2003年よりロシアのシベリア鉄道等と同じ規格である広軌(1520mm)への改軌プロジェクトが進められている。このプロジェクトは、狭軌(1067mm)と広軌(1520mm)両方に対応する線路3本を敷ける枕木に順次交換していくことにより改軌への準備が行われている。2020年頃に切り替えが行われる予定だ。これが完成するとロシア内地からの貨物列車がそのままサハリンの鉄道に乗り入れられるので、積み替え等の手間が解消され、車両もロシアの規格に統一できるメリットもある。しかし、ほとんど旅客列車が走っていないサハリンの鉄道にそこまで投資するメリットがあるのだろうか。

 これは、将来の北樺太のオハ(Оха)からシベリア側にトンネルか橋を建設して鉄道が直通できるようにし、さらにサハリンから北海道に「宗谷トンネル」を建設して日本とつなぐ壮大な構想を見越しての投資なのかもしれない。もし、それが完成すればヨーロッパまで船で輸送していたものを鉄道に切り替えることだって可能だからだ。広軌になってしまうと、日本時代からの鉄道の雰囲気が消えてしまうのと、日本の車両が走れないのが残念なところではあるが、せっかく3線対応の枕木を設置しているのだから、宗谷トンネルを作ることを見越して狭軌の線路も残せるようにできないものだろうか。いずれにせよ、宗谷トンネルを建設する場合は、日露間には、狭軌と広軌の積み替え施設が必要となる。日本側は消極的だが、ユーラシア大陸と日本が鉄道で結ばれることは物流革命を起こし、経済的にもインパクトがあり、トンネル建設距離も青函トンネルと同じくらいの難易度なので、日韓トンネルよりも実現性が高いように思える。

 ユジノサハリンスク駅の東側の駅前広場には、コルサコフ、ホルムスク、ドリンスク、アニワ(Анива/留多加)、ネヴェリスク(Невельск/本斗)方面などを結ぶバスが発着している。

 ユジノサハリンスクの都市の基礎は、日本時代に「豊原」として札幌をモデルにした碁盤目状の街路の街が形成された。駅前のレーニン広場(Площадь Ленина/プロシシャーヂ リェーニナ)には、レーニン像が今も建ち、ソ連時代の面影が残る。ソ連崩壊に導いたロシア政治の中心のモスクワなどではレーニン像が倒されたシーンが印象的だが、ロシアの辺境にあたるサハリンでは、どちらかといえば財政支援を受ける側で、経済的には中央の支援を受けて保護される立場だったのか、ソ連時代を否定するわけではなく、かつて「神社大通り」と呼ばれたメインストリートはコミュニスト(共産主義者)通り(Коммунистический пр.)であるし、レーニン通り(ул. Ленина)、カール・マルクス通り(ул. Карла Маркса)などの街路名もそのまま残っている。

 一方で、レーニン広場の北側には、日本時代からソ連時代にかけて活躍した日本製のD51形蒸気機関車が静態保存されて、ユジノサハリンスク市民の憩いの場となっている。車両をよく見ると、D51のプレートの上にソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)のロシア語略称である「СССР」(エスエスエスエル)のロゴが入っていて、樺太の数奇な歴史を感じる。レーニン広場の斜め向かいのレーニン広場には、日本料理レストラン「ふる里/Фурусато」があり、サハリン在住日本人が故郷の味を楽しむ重要な場所となっているとともに、地元ロシア人にも日本の味が楽しめるレストランとして人気がある。

 レーニン広場からレーニン通りを北へ歩いて行くと、重厚な古い建物が見えて来る。ここは「サハリン州美術館」(Сахалинский областной государственный художественный музей)で、この建物は、日本時代に「北海道拓殖銀行」豊原支店だった。

 その先、レーニン通りとサハリン通り(Сахалинская ул.)の角に建つデパート「サハリン」(Сахалин)は、日本時代の「三越百貨店」豊原店だったところで、改修を経て今も百貨店として使われている。

 サハリン通りの周辺は、ショッピングゾーンとなっており、市場(ルィノク/рынок)や、屋外市場(バザール/базар)、食料品スーパーが入る「カリンカ(Калинка)」、樺太のカニや鮭など海産物が豊富な「ウスペフ(Успех)」などの商業施設が集まっている。ユジノサハリンスクには朝鮮系の住民も多く、キムチ(김치/Кимчхи)をはじめとする朝鮮料理の食材もよく販売されていて、スーパーでは韓国からの輸入品も並んでいる。

 レーニン広場からメインストリートのコミュニスト通りをまっすぐ歩いていくと、チェーホフ通り(Чехова ул.)の角に、旧・豊原市役所の建物がある。この建物は現在はすでに公共施設ではないが、何度か改修されながら現在まで残されている。

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ユジノサハリンスク駅

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ユジノサハリンスク駅で出発を待つ日本製D2系ディーゼルカー

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ユジノサハリンスク駅

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ユジノサハリンスク~コルサコフの列車

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ユジノサハリンスク・レーニン広場

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ユジノサハリンスク市役所

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ユジノサハリンスクのレーニン広場に建つレーニン像

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日本料理レストラン「ふる里」

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レーニン通りにあるホテル「サッポロ」

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D51形蒸気機関車

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D51とソ連のマーク

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ユジノサハリンスクの鉄道博物館

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鉄道博物館で保存されている旧キハ58系

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レーニン通りの眺め

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旧北海道拓殖銀行の「サハリン州美術館」

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旧北海道拓殖銀行の「サハリン州美術館」

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旧三越百貨店豊原店のデパート「サハリン」

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旧三越百貨店豊原店のデパート「サハリン」

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ユジノサハリンスクの屋外市場

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ショッピングセンター「カリンカ」

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ユジノサハリンスクのコミュニスト大通り(旧・神社大通り)

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コミュニスト大通りとチェーホフ通りのそばに残る旧・豊原市役所の建物

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ロシア領サハリン(樺太)・ユジノサハリンスク(豊原) サハリンの玄関口ユジノサハリンスク空港とシティーモール

Южно-Сахалинск
豊原
ユジノサハリンスク (ロシア語)
とよはら (日本語)

ロシア連邦極東連邦管区サハリン州
Российская Федерация
Дальневосточный федеральный округ
Сахалинская область

ロシア領サハリン(樺太)・ユジノサハリンスク(豊原) サハリンの玄関口ユジノサハリンスク空港とシティーモール

 ユジノサハリンスク(Южно-Сахалинск)は、サハリン(樺太)最大の都市で、ロシア連邦極東連邦管区サハリン州の州都となっている。日本統治時代には、「豊原」(とよはら)と呼ばれ、樺太庁の首府であった。

 樺太は江戸時代から日露雑居の地であったが、1875年(明治8年)に日ロ間で「樺太・千島交換条約」が結ばれ、択捉島より東の千島列島全島(占守島まで)を日本領とするかわりに、樺太全島をロシア領として承認した。当時は北海道も開拓の途上であり、樺太の開発はほとんど進んでいなかった。

 樺太には、古くは先住民のアイヌ人やウィルタ(オロッコ)人が住み、ロシア領となってからは流刑地とされ、ロシアの囚人らが移住し、労働に従事したが、あまりにも首都モスクワからも離れているため、開発は進まなかった。

 ユジノサハリンスクの前身は、1882年に開かれたウラジミロフカ(Владимировка)村で、当時南サハリン(コルサコフ)管区長官だったウラジーミル・ヤンツェビッチ(Владимир Янцевич)の名が地名の由来である。囚人を監獄に収容しきれず、物流などの必要性から都市の開拓が進められたのだった。徐々にロシア人の住民が増えていったが、(明治38年)の日露戦争で日本がロシアに勝利すると、ポーツマス条約で樺太の南半分(北緯50度以南の南樺太)が日本領となった。

 その後、ススヤ(鈴谷)川が流れるウラジミロフカは、穏やかなススヤ(鈴谷)平野が広がっていることから、「豊原」(とよはら)へと改称され、北海道の札幌(さっぽろ)をモデルにした碁盤目状の街路が広がる都市計画に基づき、都市が建設された。その間、ロシアは共産革命により、1922年(大正11年)にソビエト連邦(ソ連)となった。

 1945年(昭和20年)、大東亜戦争で日本が敗戦になる直前にソ連の軍が南樺太に侵攻し、豊原をはじめ日本領だった南樺太がソ連に占領された。ソ連は南樺太を自国領に編入し、日本人を追い出した。「豊原」(とよはら/Тоёхара)は、ロシア語の「ユジノサハリンスク」(Южно-Сахалинск)に改称された。ユジノ・サハリンスクは「南サハリン」(南樺太)という意味。

 ソ連占領により、日本人は内地に引き揚げたため、現在、ユジノサハリンスクの人口約20万人のうち、ロシア人が住民の多数派となっているが、日本時代に樺太に渡って来て戦後は日本国籍を失ったため樺太に残留した朝鮮人や、戦後に北朝鮮から移住した北朝鮮人など、朝鮮系住民が約4万人住んでいて、住民の約2割を占めている。朝鮮系住民は、移住第一世代は朝鮮語(韓国語)を話し、日本語も話せる人も多かったが、近年はロシア語化が進み、朝鮮語を話さない人が増えているようだ。

 サハリン(樺太)の空の玄関口であるユジノサハリンスク空港(Аэропорт Южно-Сахалинск)は、ユジノサハリンスク市南部郊外のホムトヴォ(Хомутово)地区にある。この空港は、日本時代末期の1945年(昭和20年)に、日本軍が豊原大沢飛行場として建設したもので、ソ連に接収後、滑走路が拡張され、現在は国際空港となっている。

 ユジノサハリンスク空港は、日本の札幌(新千歳)と東京(成田)を結ぶ路線があり、オーロラ航空が札幌・東京、ヤクーツク航空が東京を結ぶ。ユジノサハリンスク―成田は2時間10分、ユジノサハリンスク―札幌は1時間20分という近さだ。このほか、国際線は韓国アシアナ航空がユジノサハリンスク―ソウル(仁川)を運航しており、サハリンと韓国の関係の深さが感じられる。 

 国内線は、ロシア最大手のアエロフロートが、首都モスクワ(Москва)を結んでいるほか、オーロラ航空がシベリアのハバロフスク(Хабаровск)、ウラジオストク(Владивосток)、、コムソモリスク・ナ・アムーレ(Комсомольск-на-Амуре)、ペトロパブロフスク・カムチャツキー(Петропавловск-Камчатский)方面、ヤクーツク航空がサハ共和国のヤクーツク(Якутск/Дьокуускай)方面などへの国内線を運航している。さらに北方領土の国後島(古釜布/ユジノクリリスク)や択捉島(紗那/クリリスク)への路線もある。

 ユジノサハリンスク空港からユジノサハリンスク市内へは路線バスが頻繁に運行されており、そのルート上、ユジノサハリンスク南部に「Сити-Молл」(シティーモール)というサハリン最大の大型商業施設がある。ここには、大型スーパーや生活雑貨店のほか、日本からの輸入雑貨店もある。また、フードコートには韓国料理や日本のラーメン店(ラーメン一番)なども入っている。

 日本時代に建設された樺太庁鉄道の樺太東線(現・サハリン鉄道東部幹線)は、近年は旅客列車の運行本数が非常に少ないが、大沢~豊南のシティーモールの前にシティーモール駅が開設された。旧・大沢(おおさわ)駅は現在はボリシャヤ・エラーニ(Большая Елань)駅となっている。大沢~豊南にあるホムトヴォ(Хомутово)駅はソ連時代に開設された駅で、旧・豊南(とよなみ)駅は現在、フリストフォロフカ(Христофоровка)駅となっており、サハリン鉄道は日本時代の狭軌(1067ミリ)の線路が日本の国鉄の雰囲気を残しているが、シベリア大陸と鉄道の規格を統一するため、広軌(1520ミリ)化する計画があり、3線に対応した枕木への交換などの準備工事が進められている。

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ユジノサハリンスク空港

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ユジノサハリンスク「シティーモール」

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ユジノサハリンスク「シティーモール」

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広軌化の準備が進むフリストフォロフカ(豊南)駅

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ロシア領サハリン(樺太) 日本の樺太からロシアのサハリンへ、間宮海峡を挟んで日ロをつなぐ島

Сахалин
樺太
サハリン (ロシア語)
からふと (日本語)
カラ プト (アイヌ語)

ロシア連邦極東連邦管区サハリン州
Российская Федерация
Дальневосточный федеральный округ
Сахалинская область

ロシア領サハリン(樺太) 日本の樺太からロシアのサハリンへ、間宮海峡を挟んで日ロをつなぐ島

 サハリン(Сахалин)は、日本の北海道(ほっかいどう)の北方にある島で、日本では「樺太」(からふと)と呼ばれた島である。1945年以降、全島をソビエト連邦が実効統治し、現在はロシア連邦サハリン州となっているが、北緯50度以南の旧・日本領樺太庁の領域(南樺太)については日本は領有権を放棄したものの、ロシアと正式な平和条約が結ばれていないため、主権未定の立場をとっている。

 樺太の先住民であるアイヌ人は、古くより北海道から樺太、千島(ちしま)にまたがって住んでおり、日本語の「樺太」の地名は、アイヌ語で「神が河口に造った島」を意味する「カムイ カラ プッ ヤ モシリ」(Kamuy kar put ya mosir)を由来とする。この河口とは、ユーラシア大陸から注ぐアムール(Амур)川を指し、樺太アイヌ語では「ヤンケ モシリ」、北海道アイヌ語では「カラ プト」と呼ばれていた。樺太にはアイヌ人のほか、ウィルタ(オロッコ)人やニヴフ(ギリヤーク)人などの少数民族が住んでいる。

 ロシア語の「サハリン」は、満洲語でアムール川(黒竜江)を「サハリヤン ウラ」と呼び、その河口の対岸の島を「サハリヤン ウラ アンガ ハダ」と呼んだことが「サハリン」の地名の由来となった。つまり、「サハリン」は満洲語の「黒」を意味する。この地域は、中国の漢民族とは関係がなさそうだが、満州族など北方民族はロシア到来前に行き来があったようで、中国語では庫頁(クウイエ)島と呼ばれる。清国が北京条約でアムール川より南の沿海州をロシアに割譲されたのは1860年のことだった。

 日本は江戸幕府が19世紀初期に樺太の調査のため派遣した間宮林蔵(まみや りんぞう)が1809年に樺太が島であることを確認し、樺太を「北蝦夷地」とし、ユーラシア大陸との海峡が「間宮海峡」と呼ばれるようになった。日本とロシアは樺太(サハリン)をめぐって江戸時代末期の1855年(安政2年)に「日露和親条約」を締結し、樺太においては国境を画定せず、これまでの慣習(つまり日露雑居の地)とすることが決められた。交渉の際に日本は樺太の北緯50度線で日露国境を定めることを主張したが、ロシア側が受け入れなかった。日露和親条約では、北海道の東の択捉(えとろふ)島とウルップ(得撫)島の間に日露国境を引くことが定められた。

 国境が定まらない樺太には先住民のアイヌ人をよそに、ロシア人と日本人の移民が競うように増加し、民族間の摩擦が強まっていった。日本の明治政府は、樺太よりも北海道の開拓と千島列島の権益を優先し、1875年(明治8年)に日ロ間で「樺太・千島交換条約」が結ばれ、択捉島より東の千島列島全島(占守島まで)を日本領とするかわりに、樺太全島をロシア領として承認した。これにより、樺太に居住していた日本人および日本国籍を選択した樺太先住民アイヌ人が日本に引き揚げた。これ以降樺太はロシア領となったが、1905年(明治38年)の日露戦争で日本がロシアに勝利すると、ポーツマス条約で樺太の南半分(北緯50度以南の南樺太)が日本領としてロシアに認めさせた。これにより、北海道に移住していた元樺太アイヌ人のうち300人余りが樺太に戻り、以後続々と日本人の樺太移住が始まった。

 日本統治時代の南樺太は、ウラジミロフカ(Владимировка)から日本式に改名した豊原(とよはら)に「樺太庁」が置かれ、北海道開拓のノウハウを生かして、積極的に開発が進められた。1908年(明治41年)に3万人弱だった人口は大正9年(1920年)には10万人を突破し、1940年(昭和15年)の時点では40万人を超えていた。樺太庁には豊原、真岡(まおか)、恵須取(えすとる)、敷香(しすか)の支庁が置かれ、豊原市(3.7万)、大泊(おおどまり)町(約2.1万)、恵須取町(約3.9万)、真岡町(1.9万)、泊居(とまりおる)町(1.2万)、本斗(ほんと)町(1.1万)、敷香町(3.0万)などの都市があった。樺太では王子製紙などが進出し、製紙工業が盛んだった。また、日本人とともに当時日本国籍だった朝鮮人も労働者として樺太に移住した。樺太の大泊からは北海道の稚内(わっかない)を結ぶ稚泊連絡船が運航されていた。
 
 1920年(大正9年)にロシア・シベリアのアムール川河口のニコライエフスク港(ニコライエフスク・ナ・アムーレ)で共産パルチザンによる日本人居留民を含む市民殺戮と町を焼き払う「尼港事件」が発生し、日本はこれを契機にシベリアに出兵し、ロシア革命に干渉した。その際、北樺太も占領した。一方で、シベリア出兵はたいした影響力も発揮できず、ロシアでは共産革命により、1922年(大正11年)にソビエト連邦(ソ連)が建国された。日本はソ連と1925年(大正14年)に日ソ基本条約を結び、北樺太から撤兵した。

 第二次世界大戦が勃発すると、日本はソ連とは昭和16年(1941年)に日ソ中立条約を結んでいたため、樺太の北緯50度線でソ連と国境を接していたが、日本が中華民国やアメリカと戦争していた際も、ソ連は中立を保っていた。

 しかし、昭和20年(1945年)の夏、日本の敗戦が濃厚になると、米軍が長崎に原爆を落とした8月9日にソ連は日ソ中立条約を一方的に破って、南樺太に侵攻を開始した。日本軍も応戦したが、8月15日に日本がポツダム宣言を受諾して連合国に対し降伏することを発表したが、ソ連はまるで「火事場泥棒」の如く戦闘を続け、日本の敗戦に乗じて南樺太および千島を占領した。樺太での戦闘は8月25日に終了したが、民間人の避難が間に合わず、多くの民間人が巻き込まれて約2000人がソ連軍の犠牲になり、また樺太から北海道に向かっていた引揚船も3隻がソ連軍の攻撃を受け、約1700人余りが犠牲になった。

 南樺太は、そのまま連合国による占領ということでソ連による管理下に置かれた。1946年(昭和21年)より「米ソ引揚協定」によって樺太残留日本人の内地への引き揚げが始まり、約40万人いた日本人のほとんどが樺太から去るという民族大移動の悲劇となり、まさに敗戦の悲哀を味わった。また、日本国籍があったアイヌなどの先住民も多くが北海道に移った。日本は1952年(昭和27年)のサンフランシスコ平和条約で主権を回復したが、その際に樺太の領有権は台湾と同様に「放棄」という形をとり、日本の領土ではなくなった。一方、ソ連はサンフランシスコ条約に参加しておらず、日ソ間で平和条約も結ばれなかったため、日本は樺太を「放棄」したがソ連に「返還」したの立場はとらなかった。実際には、引き続きソ連が実効統治し、南樺太の地名は、豊原(とよはら/Тоёхара)がユジノサハリンスク(Южно-Сахалинск)、真岡がホルムスク(Холмск)、大泊がコルサコフ(Корсаков)、本斗がネベリスク(ニェヴィェリスク/Невельск)、敷香がポロナイスク(Поронайск)とロシア語地名にそれぞれ改名され、サハリン州の一部として南樺太はソ連領に組み込まれていった。現在、ロシア連邦のサハリン州は、樺太本島のほか、日本が戦後に放棄した千島列島および日本が返還を要求している北方四島(択捉、国後、色丹、歯舞)も管轄している。

 ソ連に日本人が追い出されたのに対し、日本時代に樺太に移住した朝鮮人は、日本国籍を離脱したことにより日本人とは異なる運命となり、その結果、長年にわたり故郷に戻ることができなかった。樺太在住朝鮮人の多くが南朝鮮出身者であり、南朝鮮は戦後、米国の支援を受けて大韓民国が建国されたが、ソ連の支援を受けて北朝鮮に建国された朝鮮民主主義人民共和国と対立し、朝鮮戦争が勃発した。以来、韓国はソ連と長年にわたり対立関係にあったため、樺太に渡った朝鮮人(韓国人)は韓国に引き揚げることができなかった。また、ソ連時代は友好国の北朝鮮からの労働者が派遣され、その一部が定住した。これらの背景により、南樺太には朝鮮系ロシア人が多く約3万人が住み、人口の約5%を占める。ソ連と韓国は1990年に国交が樹立され、その後、樺太残留韓国人の帰国が実現したが、住み慣れた樺太に永住を選んだ人も多い。

 南樺太はソ連末期の1989年に外国人も旅行できるようになり、戦後の実情が明らかになり、日本との交流も再開された。ソ連は1991年に崩壊し、サハリン州はソ連から分裂したロシア連邦がそのまま引き継ぐ形となった。日本は南樺太をロシアに返還したわけではないが、現状を黙認する形で、2001年にユジノサハリンスクに日本総領事館を開設した。ロシアのやり方は、日本から見れば卑怯で、許しがたい点や納得いかない国民感情があるのも仕方ないが、北海道の一部だとして返還を求める北方四島は、交流が進まず、一般観光客の立ち入りも難しいが、樺太は日本領ではなくなったが、行き来が簡単になって実質的な交流が盛んであるのは、結局どちらがよいのか考えさせられるところだ。

 現在、サハリンの主な都市は、ユジノサハリンスク(豊原)が約19万人、コルサコフ(大泊)が約3万人、ホルムスク(真岡)が約2万人である。コルサコフ~稚内は夏季にフェリーが運航されているほか、ユジノサハリンスク空港からは札幌(新千歳)と東京(成田)への日本線や、ソウル(仁川)への韓国線、そのほかモスクワ、ハバロフスク、ウラジオストク、ヤクーツク、コムソモリスク・ナ・アムーレ、ペトロパブロフスク・カムチャツキー方面などへの国内線が運航されている。さらに北方領土の国後島(古釜布/ユジノクリリスク)や択捉島(紗那/クリリスク)への路線もある。

 サハリンの鉄道は、南樺太では日本時代に大泊~豊原~落合~敷香~古屯を結ぶ樺太東線と本斗~真岡~泊居~久春内を結ぶ樺太西線、そして豊原~真岡の東西を結ぶ豊真線、川上炭山へ伸びる川上線などの路線が建設された。戦後も日本時代建設された狭軌(1067ミリ)の鉄道が引き続き使われているが、2003年よりロシア本土の規格に合わせて広軌化(1520ミリ)の工事が進められている。日本製のD51形蒸気機関車も使われていた。また、1980年代に日本製のステンレスのディーゼルカーが導入され、その後はJR東日本から譲渡されたキハ58形も使われていた。豊真線は樺太山脈の峠越えの山岳路線でループ線もあったが、1994年のトンネル崩落で一部区間が廃止された。東西をつなぐ路線はソ連時代に西線のイリインスク(Ильинск/久春内)と東線のアルセンチエフカ(Арсентьевка真縫)を結ぶ北部横断線が建設された。東線は古屯(ポビェーヂノ/Победино)から北樺太のノグリキ(Ноглики)までソ連時代に延伸された。

 樺太はすっかりロシア化が進んだが、道路の区画や鉄道、歴史建築などで日本時代の面影がわずかながら残る。ユジノサハリンスク(豊原)のサハリン州郷土博物館は旧・樺太庁博物館の建物が、サハリン州立美術館は旧・北海道拓殖銀行豊原支店の建物が、サハリン・デパートは旧・三越百貨店豊原店の建物がそのまま活用されている。

 樺太の気候は、北海道より北にあり、1月の平均気温は-17℃~-7℃で冬季は非常に寒さが厳しく、降雪量も多い。また、夏の8月は14℃~22℃で、非常に涼しい。日本とサハリンの時差はプラス2時間で、夏場は夜9時でも明るい。


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千島(クリル) 千島列島と蟹工船

千島
ちしま (日本語)
クリル/Кури́л (ロシア語)

千島(クリル) 蟹工船と千島列島

 昭和4年(1929年)に発表された小林多喜二のプロレタリア文学代表作『蟹工船』(かにこうせん)が松田龍平主演で映画化された。

 日雇い派遣労働などによるワーキングプアの増加で「蟹工船」が再び脚光を浴びて小説が爆発的に売れたという話は知っていたが、実際にどんなストーリーか知らなかったので、今回見た映画ではじめて「蟹工船」の物語を知った。

 「蟹工船」の舞台は、ロシアのカムチャツカ(Камчатка)半島に近い、千島(クリル)列島(Кури́льские острова́)。同作が発表された昭和4年の時点では千島列島は日本領だった。

 現在、日本政府はロシア連邦政府に北海道の歯舞(はぼまい)、色丹(しこたん)、国後(くなしり)、択捉(えとろふ)の北方四島の返還を要求しているが、戦前はその先のカムチャツカ半島まで続く千島列島も日本領であり、北方四島と同時に当時のソビエト連邦に占領され、ソ連解体後、現在ロシア連邦に引き継がれている。

 江戸時代までこの地域は、先住民のアイヌ人が住んでいたが、ロシアが不凍港を求めて領土を拡張しながら南下、日本は寒冷地で居住する技術を得てから徐々に北上し、安政元年(1855年)に日露和親条約が結ばれ、択捉島と得撫(うるっぷ)島(о.Уруп)の間に国境線が引かれた。(これがいま日本政府が主張する国境線)

 明治維新後、明治8年(1875年)に日本はロシアと「樺太・千島交換条約」を結び、樺太(サハリン/Сахалин)をロシア領、千島列島を日本領とすることが双方の合意で決定された。これによって千島列島の占守(しゅむしゅ)島(о.Шумшу)まで日本領となった。(これを根拠に現在も日本共産党は全千島の日本領有を主張している)

 その後、日露戦争で明治38年(1905年)にロシアから南樺太が日本に割譲された。

 ソ連軍は第二次世界大戦で日本が敗戦を認め、ポツダム宣言を受諾した昭和20年(1945年)8月14日より後の8月18日にカムチャツカ半島から千島列島に侵入して占領した。また、南樺太もほぼ同時期にソ連軍に占領された。日本はサンフランシスコ平和条約で、南樺太と千島の領有権を放棄した。

 さて、「蟹工船」の時代は1910年代(大正初期)頃から千島列島にカニの缶詰産業が興る。小説「蟹工船」のモデルになったのは、実際に昭和初期に北洋漁業の蟹工船として使用されていた「博愛丸」がモデルとされている。

 「蟹工船」は千島列島のオホーツク海でカニを捕り、カニの缶詰を製造する船の中で、労働者が過酷な労働を強いられ、労働改善を求めて立ち上がるという話。映画の中では、カムチャツカ半島沖でカニ漁の途中で遭難した2人がソ連船に助けられ、ソ連の労働者がみんな楽しく踊って宴会をしている様子に刺激され、「蟹工船」に戻った2人がソ連式の労働運動を「蟹工船」の中で実践し、ストライキも辞さないと同船事業の監督である浅川に迫る。浅川はいったん要求を呑むが、海軍の支援を得て労働運動を煽ったリーダーが捕らえられた。(その後どうなったかは映画を見てのお楽しみ)

 「蟹工船」の作者の小林多喜二は、自身が共産主義に共鳴し、当時は認められていなかった日本共産党に入党し、後に特高警察に逮捕され、昭和8年(1933年)に拷問で死去した。当時の小林多喜二は、共産革命を達成したソ連へのあこがれがあったのだろう。だが、ソ連は小林の死後、スターリンの暴政などを経て、労働者の天国どころか、ただの恐ろしい独裁国家となってしまった。ただ、当時の劣悪な労働環境を労働者の視点で描き、そこからなんとか状況を打破しようというストーリーは共感を誘う。

 現代では、さすがに棒で殴られながら働くということはないが、劣悪な労働環境下で低賃金長時間労働を強いられるワーキングプアが急増しており、社会問題化している。会社自体が儲からないという問題があることは承知しているが、経営合理化という名目で、労働者をただの生産機械のように扱い、景気が回復しても役員報酬だけが何割も何倍も増え、労働者の賃金はカットとかいう利益の不公平な分配を行っている事例も目立った。会社が社員の家族生活のことを考えていた年功序列システムが崩壊した後の混乱や後遺症なのだと思う。会社と社員(非正規やバイトも含めて)の一体感というのが欠けている企業が多くなってきているのではないだろうか。

 現在は、全体の労働環境は技術の進歩によって著しく改善されたが、人件費の削減で、フルタイムで働いてもアルバイト並みの低賃金の不安定な雇用体系が増えている。低賃金で働く労働者を「負け組」と馬鹿にする風潮があるが、日本社会全体で見た場合、大変な労働も社会に必要な労働なのであり、社会の歯車なのである。「そんな労働者にならないように」ではなくて、社会に必要な労働であれば、自立して生活できるような雇用環境へと改善する必要があるだろう。このまま不合理を放置すれば荒んだ社会になると思う。人材の育成という投資を軽視すべきでないし、失業したら終わりで非正規低賃金に転落というようなやり直しが難しい硬直した構造も改革が必要だと思う。

 「蟹工船」の労働者たちを見てわかるように、人々が求めているのは働きに応じた合理的な生活と、働く人間としての尊厳である。低賃金長時間労働に甘んじている者を「底辺」、「負け組」、「やる気がない」、「無能」、「嫌ならやめろ」、「自分で抜け出す能力がない」、「頭が悪い」とか見下す前に、ともに社会に貢献する一員として敬意を示すことが大切だと思う。そして、コツコツ一生懸命働いたぶん、楽しく朗らかに生活できる健全な社会になってほしいし、そうなる方法を考えていきたいと思った。

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