fc2ブログ

フィジー ビティレブ島と南太平洋メラネシアの島国、インド系住民と製糖産業

Matanitu Tugalala o Viti (フィジー語)
Republic of Fiji (英語)
फ़िजी गणराज्य / Fijī Gaṇarājya (フィジー・ヒンディー語)
フィジー共和国(ビティ)

フィジー ビティレブ島と南太平洋メラネシアの島国、インド系住民と製糖産業

 フィジー(ビティ)共和国(Matanitu Tugalala o Viti / Republic of Fiji / रिपब्लिक ऑफ फीजी)は、南太平洋に浮かぶメラネシア系の島国で、海を挟んで南がニュージーランド、西がフランス領ヌーヴェル・カレドニー(ニューカレドニア)、バヌアツ、北がツバル、東がフランス領ウォリス・フツナ、トンガと近接している。

 フィジーの人口は約90万人で、面積は約1.8万平方キロメートル。太平洋諸国の中では比較的面積も大きく、人口も多い。そのため、南太平洋のリーダー国として国際社会から重要視されている。

 フィジーの通貨はフィジー準備銀行(Reserve Bank of Fiji)が発行するフィジー・ドル(Dollar des Fidji / Fijian dollar)が用いられている。一人当たりのGDP(国内総生産)は約5700ドルで103位前後。一人当たり購買力平価(PPP)は、約1万4000ドルで108位前後。経済は農業と観光業が主要産業となっており、オーストラリア、ニュージーランド、米国からの観光客が多い。輸出品はフィジーウォーター(天然水)、砂糖、衣料品、コプラ、ココナッツ石鹸などが多い。

 フィジーの住民構成は、フィジー系が約57%と過半数を占めるが、インド系が約38%とかなりの割合を占めている。離島のロツマ島などに住むロツマ系約1.2%、その他約4.5%である。イギリス統治の影響により公用語は英語であるが、先住民のフィジー語も公用語であり、英領時代にインドから連れて来られたインド系住民も多いため、ヒンディー語も公用語に認められており、フィジー語や英語の影響を受けたフィジー・ヒンドゥー語が形成されている。近年は、フィジー系とインド系の混血も増えてきている。

 フィジー(Fiji)の由来は、フィジー最大の島であるビティレブ(Viti Levu)島の「ビティ」が、ヨーロッパで「フィジー」(Fiji)と伝わり、それが英語を通じて国際的に広がったとされる。そのため、国名は英語では「Fiji」(フィジー)であるが、フィジー語では「Viti」(ビティ)と呼ばれている。

 フィジーには8000年ほど前からメラネシア人が住んでいたとされる。その後、トンガからポリネシア人がやって来て、ポリネシアの文化的影響を受けるようになった。フィジーに初めてやって来たヨーロッパ人は、1643年にオランダから来たアベル・タスマン(Abel Tasman)とされる。1774年にはイギリス人の海洋探検家、ジェームズ・クック(James Cook)もフィジーに上陸した。

 フィジーのビティレブ島は1874年にイギリスの植民地「英領フィジー」(Colony of Fiji )となった。1879年よりイギリスは砂糖プランテーションの労働力確保のため、英領インドからインド人を契約労働者としてフィジーに移住させた。これにより大量のインド人がフィジーに住むことになった。

 1913年、アポロシ・ナワイ(Apolosi Nawai)により、フィジー人による民族運動「ビティ・カンパニ」(Viti Company)が起こる。主にフィジー系住民により独立を求める運動が続き、1970年に英連邦王国として「フィジー」が独立したが、1987年にティモシー・バヴァドラ(Timoci Bavadra)が首相に就任すると陸軍中佐によるクーデターが発生し、「共和国宣言」により「フィジー共和国」(Republic of Fiji)として英連邦を離脱した。しかし、1997年の憲法改正で再び英連邦に加盟し、1998年に国名を「フィジー諸島共和国」(Republic of the Fiji Islands)に改名した。

 1999年にインド系のマヘンドラ・チョードリー(महेन्द्र पाल चौधरी / Mahendra Choudhary)首相が就任すると、2000年にジョージ・スペイト(George Speight)によるクーデター事件で、チョードリー首相を人質として国会が約2カ月占領され、軍が戒厳令を発令。フィジー系のライセニア・ガラセ(Laisenia Qarase)が暫定首相に就任。2001年の総選挙によりガラセが正式に首相に就任した。しかし、2006年にガラセ首相が再選後、フランク・バイニマラマ(Frank Bainimarama)軍司令官によるクーデターによりガラセ首相が失脚した。ニュージーランド、オーストラリアなどがクーデターに対して制裁を科したが、中国が援助して支え、2007年にバイニマラマが首相に就任した。2009年にフィジー高裁が軍事政権を違法との判決を下したが、ジョセファ・イロイロ(Josefa Iloilo)大統領が憲法を廃止してバイニマラマが首相に就任し、民政復帰を延期した。イロイロ大統領は健康上の理由で大統領を退任し、エペリ・ナイラティカウ(Epeli Nailatikau)副大統領が大統領に就任した。

 イギリスはフィジーが民主的選挙を実施していないとして、フィジーの英連邦資格を停止した。フィジーは2011年に「フィジー共和国」(Republic of Fiji)と改名した上で、2013年にフィジー新憲法を公布した。2014年の総選挙でバイニマラマ暫定首相の政党「フィジー・ファースト」(Fiji-First)が勝利したため、民政に復帰し、2014年には英連邦にも復帰した。近年は中国との関係が緊密になり、2021年からは「中国・太平洋島嶼国外相会議」にも参加し、2022年の同会議はフィジーが開催国となった。一方、南太平洋地域への中国の影響力拡大に、米国やオーストラリア、ニュージーランドなどの国々が警戒を強めている。

 フィジー共和国の最大の島はビティレブ島(Viti Levu / विटी लेव)で、首都のスバ(Suva / सुवा)がある。スバはビティレブ島の南東にある港湾都市で、人口約9万人。南緯18度に位置し、平均気温は1月が23℃~29℃。7月が20℃~26℃と常夏の気候である。

 スバ港の周辺にリゾートホテルが集まり、ショッピングモールやフィジー共和国政府機関などが集まっている。中心部のシティーセンター(City Centre)は運河の周辺にショッピングスポットが集まっている。また、スバにはフィジー国立大学(Fiji National University)、ザ・サウス・パシフィック大学(The University of the South Pacific)などの高等学術機関があり、太平洋諸国からの留学生も多い。

 スバには、1902年に建てられた「カトリック大聖堂」(Sacred Heart Cathedral)、「フィジー博物館」(Fiji Museum)、英国風庭園「サーストン・ガーデン」(Thurston Garden)、スバ市営市場(Suva Municipal Market)、ショッピングモール「ダモダー・シティ」(Damodar City)などの見どころがある。

 首都スバの郊外には、ラミ(Lami / लामी)、ナシヌー(Nasinu / नसीनु)、ナウソリ(Nausori / नउसोरी)などの町があり、ナシヌーはインド系フィジー人の投資により開発が進んでいる。

 ナウソリにある「ナウソリ国際空港」(Nausori International Airport)は、首都スバの最寄りの空港で、「フィジー・エアウェイズ」(Fiji Airways)の拠点空港となっている。滑走路が約1870mしかないため、国際線はフナフティ(ツバル)、ヌクアロファ(トンガ)、ポートビラ(バヌアツ)、オークランド(ニュージーランド)、シドニー(オーストラリア)などの近隣国のみで、ナンディ国際空港や離島を結ぶ国内線が主に運航されている。

 フィジー最大の空港は、ビティレブ島西部にある「ナンディ国際空港」(Nadi International Airport)で約3200m級の滑走路があるため、長距離路線にも対応できることから、国際線が充実している。「フィジー・エアウェイズ」(Fiji Airways)の拠点空港で、フィジー国内の離島のほか、ホノルル(米国)、ロサンゼルス(米国)、サンフランシスコ(米国)、東京成田(日本)、シンガポール、香港、ホニアラ(ソロモン諸島)、タラワ(キリバス)、フナフティ(ツバル)、ヌクアロファ(トンガ)、アピア(サモア)、ポートビラ(バヌアツ)、オークランド(ニュージーランド)、クライストチャーチ(ニュージーランド)、シドニー(オーストラリア)、メルボルン(オーストラリア)、ブリズベン(オーストラリア)などの国際線が運航されている。

 ナンディ(Nadi / नादि)は、ビティレブ島西部にあるフィジー第3の都市で人口約4万人。フィジー語の「d」の綴りは「nd」と発音するので、「Nadi」で「ナンディー」と読む。ナンディ湾の周辺にリゾートホテルが集まり、デナラウ港(Port Denarau)、ワイアロア・ビーチ(Waialoa Beach)など、多くの国際観光客が訪れるリゾート都市である。インド系住民も多くヒンドゥー教寺院「スリ ジヴァ スブラマニア寺院」(Sri Siva Subramaniya Temple)もある。ナンディとスバは約120キロ離れており、国内線で約30分、路線バスでは約5時間かかる。

 ナンディの北約25キロにフィジー第2の都市のラウトカ(Lau'Toka / Lautoka / लौटोका)がある。ラウトカは人口約5万人で、英領時代よりサトウキビの栽培が行われ、製糖産業が発展している。砂糖産業の労働者として住むようになったインド系住民が多いが、近年は農村から都市に移住するフィジー系住民も増えてきている。

 フィジー第2の島は、ビティレブ島の北東にあるバヌアレブ島(Vanua Levu / वानुआ लेवु)で、約13万人が住んでいる。中心都市は中央部のランバサ(Labasa / लम्बासा)で、人口約2.8万人。サトウキビ栽培と製糖産業が発展しており、インド系住民が多い。ランバサ空港からはスバやナンディへの路線がある。

 フィジー第3の島は、タベウニ島(Taveuni)で、人口約9000人。コプラやタロイモの栽培が盛ん。第4の島は、ビティレブ島から約80キロ南にあるカンダブ島(Kadavu)で、人口約1万人。

 ビティレブ島の東に浮かぶオバラウ島(Ovalau)は、6番目に大きな島で、レブカ(Levuka)はフィジー東部の州都となっている。レブカの人口は約0.4万人であるが、19世紀には英領フィジーの首府が置かれていた。1882年に首府がスバに移転したが、その後もレブカは重視された。その後、太平洋交易の拠点としては衰退したが、1960年代に日本資本の水産加工工場が建設され、オバラウ島の主要産業となった。

 ロツマ島(Rotuma)は、ビティレブ島から北に遠く離れた離島であり、人口約1600人で、首府はアハウ(Ahau)。ポリネシア系のロツマ語(Fäeag Rotuma)を話す先住民ロツマ人が住んでいる。ロツマ島は1881年に英国保護領となった後も、島民は伝統的な生活を維持し、フィジーとはほとんど関わりはなく、イギリスも深く関与しなかった。1970年のフィジー独立とともに、ロツマ島はフィジー領となり、イギリスから離れたが、ロツマ人からはフィジー領となることへの反感があった。

 1987年にフィジーでクーデターが発生したのを機に、ロツマ島のスコットランド移民の子孫であるヘンリー・ギブソンがフィジーからの独立を宣言し、自らロツマ王を名乗り、「ロツマ共和国」の独立を主張し、英国女王にも承認を求めたが、ロツマ島評議会はフィジー残留を決定しており、混乱しているところをフィジー軍によりロツマ島が制圧された。ロツマ独立を支持する人たちは、フィジーから独立することで、辺境扱いされていた島に直接海外からの支援を受けたり貿易ができると考えていた。その後、フィジー政府からロツマ人をフィジー人、インド人と並んで正式な民族として認めるなど一定の配慮がなされるようになった。

フィジー共和国
Matanitu Tugalala o Viti(フィジー語)
Republic of Fiji(英語)
फ़िजी गणराज्य / Fijī Gaṇarājya(フィジー・ヒンディー語)
(1970年、イギリスより独立)
面積:1.8万平方キロ
人口:90万
通貨:フィジー・ドル
主要言語:
首都:スバ/Suva/सुवा (フィジー語、ヒンドゥー語)(人口9万)

(参考:Wikipedia)
スポンサーサイト



北海道・美深 宗谷本線と幻の美幸線、稲作北限の豪雪地帯

美深
びふか (日本語)
ピウカ (アイヌ語)

日本国北海道上川地方中川郡美深町

北海道・美深 宗谷本線と幻の美幸線、稲作北限の豪雪地帯

 美深(びふか)町は、北海道(ほっかいどう)の上川(かみかわ)地方の中川(なかがわ)郡にある人口約0.4万人の町。南が名寄(なよろ)市、西が雨竜(うりゅう)郡の幌加内(ほろかない)町、中川郡中川(なかがわ)町、北が中川郡音威子府(おといねっぷ)村、枝幸(えさし)郡の枝幸町、東が紋別(もんべつ)郡の雄武(おうむ)町と接している。

 美深の由来は、アイヌ語で「石の多い場所」を意味する「ピウカ」であり、天塩川の砂利川原のことである。宗谷本線の美深駅が明治44年(1911年)に開設された際には、美深(ぴうか)駅と呼んでいた。しかし、難読であることから、大正9年(1920年)に中川郡下名寄(しもなよろ)村から智恵文(ちえぶん)村が分村して美深村が発足した際に読み方が「びふか」となった。

 美深町には、JR北海道・宗谷本線が通り、町内に恩根内(おんねない)、初野(はつの)、美深(びふか)の各駅がある。

 美深駅は美深町の中心駅で、特急「宗谷」「サロベツ」も停車する。美深駅は、明治44年(1911年)に開業した際には美深(ぴうか)駅として開設されたが、難読であるため、昭和26年(1951年)に美深(びふか)駅に改称された。

 美深駅からは、北見国(きたみのくに)のオホーツク海沿岸部の開発のために、かつて国鉄興浜北線の北見枝幸(きたみ えさし)駅を目指して建設が進められていた国鉄美幸線が仁宇布駅(にうぷ)駅まで伸びていた。国鉄美幸線は昭和39年(1964年)に美深~仁宇布が開業。仁宇布~北見枝幸の工事も進み、路盤工事もほぼ完成し、昭和50年代後半には全通できる見込みであったが、美深~仁宇布という部分開業で中途半端だった国鉄美幸線は赤字ローカル線のワースト格とされた。第3セクターによる運行も検討されたが、結局断念され、昭和60年(1985年)に美深~仁宇布が廃止となり、仁宇布~北見枝幸が開業することはなかった。

 国鉄美幸線の仁宇布駅跡は、廃線後も線路が約5キロ残され、平成10年(1998年)よりトロッコが運行されるようになり、「トロッコ王国美深」としてエンジン付きトロッコの体験ができる。美深町は豪雪地帯であるため、雪に覆われる冬季は休止となる。

 美深町は稲作の北限地であり、そのほか酪農や林業が盛んである。国道40号線沿いには道の駅「びふか」があり、「びふか温泉」や「美深チョウザメ館」が併設されている。

美深エリアの主な駅

美深 / びふか 駅
JR北海道 宗谷本線

仁宇布 / にうぷ 駅(1985年廃止)
国鉄 美幸線

青森・六戸 奥入瀬川と古牧温泉と十和田観光電鉄の七百駅跡

六戸
ろくのへ

日本国青森県上北郡六戸町

青森・六戸 奥入瀬川と古牧温泉と十和田観光電鉄の七百駅跡

 六戸(ろくのへ)町は、青森(あおもり)県の上北(かみきた)郡にある人口約1.0万人の町。西が十和田(とわだ)市、北が上北郡東北(とうほく)町、三沢(みさわ)市、東が上北郡おいらせ町、南が三戸(さんのへ)郡の五戸(ごのへ)町と接している。

 六戸は、江戸時代に南部(なんぶ)藩が治めていた地区で、一戸~九戸のうち、六戸と七戸(しちのへ)は、北側に位置する。六戸は、古くは現在の六戸町のほか、おいらせ町、三沢市南部も広義の六戸に含まれた。

 明治22年(1889年)に上北郡六戸村が発足。昭和23年(1948年)に村域の一部を上北郡三沢村(現・三沢市)に移管した。昭和32年(1957年)に上北郡六戸町に昇格し、現在の町域となった。

 六戸町には、十和田湖(とわだこ)から太平洋に注ぐ奥入瀬川(おいらせがわ)が東西に流れている。かつては十和田観光電鉄線が三沢(みさわ)~十和田市(とわだし)に走っていて、町内に大曲(おおまがり)、柳沢(やなぎさわ)、七百(しちひゃく)、古里(ふるさと)、三農校前(さんのうこうまえ)の各駅があったが、平成24年(2012年)に廃止された。

 七百駅は、1面2線のホームがあり、十和田観光電鉄の列車交換が行われ、車両基地も併設されていた。七百駅跡には、駅のホームの遺構や車両などが残されている。この近くには東北新幹線が通っているが、六戸町はトンネル区間が長く、駅は設置されていない。もし、十和田観光電鉄との交差地点に東北新幹線の駅ができていたら、十和田市や三沢市方面が便利になり、十和田観光電鉄も廃止しなくて済んだのではないかと思うが、残念ながら他鉄道線と連絡しないところに七戸十和田駅が設置され、十和田観光電鉄も廃止され、六戸町から駅が消えてしまった。

 六戸町の中心部は、七百駅から約4キロ南の国道45号線の周辺にあり、六戸町役場や道の駅「ろくのへ」、熊野神社、六戸町総合運動公園「メイプルスタジアム」などがある。六戸町民バスが「青い森鉄道」の三沢駅を結んでいる。

 三沢市との境には「古牧(こまき)温泉」があり、三沢市と六戸町にまたがっている。かつて「古牧グランドホテル」であったが、経営破綻を経て平成20年(2008年)に「古牧温泉 青森屋」となり、その後「星野リゾート 青森屋」となった。「青森屋公園」の敷地が六戸町側にある。

六戸エリアの主な駅

三沢 / みさわ 駅(三沢市)
青い森鉄道 青い森鉄道線

七百 / しちひゃく 駅(2012年廃止)
十和田観光電鉄 十和田観光電鉄線

rokunohe1.jpg
六戸町付近を高速で通過する東北新幹線

栃木 日光・栗山 野岩鉄道と湯西川温泉

日光・栗山
にっこう・くりやま

日本国栃木県日光市

栃木 日光・栗山 野岩鉄道と湯西川温泉

 栗山(くりやま)は、栃木(とちぎ)県の日光(にっこう)市にある地区で、平成18年(2006年)に塩谷(しおや)郡の栗山村が日光市、今市(いまいち)市、塩谷郡藤原(ふじはら)町、上都賀(かみつが)郡の足尾(あしお)町と合併し、新たに発足した日光市の一部となった。

 旧・栗山村は、群馬県の片品(かたしな)村や福島県の檜枝岐(ひのえまた)村、舘岩村(現・南会津町)と接し、村のほとんどが山林であった。

 村の過疎化が進んでいたが、野岩鉄道・会津鬼怒川線は昭和61年(1986年)に新藤原~会津高原(現・会津高原尾瀬口)が開業。旧・栗山村に湯西川温泉(ゆにしがわ おんせん)駅が開設された。野岩鉄道の沿線は山間部で沿線人口が極めて少ないが、南は東武鬼怒川線、北は会津鉄道線とつながり、東京・浅草から野岩鉄道を経由して会津方面へ1本のレールでつながった。野岩鉄道の沿線は川治温泉、湯西川温泉、中三依温泉などの温泉地をつなぎ、塩原温泉へのルートも便利になった。

 湯西川温泉駅はトンネル内に1面1線のホームがある。野岩鉄道の普通電車のほか、浅草~会津田島を結ぶ特急「リバティ会津」、鬼怒川温泉~会津若松を結ぶ快速「AIZUマウントエクスプレス」も停車する。

 湯西川温泉駅には国道121号線沿いの道の駅「湯西川」も併設され、日光市湯の郷湯西川観光センターも置かれている。

 湯西川温泉へは湯西川温泉駅から北西に約12キロ離れており、湯西川温泉駅からバスが運行されている。途中の湯西川ダムは平成24年(2012年)に竣工した比較的新しいダムで、治水とかんがい用水の供給を主な目的としている。ダム湖の湯西川湖では水陸両用バスによるダム湖クルーズが楽しめる。

 湯西川温泉は、湯西川渓谷沿いに温泉街が形成されている。アルカリ性単純温泉で、温泉宿では栗山地区の山菜やキノコなどの山の幸、イワナ、ヤマメ、ニジマスなどの川の幸が味わえる。日帰り観光・入浴施設「日光市湯西川水の郷」もある。

日光・栗山エリアの主な駅

湯西川温泉 / ゆにしがわおんせん 駅
野岩鉄道 会津鬼怒川線

yunishigawa1.jpg
トンネルの中にホームがある野岩鉄道・湯西川温泉

yunishigawa2.jpg
野岩鉄道から見た湯西川

ロシア・サンクトペテルブルク ピョートル1世とロシア帝国時代の首都、ソ連時代のレニングラード

Санкт-Петербург (ロシア語)
サンクトペテルブルク

ロシア連邦北西連邦管区サンクトペテルブルク連邦市

ロシア・サンクトペテルブルク ピョートル1世とロシア帝国時代の首都、ソ連時代のレニングラード

 サンクトペテルブルク(Санкт-Петербург)は、ロシア連邦の北西部、フィンランド湾に注ぐネヴァ川(Нева)河口デルタにある都市で、ロシア連邦の首都モスクワ(Москва)に次ぐロシア第2の都市。ロシア帝国時代の首都だったロシアの古都である。

 サンクトペテルブルクの人口は約540万人で、首都モスクワ、2014年にウクライナから奪取・編入したクリミア半島の軍港セヴァストポリと並ぶ、連邦直轄市となっている。

 サンクトペテルブルクがあるネヴァ川の河口部は、古くから重要な交易拠点であり、「ルーシ」(Роусь)と呼ばれたキーウ大公国の北端にあった。1136年にルーシが分裂すると「ノヴゴロド公国」(Новгородского княжества)に属するようになった。ネヴァ川の河口はスウェーデン領フィンランドとの国境となっていたが、1240年の「ネヴァ川の戦い」(Невская битва / slaget vid Neva)でノヴゴロド公国が勝利し。ノヴゴロド公は「ネヴァ川の勝利者」という意味を込めてアレクサンドル・ネフスキー(Александр Ярославич Невский)と名乗るようになった。

 その後、ノヴゴロド公国は「モスクワ大公国」(Московское великое княжество)を経て、「ロシア・ツァーリ国」(Царство Русское)となり、スウェーデンとの戦争で1617年の「ストルボヴァの和約」により、ノヴゴロドをロシアに返還するかわりにネヴァ川周辺はスウェーデンが支配することになり、その後の三十年戦争によりスウェーデンはバルト海沿岸に勢力をもつ「バルト帝国」(Baltic empire)を築いた。1700年からの大北方戦争で、ロシア・ツァーリ国はネヴァ川河口を占領し、ロシア・ツァーリ(君主)のピョートル1世(Пётр I )はここにペトロパヴロフスク要塞(Петропавловская крепость)を築き、新しい都市を建設し、それがロシア帝国の首都サンクトペテルブルクとして発展することとなった。

 サンクトペテルブルクは「聖ペテロの街」を意味する。聖人ペテロ(Πέτρος)は初代ローマ教皇とされ、ロシア・ツァーリから初代ロシア皇帝となったピョートル1世(Пётр I )が名前が同じ由来のペテロにちなんで命名した。都市建設当初はサンクトピーテルブールフ(Санкт-Питер-Бурх)とオランダ語風であったが、後にドイツ語のザンクトペテルスブルク(Sankt Petersburg)が少しロシア語訛りとなったドイツ語風のサンクトペテルブルク(Санкт-Петербург)となった。

 長年にわたりロシア帝国の首都として栄えたが、1914年の第一次世界大戦でロシアとドイツが交戦したため、ドイツ語風のサンクトペテルブルクが忌避され、よりロシア語風のペトログラード(Петроград)と呼ばれるようになった。

 さらにロシア革命により1922年に「ソビエト社会主義共和国連邦」(Союз Советских Социалистических Республик)が建国されると、1924年に建国の父であるウラジーミル・レーニン(Владимир Ленин)にちなんで「レニングラード」(Ленинград)と改名された。これはロシア帝国時代の歴史を否定した、共産主義ソ連の象徴的な都市名であった。

 レニングラードは、フィンランドとの国境に非常に近かったため、ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリン(Иосиф Сталин)は、レニングラード周辺のフィンランド領の割譲を求めたが、フィンランド側が拒否したため、1939年にソ連がフィンランドに侵攻する「冬戦争」が勃発した。フィンランドは激しく抵抗し、ソ連軍は苦戦した。結局、1940年の「モスクワ講和条約」により、レニングラード北部の地域がソ連に割譲されたが、それによりフィンランドはドイツの枢軸軍側についてソ連に対抗するようになり、第二次世界大戦では、フィンランドとドイツによる「レニングラード包囲戦」(Блокада Ленинграда)が展開され、レニングラードは外部から遮断された。これにより数十万人ものレニングラード市民が餓死したが、フィンランドとドイツからの占領は受けずに耐え抜いたことから「英雄都市」(город-герой)の称号が与えられ、戦後は首都モスクワに次ぐソ連第2の都市として発展した。

 1991年にソ連が崩壊すると、ソ連時代の歴史が否定され、住民投票によってロシア帝国時代のサンクトペテルブルク(Санкт-Петербург)に戻されて現在に至っている。一方で、サンクトペテルブルクの郊外は、レニングラード州(Ленинградская область)の地名が今も使用され、ソ連時代との微妙なバランスをとっているともいえる。

 レニングラード州は人口約170万人。ロシア帝国時代の夏の邸宅のガッチナ宮殿があったガッチナ(Гатчина)、レニングラード電子力発電所があるソスノヴイ・ボール(Сосновый Бор)、エストニア国境に接するイヴァンゴロド(Ивангород)、ラドガ湖の南端のノヴゴロド公国のオレシェク要塞があるシュリッセリブルク(Шлиссельбург)、旧フィンランド領のヴィボルグ/ヴィープリ(Выборг / Viipuri)などの都市がある。

 サンクトペテルブルクは、北緯59度と高緯度であるが、フィンランド湾に面し、暖流の影響でモスクワなどの内陸よりは温暖である。また、冬の日照時間は短く、夏は逆に白夜のように日照時間が長い。平均気温は、2月が-8℃~-2℃、7月が15℃~23℃。降水量は年間を通して安定しており、冬場は積雪も多い。

 サンクトペテルブルクの空の玄関口は、「プルコヴォ空港」(Аэропорт Пулково)で、モスクワ、シンフェロポリ、ソチ、カリーニングラード、イェカテリンブルク、クラスノダル、ノヴォシビリスク、アルガンゲルスク、ロストフ、ムルマンスクなどの国内線が主に運航されている。国際線は、ミンスク(ベラルーシ)、タシケント(ウズベキスタン)、サマルカンド(ウズベキスタン)、キシナウ(モルドヴァ)、ドゥシャンベ(タジキスタン)、アルマトゥ(カザフスタン)、エレバン(アルメニア)、ウルゲンチ(ウズベキスタン)、ヌルスルタン(カザフスタン)、オシュ(キルギス)などの旧ソ連各国の都市への利用が多いほか、アンタルヤ(トルコ)、フランクフルト(ドイツ)、ミュンヘン(ドイツ)、パリ(フランス)、ラルナカ(キプロス)、ヘルシンキ(フィンランド)、リガ(ラトヴィア)、プラハ(チェコ)、ドバイ(アラブ首長国連邦)、ローマ(イタリア)などへの利用が多かったが、ロシアによるウクライナ侵攻による欧州の対ロシア制裁等により欧州への旅客移動数は大きく変動しそうだ。プルコヴォ空港には鉄道は乗り入れておらず、路線バスが市内を結んでいる。

 サンクトペテルブルクの鉄道駅は、5つのターミナル駅がある。モスコーフスキー駅(Московский вокзал)は、いわゆる「モスクワ」駅であり、モスクワ方面の列車が発着する。モスクワ・サンクトペテルブルク鉄道として1851年に開業。サンクトペテルブルク・モスコーフスキー駅~モスクワ・レニングラード駅の約650キロ、ロシアの2大都市を結ぶ幹線であり、「はやぶさ」を意味する高速列車「サプサン」(Сапсан)が約3時間30分でモスクワを結んでいる。また、モスクワまで8時間かけて走る夜行列車「赤い矢」(クラースナヤ・ストレラー/Красная стрела)も運行されている。モスコーフスキー駅前にはショッピングモール「ガレリエヤ」(ТРЦ Галерея)、アートセンター「プーシキンスカヤ-10」(Арт-центр "Пушкинская-10")、ロシア革命を記念する「蜂起広場」(Площадь Восстания)がある。この広場にはロシア皇帝アレクサンドル3世(Александр III)の像が立っていたが、1937年に撤去された。蜂起広場からは、サンクトペテルブルクのメインストリートであるネフスキー大通り(Невский проспект)が伸びている。

 ヴィチェプスク駅(Витебский вокзал)は、モスコーフスキー駅から約1キロ南西にある主にベラルーシ方面の国際列車が発着する駅。1837年の開業で、ロシアで最も古い駅の一つである。かつてはロシア皇帝の離宮があるツァールスコエ・セロー(Царское Село)を結ぶツァールスコエ・セロー駅であったが、ベラルーシのヴィチェプスク/ヴィーツェプスク(Витебск / Віцебск)まで延伸されたことから、現駅名となった。ベラルーシのミンスク(Минск / Мінск)を結ぶ国際列車が運行されているほか、以前はウクライナのキーウ(Киев / Київ)方面やモルドヴァのキシナウ(Chișinău / Кишинёв)方面を結ぶ国際列車も運行されていた。また、飛び地のカリーニングラード(Калининград)方面およびラトヴィアのリガ(Rīga / Рига)方面などバルト海方面への列車も運行されていたが、2022年のロシアによるウクライナ侵攻後、これらの国際列車の運転が今後停戦後も継続されるかどうかは不安定な要素が多い。

 バルチースキー駅(Балтийский вокзал)は、ヴィチェプスク駅からさらに約2キロ南東にある。「バルト」駅ではあるが、近郊電車エレクトリーチカ(Электричка)が多く発着しており、サンクトペテルブルク市およびレニングラード州の郊外の町を結んでいる。バルチースキー駅の近くには「列車博物館」(Варшавский вокзал)があるほか、「ナルヴァ凱旋門」(Нарвские Триумфальные Ворота)も近い。

 フィンリャンツキー駅(Финляндский вокзал)は、ネヴァ川の北岸にある。1870年にフィンランド鉄道の駅として開設され、旧フィンランド領であったレニングラード州のヴィボルグ(Выборг / Viipuri)や、フィンランドの首都ヘルシンキ(Helsinki)を結ぶ列車が運行されている。

 ラドシュスキー駅(Ладожский вокзал)は、ネヴァ川の東側に2003年に開業した比較的新しいターミナル駅で、モスクワからサンクトペテルブルク経由でムルマンスク(Мурманск)方面を結ぶ列車などが発着している。

 サンクトペテルブルクの市内交通は、サンクトペテルブルク地下鉄(Петербургский метрополитен)がソ連のレニングラード時代の1955年に開業し、その後延伸を続け、5路線が運行されている。主にソ連時代に建設されたため、モスクワ地下鉄と同様に駅が地下深く、ホームは地下美術館のような重厚な装飾が施されている。また、トラムヴァーイ(трамвай)と呼ばれるサンクトペテルブルク市電(Петербургский трамвай)の路線網も充実している。そのほか、ソ連時代に整備されたトロリーバス(троллейбус)も運行されてきたが、近年は蓄電池により架線なしでも走行可能な充電式バスの導入も進められている。

 サンクトペテルブルクのメインストリートであるネフスキー大通り(Невский проспект)は、ロシア帝国時代に建設された「アレクサンドル・ネフスキー大修道院」(Александро-Невская лавра)から北西に伸び、モスコーフスキー駅前の蜂起広場を経由して、西に伸びている。ショッピングモール「ネフスキー・ツェントル(ネフスキー・センター)」(Невский Центр)、アニチコフ橋(Аничков мост)へと続いている。さらにその西はロシア帝国時代の宮殿などが集まる旧市街地であり、学習センターになっている「アニチコフ宮殿」(Аничков лицей)、「アレクサンドリースキー劇場」(Александринский театр)、「ロシア国立図書館」(Российская национальная библиотека)、「ヴォロンツォフ宮殿」(Воронцовский дворец)、ショッピングモール「ボリショイ・ゴスチヌィ・ドヴォール」(Большой Гостиный Двор)、ロシア正教会の「カザン聖堂」(Казанский кафедральный собор)、「ストロガノフ宮殿」(Строгановский дворец)などの見どころが集まっている。

 旧市街地にあたるアドミラルチェイスキー地区(Адмиралтейский район)は1704年にロシア皇帝ピョートル1世によりアドミラルティ造船所(Адмиралтейские верфи)が建設され、ロシア海軍の拠点となった。「アレクサンドロフスキー公園」(Александровский сад)前の旧海軍省の建物はロシア海軍総司令部として使用されている。その周辺には、ピョートル1世の騎馬像である「青銅の騎士」(Медный всадник)、ロシア正教会の「聖イサアク大聖堂」(Исаакиевский собор)、「中央海軍博物館」(Центральный военно-морской музей)、「ニコライエフスキー宮殿」(Николаевский дворец)、「ロシア・ウォッカ博物館」(Музей Русской Водки)、「モイカ宮殿」(Юсуповский дворец на Мойке)、「マイリンスキー劇場」(Мариинский театр)、「エルミタージュ美術館」(Государственный Эрмитаж)、「大理石宮殿」(Мраморный дворец)、「夏の庭園」(Летний сад)、タマネギ型のドームが美しい「血の上の救世主教会」(Спас на Крови)、美術館になっている「ミハイロフスキー城」(Михайловский замок)、「ロシア美術館」(Русский музей)、「ロシア民族芸術博物館」(Российский этнографический музей)などの見どころがある。

 サンクトペテルブルクは、ロシア第2の都市であり、造船業のほか電気、機械、化学、製紙、繊維、食品などさまざまな工業が発達している。また、叙事詩「青銅の騎士」(Медный всадник)の作者として知られる詩人アレクサンドル・プーシキン(Александр Пушкин)、「罪と罰」(Преступление и наказание)や「白痴」(Идиот)で知られる作家フョードル・ドストエフスキー(Фёдор Достоевский)などの文学、「サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団」(Заслуженный коллектив России Академический симфонический оркестр Санкт-Петербургской филармонии)や「マリインスキー劇場」でのオペラ・バレエなどの音楽・芸術など、ロシアの歴史・文化が凝縮されたロシアの古都である。

 2000年~08年と2012年からロシア連邦大統領を務めるウラジーミル・プーチン(Владимир Путин)は、レニングラード時代のサンクトペテルブルク出身であり、レニングラード国立大学(現・サンクトペテルブルク国立大学)で法律を学んだ後、ソ連の情報機関・秘密警察であるソ連国家保安委員会(КГБ/KGB)で勤務し、ソ連解体後、ロシア連邦となってからはボリス・エリツィン大統領の時代に連邦安全保障会議事務局長などを経て1999年に首相に就任し、2000年に大統領に就任した。ロシア帝国とソビエト連邦時代を経てロシアの栄枯盛衰を見て、強いロシアの復活を夢見たプーチン大統領は、ロシアの領土拡張を妄想し、2014年にウクライナのクリミアをロシアに編入し、ドンバス(ドネツィク、ルハンシク)に親露派政権を樹立。2022年にはウクライナに全面侵攻し、ウクライナの貴重な人命と生活文化を奪い、破壊し、さらにロシア国内の反戦の声を押し黙らせ、多大なロシア兵士を戦死させた。

 2022年のロシアによるウクライナ侵攻では、サンクトペテルブルクでも開戦当初は反戦デモがあったが、その後、強権的に反戦の声は沈黙させられている。ロシアの近隣国との関係は悪化し、サンクトペテルブルクに近いフィンランドやスウェーデンはNATO(北大西洋条約機構)の軍事同盟に加入を決意し、ソ連占領時代の記憶が鮮やかなエストニア、ラトヴィア、リトアニアもロシアに対する警戒感を強めている。サンクトペテルブルクがロシアの魅力を世界に発信する開かれた国際都市に戻るにはまだまだ長い時間がかかりそうだ。

京都・六地蔵 大善寺と六地蔵村と山科川

京都・六地蔵
きょうと・ろくじぞう

日本国京都府京都市伏見区、宇治市

京都・六地蔵 大善寺と六地蔵村と山科川

 六地蔵(ろくじぞう)は、京都(きょうと)府京都市の伏見(ふしみ)区と宇治(うじ)市にまたがるエリアで、京都市伏見区側に京阪電鉄・宇治線の六地蔵駅、宇治市側にJR西日本・奈良線と京都市営地下鉄・東西線の六地蔵駅がある。

 六地蔵は、小野篁(おの の たかむら)が平安時代の852年(仁寿2年)に6体の地蔵菩薩像を作り、山城国(やましろのくに)の紀伊(きい)郡にある「大善寺」(だいぜんじ)に祀ったことから、大善寺および周辺が「六地蔵」(ろくじぞう)と呼ばれるようになった。

 明治時代になると紀伊郡六地蔵村が、山科川(やましながわ)を挟んで東西に分割され、西が紀伊郡堀内村、東が宇治郡宇治村の一部となった。昭和6年(1931年)に紀伊郡堀内村が京都市に編入され、京都市伏見区の一部となった。

 旧・六地蔵村は、現在の行政区画上は山科川を挟んで京都市伏見区と宇治市に分かれているが、伏見区側に京阪宇治線の六地蔵駅、宇治市側にJR奈良線の六地蔵駅があるため、現在も共に六地蔵エリアを形成している。

 京阪宇治線は、京阪本線の中書島(ちゅうしょじま)駅から宇治市の宇治駅を結ぶ路線で、大正2年(1913年)に開業した。京都市方面へはJR奈良線と競合関係にあるが、中書島駅から京阪本線で大阪方面にも便利なことが京阪宇治線の強みでもある。六地蔵の由来である「大善寺」は伏見区側にあり、京阪六地蔵駅からが一番近い。山科川は京阪宇治線の南側に沿って宇治川に注いでいるが、これは昭和40年代に河川改修されたもので、それ以前は六地蔵駅の南に広がる木幡池に注いでいた。

 JR奈良線は明治29年(1896年)に奈良鉄道として桃山~宇治~玉水の区間が延伸開業したが、当時は六地蔵に駅は設置されなかった。奈良鉄道は明治38年(1905年)に関西鉄道に譲渡され、明治40年(1907年)に国有化され、国鉄奈良線となった。民営化してJR奈良線となった後、山科川の東の宇治市側に平成4年(1992年)に六地蔵駅が開設された。その後、平成16年(2004年)に京都市営地下鉄・東西線が六地蔵駅まで開業し、JR・地下鉄・京阪の乗り換え駅となったことから、JR六地蔵駅には京都~奈良を結ぶ「みやこ路快速」も停車する。

 京都地下鉄東西線は、六地蔵駅から京都市東部の醍醐(だいご)、山科(やましな)を経由して東山(ひがしやま)、三条京阪(さんじょう けいはん)、京都市役所前、烏丸御池(からすま おいけ)、二条(にじょう)、太秦天神川(うずまさ てんじんがわ)を結ぶ路線で、鉄道空白地帯だった京都市の南東側を通り、京都駅は通らないが、京都の中心市街地である三条や御池通を結んでいる。京都市営地下鉄ではあるが、六地蔵駅のみ宇治市に建設された。

京都・六地蔵エリアの主な駅

六地蔵 / ろくじぞう 駅
京阪電鉄 宇治線
JR西日本 奈良線
京都市営地下鉄 東西線

rokujizou1.jpg
JR奈良線・六地蔵駅

rokujizou2.jpg
六地蔵駅に停車する「みやこ路快速」

rokujizou3.jpg
カーブしているJR六地蔵駅のホーム

rokujizou4.jpg
JR奈良線・六地蔵駅

rokujizou5.jpg
京都地下鉄東西線・六地蔵駅

岡山・赤磐 桃とブドウと山陽団地と岡山ネオポリス

赤磐
あかいわ

日本国岡山県赤磐市

岡山・赤磐 桃とブドウと山陽団地と岡山ネオポリス

 赤磐(あかいわ)市は、岡山(おかやま)県の中部にある人口約4万人の市。南が岡山市東(ひがし)区、西が岡山市北(きた)区、北が久米(くめ)郡の久米南(くめなん)町、久米郡美咲(みさき)町、東が和気郡和気(わけ)町と接している。

 赤磐市は、古くは備前国(びぜんのくに)の赤坂(あかさか)郡と磐梨(いわなし)郡に属し、明治33年(1900年)に赤坂郡と磐梨郡が統合され、頭文字をとって「赤磐」(あかいわ)郡となった。

 平成の大合併で、平成17年(2005年)に赤磐郡の山陽(さんよう)町、赤坂(あかさか)町、熊山(くまやま)町、吉井(よしい)町の4町が合併し、赤磐市が発足した。

 赤磐市にはJR西日本・山陽本線が通り、市内に熊山(くまやま)駅がある。熊山駅は旧・熊山町にあり、駅は吉井川の東岸にある。駅の南側には岡山白陵中学校・高校があり、熊山駅は同校の通学の利用が多い。熊山駅から熊山橋を渡った対岸はコーナン商事岡山流通センター、テイカ熊山工場、LIXIL熊山工場、NTN赤磐製作所、備前化成本社などの工場や物流施設が集まっている。熊山駅は、赤磐市の南東部にあり、市の中心部からはかなり外れている。

 赤磐市の中心市街地は、市の南西部の旧・山陽町にあり、旧・山陽町役場が赤磐市役所となっている。旧・山陽町は、西山村と高陽村が合併した際の合成地名であり、桃やブドウの果樹栽培が盛んな町であったが、1970年代より住宅開発が行われ、旧・山陽町の西側に「山陽団地」、北東に「岡山ネオポリス」(桜が丘)が開発された。これらのニュータウンからは、岡山市東区(旧・赤磐郡瀬戸町)のJR山陽本線・瀬戸(せと)駅や、岡山駅方面への路線バスが運行されている。また、旧・山陽町には、山陽自動車道の山陽IC(インターチェンジ)がある。

 旧・赤坂町は、旧・山陽町の北にあり、岡山県の特産品としても知られる桃やブドウの果樹栽培が盛んであり、赤坂レイクサイド・カントリークラブの近くにサッポロビール「岡山ワイナリー」がある。

 旧・吉井町は、旧・赤坂町のさらに北にあり、吉井川の上流部に町がある。旧・吉井町には、かつて同和鉱業片上鉄道が走っていて、町内に備前福田(びぜん ふくだ)駅と周匝(すさい)駅があった。同和鉱業片上鉄道は、岡山県久米郡柵原(やなはら)町(現・美咲町)にあった柵原鉱山で採掘された硫化鉄を片上港(現・備前市)に運ぶために建設され、大正12年(1923年)に片上駅が開業。昭和6年(1931年)に柵原駅まで全通した。開業当初は片上鉄道で、昭和25年(1950年)に藤田興業が買収し、藤田興業片上鉄道となり、昭和32年(1957年)に同和鉱業片上鉄道となった。和気駅で国鉄山陽本線とも連絡していた。しかし、昭和62年(1987年)に鉱石輸送がトラック輸送に切り替わり、鉄道廃止が発表され、翌年に貨物営業が廃止され、平成3年(1991年)に旅客営業も全線廃止された。

 旧・吉井町では、地元のブドウを原料にした「是里(これさと)ワイン」が醸造されており、「是里ワイン記念館」がある。また、仁堀地区には中世ドイツの農村をイメージした「おかやまフォレストパーク ドイツの森」があり、地ビール工房、バーベキュー場、パターゴルフ場、ゴーカート、スワンボート、ドッグラン、乳しぼり体験、ふれあい動物園などが楽しめる。

赤磐エリアの主な駅

熊山 / くまやま 駅
JR西日本 山陽本線

瀬戸 / せと 駅(岡山市東区)
JR西日本 山陽本線

akaiwa1.jpg
JR山陽本線・熊山駅

akaiwa2.jpg
吉井川沿いを走るJR山陽本線

akaiwa3.jpg
JR山陽本線と交差する山陽自動車道

akaiwa4.jpg
吉井川を渡るJR山陽本線

沖縄 石垣・尖閣 日本が実効統治し、中国が台湾領と主張するイーグンクバジマ

石垣・尖閣
釣魚臺 / 钓鱼岛
いしがき・せんかく (日本語)
イシガチ・イーグンクバジマ (沖縄語八重山方言)
ティオヒータイ/Tiò-hî-tâi (台湾語)
ティアオユィータイ/ㄉㄧㄠˋㄩˊㄊㄞˊ (台湾華語)
ティアオユィータオ/Diàoyúdǎo (中国語)

日本国沖縄県石垣市
(日本が実効統治、台湾と中国が領有権主張)

沖縄 石垣・尖閣 日本が実効統治し、中国が台湾領と主張するイーグンクバジマ

 尖閣諸島(せんかくしょとう)は、沖縄(おきなわ/ウチナー)県の石垣(いしがき/イシガチ)市に属する東シナ海の離島群で、沖縄語八重山方言では「イーグン クバジマ」と呼ばれる。石垣島の北方約130~170キロ、北緯25度、東経123~124度のあたりに島が点在している。

 日本が実効統治し、平成24年(2012年)以降、日本国の国有地となっているが、台湾(中華民国)および中国(中華人民共和国)が領有権を主張している。台湾では台湾語および華語で「釣魚臺」(ティオヒータイ / ティアオユィータイ)と呼ばれ、中国では「钓鱼岛」(ティアオユィータオ)と呼ばれている。特に中国は、たびたび海警局の艦船を派遣して領海にも侵入するなど、日中間の火種となっている。

 もともと沖縄語八重山方言で「イーグン クバジマ」、沖縄語那覇方言で「ユクン クバジマ」と呼ばれ、イーグンは「銛」、ユクンは「魚の群れ」を意味し、「クバ」は「蒲葵(ビロウ)」を意味している。「尖閣」(せんかく)の名称は比較的新しく、明治33年(1900年)にこの諸島を調査した沖縄県師範学校の黒岩恒(くろいわ ひさし)氏により島の形状が尖っていることにちなんで「尖閣」と命名された。

 日本側の行政区画では、明治18年(1885年)より調査を始め、清国の領有権が及んでいないことを確認し、明治28年(1895年)1月に標杭を立てることを閣議決定して日本領に正式に編入。明治29年(1896年)に八重山(やえやま/ヤイマ)郡に属するようになった。明治36年(1903年)に八重山郡登野城(とのしろ/トゥヌスク)村の一部とされ、明治41年(1908年)に登野城村が合併により八重山郡全域が八重山郡八重山村となり、尖閣も八重山村の一部となった。八重山村の領域が海を隔てて広域だったため、大正3年(1914年)に分村により、尖閣は石垣島を中心とする八重山郡石垣村の一部となった。大正15年(1926年)に石垣村は石垣町となった。

 沖縄県は昭和20年(1945年)の日本敗戦後に米国統治下となり、米領琉球時代の1947年(昭和22年)に八重山郡石垣町が石垣市となり、尖閣は石垣市の一部となった。1972年(昭和47年)に米領琉球が沖縄県として日本に返還されたが、石油が埋蔵されていると考えられ、その直前の1970年頃より台湾(中華民国)が領有権を主張するようになり、中華人民共和国も1971年頃より領有権を主張するようになった。

 近代国家の形成により、領土の帰属を明確化させる過程で、どうしても領有権の主張が重なることはある。日本は琉球処分で明治12年(1879年)に琉球王国を編入して沖縄県を設置した上で、明治28年(1895年)に尖閣諸島を日本に編入した。一方、台湾や中国からは、尖閣諸島が日本に編入されたのが日清戦争中であったとの指摘がある。尖閣諸島には明治時代より鰹節工場が作られ、日本人が定住し、最盛期は248名が住んでいたが、昭和15年(1940年)に事業中止となり、無人島となった。日本人が住み続けていなかったことが、後に台湾・中国から領有権主張をしやすくなった側面はあったかもしれない。

 台湾は日清戦争の結果、日本に割譲され、昭和20年(1945年)まで日本領であった。そのため、その間は尖閣がどちらの領土かは問題にはならなかった。戦後、尖閣は米国統治下に入ったが、漁業の往来は比較的自由で、台湾と沖縄の漁民の交流もあった。沖縄返還と日台断交を経て、台湾漁民が伝統的漁場だった尖閣周辺海域で操業が日本に妨害されることに対する不満があり、漁業問題は日台間の懸案となっていた。漁民が領有権主張の抗議活動に利用されたこともあったが、平成25年(2013年)に日台漁業協定が結ばれ、日台間の領有権問題とは切り離した対話を通じて漁業問題は大幅解決となった。

 台湾の領有権主張は2タイプあり、「『釣魚台』(尖閣)は台湾領だ」という主張と、「『釣魚台』(尖閣)は中華民国領だ」という主張がある。台湾領だという主張の根拠は、上述の台湾の伝統的漁場だったことや、日清戦争中に日本が取得したことなどが、台湾人にとって領有権主張の根拠となる。台湾宜蘭県に属すると主張している。

 中華民国領という主張は、台湾宜蘭県に属するという主張に加えて、中国人が一番早く発見した、中国の古文書に記述があるなど、中国と主張が一致しており、釣魚台(尖閣)は中国領である台湾の一部であり、台湾は中華民国領であるという認識である。

 一方、中華人民共和国の主張は、中国人が発見し、中国の古文書に記載されということと、釣魚島(尖閣)は台湾の一部であるという主張に加えて、台湾は中国の一部であり、中華人民共和国が中国唯一の合法政府であるから、釣魚島(尖閣)は中華人民共和国領であるというものだ。しかし、台湾は一度も中華人民共和国領になったことがないので、この主張こそ日台中の主張の中で一番無理がある。しかし、中華人民共和国は海上警察力などを使って定期的にパトロール(領海侵入等)をすることにより、実効支配をアピールしている。その結果、日本の漁民等は尖閣に自由に近づきにくい状況になってしまっている。

 尖閣諸島最大の島は、面積3.82平方キロメートルの「魚釣島」(うおつりしま)で、尖閣諸島の最西端にある。沖縄語八重山方言では「イーグンジマ」と呼ばれてきた。台湾では「釣魚臺」(ティオヒータイ / ティアオユィータイ)、中国では「钓鱼岛」と呼ばれる。石垣島と台湾からともに約170キロの距離にあり、中国からは約330キロ離れている。明治時代に実業家の古賀辰四郎(こが たつしろう)により鰹節工場が建設され、魚釣島灯台も建設された。島の最高地点の標高は362m(奈良原岳、釣魚臺主峰、高华峰)。センカクモグラ、センカクサワガニ、センカクアオイなどの動物や植物の固有種が生息している。昭和53年(1978年)に日本人によりヤギが島に持ち込まれたが、それが野生化して、300頭以上いるとみられている。

 尖閣諸島第2の島は、尖閣諸島最北端、釣魚島の北東約22キロにある「久場島」(くばしま)で、面積0.91平方キロ。沖縄語八重山方言で「クバシマ」と呼ばれてきたことから、沖縄伝統の地名に由来している。「クバ」は沖縄語で「蒲葵(ビロウ)」を意味する。また、台湾では「黃尾嶼」(ンーボエスウ/ホアンウェイユィー)、中国では簡体字で「黄尾屿」と表記される。琉球王国時代には沖縄側でも「黄尾嶼」と記述されたことがあり、八重山の口語では「チールージマ」(黄色い島)とも呼ばれた。この魚釣島と久場島を合わせたものが「イーグン クバジマ」の由来となっている。

 「大正島」(たいしょうとう)は、0.06平方キロの小さな島であるが、尖閣諸島東端に位置する重要な島。魚釣島から約103キロ東にあり、宮古列島の多良間島のほぼ真北に位置する。琉球王国時代の文書には「赤尾嶼」と記載され、八重山の口語では久米島寄りにあることから「久米赤島」(クミアカシマ)と呼ばれていた。大正10年(1921年)に「大正島」に改名された。台湾では「赤尾嶼」、中国では「赤尾屿」と表記されている。

 そのほか、魚釣島周辺に北小島(台:北小島、中:北小岛)、南小島(南小島、南小岛)、沖の北岩(沖北岩/北屿)、沖の南岩(沖南岩/南屿)、飛瀬(飛瀨/飛屿)などの小島がある。沖縄と台湾が共に日本領だった明治後期~昭和初期には尖閣諸島が後に日台中の領有権争いになるとは思わなかったのだろう。「南(ぱい)ぬ小島」や「沖(うち)ぬ南岩」のように書けば沖縄・八重山らしくなるが、「北小島」、「南小島」などはいかにも日本が後から適当に命名した感じもする。領有権をよりはっきりさせるため、日本政府は平成26年(2014年)に無名だった島々についても命名したが、これも東小島、南東小島、西北西小島のように方角による簡単なネーミングだった。

 尖閣諸島を管轄している沖縄県石垣市は、石垣港旅客ターミナル内に尖閣諸島に関する展示スペース「石垣市尖閣諸島情報発信センター」を設けており、尖閣諸島の歴史や島々の地理などを紹介している。

(参考:Wikipediaなど)

senkaku1.jpg
石垣港の「石垣市尖閣諸島情報発信センター」

senkaku2.jpg
尖閣諸島の3D模型

senkaku3.jpg
設置を待つ尖閣諸島各島の標石

senkaku4.jpg
釣魚島の説明

senkaku5.jpg
久場島の説明

senkaku6.jpg
大正島と尖閣諸島の島々

米国メリーランド チェサピーク湾とボルティモアとワシントン首都郊外

State of Maryland (英語)
ステイト オヴ メリーランド
メリーランド州

State of Maryland, United States of America
アメリカ合衆国メリーランド州

米国メリーランド チェサピーク湾とボルティモアとワシントン首都郊外

 メリーランド州(State of Maryland/ステイト オヴ メリーランド)は、アメリカ合衆国(United States of America)東部にある州で、北がペンシルヴェニア州、東がデラウェア州、南がヴァージニア州、西がヴァージニア州、首都ワシントンDCと接している。

 メリーランド州の人口は約620万人で、全米第18位。面積は約3.2万平方キロメートルで、全米42位。面積は比較的小さいが、人口密度は高い州である。州都はアナポリス(Annapolis)で、最大の都市はボルティモア(Baltimore)。

 メリーランド州の人口構成は、ヨーロッパ系白人が約55%、アフリカ系黒人が約30%、ヒスパニック・ラテン系が約8%、アジア系が約6%、アメリカン・インディアンが約0.4%、混血が約2.5%である。ヨーロッパ系はドイツ系約16%、アイルランド系約12%、イギリス系約9%、イタリア系約5%であり、そのほかアジア系は韓国系や台湾系が比較的多く、アフリカ系はナイジェリアからの移民も住む。ヒスパニック系はエルサルバドル系、メキシコ系、プエルトリコ系が比較的多い。

 メリーランド州には、もともとピスカタウェイ(コノイ)族、デラウェア(レナペ)族、ナンチコーク族、ラムビー族、ポウハタン族などのアメリカン・インディアンが住んでいた。

 メリーランドに住んでいたアメリカン・インディアンらは、ウィグワム(wigwam)と呼ばれるドーム状の住居に住み、農耕を営んでいたが、16世紀頃からイギリス人の入植がはじまり、ヨーロッパ人らに領土を奪われていった。インディアンらは後にアフリカ系の黒人奴隷を部族員として迎え、アメリカン・インディアンとアフリカ系の混血である「ブラック・インディアン」(Black Indians)が増加したが、メリーランド州当局は「ブラック・インディアン」を先住民と認めず、インディアン保留地を解消していった。現在、メリーランド州に米国連邦政府が認定しているアメリカン・インディアン部族はなく、ピスカタウェイ族などが認定を求めている。

 メリーランドには、16世紀初頭にイタリア人が訪れた記録が残っており、1608年にはイギリス人の探検家ジョン・スミス(John Smith)がチェサピーク湾(Chesapeake Bay)を探検した。1631年にチェサピーク湾のケント島(Kent Island)に交易所が設けられた。

 イギリス人のジョージ・カルバート(George Calvert)が、イギリス人のカトリック教徒のための避難地を創ることを願い、ニューファンドラインド島の東部に入植地を築き、アヴァロン(Avalon)領と命名し、1625年に初代ボルティモア男爵(Baron Baltimore)に任じられたが、強風の寒冷地であったため1629年にアヴァロンを放棄することになり、南の土地を探し、このメリーランドの地を選んだ。ジョージ・カルバートは志半ばで死去し、息子の第2代ボルティモア男爵セシル・カルバート(Cecil Calvert, 2nd Baron Baltimore)が勅許を得て英領メリーランド植民地(Province of Maryland)が開かれ、首府はセント・メアリーズ・シティ(St. Mary's City)と命名された。

 英領メリーランド植民地の第2代ボルティモア男爵セシル・カルバートはデラウェアの領有権を主張し、一方、その北のペンシルヴェニア植民地も海へ出るためにデラウェア川下流域の領有権を求め、ペン・カルバート境界紛争となったが、1682年にペンシルヴェニアはヨーク公からデラウェア川下流域を借用した。デラウェアの代表はペンシルヴェニアの議会に参加していたが、ペンシルヴェニア植民地の成長が著しいことから、1704年より議会が分かれて、デラウェア川下流域のデルマーヴァ半島(Delmarva Peninsula)の北東側を領域とするデラウェアの植民地議会がニューキャッスルで開かれるようになった。

 メリーランド植民地は、もともとカトリック教徒の自由が保障された土地であるはずだったが、メリーランドでもカトリックとプロテスタントの紛争が持ち込まれ、純粋なカトリックの地となることはなかった。また、経済的には隣接するヴァージニア植民地と同様に広大なプランテーション農園の労働者に黒人奴隷が用いられた。換金作物であるタバコが主に栽培された。

 1770年代になるとイギリス本国の高圧的な統治に反発する英領植民地13州のアメリカ独立運動が盛り上がるようになり、1774年にジョージア州を除く12議会による「大陸会議」がペルシルべニアのフィラデルフィアで開かれた。1776年には「アメリカ独立宣言」(United States Declaration of Independence)が起草され、フィラデルフィアの大陸会議で採択された。イギリスが軍を送り、米国独立戦争となる中、大陸会議は1776年~77年にはメリーランドのボルティモアでも開かれた。1781年~82年にはメリーランド出身のジョン・ハンソン(John Hanson)が連合会議議長を務め、1783年~84年はメリーランドのアナポリスが一時的に「アメリカ合衆国」の首都とされ、連合会議もメリーランド議事堂で開催されていた。独立戦争終結の「パリ条約」は1784年にアナポリスで批准され、イギリスが「アメリカ合衆国」の独立を承認した。メリーランドは1788年に「メリーランド州」(State of Maryland)としてアメリカ合衆国に加入。米国7番目の州となった。

 米国メリーランド州成立後、1812年~15年の米英戦争の際には、英軍がボルティモア港を占領しようとし、星型の要塞であるボルティモアの「マクヘンリー砦」(Fort McHenry)が攻撃された。これがきっかけとなり、詩人フランシス・スコット・キー(Francis Scott Key)により「星条旗」(The Star-Spangled Banner)が作詩され、アメリカ合衆国の国歌の歌詞となった。19世紀には、「ボルティモア・オハイオ鉄道」(Baltimore and Ohio Railroad)が建設され、メリーランド州の産業革命と経済を牽引した。1861年~65年の南北戦争の際には、州内のアフリカ系住民の約半数がすでに自由人になっていたことから、奴隷制度維持を主張する南軍「アメリカ連合国」(Confederate States of America)側にはつかず、北軍「アメリカ合衆国」側にとどまった。南北戦争を経て奴隷制度が廃止され、選挙権が非白人男性まで拡大された。

 産業革命で発展したメリーランド州は、工場や鉱業の労働者が多かったことから、労働者を守る法整備などが進められた。第二次世界大戦時には軍需産業の主要生産地となった。戦後は、首都ワシントンDCの都市圏拡大により、ワシントンDCとボルティモアの間の都市化が進んだ。一方、ボルティモアの重工業が衰退し、タバコ農園も衰退して野菜農場や養鶏場などが増えた。ボルティモアは長い不況により治安が悪化したが、再開発によりウォーターフロント開発による工業・貿易・観光・商業などの産業の活性化に成功したが、都市の空洞化により治安の改善が課題となっている。

 メリーランド州は、アメリカ合衆国大統領選挙では選挙人10名が選出される。民主党が優勢な州であり、2012年の大統領選挙得票率は民主党(オバマ氏)61%、共和党35%。2016年は民主党60%、共和党33%(トランプ氏)、2020年は民主党(バイデン氏)65%、共和党32%だった。

 ワシントンDCの南東に近接するアンドルーズ空軍基地(Joint Base Andrews)は米国空軍の基地で、大統領専用機「エアフォースワン」(Air Force One)の本拠地となっているほか、米国首都を訪問する外国要人の政府専用機もこの基地が利用されている。

 一方、メリーランド州の一般旅客の空の玄関口は、「ボルティモア・ワシントン サーグッド・マーシャル国際空港」(Baltimore/Washington International Thurgood Marshall Airport)で、ボルティモア中心部から約15キロ南、ワシントンDCから約50キロ北東に位置しており、メリーランド州最大都市のボルティモアのみならず、首都ワシントンDCからも利用しやすい空港であり、サウスウエスト航空(Southwest Airlines)の拠点空港としても利用されている。サーグッド・マーシャルの名は、米国初の黒人最高裁判所判事となったサーグッド・マーシャル(Thurgood Marshall)を記念している。1950年の開港時にはボルティモア市営空港であったが、1972年よりメリーランド州営の空港となった。

 ボルティモア・ワシントン空港は、アトランタ(ジョージア州)、オーランド(フロリダ州)、フォートローダーデール(フロリダ州)、デンヴァー(コロラド州)、シャーロット(ノースカロライナ州)、タンパ(フロリダ州)、マイアミ(フロリダ州)、シカゴ(イリノイ州)、ラスベガス(ネバダ州)、ダラス(テキサス州)などの国内線の利用者が多いほか、国際線は主にカンクン(メキシコ)、モンテゴベイ(ジャマイカ)、ロンドン(英国)、トロント(カナダ)、プンタカナ(ドミニカ共和国)、オラニエスタッド(蘭領アルバ)、フランクフルト(ドイツ)、モントリオール(カナダ)、ナッソー(バハマ)、リベリア(コスタリカ)などに運航されている。

 ボルティモア・ワシントン空港には、ライトレールがボルティモア市中心部まで約30分で結んでいる。また、鉄道のアムトラック北東回廊線のボルティモア・ワシントン国際空港駅があり、ボルティモア市内のペンシルヴェニア駅や、ワシントンDCのユニオン駅を結び、さらにニュージャージー州やニューヨーク(New York)方面への列車もある。将来的にはワシントンDC地下鉄のグリーンラインをボルティモア・ワシントン空港まで延伸する構想もある。

 ボルティモア(Boltimore)は、市域人口約60万人、郊外も含む都市圏人口約285万人のメリーランド州最大の都市であり、大西洋に出ることができるチェサピーク湾の港湾都市として発展している。古くはタバコの輸出港として、近代以降は造船業や鉄鋼業が発達し、工業製品の輸出港として栄えている。1960年代以降の長年にわたる不況により、スラム街などが形成され、治安も悪化したが、ウォーターフロント開発により、ボルティモア国立水族館(National Aquarium)、メリーランド科学館(Maryland Science Center)、ボルティモア工業博物館(Baltimore Museum of Industry)、カントン・ウォーターフロント・パーク(Canton Waterfront Park)、大型ショッピングセンター「カントン・クロッシング」(Canton Crossing)などが再開発された。

 ボルティモアの都市名は、アイルランド貴族院議員だった第2代ボルティモア男爵セシル・カルバート(Cecil Calvert, 2nd Baron Baltimore)がメリーランド植民地の初代領主になったことに由来するが、この「ボルティモア」はアイルランドのコーク県ボルティモアから来ており、アイルランド語で「大きな家の町」を意味する「Baile an Tí Mhóir」(バイレ アン ティー モーイル)が英語風にボルティモアとなった。

 ボルティモアの住民構成は、アフリカ系黒人が約62%と最も多く、ヨーロッパ系白人が約28%、ヒスパニック・ラテン系が約5%、アジア系が約3%。ボルティモアは北緯39度にあり、平均気温は1月が-2℃~6℃、7月が22℃~32℃。ボルティモアの市内交通は地下鉄が1路線あるほか、ライトレールがボルティモア・ワシントン国際空港を結んでいる。

 ボルティモアは、1910年~1935年に米国メジャーリーグで数々の記録を打ち立てたプロ野球選手ベーブ・ルース(Babe Ruth)の故郷であり、生家が博物館になっている。また、ボストン出身でボルティモアを拠点に執筆活動をしていた小説家のエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)の墓地もボルティモアにある。人権派議員として台湾や中国の民主化を支援し、中国による人権弾圧を厳しく批判し、中国からの軍事脅迫にひるまず2022年に台湾訪問を実現したナンシー・ペロシ(Nancy Pelosi)下院議長もボルティモア出身である(選挙区はカリフォルニア)。

 州都のアナポリス(Annapolis)は、ボルティモアの南約45キロにあるチェサピーク湾に面する人口約4万人の都市。ワシントンDCも西約45キロにある。アナポリスはメリーランド州の行政の中心であり、住民構成はヨーロッパ系約62%、アフリカ系約31%、ヒスパニック系約8%、アジア系約2%。

 メリーランド州会議事堂(Maryland State House)は1772年に建設が始まり、米国独立戦争中に建設が進み、1779年に竣工。1783年~84年にはアメリカ合衆国の暫定首都となり、連邦議会議事堂としても使われた。今も現役の州議事堂として使われている。

 アナポリスには、海軍兵学校(United States Naval Academy)があり、海軍兵学校時代が通称で「アナポリス」と呼ばれている。また、アナポリスはヨットが盛んでもあり、マリーナがあり、「セーリングの都」(America's Sailing Capital)としても知られている。

 アナポリスから東へ「チェサピーク・ベイ・ブリッジ」(Chesapeake Bay Bridge)がつながっており、ケント島(Kent Island)を経由してチェサピーク湾の東岸のデルマーヴァ半島(Delmarva Peninsula)を結んでいる。
 
 メリーランド州北西部のカンバーランド(Cumberland)は、ペンシルヴェニア州ピッツバーグを経由してオハイオ州を結ぶ鉄道が通るほか、道路、水運の重要な結節点となり、石炭、鉄鉱石、木材などの資源も産出され、ガラス、繊維、ブリキなどの製造業も発展する工業都市となり、ボルティモアに次ぐ州第2の都市に成長した。しかし、第二次世界大戦後は、アパラチア山脈の山間部にあるカンバーランドは衰退し、人口も半減し、現在の人口は約2万人余りとなっている。

 このほか、メリーランド州は、ワシントンDC郊外に広がる衛星都市がいくつかある。ワシントンDCの北西に近接するベセスダ(Bethesda)は、米国国立衛生研究所(National Institutes of Health)があるほか、高級住宅街が広がっている。

 ロックヴィル(Rockville)はベセスダの北約10キロにあり、モントゴメリー(Montgomery)郡の中心地で商業が発展し、ソフトウェアやバイオテクノロジー系の企業も多く集まる。住民はアジア系が多く特に台湾系や韓国系、中国系の住民が多い。

 ゲイザースバーグ(Gaithersburg)は、ロックヴィルの北西に近接し、郊外型のニュータウンが形成されており、米国国立標準技術研究所(Institute of Standards and Technology)の本部がある。

 カレッジパーク(College Park)は、ワシントンDCの北東にあり、メリーランド大学カレッジパーク校(University of Maryland, College Park)があり、米国国立公文書記録管理局(National Archives and Records Administration)の新館もある。

 ローレル(Laurel)は、ボルティモアとワシントンDCのほぼ中間地点にある都市で、ボルティモアとワシントンDCを結ぶメリーランド地域通勤鉄道カムデン線のローレル駅があり、両都市に通勤が可能である。また主要道路沿いに商業が発達している。ローレルの東には米国の情報機関である米国国家安全保障局(National Security Agency:NSA)の本部がある。

 タウソン(Towson)はボルティモア市の北にあるボルティモア郡の軍庁所在地であり、バスがボルティモア市内を結んでいるほか、ライトレールがボルティモア中心部およびボルティモア・ワシントン国際空港を結んでいる。

 メリーランド州南東部のチェサピーク湾東岸のデルマーヴァ半島南部にあるソールズベリー(Salisbury)は、デルマーヴァ半島のビジネスの中心都市となっている。その東にある大西洋に面するオーシャンシティ(Ocean City)は、ビーチリゾートの町として、夏に多くのリゾート客が滞在する。

北海道・比布 ゆめぴりかとイチゴと塩狩峠

比布
ぴっぷ (日本語)
ピピ ペッ (アイヌ語)

日本国北海道上川地方上川郡比布町

北海道・比布 ゆめぴりかとイチゴと塩狩峠

 比布(ぴっぷ)町は、北海道(ほっかいどう)の上川(かみかわ)地方、上川郡にある人口約0.4万人の町。東が上川郡愛別(あいべつ)町、南が上川郡当麻(とうま)町、西が旭川(あさひかわ)市、北が上川郡和寒(わっさむ)町、士別(しべつ)市と接している。

 比布(ぴっぷ)の町名の由来はアイヌ語であり、「石がゴロゴロしている川」の「ピピ ペッ」が転訛して「ピッペッ」か「ピピ」「ピプ」となったと言われている。

 比布町は上川盆地の北西にあり、町の南半分は平地が広がり、稲作が盛んで、ブランド米「ゆめぴりか」の発祥の地である。北海道で米を栽培するには、寒冷地であることが不利であったが、上川盆地は寒暖の差が大きく、夏は30℃を超える日も多いため、おいしい米が栽培できる。また、比布町ではイチゴの栽培も盛んである。一方、冬は積雪も多く、雪に包まれる。

 北に隣接する和寒町は、現在は同じ上川地方(上川総合振興局)の上川郡であるが、国の区分では、比布が石狩国(いしかりのくに)、和寒が天塩国(てしおのくに)に属しており、その間にある峠は、天塩と塩狩の境であることから「塩狩峠」(しおかりとうげ)と呼ばれている。

 比布町には、JR北海道・宗谷本線が通り、町内に比布(ぴっぷ)駅と蘭留(らんる)駅がある。また、以前は南比布(みなみぴっぷ)駅と北比布(きたぴっぷ)駅があったが、利用客が極めて少なかったため令和3年(2021年)に廃止された。

 比布駅は明治31年(1898年)に開業した歴史ある駅で、特急「宗谷」「サロベツ」は通過するが、快速「なよろ」が停車する。平成28年(2016年)に新駅舎が竣工し、「ピピカフェ比布駅」が併設されている。駅の東側に市街地が広がり、周辺には比布町役場、比布町体育館、比布町公衆浴場、比布神社などがある。

 ところで、肩こりの磁器付き絆創膏「ピップエレキバン」とは直接的な関係はないが、同じ「ピップ」であることから、テレビコマーシャルのロケ地となり、ピップ(当時の藤本)の会長と女優の樹木希林が出演し、軽やかな掛け合いが話題を呼び、比布町も有名になった。

 蘭留駅も明治31年(1898年)に開業した歴史ある駅で、普通列車のほか、一部の快速「なよろ」が停車する。塩狩峠のふもとにあり、アイヌ語で「ランル」は「下る道」を意味する。蘭留駅の東約1.5キロのところには「グリーンパークぴっぷ」や町営「ぴっぷスキー場」がある。比布町はスキーの町としても知られ、冬場は冷え込むため、パウダースノーのスキーが楽しめる。

 蘭留駅の南西側には、道央自動車道から旭川紋別自動車道が分岐する比布JCT(ジャンクション)がある。比布町内には道央自動車道にIC(インターチェンジ)がないが、旭川紋別自動車道の比布北ICが利用できる。また、道央自動車道には比布大雪PA(パーキングエリア)があり、比布大雪山展望広場からは大雪山(たいせつざん)の山々が見渡せる。

 蘭留駅から北へ宗谷本線は塩狩峠を上って行き、急勾配とカーブが続く。蘭留~塩狩~和寒の塩狩峠は、開業時からの難所で、明治42年(1909年)に、名寄発旭川行きの急行列車が、塩狩峠の頂上付近で最後尾の客車の連結器が外れ、逆走し、国鉄職員・長野政雄がハンドブレーキで停止を試みるが停まらず、デッキから転落して床下に巻き込まれて死亡し、列車は何とか停まって乗客にけがはなかったという事故が発生した。この事故は後に旭川出身の作家・三浦綾子(みうら あやこ)の小説「塩狩峠」として知られるようになった。列車が逆走したのは、和寒町側であり、比布町から和寒町に入ったところにある塩狩駅が列車の連結器が外れた頂上付近にあたるが、事故発生時にはまだ駅は開設されていなかった。

比布エリアの主な駅

比布 / ぴっぷ 駅
JR北海道 宗谷本線

蘭留 / らんる 駅
JR北海道 宗谷本線

pippu1.jpg
JR宗谷本線・比布駅

pippu2.jpg
比布駅の駅名標

pippu3.jpg
比布町と当麻町との境を流れる石狩川

pippu4.jpg
上川盆地の平野が広がる比布町

pippu5.jpg
上川盆地の平野が広がる比布町

pippu6.jpg
JR宗谷本線・蘭留駅

pippu7.jpg
蘭留駅の駅名標

pippu8.jpg
JR宗谷本線から見た塩狩峠の車窓

pippu9.jpg
塩狩峠を走るJR宗谷本線

pippu10.jpg
塩狩峠を走るJR宗谷本線
 
プロフィール

drughba

Author:drughba
日本国内・世界各国の行って面白かったところ、行ってみたいところ、興味深い都市、交通、地理、文化等。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード