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青森・黒石 黒石陣屋と中町こみせ通り、津軽こけし、つゆ焼きそば

黒石
くろいし

日本国青森県黒石市

青森・黒石 黒石陣屋と中町こみせ通り、津軽こけし、つゆ焼きそば

 黒石(くろいし)市は、青森(あおもり)県中部の津軽(つがる)地方にある人口約3万人の市。北が青森市、東と南が平川(ひらかわ)市、西が南津軽(みなみつがる)郡の田舎館(いなかだて)村、藤崎(ふじさき)町と接している。

 黒石は、江戸時代に弘前(ひろさき)藩の支藩として1809年(文化6年)に黒石藩が設置された。弘前藩と同様に津軽家が歴代の藩主を務め、黒石陣屋を拠点とした。

 黒石市は、昭和29年(1954年)に南津軽郡の黒石町が中郷(なかごう)村、六郷(ろくごう)村、山形(やまがた)村、浅瀬石(あせいし)村と合併して「黒石市」が発足し、昭和31年(1956年)に南津軽郡尾上(おのえ)町の一部を編入し、現在の市域となった。

 黒石市には、弘南鉄道・弘南線が通り、黒石駅と境松(さかいまつ)駅がある。黒石駅には、かつて弘南鉄道・黒石線が乗り入れていたが、平成10年(1998年)に廃止された。弘南鉄道・黒石線の前身は国鉄黒石線であり、開業は黒石線のほうが早く、黒石軽便線として川部~黒石が大正元年(1912年)に開業し、大正11年(1922年)に国鉄黒石線となった。国鉄黒石線の黒石駅は今の弘南鉄道の黒石駅よりやや北東側にあった。国鉄黒石線は田舎館村の川部駅から国鉄五能線方面および奥羽本線の弘前駅方面まで直通運転する列車もあったが、弘南鉄道・弘南線が昭和25年(1950年)に弘前から平賀(ひらか)、尾上(おのえ)を経由して弘南黒石駅まで全通すると、国鉄黒石線の旅客が弘南鉄道に流れた。

 弘南鉄道と競合していた国鉄黒石線は、昭和59年(1984年)に弘南鉄道に移管され、弘南鉄道・黒石線となった。国鉄の黒石駅の手前で弘南鉄道の弘南黒石駅に乗り入れる渡り線が作られ、国鉄黒石駅は撤去された。昭和61年(1986年)には、国鉄と区別する必要がなくなった弘南黒石駅が黒石駅に改称された。黒石線は経営が弘南鉄道となることで弘南線との共存し、黒石線は青森方面から黒石を結ぶ最短ルートという存在意義があったが、電化の弘南線に対し、非電化の黒石線は弘南線と車両の共通化ができず、利用客も多くないことから、平成10年(1998年)に黒石線が廃止された。弘南鉄道の黒石駅には、弘南線のホームの北側に黒石線のホーム跡が残っている。

 黒石駅には生協「コープ」黒石店が併設され、電車利用時の買い物が便利である。駅前にはバスターミナルがあり、旧・黒石線の川部駅方面や、青森市方面のバスが発着している。駅の近くには室内体育館「スポカルイン黒石」やスーパーマーケット「ユニバース」黒石駅前店がある。

 黒石は、平たい麺の「黒石焼きそば」にそばつゆまたはラーメンつゆをかけた「つゆ焼きそば」がご当地グルメとして近年有名になり、黒石の町おこしに一役買っている。

 黒石駅の南東約500mのところの「中町こみせ通り」は、雪国ならではの江戸時代からの建築で、木柱の上に板張りの天井が続く「小見世」(こみせ)がアーケード状になっている通りで、江戸時代からの古い街並みが保存されている。かつては旅籠や呉服屋などがあろ、いまは「高橋家住宅」が国の重要文化財に指定されれいるほか、造り酒屋などもある。中町こみせ通りの裏の「横町かぐじ広場」には「かぐじ」(裏地)の回遊通路と黒石ゆかりの四大作曲家(明本京静、山田栄一、上原げんと、上原賢六)歌碑顕彰碑がある。

 黒石市はこのほか、浅瀬石川を上流へ進んでいったところに黒石温泉郷があり、「津軽こけし館」は、津軽のこけしをはじめ、日本全国のさまざまなこけしが展示され、「津軽伝承工芸館」も隣接している。黒石温泉郷の南には浅瀬石川ダムがあり、そのダム湖は「虹の湖」(にじのこ)と呼ばれている。

黒石エリアの主な駅

黒石 / くろいし 駅
弘南鉄道 弘南線

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弘南鉄道弘南線・黒石駅

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弘南鉄道弘南線・黒石駅

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弘南鉄道弘南線・黒石駅

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弘南鉄道弘南線・黒石駅
右が黒石線ホーム跡

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弘南鉄道弘南線・黒石駅

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弘南鉄道黒石駅前

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弘南鉄道黒石駅の駅舎と生協コープ

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スーパー「ユニバース」黒石駅前店

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室内体育館「スポカルイン黒石」

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黒石の市街地の街並み

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黒石・中町こみせ通り

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黒石・中町こみせ通り

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黒石・中町こみせ通り

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黒石・中町こみせ通り「高橋家住宅」

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黒石・中町こみせ通り

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黒石・横町かぐじ広場の回廊

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黒石・横町かぐじ広場の回廊

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横町かぐじ広場、黒石四大作曲家の碑

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横町かぐじ広場

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中町こみせ通りの酒蔵

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黒石の街並み

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黒石・株梗木(ぐみのき)横丁

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青森・弘前 津軽地方の中心都市、弘前ねぷたと弘前城の桜、リンゴと岩木山

弘前
ひろさき

日本国青森県弘前市

青森・弘前 津軽地方の中心都市、弘前ねぷたと弘前城の桜、リンゴと岩木山

 弘前(ひろさき)市は、青森(あおもり)県西部の津軽(つがる)地方にある人口約17万人の市。東が平川(ひらかわ)市、南津軽郡田舎館(いなかだて)村、南津軽郡藤崎(ふじさき)町、北が北津軽(きたつがる)郡の板柳(いたやなぎ)町、北津軽郡鶴田(つるた)町、つがる市、西は西津軽郡鰺ヶ沢(あじがさわ)町、中津軽郡西目屋(にしめや)村、南が南津軽郡大鰐(おおわに)町と秋田県大館(おおだて)市と接している。

 弘前市は、青森県内では青森市、盛岡に次ぐ第3位の人口を誇る。江戸時代は津軽(つがる)氏が治める弘前藩の城下町として発展し、明治4年(1871年)の廃藩置県により弘前県を経て青森県に属するようになった。

 弘前は江戸時代初期の1603年(慶長8年)に堀越城主の津軽為信(つがる ためのぶ)が鷹岡(現・弘前)に築城を計画し、為信が死去したため2代目藩主の津軽信枚(つがる のぶひら)がその計画を継いで1611年(慶長16年)に鷹岡城が完成した。1627年(寛永4年)に落雷で鷹岡城の天守が焼失し、翌年に鷹岡は「弘前」に改称された。また、1809年(文化6年)に黒石藩が分知された。弘前藩および黒石藩の歴代津軽氏の統治により、青森県西部に「津軽」という地域共同体意識が形成された。弘前藩は「津軽藩」とも呼ばれ、弘前は津軽地方の中心都市として栄えた。

 廃藩置県では、明治4年(1871年)に津軽氏の弘前藩と黒石藩が弘前県と黒石県になり、さらに陸奥国の斗南県、七戸県、八戸県、館県などが合併し、「弘前県」となったが、南部氏が支配していた陸奥国東部とのバランスの配慮と、北海道との交通の連絡口となる青森港の発展を見越して、県庁所在地が弘前から青森に移転し、「青森県」に改称された。

 青森県は明治維新で、東北地方の大部分を占めていた陸奥国(むつのくに)から陸前国、陸中国などが分離して細分化され、青森県の部分は陸奥国(りくおうのくに)となったが、陸奥(りくおう)という読み方は定着しなかった。一方、青森県に統合された津軽地方(弘前藩・黒石藩)の「津軽」という地名に対する愛着と一体感は強く、国鉄の駅名では重複地名の際に旧国名を加えて駅名を区別するが、青森県の場合は、青森県東部の旧・南部地方や下北半島は「陸奥」(むつ)を用いるのに対し、青森県西部の津軽地方では「津軽」(つがる)を用いる。これは福島県の岩代国(いわしろのくに)の会津地方では駅名にも「会津」(あいづ)を用いたのと似ているように、地域名に全国的知名度があったのだといえる。

 弘前市は明治22年(1889年)に市制施行され、青森県庁は青森市に移ったものの、津軽地方の中核都市として発展してきた。昭和30年(1955年)には中津軽郡の清水(しみず)村、和徳(わとく)村、豊田(とよだ)村、堀越(ほりこし)村、千年(ちとせ)村、藤代(ふじしろ)村、新和(にいな)村、船沢(ふなざわ)村、高杉(たかすぎ)村、裾野(すその)村、東目屋(ひがしめや)村が合併し、市域が拡大した。さらに昭和32年(1957年)に南津軽(みなみつがる)郡の石川(いしかわ)町を編入合併した。平成の大合併では、平成18年(2006年)に弘前市が中津軽郡の岩木(いわき)町、相馬(そうま)村と合併し、新しい弘前市が発足し、現在の市域となった。

 弘前市にはJR東日本・奥羽本線と弘南鉄道の弘南線、大鰐線が通り、JR奥羽本線の撫牛子(ないじょうし)、弘前(ひろさき)、石川(いしかわ)の各駅、弘南鉄道・弘南線の弘前、弘前東高前(ひろさきひがしこうまえ)、運動公園前(うんどうこうえんまえ)、新里(にさと)の各駅、弘南鉄道・大鰐線の中央弘前(ちゅうおうひろさき)、弘高下(ひろこうした)、弘前学院大前(ひろさきがくいんだいまえ)、聖愛中高前(せいあいちゅうこうまえ)、千年(ちとせ)、小栗山(こぐりやま)、松木平(まつきたい)、津軽大沢(つがるおおさわ)、義塾高校前(ぎじゅくこうこうまえ)、石川(いしかわ)、石川プール前(いしかわプールまえ)の各駅がある。

 弘前は弘前城の城下町として市街地が形成され、江戸時代から商業地として栄え、明治時代以降に商店街化した土手町(どてまち)が弘前の旧市街地の中心地である。また、弘前城の南側には弘前市役所や青森地方裁判所弘前支部などの官庁街が形成されている。一方、弘前城から少し東に離れたところに弘前駅が設置され、駅前に新しい市街地が形成された。

 弘前駅は、明治27年(1894年)に国鉄奥羽本線の弘前駅が旧・和徳村に開設された。昭和2年(1927年)に弘南鉄道・弘南線の弘南弘前駅も併設された。弘南線は弘南弘前~津軽尾上(つがる おのえ)が同年開業し、昭和25年(1950年)に津軽尾上~弘南黒石(こうなん くろいし)が延伸開業した。弘前市の中心駅であり、JR奥羽本線の青森~秋田を走る特急「つがる」が停車する。かつては青森~大阪を結ぶ寝台特急「日本海」なども停車していた。弘前駅は川部(かわべ)駅で奥羽本線と合流するJR五能線の列車も乗り入れている。奥羽本線は弘前以北の弘前~青森は本数が多いが、弘前以南の秋田県方面への普通電車は少ない。東北新幹線の新青森駅までは特急が約27分、普通電車が約40分で結んでいる。

 弘前駅から西に市街地が広がり、地下道と遊歩道「えきどてプロムナード」が伸びている。その周辺に飲食店街が広がっている。弘前駅の近くには「ヒロロ」や「イトーヨーカドー弘前店」などの大規模商業施設があり、弘前市の商業の中心となっている。また、イトーヨーカドー弘前店に隣接して弘前バスターミナルも併設されており、津軽地方の路線バスや仙台・東京方面への高速バスも発着している。青森津軽弘前市場「虹のマート」は昔ながらの市場の雰囲気が残り、弘前名物のメンチカツの具をイカで作った「いがメンチ」は観光客にも人気がある。

 弘南鉄道・大鰐線の中央弘前駅は、土手町の近くの土淵川沿いにある。大鰐線は、弘前周辺の交通事情が悪かったことから、三菱電機が地方電気鉄道を売り込むためにそのモデルとして弘南電気鉄道を建設し、昭和27年(1952年)に中央弘前~大鰐(おおわに)が開業した。しかし、中央弘前駅こそ土手町に近い弘前の旧市街地中心部にあるが、終点が大鰐駅であり、奥羽本線と並行しており、さらに弘南バスにも客を奪われ、旅客数は伸び悩んだ。昭和45年(1970年)に弘南鉄道に譲渡され、弘南鉄道・大鰐線として運行を続けている。中央弘前駅は、昭和レトロの駅舎と、川沿いのホームがいい雰囲気を醸し出している。これまで廃止の提案がされてもなんとか今まで生き残ってきた。

 弘南鉄道・大鰐線は旧・千年村の千年(ちとせ)駅や、車両基地のある津軽大沢駅、JR奥羽本線をオーバークロスして旧・石川町にある石川駅(JR奥羽線の石川駅とは約1.5キロ離れている)などを結び、弘前市の地域輸送を担っている。JR石川駅は弘南鉄道大鰐線の義塾高校前駅と近い。終点の大鰐町にある大鰐駅は、JR奥羽本線の大鰐温泉駅と隣接している。

 中央弘前駅と弘前城の間には城下町の面影が残る繁華街が広がり、「かくみ小路」など、飲食店が集まる通りがある。弘前城の南側には、青森銀行記念館、青森地方裁判所弘前支部、弘前市立山車展示館、弘前市立図書館、弘前市立郷土文学館、弘前市立観光館、弘前市役所などの建物がある。

 弘前城は、桜が美しいことで全国的に知られており、しかも桜の開花は東京よりも遅く、4月中旬に多くの観光客が訪れる。また、冬は雪深く、雪の弘前城のお堀に桜色のライトアップがなされるイベントも行われている。弘前城の北側には青森県護国神社がある。

 弘前城北門(亀甲門)の北側は「仲町伝統的建造物群保存地区」で住宅街ではあるが、弘前の伝統的な街並みが残されている。弘前城の北東側には「津軽藩ねぷた村」があり、「弘前ねぷた」の紹介や、津軽伝統工芸品の紹介と実演、津軽弁の紹介、津軽のお土産販売などが行われている。特に津軽地方のリンゴの加工品が人気である。

 弘前市の北西には、標高1624mの岩木山(いわきさん)が聳える。山の形が美しく「岩木富士」とも呼ばれ、冬の雪景色は津軽地方を象徴する風景である。

弘前エリアの主な駅

弘前 / ひろさき 駅
JR東日本 奥羽本線
弘南鉄道 弘南線

中央弘前 / ちゅうおうひろさき 駅
弘南鉄道 大鰐線

千年 / ちとせ 駅
弘南鉄道 大鰐線

津軽大沢 / つがるおおさわ 駅
弘南鉄道 大鰐線

石川 / いしかわ 駅
弘南鉄道 大鰐線

石川 / いしかわ 駅
JR東日本 奥羽本線
義塾高校前 / ぎじゅくこうこうまえ 駅
弘南鉄道 大鰐線

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弘前駅に停車する奥羽本線の特急「つがる」

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弘前駅、五能線気動車と奥羽本線普通電車

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弘南鉄道弘南線・弘前駅

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弘前駅の駅舎

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リンゴが乗った弘前駅前の郵便ポスト

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えきどてプロムナード

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「ヒロロ」とえきどてプロムナード

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弘前市場「虹のマート」

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弘前市場「虹のマート」

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弘前名物「いがメンチ」

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食堂の津軽弁

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弘前バスターミナル

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弘前・土手町

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弘前パークホテル

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弘前パークホテルから見た弘前の市街地と岩木山

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弘前中央食品市場

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レトロな弘前中央食品市場

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赤レンガが美しい弘前昇天教会の建物

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弘南鉄道大鰐線・中央弘前駅

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弘南鉄道大鰐線・中央弘前駅

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弘南鉄道大鰐線・中央弘前駅

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弘南鉄道大鰐線・中央弘前駅

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弘南鉄道大鰐線・中央弘前駅

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弘南鉄道大鰐線・中央弘前駅

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中央弘前駅前から見た弘前の市街地

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中央弘前駅付近の飲食店街

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かくみ小路

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弘前市内に残る近代建築
旧弘前無尽社屋(三上ビル)

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青森銀行記念館

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旧東奥義塾外人教師館

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山車展示館

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旧弘前市立図書館

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弘前市立観光館

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弘前市役所

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弘前城三の丸 追手門

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弘前市立博物館

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弘前城・杉の大橋

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凍結している冬の弘前城中濠

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弘前城内濠と下乗橋

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弘前城本丸

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青森県護国神社

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冬の凍結した弘前城のお堀

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仲町伝統建造物群保存地区の街並み

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「津軽藩ねぷた村」の津軽三味線の実演

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「津軽藩ねぷた村」で展示されている弘前ねぷた

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弘南鉄道大鰐線・千年駅

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千年~小栗山の大和沢川の鉄橋からの眺め

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弘南鉄道大鰐線から見たリンゴの果樹園

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弘南鉄道大鰐線・松木平駅

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弘南鉄道大鰐線の車両基地がある津軽大沢駅

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JR奥羽本線をオーバークロスする弘南鉄道大鰐線

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弘南鉄道大鰐線・義塾高校前~石川の眺め

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弘南鉄道大鰐線・石川駅

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青森・七戸 東北新幹線の七戸十和田駅と廃止された南部縦貫鉄道

七戸
しちのへ

日本国青森県上北郡七戸町

青森・七戸 東北新幹線の七戸十和田駅と廃止された南部縦貫鉄道

 七戸(しちのへ)町は、青森(あおもり)県東部の上北(かみきた)郡にある人口約1.5万人の町。西が青森市、北が東津軽(ひがしつがる)郡の平内(ひらない)町、北東が上北郡東北(とうほく)町、南が十和田(とわだ)市に接している。

 上北郡は江戸時代は陸奥国(むつのくに)の盛岡(もりおか)藩、南部(なんぶ)氏の領域に属し、七戸や野辺地(のへじ)に代官所が置かれていた。江戸時代後期には、1819年(文政2年)に南部利敬(なんぶ としたか)盛岡藩主の許可を得て、南部信鄰(なんぶ のぶちか)が七戸に南部新田藩を立藩し、後に七戸藩と呼ばれるようになった。

 幕末の戊辰戦争においては、藩主の南部信民が盛岡藩とともに「奥羽越列藩同盟」に参加し、反維新政府として戦ったが敗れ、南部信民は強制隠居させられた。その後、南部信方(なんぶ のぶかた)が藩主を継ぎ、明治2年(1869年)に版籍奉還で七戸藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で七戸藩は七戸県となり、その後、弘前県に編入され、県庁の青森への移転により青森県となった。県庁の青森移転は、津軽(つがる)地方の中心である弘前では津軽に寄り過ぎていることと、青森が港町として今後発展が見込まれることが考慮された。

 七戸町は、明治35年(1902年)に上北郡七戸村が町制を施行して上北郡七戸町となった。その後、平成の大合併で、平成17年(2005年)に上北郡の七戸町と天間林(てんまばやし)村が合併して新しい七戸町が発足し、旧・天間林村役場が新しい七戸町役場本庁舎となった。

 七戸町は標高1585mの八甲田山(はっこうださん)の東にあり、南の十和田市には十和田湖(とわだこ)があり、豊かな自然に恵まれている。農業はナガイモやニンニクの栽培が盛んで、そのほか酪農や競走馬の生産がおこなわれている。

 七戸町には、平成22年(2010年)にJR東日本・東北新幹線が開業し、七戸十和田(しちのへとわだ)駅が開設された。在来線の東北本線(現・青い森鉄道線)は、海側を通っていたが、東北新幹線はトンネル等でショートカットする形で内陸部を通るルートとなったため、八戸~新青森の中間地点である七戸町に駅が設置されたのだった。

 七戸十和田駅は、駅開設に合わせて周辺の開発が進められ、駅前に「イオン七戸十和田駅前店」や「七戸町観光交流センター」、国道4号線に道の駅「しちのへ」が開設された。また、駅の近くには青森県営農大学校がある。七戸十和田駅の南には旧・七戸町の市街地、北には旧・天間林村の市街地が広がっている。

 七戸十和田駅は、七戸町だけでなく、近隣の十和田市および十和田湖観光の玄関駅としても期待されており、十鉄バスが十和田市を結んでいるほか、野辺地、三沢など青い森鉄道の沿線都市を結ぶ路線バスもある。駅前にはレンタカー店も集まり、八甲田山や十和田湖の観光利用にも便利だ。

 七戸町には以前、南部縦貫鉄道の南部縦貫鉄道線が通り、JR東北本線(現・青い森鉄道線)野辺地(のへじ)駅から七戸駅を結び、七戸町内には旧・天間林村に後平(うしろたい)、坪(つぼ)、坪川(つぼかわ)、道ノ上(みちのかみ)、天間林(てんまばやし)、中野(なかの)の各駅が、旧・七戸町には営農大学校前(えいのうだいがっこうまえ)、盛田牧場前(もりたぼくじょうまえ)、七戸(しちのへ)の各駅があった。

 営農大学校前駅は、七戸十和田駅のすぐ近くにあり、東北新幹線の七戸十和田駅から南部縦貫鉄道が野辺地駅を結ぶ役割も期待されたが、東北新幹線の延伸計画が遅れる中、南部縦貫鉄道は東北新幹線の七戸の区間の開業を待つことなく、平成9年(1997年)に運転を休止。平成14年(2002年)に正式に廃止になった。旧・七戸駅跡にはレールや機関庫、旧型レールバス(キハ10形)の車両などが保存されている。

 東北新幹線の七戸十和田駅の開業により、十和田観光も便利になったが、一方で東北本線(現・青い森鉄道)の三沢駅から十和田市(とわだし)駅を結んでいた十和田観光電鉄線の利用者が新幹線開業後に大きく減少したため、平成24年(2012年)に廃止された。新幹線と地方鉄道を有機的に結びつけることができず、結果的に南部縦貫鉄道と十和田観光鉄道の両方とも廃止されてしまったのは残念だった。

七戸エリアの主な駅

七戸十和田 / しちのへとわだ 駅
JR東日本 東北新幹線

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東北新幹線・七戸十和田駅

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東北新幹線・七戸十和田駅

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東北新幹線から眺めた七戸町

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東北新幹線から眺めた七戸町

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東北新幹線から眺めた七戸町

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テーマ : 青森県の話題
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時の旅・1963年(昭和38年) 日本初の高速道路開通、黒四ダムが完成、米ケネディ大統領暗殺、韓国朴正煕大統領就任、南ベトナムで仏教弾圧とクーデター

1963年
昭和38年

時の旅・1963年(昭和38年) 日本初の高速道路開通、黒四ダムが完成、米ケネディ大統領暗殺、韓国朴正煕大統領就任、南ベトナムで仏教弾圧とクーデター

当時の日本の首相 池田勇人(自由民主党)

 1963年(昭和38年)は、池田勇人(いけだ はやと)内閣総理大臣(首相)をトップとする自由民主党(自民党)政権の下、「所得倍増政策」が掲げられ、昭和39年(1964年)の東京オリンピック開催に向けて、東海道新幹線や首都高速道路、東京モノレールなど積極的な建設工事が推進された。太平洋ベルト以外の工業化の拠点づくりのために昭和37年(1962年)に策定された「全国総合開発計画」に基づく「新産業都市」および「工業整備特別地域」も7月が閣議決定された。9月には筑波研究学園都市の建設についても閣議決定された。

 また、6月には、171人の殉職者を出して難工事の末に黒部川上流に高さ186m、幅492m、貯水量2億立方メートルの水力発電用ダムである関西電力・黒部川第四発電所(黒四ダム/黒部ダム)が完成した。7月には日本初の高速道路として、名神高速道路の栗東~尼崎が開通し、本格的な車社会を迎える重要なインフラとなった。

 そんな右上がり高度経済成長が続く中、11月に第30回衆議院選挙が実施された。その結果、自由民主党(自民党)283議席、日本社会党(社会党)144議席、民主社会党(民社党)23議席、日本共産党5議席、無所属12議席となり、自民党が過半数を制した。池田内閣は信任され、第3次池田内閣が発足した。

 地方行政は、福岡県の小倉市、門司市、戸畑市、若松市、八幡市の5市が2月合併して「北九州市」が発足。4月に政令指定都市となり、旧市がそれぞれ区となった。

 経済は、3月に「寿屋」が商品名「サントリー ウイスキー」から社名を「サントリー」に改名し、4月に「サントリービール」を発売した。7月に日清食品が「日清焼そば」を、8月にエースコックが「ワンタンメン」を発売した。本田技研工業(ホンダ)が軽トラック「T360」を発売した。11月に偽札帽子のため伊藤博文が肖像の新しい千円札が発行された。

 また、11月に福岡県大牟田市の三井三池三川炭鉱で炭塵爆発事故が発生した。石炭を積んだ炭坑内のトロッコの連結が外れて暴走、脱線し、炭塵に引火爆発が起こり、坑内で作業していた約1400人のうち死者458名、一酸化炭素中毒患者839名を出す大惨事となった。

 交通は、鉄道は4月に京阪電鉄本線の天満橋~淀屋橋が開業した。9月に国鉄が自動列車停止装置(ATS)を導入した。10月に国鉄信越本線の横川~軽井沢の碓氷峠の急勾配区間がアプト式旧線が廃止されて、一般の鉄道の粘着運転方式となり、電気機関車が支える運転方式に改められた。12月に国鉄山手線にウグイス色の103系電車がデビューした。

 11月には品鶴貨物線(現・横須賀線)を走行していた貨物列車が横浜市鶴見付近で脱線し、そこに東海道本線の線路を走行していた横須賀方面へ向かう下り電車が衝突、さらにその下り電車の一両目が脱線して東京方面へ向かう上り電車に衝突し、161名が死亡した「鶴見事故」が発生し、国鉄五大事故の一つに数えられる大惨事となった。 

 文化については、音楽は、梓みちよ「こんにちは赤ちゃん」、舟木一夫「高校三年生」、坂本九「見上げてごらん夜の星を」、ザ・ピーナッツ「恋のバカンス」、三沢あけみ・和田弘とマヒナスターズ「島のブルース」、三波春夫「東京五輪音頭」、橋幸夫「舞妓はん」などがヒットした。また洋楽は、ビートルズ(THE BEATLES)の「シー・ラヴズ・ユー(She Loves You)」、「抱きしめたい(I Wanna Hold Your Hand)」などがヒットした。

 テレビは、1月にフジテレビ系で日本国産のテレビアニメ「鉄腕アトム」が放映を開始した。日本テレビ系で「キューピー3分クッキング」を放送開始した。出版は、4月に小学館が週刊誌「女性セブン」を創刊した。映画は邦画は「にっぽん昆虫記」「赤いハンカチ」、洋画は「史上最大の作戦」、「アラビアのロレンス」などがヒットした。

 スポーツは、プロ野球ペナントレースでセリーグは読売ジャイアンツ(巨人)、パリーグは西鉄ライオンズが優勝し、日本シリーズでは、巨人が2年ぶり6回目の優勝を果たした。巨人の長嶋茂雄が最優秀選手に選ばれ、王貞治がセリーグの本塁打王に輝いた。南海ホークスは優勝は逃したものの、野村克也が本塁打王や最優秀選手に輝いた。大相撲は大鵬が1,3,5月場所で優勝した。12月にプロレスラーの力道山がトラブルで刺され、一週間後に症状が悪化し、死亡した。

 世界の動きは、韓国(大韓民国)は、1961年の5・16軍事クーデターにより「国家再建最高会議」という軍事政権となっていた。軍事政権は朴正煕(박정희/パク チョンヒ)国家再建最高会議議長がトップとなり、民政移管方針に従い、国民の直接選挙による大統領制に戻し、12月に第6代韓国大統領選挙が実施された。尹潽善(윤보선/ユン ボソン)大統領はクーデター後もクーデター軍側の要請でその座にとどまっていたが、1962年に軍事政権が制定した政治活動浄化法に抗議して大統領を辞任した。尹潽善・元大統領が民政党を結成して第6代韓国大統領選挙に出馬した。一方、朴正煕は民主共和党を結成して大統領選に出馬。10月に実施された大統領選挙では、尹が北部、朴が南部でリードし、朴正熙(民主共和党)46.6%、尹潽善(民政党)45.1%の僅差で朴正煕が勝利し、12月に第6代韓国大統領に就任した。

 ベトナムでは、南ベトナム(ベトナム共和国)で5月に中部のフエで仏旗の禁止に抗議する仏教徒が銃撃される事件が発生した。ゴ・ディン・ジエム(Ngô Ðình Diệm/吳廷琰)大統領がカトリック信者であり、カトリックの有力者たちを優遇したことが仏教徒らの反政府運動につながり、戒厳令を敷き、仏教徒を弾圧した。ベトナム当局はベトコン(共産党)を批判するとともに、特殊部隊が仏教寺院を破壊し、出家僧を逮捕するなどして、仏教徒の抗議を抑え込もうとしたが、ジエム大統領に対する反感は高まっていった。仏教徒であるズオン・バン・ミン(Dương Văn Minh/楊文明)軍事顧問を中心に11月に米国黙認の下、軍事クーデターが発生し、ジエム大統領およびその弟のゴ・ディン・ヌー(Ngô Ðình Nhu/呉廷瑈)大統領顧問を殺害した。

 アメリカ合衆国(米国)は、8月にマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King, Jr.)による「I Have a Dream」演説が行われた黒人差別撤廃を訴えるワシントン大行進が実施された。ジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)大統領が11月にテキサス州のダラス市内をパレード中に何者かに銃撃され、死亡する「ケネディ大統領暗殺事件」が発生した。事件発生から約1時間後にリー・ハーヴェイ・オズワルド(Lee Harvey Oswald)が犯人として逮捕された。オズワルドは米軍除隊後にソ連亡命歴があり、米国帰国後もKGB工作員とも接触歴があった。しかし、逮捕から2日後にオズワルドは刑務所へ移送される車に乗る前に実業家でナイトクラブオーナーのジャック・ルビー(Jack Ruby)により射殺された。この不可解な事件展開にさまざまな陰謀説が議論された。ケネディ大統領の死により、リンドン・ジョンソン(Lyndon Johnson)副大統領が大統領に昇格し、政権を引き継いだ。

 中国(中華人民共和国)は、中国油圧機器調査団の通訳として来日した周鴻慶が帰国直前に在日ソ連大使館に亡命を求めたが、その後、行き先を台湾(中華民国)に変更したが、日本外務省は中共(中国共産党)との関係悪化を恐れ、パスポートの期限切れを理由に周を拘束し、中国への帰国を促した。これに対して、台湾の中華民国政府が厳重に日本に抗議し、日台関係に緊張が走った。

 このほか世界の動きは、1月にフランスとドイツによる仏独協力条約が締結された。2月にインドネシアのバリ島のアグン山が噴火した。4月にユーゴスラビア連邦人民共和国がユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改名し、ヨシップ・ブロズ・チトー(Josip Broz Tito/Јосип Броз Тито)が終身大統領に就任した。9月にマラヤ連邦が英領シンガポール自治州、英保護国北ボルネオ、英領サラワクを統合し、独立国家「マレーシア」となった。10月にイタリア北東部のバイオントダムで山の地すべりからダム湖が越水し、2000名以上の犠牲者を出す大災害が発生した。11月にアイスランドで海底火山が噴火し、スルツェイ島が誕生した。12月にケニアがイギリスから独立した。

(参考:Wikipediaなど)

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テーマ : 歴史
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北海道・占冠 石勝線とトマムリゾート

占冠
しむかっぷ (日本語)
シ ムカップ (アイヌ語)

日本国北海道上川地方勇払郡占冠村

北海道・占冠 石勝線とトマムリゾート

 占冠(しむかっぷ)村は、北海道(ほっかいどう)の上川(かみかわ)地方、勇払(ゆうふつ)郡にある人口約0.2万人の村。鵡川(むかわ)の上流部にあり、アイヌ語地名の由来は、「とても静かで平和な上流の場所」を意味する「シモカップ」(Simokap)や、「本流の鵡川」の「シ ムカップ」(Si-mukap)など諸説ある。

 占冠村は、東と北が上川地方の空知(そらち)郡・南富良野(みなみふらの)町、西が空知地方の夕張(ゆうばり)市、南西が胆振地方の勇払(ゆうふつ)郡・むかわ町、南が日高(ひだか)地方の平取(びらとり)町、日高(ひだか)町と接している。

 勇払郡はもともと胆振国(いぶりのくに)に属していたが、占冠村は明治39年(1906年)に室蘭支庁(胆振支庁)から上川支庁に移管され、現在も勇払郡のうち占冠村は上川総合振興局の管轄となっている。

 占冠は、明治35年(1902年)より佐藤農場の日陰長松らが開拓を始め、明治38年(1905年)に、現・むかわ町の一部である辺富内(へとない)村から分村。昭和7年(1932年)に南富良野村・占冠村組合役場から占冠村が独立した。占冠村は農業と酪農、林業などが盛んで、農業はジャガイモ、カボチャ、トウモロコシ、メロン、スイカ、甜菜などの栽培が盛んである。

 占冠村への交通は、石狩地方と十勝地方を結ぶ最短ルートとして千歳・新夕張と新得(しんとく)をショートカットする国鉄石勝線が昭和56年(1981年)に開業し、占冠駅およびトマム駅が開設された。石勝線の新夕張~新得は、特急列車のみしか運行されていないため、占冠村の駅から新夕張および新得への区間は特急料金が不要となる特例がある。

 占冠駅は、特急「とかち」の全列車と、特急「おおぞら」の一部が停車する。駅の近くには鵡川が流れ、占冠村役場および占冠の村の中心は駅から約1キロ南にある。市街地の中心部を国道237号線が通り、道の駅「自然体感しむかっぷ」がある。また、その周辺に占冠村ショッピングモール、占冠村コミュニティプラザ、占冠村農村公園などがある。双珠別川の南には国設占冠中央スキー場がある。また、市街地の東側に道東自動車道の占冠IC(インターチェンジ)がある。

 占冠村は内陸の山間部にあり、南に日高方面とつながる日高峠、北に富良野方面とつながる金山峠があり、それを南北に結ぶ国道237号線が通る。また、占冠村の南部から夕張市方面に国道274号線が伸びている。これまで占冠村から十勝方面へは、日高町から国道274号線で日勝峠(にっしょうとうげ)か、南富良野町から国道38号線で狩勝峠(かりかちとうげ)を越えなければならず、難所だった。

 この道路事情を改善するために道東自動車道が建設され、平成19年(2007年)に十勝側の十勝清水ICから狩勝第一・第二トンネルを通りトマムICが開通し、さらに平成21年(2009年)にトマムIC~占冠ICが開通した。そして平成23年(2011年)に占冠IC~夕張ICが開通し、札幌~帯広が高速道路で結ばれ、道央から道東への道路事情が飛躍的に改善された。

 トマム駅は、アイヌ語で湿地を意味する「トマム」(Tomam)が由来のカタカナ駅名である。昭和56年(1981年)の石勝線開業時には石勝高原(せきしょうこうげん)駅として開設されたが、リゾート開発が進んだ昭和62年(1987年)に地元地名の苫鵡(とまむ)に合わせてトマム駅に改名された。占冠駅と同様に特急列車のみの運行であり、特急「おおぞら」「とかち」の全列車が停車する。

 トマム駅の周辺には1980年代後半に「アルファリゾート・トマム」が開発され、ゴルフ場とスキー場、リゾートホテルを中心に大規模なリゾート開発が進められた。その後、バブルの崩壊で経営が悪化し、後に加森観光も運営に参加した。平成15年(2003年)に「アルファリゾート・トマム」を開発した「関兵精麦」が民事再生法申請となり、平成16年(2004年)より「星野リゾート」が運営を引継ぎ、平成23年(2012年)に「アルファリゾート・トマム」を「星野リゾート トマム」に改名した。平成27年(2015年)に中国資本の上海豫園旅游商城(復星集団)が「株式星野リゾート ・トマム」の全株式を取得し、平成29年(2017年)に「クラブメッド北海道トマム」がオープンした。「星野リゾート トマム」には、「ザ・タワーI・II」、「リゾナーレ トマム」、「ホテルアルファトマム」などのリゾートホテルや、「水の教会」、「ミナミナビーチ・木林の湯」、星野リゾート・トマムスキー場、ホタルストリート、雲海テラスなどのリゾート施設がある。

占冠エリアの主な駅

占冠 / しむかっぷ 駅
JR北海道 石勝線

トマム
JR北海道 石勝線

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夜のJR石勝線・占冠駅

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夜のJR石勝線・トマム駅

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テーマ : 北海道
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岩手・大船渡 大船渡港とセメント工業、三陸鉄道と大船渡線BRT

大船渡
おおふなと

日本国岩手県大船渡市

岩手・大船渡 大船渡港とセメント工業、三陸鉄道と大船渡線BRT

 大船渡(おおふなと)市は、岩手(いわて)県南東部にある人口約4万人の市。三陸海岸沿いの主要都市の一つであり、北が釜石(かまいし)市、西が気仙(けせん)郡の住田(すみた)町、南西が陸前高田(りくぜんたかた)市と接し、東には太平洋が広がっている。

 大船渡は古くは陸奥国(むつのくに)の気仙(けせん)郡に属し、江戸時代には仙台(せんだい)藩領だったため、明治の陸奥国の分割では宮城県と同じ陸前国(りくぜんのくに)に属することになったが、廃藩置県では一関県、水沢県、磐井県を経て、明治9年(1876年)に磐井県のうち陸前国側が宮城県に編入されたが、陸前高田と大船渡は同年に岩手県に再編入された。

 大船渡市は、昭和7年(1932年)に気仙郡大船渡村が町制を施行して気仙郡大船渡町となり、昭和27年(1952年)に気仙郡の大船渡町、盛(さかり)町、赤崎(あかさき)村、猪川(いかわ)村、立根(たっこん)村、末崎(まっさき)村、日頃市(ひころいち)村が合併し、大船渡市が発足した。平成の大合併では、平成13年(2001年)に気仙郡三陸(さんりく)町を編入合併し、現在の市域となった。

 大船渡はリアス式の三陸海岸にある都市で、天然の良港である大船渡港を中心に市街地が広がっている。また、山では石灰石が産出されることからセメント工業が発展した。リアス式海岸は風光明媚な美しい景観を生み出し、大船渡の魅力となっているが、一方で明治29年(1896年)の明治三陸地震、昭和8年(1933年)の昭和三陸自身、昭和35年(1960年)のチリ地震などでは、いずれも大津波が押し寄せ、大きな被害を受けた。平成23年(2011年)の東日本大震災では、大船渡の市街地にも約10mの高さの津波が襲い、甚大な被害が出た。また、リアス式海岸の綾里(りょうり)地区では24mに迫る高さまで津波が押し寄せた。東日本大震災における大船渡市の死者・行方不明者は400人以上に達した。

 大船渡市には、三陸鉄道リアス線とJR東日本・大船渡線BRTが通り、リアス線の盛(さかり)、陸前赤崎(りくぜん あかさき)、綾里(りょうり)、恋し浜(こいしはま)、甫嶺(ほれい)、三陸(さんりく)、吉浜(よしはま)の各駅と、大船渡線BRTの盛、田茂山(たもやま)、地ノ森(じのもり)、大船渡(おおふなと)、大船渡魚市場(おおふなと うおいちば)、下船渡(しもふなと)、大船渡丸森(おおふなと まるもり)、細浦(ほそうら)、碁石海岸口(ごいしかいがんぐち)の各停留所がある。

 大船渡線BRTの前身は国鉄大船渡線であり、一ノ関(いちのせき)から気仙沼を経由して大船渡方面を結ぶ路線として大正時代から建設が始まり、一ノ関側から徐々に延伸を続け、昭和8年(1933年)に現・大船渡市の細浦まで延伸。昭和9年(1934年)に細浦~大船渡、昭和10年(1935年)に大船渡~盛が延伸開業し、全線開通した。国鉄時代およびJR大船渡線の時代は、大船渡市には細浦、下船渡、大船渡、盛の4つの駅があったが、東日本大震災の大津波により細浦駅と大船渡駅が甚大な被害を受けた。大船渡線は大船渡市内だけでなく陸前高田市で特に壊滅的な被害を受けたことから、鉄道での復旧を断念し、BRT(バス・ラピッド・トランジット)化された。

 津波で線路の路盤が崩壊し、復旧させるのに時間がかかることと、津波で危険な沿岸部の町では、集落ごと移転したり、土地のかさ上げなど大規模な都市計画を立て、駅もそれに合わせて移転する必要があり、もし鉄道で復旧するとしたら新線を建設するような莫大な費用がかかることになる。しかも大船渡線は赤字路線であることから、JR東日本は路線の復旧を渋った。

 震災で甚大な被害を受けた自治体もお金がなく、県や国も民間鉄道への支援には積極的でなかった。JR東日本は、早く運行再開できて工事費用や運行費用も安いBRT(バス・ラピッド・トランジット)方式で復旧させることを提案し、鉄道路盤の一部を利用してそこにバスを走らるBRT専用道化し、復旧が難しい区間を一般道路を使用するという方式で、段階的に仮復旧することになった。

 気仙沼~盛の区間で津波被害に遭った大船渡線は、平成24年(2012年)10月に沿線自治体がBRT仮復旧に合意。平成25年(2013年)3月に大船渡~盛がBRT専用道化され、気仙沼~盛のBRTが運行を開始した。同年9月に小友~大船渡がBRT専用道化された。平成27年(2015年)3月に気仙沼~鹿折唐桑がBRT専用道化され、同年12月にJR東日本は沿線自治体の合意を得て鉄道による復旧を正式に断念し、BRTによる本復旧ということになった。令和2年(2020年)現在、気仙沼~鹿折唐桑と小友(の脇ノ沢寄り)~盛がBRT専用道化されているほか、鹿折唐桑~上鹿折、陸前高田~陸前矢作でBRT支線としてのバスが運行されている。令和2年(2020年)には大船渡市内に田茂山、地ノ森、大船渡丸森の新停留所が開設された。便利になるのはよいが、BRTの名で実質的にはバス転換とあまり変わらなくなっており、もう鉄道に戻すことはできない。

 せっかく三陸地方が鉄道でつながったのに、BRT化により分断されてしまうのは非常に惜しいが、仙台までのアクセスは三陸自動車道の開通区間延長で、高速バスが有利になっている。単線の鉄道復旧より高速道路開通のほうが経済効果も利便性も高いのだろう。地域輸送の面から見れば、鉄道とBRTを比べた場合、BRTのほうが本数を増やせる利点があるが、定時走行と乗り心地で鉄道より劣る点がある。線路と道路を両方走行できるDMV(デュアル・モード・ビークル)が実用化できれば、専用区間を再び線路にして乗り心地の向上が可能で、大船渡線と大船渡BRTの直通運転もできる。観光誘致の面でもインパクトがあるので、検討してみてもよいのではないかと思う。BRTの区間はそのままでも三陸鉄道と直通できれば面白い。

 JR大船渡駅は、大船渡港の西側にあり、東日本大震災の津波で駅舎が流失した。震災復興でBRT化に合わせて駅前も再開発され、駅前には「おおふなぽーと」(大船渡市防災観光交流センター)、「かもめテラス」(さいとう製菓総本店)、大船渡プラザホテルなどがある。

 大船渡魚市場・停留所は、平成27年(2015年)に大船渡~下船渡の間に開設されたBRTの停留所で、大船渡市魚市場の最寄り駅である。このように鉄道より安価で停留所を増設できるのはBRTの強みである。

 細浦駅は、津波がホームまで押し寄せ、駅舎も流失した。平成25年(2013年)のBRT専用道化により、細浦駅の線路はアスファルト化されたが、停留所には鉄道ホームの遺跡がほぼそのまま残っている。

 碁石海岸口・停留所もBRT化の際に開設された停留所で、大船渡を代表する観光地である碁石海岸と碁石岬の最寄り駅となっている。碁石海岸は、海岸にある黒く平たい岩(黒色泥岩/ホルンフェルス)が碁石のように見えたことからそのように呼ばれるようになった。

 大船渡市の市街地は、大船渡駅の約2.5キロ北の盛(さかり)駅の周辺に広がっており、大船渡市役所も盛駅が最寄り駅である。盛駅で大船渡線BRTと三陸鉄道の乗り換えができる。駅の近くには盛川が流れ、大船渡湾に注いでいる。

 盛駅にはこのほか、岩手開発鉄道の日頃市線と赤崎線の貨物線が通っている。日頃市線の岩手石橋駅には太平洋セメント大船渡鉱山(長岩鉱山)がありここで採取されや石灰石を貨物列車で赤崎線の赤崎駅まで運び、赤崎駅に併設されているベルトコンベアで太平洋セメント大船渡工場まで運んでいる。

 三陸鉄道リアス線は、入り組んだリアス式海岸の地形が続く三陸地方を南北につなぐ鉄道の建設が国鉄時代から計画され、昭和45年(1970年)に盛駅から国鉄盛線として盛~綾里が開業。昭和48年(1973年)に綾里~吉浜が延伸された。その後、国鉄の経営難から工事が中断されていたが、岩手県を中心とする第3セクターの「三陸鉄道」が設立され、工事を再開して、昭和59年(1984年)に吉浜~釜石(かまいし)が開業し、盛~吉浜~釜石が三陸鉄道・南リアス線として全通した。釜石駅ではJR釜石線・山田線と接続し、三陸における鉄道のネットワークが向上した。

 三陸鉄道は南リアス線のほか、久慈(くじ)~宮古(みやこ)の北リアス線も運行し、釜石~宮古はJR山田線が運行していたが、東日本大震災で三陸地方を走る鉄道は例外なく甚大な被害を受けた。三陸鉄道は、岩手県のサポートもあり、南リアス線は平成25年(2013年)に盛~吉浜が復旧。平成26年(2014年)に吉浜~釜石が復旧して、全線復旧となったが、JR東日本・山田線の区間の復旧が赤字ローカル線であることからJRは赤字路線の自己負担による復旧に消極的だった。そこで鉄道を残すという岩手県の強い意志の下、JR山田線の釜石~宮古を三陸鉄道に移管して南北に分かれていた三陸鉄道を統合して盛~釜石~宮古~久慈を三陸鉄道リアス線とすることになり、平成31年(2019年)に釜石~宮古が復旧し、リアス線として再スタートを切った。

 陸前赤崎駅からは大船渡湾の眺めがよいが、東日本大震災の際には津波が押し寄せた。駅周辺では地盤のかさ上げ工事などが行われた。

 この先の綾里~吉浜は旧・三陸町を走る。綾里駅の近くの綾里湾は海岸風景が非常に美しいが、これまで大地震の際に何度も高い津波が押し寄せており、三陸鉄道リアス線も高台を走っている。そのため、東日本大震災の際には綾里周辺の区間は被害をまぬがれた。

 恋し浜駅は、もともと小石浜(こいしはま)駅であったが、平成21年(2009年)に地元のホタテ貝のブランド「恋し浜」に合わせて駅名も恋し浜駅に改名した。「ホタテ貝の絵馬」に願い事をかけるのが同駅名物となっている。甫嶺駅は、津波で駅周辺の路盤や線路が被害に遭った。

 三陸駅は、旧・三陸町の中心駅で、1面2線のホームがある。駅の近くには、津波に遭いながらも生き残ったポプラがある「ど根性ポプラ広場」や、「三陸とれたて市場」、越喜来(おきらい)漁港などがある。

 吉浜駅は、大船渡市(旧・三陸町)最北の駅で、特産品の「吉浜鮑」(キッピンあわび)で知られる。駅前には美しい吉浜湾は広がり、三陸リアス式海岸の美を堪能できる。

大船渡エリアの主な駅

/ さかり 駅
三陸鉄道 リアス線
JR東日本 大船渡線BRT

大船渡 / おおふなと 駅
JR東日本 大船渡線BRT

三陸 / さんりく 駅
三陸鉄道 リアス線

吉浜 / よしはま 駅
三陸鉄道 リアス線

恋し浜 / こいしはま 駅
三陸鉄道 リアス線

綾里 / りょうり 駅
三陸鉄道 リアス線

細浦 / ほそうら 駅
JR東日本 大船渡線BRT

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三陸鉄道リアス線・盛駅

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BRT化されたJR大船渡線と三陸鉄道の盛駅

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盛駅のホーム

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盛駅のホームと駅舎

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三陸鉄道から見たJR大船渡線BRT

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三陸鉄道から見たJR大船渡線BRT

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大船渡湾に注ぐ盛川

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大船渡線BRTかた見た大船渡湾

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BRT大船渡駅

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大船渡線BRTから見た大船渡湾

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大船渡線から見た大船渡湾

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大船渡線から見た大船渡湾

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鉄道ホームの遺跡が残る大船渡線BRT細浦駅

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土地かさ上げ工事が進む陸前赤崎駅地区

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三陸鉄道リアス線・綾里駅

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三陸鉄道リアス線・恋し浜駅

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三陸鉄道リアス線・恋し浜駅

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恋し浜駅から見た眺め

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甫嶺駅付近の改修された防波堤

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三陸駅付近の改修された防波堤

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三陸鉄道リアス線・三陸駅

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三陸鉄道リアス線・三陸駅

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吉浜駅近くの眺め

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三陸鉄道から見た吉浜湾の眺め

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福島・西郷 東北新幹線の新白河駅と阿武隈川と甲子高原

西郷
にしごう

日本国福島県西白河郡西郷村

福島・西郷 東北新幹線の新白河駅と阿武隈川と甲子高原

 西郷(にしごう)村は、福島(ふくしま)県中通り南部の西白河(にししらかわ)郡にある人口約2万人の村。東が白河(しらかわ)市、北が岩瀬(いわせ)郡の天栄(てんえい)村、西が南会津(みなみあいづ)郡の下郷(しもごう)町、南が栃木県那須塩原(なすしおばら)市、栃木県那須(なす)町と接している。

 西白河郡は、中通りの南部にあるが、旧国名は浜通りを含む磐城国(いわきのくに)に属し、西郷村は磐城国の最西部にあたる。江戸時代は白河藩領で、明治維新の際に陸奥国が分割されて磐城国の一部となり、旧・白河藩は廃藩置県で白河県、二本松県を経て福島県の一部となった。

 西郷村は白河市に近接し、東北新幹線を建設する際、地形的に白河駅に新幹線の駅を併設することが難しかったため、昭和57年(1982年)に西郷村にある東北本線の磐城西郷(いわき にしごう)駅を新白河(しんしらかわ)駅と改称した上で、東北新幹線の駅が開設された。

 新白河駅は西郷村と白河市の境の西郷村側にあり、新幹線側の東口が白河市、在来線側の西口が西郷村への玄関口となっている。東北新幹線は各駅タイプの「なすの」や「やまびこ」が停車し、東京まで約90分で結んでいる。在来線は、新白河で運行系統が分かれ、新白河から南へは栃木県の黒磯(くろいそ)まで交直流電車が運行され、新白河以北は郡山(こおりやま)、福島(ふくしま)、仙台(せんだい)方面へ交流電車が運行されている。新白河駅東口の白河市側は「新白河大通り」が整備され、周辺には居酒屋などの飲食店が集まっている。

 西郷村は実質的には白河市と生活圏が一体化しており、西郷村側の新白河駅西口は、東横イン新白河駅前、JRAウインズ新白河、三菱製紙白河工場、イオン白河西郷店などがある。また、西郷村の市街地の西には東北自動車道の白河IC(インターチェンジ)があり、国道4号線と連絡している。

 西郷村と白河市は合併の話もあったが、西郷村には新幹線の駅や三菱製紙の工場、大規模商業施設などがあり、税収も豊富なので白河市とは合併せずに西郷村として独立を保っている。

 西郷村には阿武隈川の上流部に甲子(かし)高原が広がっている。阿武隈川の周辺には「グランディ那須白河ゴルフクラブ」、「白河高原カントリークラブ」などのゴルフ場がある。流域には甲子温泉や新甲子温泉がある。

西郷エリアの主な駅

新白河 / しんしらかわ 駅
JR東日本 東北新幹線、東北本線

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東北新幹線・新白河駅

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東北新幹線・新白河駅

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東北新幹線から見た西郷と白河の眺め 

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中国・湖北 洞庭湖の北、長江が流れる水陸交通の要衝、世界最大の三峡ダム

湖北
フウペイ/Húběi (中国語/北京語)

中华人民共和国湖北省
中華人民共和国湖北省

中国・湖北 洞庭湖の北、長江が流れる水陸交通の要衝、世界最大の三峡ダム

 湖北(フウペイ)省は、中華人民共和国の華中地方にある省で、南が湖南(フウナン)省、東が江西(チャンシー/コンシー)省と安徽(アンホエイ)省、北が河南(ホーナン)省、西が陕西(サンシー)省、重慶(重庆/ツォンチン)市と接している。省都は武漢(武汉/ウーハン)市。

 湖北省の平地は温暖湿潤気候で、冬は寒冷で乾燥し、夏は降水量が多いが、非常に暑く、四季ははっきりしている。日本の大都市と比較的気候はよく似ている。湖北省の面積は約18.6万平方キロメートル、人口は約5900万人。そのうち漢族が約95%、トゥチャ(土家)族が約4%、ミャオ(苗)族が0.4%を占める。

 湖北省は長江(长江/ツァンチャン)の中流が東から西に流れ、省都の武漢は、長江の水運と北の北京(ペイチン)から南の広州(广州/クォンツァウ/クアンツォウ)を結ぶ陸路が交わる交通の要衝として発展した。中国で二番目に大きな淡水湖である洞庭湖(トンティンフウ)の北に位置することから「湖北」と呼ばれるようになった。

 湖北省は春秋戦国時代には「楚」の国に属した。漢の時代からは「荊州」に属し、宋の時代から「荊湖北路」が設置され、元以降は湖北と湖南を管轄する「湖広省」が置かれたが、清の時代に湖北省となった。清朝末期には、辛亥革命の発端となる武昌起義が1911年10月10日に発生し、1912年の「中華民国」建国につながった。1937年(民国26年)に日中戦争が発生すると、湖北省は日本軍に占領された後、日本に協力的だった中華民国汪兆銘政権が1945年(民国34年)まで実効統治した。日本敗戦により中華民国の蒋介石・中国国民党政権が再び湖北省を統治するようになったが、その後、国共内戦により、中国共産党が1949年5月に武漢を「解放」し、中国国民党政権が台湾に逃れ、1949年10月に中国共産党により「中華人民共和国」が建国され、中華人民共和国湖北省となり、現在に至る。

 湖北省の漢族の言語は、大部分で西南官話(武漢語、四川語)が話されている。西南官話は湖北省、重慶市、四川(スーツォワン)省、雲南(ユンナン)省などで話されており、武漢方言(武汉话)はその最東端に位置する方言である。湖南省の湖南語(湘语)や江西省の江西語(赣语)、安徽省の江淮官話などよりは標準中国語(北京語、普通話)に近いとはいえ、それでも大きな違いがある。

 また、湖北省東部の黄岡(黄冈/ホアンカン)や孝感(シャオカン)では江淮官話の黄孝方言が話され、湖北省南東部の咸寧(シエンニン)、赤壁(ツーピー)、黄石(ホアンスー)などでは江西語・贛(コン)語(赣语)の咸寧方言が話されている。

 湖北省の省都は武漢(武汉/ウーハン)市で、華中地方を代表する大都市である。湖北省には鄂州(オーツォウ)、黄岡(黄冈/ホアンカン)、黄石(ホアンスー)、咸寧(咸宁/シエンニン)、孝感(シャオカン)、荊門(荊门/チンメン)、荊州(チンツォウ)、随州(スエイツォウ)、襄陽(襄阳/シャンヤン)、宜昌(イーツァン)、十堰(スーイエン)などの地級市と恩施(エンスー)トゥチャ族ミャオ族自治州(恩施土家族苗族自治州)、さらに仙桃(シエンタオ)、天門(天门/ティエンメン)、潜江(チエンチャン)などの省直轄県級市、森林保護区の神農架(神农架/センノンチア)林区がある。

 武漢(武汉/ウーハン)市は、湖北省中東部にある人口約650万人の都市で、郊外の人口を含めた全市人口は約1100万人。長江の川幅が広いことから、武漢は古くは長江を挟んで南側に武昌(ウーツァン)、北側に漢陽(汉阳/ハンヤン)、漢口(汉口/ハンコウ)という都市があった。漢口は1858年の天津条約で開港されて国際都市となり、武昌は1911年の辛亥革命へとつながる武昌起義の舞台となった。中華民国時代の1926年(民国15年)にこの3都市を合わせて「武漢」と呼ぶようになった。

 武漢駅は武漢市洪山(ホンサン)区に2009年に開設された高速鉄道(中国版新幹線)用の新駅。中国は内陸部の経済発展の力を入れているが、その動脈となるのが、南北と東西に4本ずつ建設する高速鉄道網である。武漢から上海へ向かう滬漢蓉新幹線(沪汉蓉高速铁路/フウハンロン カオスウティエルウ)は在来線を時速200キロで走れるよう高速化改良した路線である。一方、武漢と広州を結ぶ武広新幹線(武广客运专线/ウークァン コーユンツォワンシエン)は、日本の新幹線のようにまったく新たに建設した高速新線で、2012年に北京方面も開業し、北京~武漢~広州が一本でつながる京広新幹線(京广高速线)となった。広州からは広深港高速鉄道(广深港高速铁路)に直通し、香港(ホンコン)の西九龍(サイカウロン/シーチョウロン)まで2018年に開業した。武広新幹線(武广客运专线)は2009年12月に開業し、武漢(武汉/ウーハン)~広州南(广州南/クォンツァウナム/クァンツォウナン)間968キロをわずか3時間余りで結ぶ(広州南駅は2010年1月開業)。営業最高速度は新幹線式の高速鉄道では世界最速の350キロで、これまで武漢~広州が約11時間かかっていたことから驚くべき時間短縮である。

 武漢の都市交通は、武漢メトロ(武汉轨道交通/ウーハン クエイタオ チャオトン)の整備が急ピッチで進められ、漢口地区の江岸区の黄浦路(ホアンプウルウ)~礄口区の宗関(宗关/ツォンクワン)を結ぶ1号線の高架区間が2004年に開業した。2号線は漢口と武昌を結ぶ路線で、2012年に開業した。武漢メトロは、1号線~8号線、11号線、陽邏線などが開業している。

 武漢の空の玄関口である武漢天河国際空港(武汉天河国际机场/ウーハン ティエンホー クオチー チーツァン)は、1995年に開港し、華中地域を代表する国際空港として拡張を続けてきた。中国各都市を結ぶ国内線のほか、国際線は香港、マカオ、台湾、日本、韓国、タイ、シンガポール、マレーシア、フランスなどへの路線があり、日本は全日空が東京成田線を運航し、ほかにも中国系の航空会社が東京成田、大阪関西、名古屋中部、福岡、静岡などに定期路線を運航している。

 武漢の観光は、武昌区の「江南三大名楼」の一つである「黄鶴楼」(黄鹤楼/ホアンホーロウ)がよく知られる。首義公園(首义公园)には、辛亥革命後に中華民国軍政府の鄂軍(湖北郡)都督府が置かれていた「辛亥革命武昌起義記念館」(辛亥革命武昌起义纪念馆)や、2011年に辛亥革命100周年を記念して開館した「辛亥革命博物館」(辛亥革命博物馆)がある。武漢長江大橋(武汉长江大桥)は、ソビエト連邦の協力により1957年に完成した長江に初めて架けられた橋で、武漢市の漢陽区と武昌区を結んでいる。武昌区の東部、武漢駅の南西には東湖(东湖/トンフウ)という大きな湖がある。漢口側の長江沿いには沿江大道が通り、江漢口大楼から北西へは旧イギリス租界だったところで、江漢路(江汉路/チャンハンルウ)歩行街が伸びていて、歩行者天国のオシャレなショッピングストリートとなっている。

 鄂州(オーツォウ)市は、武漢の東、長江の南岸にある都市で人口約105万人。武漢郊外の工業都市として発展している。梁子湖、鴨児湖(鸭儿湖)、三山湖、花馬湖(花马湖)などたくさんの湖がある。江淮官話の黄孝方言が話されている。

 黄岡(黄冈/ホアンカン)市は、武漢市の東、長江の北岸にある都市で、黄岡中心部の人口は約40万人、都市部人口は約270万人、郊外も含めた全人口は約630万人。江淮官話の黄孝方言が話されている。安徽省の安慶(安庆/アンチン)市、長江を挟んで江西省の九江(キュウキャン/チョウチャン)市と接している。1990年代より黄州科学技術経済開発区が開かれ、2017年には国立級のハイテク産業開発区となった。食品、医薬、紡績、建材、機械電子などの工業が盛んである。

 黄石(ホアンスー)市は、湖北省の南東部、鄂州の南東、長江の南岸にある。中心部人口は約75万人、都市部人口約150万人、郊外を含めた全人口は約250万人。大冶湖や保安湖、磁湖などの湖がある。大冶(ターイエ)の豊富な鉱物資源により、鉄鋼業や青銅、セメント工業などが発達した。また、紡績、服飾工業も盛んである。近年は武漢都市圏の副都心として開発が進んでいる。鄂東長江大橋(鄂东长江大桥)が対岸の黄岡市をつないでいる。江西省に近いことから江西語(贛語)も話されている。

 咸寧(咸宁/シエンニン)市は、武漢の南、黄石の西にある。中心部(咸安/シエンアン)の人口は約55万人、都市部人口約125万人、郊外も含めた全人口は約250万人。江西省と隣接していることから江西語(贛語)が話されている。「桂花」(クエイホア)の里として知られている。赤壁(ツーピー)は、三国時代の曹操軍と孫権・劉備連合軍が戦った「赤壁の戦い」の舞台となった。

 孝感(シャオカン)市は、武漢の北西にあり、中心部(孝南/シャオナン)の人口は約95万人、都市部人口は約260万人、郊外を含めた全人口は約490万人。江淮官話の黄孝方言と西南官話の武漢方言が話されている。董永の「孝行が天を感動させる」が地名の由来となっている。武漢市の武漢天河国際空港にも近い。

 荊門(荊门/チンメン)市は、湖北省の中央部にあり、中心部の人口は約70万人。都市部人口は約160万人。郊外も含めた全人口は約290万人。西南官話の成渝方言(四川語)が主に話されている。

 荊州(チンツォウ)市は、荊門の南にあり、中心部人口は約125万人、都市部人口は約295万人、郊外も含めた全人口は約570万人。南が湖南省岳陽(岳阳/ヨーヤン/ユエヤン)市に接している。西南官話の武漢方言(武天片)や四川語が話される。長江沿いに発展した都市で、古くから発展し、「兵家必争の地」として三国時代には魏・呉・蜀の三国の境界の地となり、激しい戦いが繰り広げられた三国志の舞台の地である。

 随州(スエイツォウ)市は、湖北省北部にあり、中心部人口65万人。都市部人口は約105万人、郊外を含めた全人口は約220万人。北が河南省の信陽(信阳/シンヤン)市や南陽(南阳/ナンヤン)市と接している。西南官話の隋州方言が話されている。古代中国の三皇五帝の一人である炎帝神農生誕の地とされる。隋朝を開いた陽堅がかつて随州の刺史に任じられたことから、「隋」の王朝名の由来となった。

 襄陽(襄阳/シャンヤン)市は、随州の西にあり、中心部人口約230万人、都市部人口約320万人、郊外を含めた全人口は約650万人。北が河南省南陽市と接している。西南官話の鄂北方言が話されているが、1970年頃に呉語(上海語)や東北官話を話す人たちが移民し。長江の支流の漢水(汉水/ハンスエイ)が流れる街で、樊城(ファンツェン)区は劉備(関羽)と曹操と孫権が樊城「樊城の戦い」の舞台であり、諸葛亮孔明の銅像が立つ諸葛亮広場(诸葛亮广场)がある。

 宜昌(イーツァン)市は、荊州の西にあり、都市人口約135万人、郊外を含む全人口は約420万人。西南官話の成渝方言(四川語)が話されている。三峡(サンシア)下流の港町で、市街地には葛洲ダム(葛洲坝/ゴーツォウパー)があり、1988年に完成した。その上流の西陵峡(シーリンシア)、巫峡(ウーシア)、瞿塘峡(チュィータンシア)の3つの峡谷が「三峡」(サンシア)と呼ばれ、「西陵峡」が宜昌市の流域にあたる。西陵峡には洪水抑制、水力発電、水運改善の機能を備えた世界最大規模の三峡ダム(三峡大坝/サンシアターパー)が2009年に完成し、中国発展の象徴となっている。

 十堰(スーイエン)市は、襄陽の西にあり、湖北省の最北西部にあたる。郊外も含めた人口は約340万人。西南官話の鄂北方言が話されている。漢水が流れ、丹江口(タンチャンコウ)には丹江口ダムがある。武当山(ウータンサン)は中国武術「武当拳」の発祥の地で、道教寺院群が世界遺産となっている。

 恩施(エンスー)トゥチャ族ミャオ族自治州(恩施土家族苗族自治州)は、宜昌の西にあり、湖北省の最南西部にあたる。恩施州は重慶市と湖南省張家界(ツァンチアチエ)市、湘西(シャンシー)トゥチャ族ミャオ族自治州と接している。人口381万人のうち、トゥチャ族が47%、漢族が45%、ミャオ族が5%を占める。トゥチャ族は、恩施州を中心に、宜昌(イーツァン)市の五峰(ウーフォン)と長陽(长阳/ツァンヤン)のトゥチャ族自治県などに住んでいる。トゥチャ族は多くが西南官話を話し、かつてはチベット・ビルマ語系のトゥチャ語を話していたが、現代のトゥチャ語話者は非常に少なく、消滅の危機に瀕している。タバコ葉栽培や漢方薬の生産が盛んで、鉄鉱石や石炭、天然ガスなどの鉱物資源も豊富である。恩施土司城は、トゥチャ族の王(土司)の城址で、トゥチャ族の伝統文化が特徴的な建物が公開されている。

 湖北省にはこのほか、武漢市の西に仙桃(シエンタオ)、天門(天门/ティエンメン)、潜江(チエンチャン)などの省直轄県級市があり、いずれも武漢との経済的つながりが強い。また、十堰と恩施の間に森林保護区の神農架(神农架/センノンチア)林区がある。

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栃木・那須塩原 那須野が原と塩原温泉、交流と直流が切り替わる黒磯駅

那須塩原
なすしおばら

日本国栃木県那須塩原市

栃木・那須塩原 那須野が原と塩原温泉、交流と直流が切り替わる黒磯駅

 那須塩原(なすしおばら)市は、栃木(とちぎ)県の北部にある人口約12万人の市。東が那須郡那須(なす)町と大田原(おおたわら)市、南が矢板(やいた)市と塩谷郡塩谷(しおや)町、西が日光(にっこう)市、北が福島県南会津(みなみあいづ)町、福島県下郷(しもごう)町、福島県西郷(にしごう)村と接している。

 那須塩原市は、平成17年(2005年)に黒磯(くろいそ)市、那須郡西那須野(にしなすの)町、那須郡塩原(しおばら)町が合併して発足した。合併の際、市名については、市内に東北新幹線の那須塩原駅があり、知名度も高いことから「那須塩原市」となった。

 那須塩原市は、那須野が原(なすのがはら)の扇状地が広がっていて、北から主に那珂川(なかがわ)、熊川(くまがわ)、蛇尾川(さびがわ)、箒川(ほうきがわ)の4本の川が流れている。かつては扇状地の河川が伏流し、農地に適さない土地で江戸時代末期まで原野が広がっていた。明治時代になると県令の三島通庸(みしま みちつね)や実業家の矢板武(やいた たけし)、印南丈作(いなみ じょうさく)らにより、扇状地を潤すための「那須疏水」が建設され、明治18年(1885年)に本幹部が開削され、明治38年(1905年)に水門と導水路が建設された。

 この那須疏水の建設により、那須野が原に農業用水が供給できるようになり、大規模な開拓が行われ、稲作と酪農がおこなわれるようになった。この那須疏水事業と、明治19年(1886年)の鉄道開業(現・JR宇都宮線)により、駅周辺に新しい市街地が形成されるようになった。

 那須塩原市には、JR東日本の東北新幹線と東北本線(宇都宮線)が通り、東北新幹線の那須塩原(なすしおばら)駅および、東北本線(宇都宮線)の西那須野(にしなすの)、那須塩原、黒磯(くろいそ)の各駅がある。また、JR東北本線より西側を通る東北自動車道には、黒磯板室IC(インターチェンジ)があり、近くに「那須ガーデンアウトレット」がある。

 西那須野駅は、旧・西那須野町の中心駅であり、かつては東北本線を走る特急「ひばり」などが停車する主要駅であった。東北新幹線開業前は、旧・塩原町の塩原温泉への最寄り駅であり、塩原温泉郷にはかつて「塩原御用邸」があったことから、大正天皇をはじめ皇族がよく西那須野駅を利用した。かつては西那須野駅から「塩原電車」が関屋、塩原口を結んでいたが、戦前の昭和11年(1936年)に廃止されている。塩原温泉郷は、大網、福渡、塩釜、塩の湯、畑下、門前など11の湯からなり、「塩原十一湯」として1000年以上の歴史を持つ。

 西那須野駅の東は大田原市の市街地が近く、大田原市中心部への最寄り駅でもある。かつて東野(とうや)鉄道が黒羽(くろばね)、那須小川(なすおがわ)を結んでいた。東野鉄道は那須小川からさらに常陸大子(ひたち だいご)まで延伸する構想があったが、昭和恐慌により中止となり、昭和14年(1939年)に黒羽~那須小川が廃止となった。その後も西那須野駅からは旧・黒羽町(現・大田原市)の黒羽まで運行されていたが、昭和43年(1968年)に廃止された。

 黒磯駅は、旧・黒磯市の中心駅で、黒磯は鉄道の町として知られている。東北本線のうち、上野~黒磯は直流電化であり、首都圏の近郊型電車が黒磯駅まで乗り入れており、黒磯以南に「JR宇都宮線」の愛称がある。一方、黒磯以北は交流電化であり、特急列車は交直流対応可能な電車が直通していたが、普通電車は黒磯駅で運転系統が完全に分かれている。黒磯駅ではかつて構内に交直セクションがあり、機関車の付け替えなども行われていたが、現在は黒磯駅の北側で直流と交流の切り替えを行うようになり、黒磯~新白河(しんしらかわ)の区間は交直流対応の電車が運行されている。かつては東北・奥羽本線を走る特急「つばさ」などが停車していた。那須町にある那須高原および那須御用邸の最寄り駅であり、黒磯駅からバスが運行されている。

 東北本線(宇都宮線)と東北新幹線は、西那須野~黒磯の間を並走しているが、東北新幹線の駅が設けられたのは、西那須野駅でも黒磯駅でもなく、その中間の旧・東那須野(ひがしなすの)駅だった。これは完全に塩原温泉の西那須野と那須高原の黒磯が誘致合戦した後の妥協の産物であり、西那須野と黒磯の中間にあるローカル駅の東那須野駅に新幹線の駅を設けて痛み分けするものだった。仮称の駅名は「新那須」であったが、塩原温泉郷をアピールするために「那須塩原」駅となった。那須塩原駅は、東北新幹線「なすの」が東京~那須塩原を結び、栃木県から東京への新幹線通勤を可能にしている。また、皇族が那須御用邸に向かう際にも那須塩原駅を利用する。

 東北新幹線開業後、東北新幹線が停車しない東北本線(宇都宮線)の駅の特急利用を促進するため、急行「なすの」などを昭和60年(1985年)に185系電車を導入し、上野~黒磯を結ぶ「新特急なすの」に格上げした(当時の新幹線の各駅停車タイプは「あおば」だった)。「新特急なすの」は市内では、黒磯駅と西那須野駅に停車し、那須塩原駅は通過した。平成7年(1995年)に東北新幹線の近距離各駅停車タイプの列車が「あおば」から「なすの」に変更され、宇都宮線の「新特急なすの」は、朝夕の特急「おはようとちぎ」、特急「ホームタウンとちぎ」に変更。湘南新宿ラインの増発などにより、平成22年(2010年)に宇都宮線の特急は廃止された。

 塩原温泉への玄関口の西那須町と那須高原への玄関口の黒磯市はライバル都市であったが、合併の際には、新幹線の那須塩原駅がちょうど接着剤の役割を果たし、那須塩原市として一致団結することができた。

那須塩原エリアの主な駅

那須塩原 / なすしおばら 駅
JR東日本 東北新幹線、東北本線(宇都宮線)

黒磯 / くろいそ 駅
JR東日本 東北本線(宇都宮線)

西那須野 / にしなすの 駅
JR東日本 東北本線(宇都宮線)
 
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東北新幹線・那須塩原駅

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東北新幹線からの那須塩原市の眺め

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黒磯~上野を結んでいた特急「おはようとちぎ」

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黒磯駅の電気機関車

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埼玉 さいたま・中浦和 別所沼公園と鴻沼川、埼京線と武蔵野貨物線

さいたま・中浦和
さいたま・なかうらわ

日本国埼玉県さいたま市南区

埼玉 さいたま・中浦和 別所沼公園と鴻沼川、埼京線と武蔵野貨物線

 中浦和(なかうらわ)は、さいたま市南(みなみ)区にある地区で、JR東日本・埼京線の中浦和駅がある。

 東北・上越新幹線の大宮(おおみや)~東京(とうきょう)を建設する際に、新幹線建設用地提供の見返りに並行して通勤新線を建設することになり、大宮~赤羽(あかばね)の新幹線建設区間に並行して昭和60年(1985年)に国鉄埼京線が開業し、中浦和駅が当時の浦和(うらわ)市に開設された。

 中浦和駅は埼京線の1面2線のホームがあり、西側に東北・上越新幹線が並走している。近年は北陸新幹線の車両も走るようになり、新幹線も埼京線と変わらない過密ダイヤとなっている。大宮以南の埼京線との並行区間はカーブも多く、新幹線とはいえスピードは110キロに抑えられている。

 中浦和駅は旧・浦和市の中部にあり、JR京浜東北線・宇都宮線・高崎線・湘南新宿ラインの浦和駅の西約1.5キロのところにある。中浦和駅と浦和駅の間に通る国道17号線沿いに埼玉県庁や、さいたま市役所があり、埼玉県およびさいたま市の行政の中心の最寄り駅の一つである。

 旧・浦和市は長らく埼玉県の県庁所在地の自治体であったが、平成13年(2001年)に交通・商業の中心地である大宮市および浦和と大宮の間にある与野(よの)市が合併して「さいたま市」となった。平成15年(2003年)には政令指定都市となり、区が設けられるようになったが、中浦和駅は、さいたま市全体から見ると南部にあるので、さいたま市南区に所属することになった。

 旧・浦和市内の駅名は、浦和に東西南北の方角や、中央部にある駅は「中」や「武蔵」をつけることで既存の浦和駅と区別しているのだが、「さいたま市」誕生により、浦和駅(浦和区)、北浦和駅(浦和区)、中浦和駅(南区)、武蔵浦和駅(南区)、南浦和駅(南区)、西浦和駅(桜区)、東浦和駅(緑区)となり、さいたま市の区割りと駅名の関係が分かりにくくなってしまった。

 また、埼京線においては、中浦和駅よりも武蔵野線と乗り換えができる武蔵浦和駅のほうが利用客が多く、駅周辺の開発は一つ南の武蔵浦和駅のほうが進んでいる。また、浦和駅と比べても商業施設や飲食街のにぎわいはかなわない。令和元年(2019年)秋より快速停車駅になったが、これは武蔵浦和~大宮の減便に伴う措置であり、中浦和駅の利用者が大きく増えたからではない。

 中浦和駅の東側には、さいたま市営別所沼(べっしょぬま)公園がある。別所沼は江戸時代からある大きな池で、江戸時代には放流されたウナギがいて、浦和宿の名物となっていたのだという。春は桜、梅雨の季節には紫陽花(アジサイ)が美しい。

 中浦和駅の北側には鴻沼(こうぬま)川が流れている。この鴻沼は、さいたま市中央区(旧・与野市)の与野中央公園のあたりにあり、農業用水として利用されてきたが、江戸時代に干拓されて水田となり、後に住宅地となった。鴻沼は高沼とも表記されるようになり、「たかぬま」とも呼ばれるようになったが地名の由来は同じである。鴻沼川は、鴻沼を干拓した際に沼の水を抜くための鴻沼排水路として建設された。よく氾濫し、平成10年(1998年)の台風5号で大規模な浸水被害が発生した。鴻沼川の北西は、さいたま市桜区であり、現在は多くが住宅街になっているが、今も農地が残る。中浦和駅から鴻沼排水路を約1キロ西に行ったところに「鴻沼資料館」があり、鴻沼川や新田開発の歴史などを知ることができる。

 中浦和駅の北側で新幹線・埼京線の高架の下を武蔵野貨物線が立体交差している。同線は大宮駅から武蔵野線を結ぶ貨物線で、京浜東北線の北浦和駅の近くでトンネルに潜り、別所沼公園の近くで地上に出て中浦和駅の近くで埼京線と交差し、その先で二手に分かれて武蔵野線の武蔵浦和駅と西浦和駅の手前でそれぞれ武蔵野線に合流するデルタ線を形成している。

 武蔵野線は貨物列車が過密化する東京都心を迂回するために建設されたもので、武蔵野貨物線は、東北方面からの貨物列車がスムーズに武蔵野線に入れるように建設された。武蔵野貨物線は普段は貨物列車が走る路線であるが、朝夕には数本、大宮駅と武蔵野線を直接結ぶ快速「むさしの」号、「しもうさ」号が運行されている。「むさしの」は大宮~西浦和~府中本町・八王子、「しもうさ」は大宮~武蔵浦和~西船橋・海浜幕張を結んでいる。JR東日本は「東京メガループ」プロジェクトの一環として、この路線の利便性向上を進める意欲があるということなので、ぜひ朝夕だけでなく、日中も「むさしの」と「しもうさ」の各列車を一時間に1~2本運行すれば、知名度も定着し、武蔵野線沿線から大宮駅への利便性が向上するのではないか。

さいたま・中浦和エリアの主な駅

中浦和 / なかうらわ 駅
JR東日本 埼京線

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JR埼京線・中浦和駅

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JR埼京線・中浦和駅

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中浦和駅から見た武蔵野貨物線と別所沼公園

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中浦和駅から見た武蔵野貨物線のデルタ線

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埼京線・新幹線と立体交差する武蔵野貨物線

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