福岡・大野城 大野城の白木原、福岡郊外のベッドタウン

大野城
おおのじょう

日本国福岡県大野城市

福岡・大野城 大野城の白木原、福岡郊外のベッドタウン

 大野城(おおのじょう)市は、福岡(ふくおか)県中部にある人口約10万人の市。北が福岡市博多(はかた)区、西が春日(かすが)市と筑紫(ちくし)郡の那珂川(なかがわ)町、南が筑紫野(ちくしの)市、東が太宰府(だざいふ)市、糟屋(かすや)郡の宇美(うみ)町と接している。市域は細長く、ちょうど福岡空港の延長線上に市域が広がり、御笠川(みかさがわ)が流れる。

 大野城は、古くは7世紀、白村江の戦いの後、天智天皇の命令で、百済人の設計で大宰府(だざいふ)防衛のための山城である「大野城」(おおののき)を築いたのが地名の由来である。明治以降は筑紫郡大野町であったが、戦後は福岡郊外のベッドタウンとして人口が増え、昭和47年(1972年)に市制施行した。その際、福井県にすでに大野市があったことから、「大野城市」となった。

 大野城市には、JR九州・鹿児島本線と西日本鉄道(西鉄)天神大牟田線が通り、JR鹿児島本線の大野城(おおのじょう)駅と水城(みずき)駅、西鉄天神大牟田線の白木原(しらきばる)駅と下大利(しもおおり)駅がある。

 鉄道は大野城市と春日市の境界の近くを走っているため、白木原駅から一つ西鉄福岡寄りの春日市内にある春日原(かすがばる)駅が、大野城市役所の最寄り駅となっている。

 白木原駅は、大野城市から春日市にかけてまたがる現在の九州大学筑紫キャンパスや、春日公園のところに、昭和47年(1972年)まで在日米軍基地があり、駅前から基地のほうへ商店街が伸び、米軍兵向けの商店が並んでいた。白木原は、「新羅」(しらぎ)に由来し、百済人が設計した大野城とともに朝鮮からの渡来人の歴史が感じられる。

 JR大野城駅は、昭和36年(1961年)に白木原駅として開設されたが、西鉄の白木原駅と約700m離れており、まぎらわしいので平成元年(1989年)に大野城駅に改称された。大野城駅は米軍基地跡地に再開発された九州大学筑紫キャンパスや福岡県立春日高校の最寄り駅であり、快速や準快速も停車する大野城市の玄関駅に成長した。一方、西鉄の白木原駅は、隣の春日市にある春日原駅が急行停車駅であるため、白木原駅は各停のみしか停車せず、市南部の住宅地からのバスの便がよい下大利駅が急行停車駅となっている。西鉄天神大牟田線は大野城市および春日市の区間で高架化工事が進められており、白木原駅や下大利駅も高架化工事と駅周辺の再開発が進められている。

大野城エリアの主な駅

大野城 / おおのじょう 駅
JR九州 鹿児島本線

白木原 / しらきばる 駅
西日本鉄道 天神大牟田線

下大利 / しもおおり 駅
西日本鉄道 天神大牟田線

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高架化される西鉄白木原駅

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台湾 新竹・北埔 台3線客家ロマンチック街道、北埔老街で楽しむ東方美人茶と客家擂茶

北埔
ペップウ/Pet-pu (台湾客家語)
パッポー/Pak-po͘ (台湾語/ホーロー語)
ペイプウ/ㄅㄟˇ ㄆㄨˇ (台湾華語)

臺灣新竹縣北埔鄉
台湾新竹県北埔郷

台湾 新竹・北埔 台3線客家ロマンチック街道、北埔老街で楽しむ東方美人茶と客家擂茶

 北埔(客:ペップウ/華:ペイプウ)は、台湾北西部の新竹(客:シンツゥッ/台:シンティッ/華:シンツウ)県にある人口約1万人の村。北と東が竹東(ツゥットン)鎮、西が宝山(寶山/ポーサン)郷と峨眉(ンゴーミー)郷、南が五峰(ンーフォン/シパジー)郷と接している。

 北埔は、客家(ハッカ)系住民が多い新竹県の中でも、特に客家文化の色濃い町として知られ、中心市街地の北埔老街は、客家料理のレストランや茶芸館などが並び、客家文化を体験できるスポットとして多くの観光客が訪れるようになった。桃園、新竹、苗栗、台中などの山あいを通る台3線道路は、春には「五月雪」と呼ばれるアブラギリの花(油桐花/ユートンファー)が咲き、いずれも客家系住民の多い町を通ることから、「客家ロマンチック街道」として観光誘致が進められており、北埔はそのハイライトとなる町の一つである。

 北埔には鉄道の駅がないが、台湾観光局の「台湾好行」(タイワン・ホーキヤ)バスが、台湾新幹線(臺灣高鐵)新竹駅(約40分)や台鉄(臺鐵)内湾線・竹東駅(約15分)から北埔方面を結んでいる。

 北埔は、山に囲まれた盆地で、傾斜地が多いことから、水田は限られ、茶園や果樹園が多く開発された。北埔のあたりは古くは大隘(タイアイ)と呼ばれ、先住民のタオカス族が住み、さらに五指山(ンーツーサン)の奥の高山地帯に住むタイヤル族とサイシヤット族との境界に近かった。清国時代の1826年より、客家系の姜秀鑾(キョン シュウラン)が福建(ホーロー)系の林徳修(リム ティクシュウ)とともに北埔一帯を開墾し、北埔にその中心となる「金廣福公館」が置かれた。この建物は今も台湾の国定古跡として保存されている。北埔は現在は、住民の客家人比率が非常に高く、客家文化が感じられる町であり、海陸(ホイリュク)方言(新竹方言)が話される主要な町の一つである。

 姜秀鑾が住んだ姜家の家屋は、美しい客家伝統建築で「天水堂」(ティエンシュイトン)と呼ばれている。日清戦争後、1895年に清国が台湾を日本に割譲すると、北埔を拠点に客家系住民らによる抗日義勇軍が組織されたが、そのリーダーの1人が姜秀鑾の後代である姜紹祖(キョン シャウツウ)であり、台湾民主国の正規軍および苗栗客家の呉湯興(ンー トンヒン)らと協力して新竹の町を取り戻そうと日本に抵抗したが、最後には日本軍に捕らえられ、自害した。

 日本時代の北埔は、製茶産業が盛んになった。北埔をはじめとする新竹は茶葉の産地であったが、害虫であったウンカの食害に遭った茶葉を製茶したところ、その香りが良くて、評判になりよく売れるようになった。その製法が信じてもらえず、「ほらふき」茶という意味で「膨風茶」(ポンホンテー/ポンフォンツァー)と呼ばれるようになった。一方、茶葉は輸出製品でもあり、英国で「Oriental beauty」と呼ばれたのが逆輸入されて「東方美人茶」(客:トンフォンミーニンツァー/華:トンファンメイレンツァー)とも呼ばれるようになった。美人の響きが女性にも受け、台湾客家を代表するお茶のブランドに成長した。東方美人茶は台湾の一般的な烏龍茶(オーリョンテー/ウーロンツァー)よりも発酵度が高く、紅茶に近い色をしている。ウンカとのコラボで生まれた奇跡のお茶ともいえる。

 北埔老街は、「慈天宮」(ツーティエンキュン)の周りに広がる旧市街地で、清国時代の1846年に創建された。伝統的な客家建築の廟で、観世音菩薩を主祭神とし、媽祖(マーツォー)や客家人からの信仰が篤い「三山國王」(サムサンクェッヴォン)も祀られている。

 北埔老街には、客家風の野菜と肉の炒め物「客家小炒」(炒肉/ツァウニュク)や豚のホルモンと千切り生姜のお酢の効いた炒め物「豬腸炒大腸」(ツウツォンツァウタイツォン)、きしめんのような「粄條」(パンテャウ)、塩味の効いた豚肉の「鹹豬肉」(ハムツウニュク)、高菜を発酵させた「福菜」(ポクツォイ)のスープや、発酵高菜を乾燥させた「鹹菜乾」(ハムツォイコン)と豚肉の料理である「扣肉」(キェウニュク)、金柑の客家風ソース「橘醤」(キッチョン)などが食べられる客家料理のレストランが並び、さらに「柿餅」(キーピャン)、「芋仔餅」(ヴオピャン)など客家のお菓子を販売するお土産屋、「粢粑」(チーパー)と呼ばれる客家もちと、東方美人茶や、客家独特の茶葉とゴマ、ピーナッツなどを擂り潰してお湯を加えて飲む「客家擂茶」(ルイツァー)などが味わえる茶芸館などが並んでいる。

 「台湾好行」バスは、北埔からさらに峨眉郷の獅頭山(スーテウサン)方面を結んでおり、獅頭山風景区で苗栗(メウリッ)県の南庄(ナムツォン)方面へのバスに乗り継ぐことができる。

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北埔姜家天水堂

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北埔慈天宮

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北埔慈天宮

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北埔慈天宮

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北埔老街

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北埔の路地裏

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北埔の路地裏

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客家擂茶と客家粢粑(モチ)

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山形・酒田 最上川河口の酒田港と庄内空港、ケヤキ並木美しい庄内米の山居倉庫

酒田
さかた

日本国山形県酒田市

山形・酒田 最上川河口の酒田港と庄内空港、ケヤキ並木美しい庄内米の山居倉庫

 酒田(さかた)市は、山形(やまがた)県北西部の庄内地方にある人口約11万人の市。山形県の中では山形市、鶴岡(つるおか)市に次ぐ人口第3位の都市であり、南が鶴岡市と東田川(ひがしたがわ)郡の三川(みかわ)町、庄内(しょうない)町、東が最上(もがみ)郡の戸沢(とざわ)村、鮭川(さけがわ)村、真室川(まむろがわ)町、北が秋田(あきた)県の由利本荘(ゆりほんじょう)市、北西が飽海(あくみ)郡の遊佐(ゆざ)町と接している。

 酒田市は、古くは出羽国(でわのくに)の国府が置かれ、江戸時代の17世紀後半からは西廻り航路が寄港する港町として発展した。江戸時代より廻船問屋の鐙屋(あぶみや)や、地主の本間(ほんま)氏が力を持ち、東北地方の日本海側における主要都市の一つである。

 明治22年(1889年)に飽海郡酒田町が発足し、昭和8年(1933年)に酒田市となった。戦後は、飽海郡の飛島(とびしま)村、西荒瀬(にしあらせ)村、さらに昭和29年(1954年)末に飽海郡の東平田(ひがしひらた)村、北平田(きたひらた)村、中平田(なかひらた)村、上田(うえだ)村、本楯(もとたて)村、南遊佐(みなみゆざ)村、東田川郡の新堀(にいぼり)村、広野(ひろの)村、西田川郡の袖浦(そでうら)村が合併し、市域が拡大した。さらに「平成の大合併」で、旧・酒田市と飽海郡の八幡(やわた)町、松山(まつやま)町、平田(ひらた)町が合併し、新しい酒田市が発足し、現在の市域となった。

 酒田市は現在は山形県に属しているが、かつての羽前と羽後の境が最上川で、酒田が羽後側に属していた。酒田の旧市街は最上川の北にあるので、もともと秋田寄りの羽後国にあったが、昭和29年の合併で最上川より南の東田川郡などを市域に組み入れたため、酒田市南部は羽前側だった地区である。

 山形県の県庁所在地である山形市は内陸部にあり、日本海側の酒田とはかなり生活圏も異なるが、それをつないでいるのが最上川であり、最上川の流れをたどると、山形市と酒田市が同じ県にあるのも納得がいく。

 酒田市にはJR東日本・羽越本線が通り、南鳥海(みなみちょうかい)、本楯(もとたて)、酒田(さかた)、東酒田(ひがしさかた)、砂越(さごし)の各駅がある。酒田市の中心の駅である酒田駅は、羽越本線を走り、秋田(あきた)~酒田~新潟(にいがた)を結ぶ特急「いなほ」が停車する。また、運転本数は少ないが、陸羽西線に直通して山形新幹線の新庄(しんじょう)駅まで結ぶ快速「最上川」も酒田駅を起点としている。

 酒田から東京へのアクセスは、酒田から特急「いなほ」で新潟へ出て、そこから上越新幹線で向かうルートと、酒田・余目から陸羽西線(奥の細道最上川ライン)で新庄へ出て、そこから山形新幹線で向かうルートがある。酒田から新庄は直線距離で約50キロで、そんなに遠くないが、陸羽西線が非電化単線でスピードが遅く、本数も少ないため、酒田から山形新幹線は利用しにくいのが現実である。また、山形新幹線は新庄~山形~福島は在来線規格を標準軌に改軌したミニ新幹線であり、山形県内を走るスピードは在来線の特急と変わらない。酒田市では、新庄まで伸びた山形新幹線をさらに陸羽西線もミニ新幹線化して酒田まで伸ばすよう誘致しているが、陸羽西線の改造費用と、わずかなスピードアップ効果しかないことを考えるとなかなか実現は難しいようだ。しかしながら、酒田~山形~東京が一本のミニ新幹線電車で結ばれると県内の移動も便利になるので、新庄という中途半端な地点で終点にするよりは、思い切って酒田まで伸ばしたほうが長期的に見て山形新幹線の路線価値が上がるとも思う。

 また、高速道路の整備も近年進み、酒田市内には酒田みなとIC(インターチェンジ)、酒田中央IC、酒田IC、庄内空港ICがある。鶴岡市の鶴岡JCT(ジャンクション)から山形自動車道とつながっていて、月山花笠ライン経由で山形市方面を結んでいる。道路交通の改善により、山形への足は、陸羽西線・山形新幹線経由よりは、酒田~山形を直接結ぶ高速バスが約2時間半で結ばれ、高速バスのほうが便利となっている。高速バスは宮城県の仙台(せんだい)までも約3時間で結んでいる。酒田にはかつて東京方面を結ぶ寝台特急「あけぼの」「鳥海」などが運行されていたが、平成26年(2014年)までに廃止された。一方で、夜行の交通は、寝台特急より安い酒田~東京を結ぶ夜行バスにシフトしているのは時代の流れだろうか。

 酒田市の南部、鶴岡市との境にある庄内空港(おいしい庄内空港)は、山形県の日本海側の酒田・鶴岡などの庄内地方の玄関空港であり、東京羽田空港への便がある。庄内地方は、県庁所在地の山形市へ行くのさえも不便なように、陸路の交通が不便で、東京などの大都市へ行くのに非常に時間がかかっていた。この「陸の孤島」状態解消のために、空港建設を求める声が高まり、昭和63年(1988年)に着工、平成元年(1991年)に開港した。もともと庄内地方の人口が多くないため、定期便が維持できているのは庄内~東京羽田のみであるが、東京まで約1時間で結ばれる時短効果のインパクトは大きく、企業誘致やビジネスの活性化に寄与している。

 酒田駅は、日本海側の交通の拠点であることから構内は広く、駅東側は広い車両基地が併設されている。西側に駅舎とロータリーがあり、駅周辺にはホテルや八雲神社、「本間美術館」などがある。本間美術館は、江戸時代からの庄内地方最大の大地主だった本間(ほんま)家が収集した美術品コレクションを展示している。

 酒田市中心部の旧市街地は、酒田駅から南西約1キロのあたりに広がっている。旧市街地には浄徳寺、龍厳寺、蓮容寺、学仙院、正徳寺、海晏寺などの寺院が集まっている。その南側は羽州浜街道などの道が広くなるが、このあたりは昭和51年(1976年)の「酒田大火」で焼失した地区で、日本海側特有の強風で被害が広がった。その復興の際に防災都市と近代的な商店街の形成に重点が置かれ、防火のための道路拡張と緑地化が行われた。

 市街地の西側の小高い丘には、日枝神社や光丘神社、海向寺、日和山公園などがあり、日和山公園の北西には、酒田港の工業地区が広がり、東北東ソー化学酒田工場、米田物産酒田防腐工場、花王酒田工場などがある。

 市街地の南側にある新井田川の中洲にある山居(さんきょ)島は、酒田港と最上川の舟運の拠点だった。「山居倉庫」は、酒田米穀取引所の倉庫として明治26年(1893年)から明治30年(1897年)までに14棟が造られた。土蔵造りで、断熱性の高い二重屋根とにがりと塩で除湿効果もある土間、日差しを遮り季節風から守るケヤキ並木などが特徴的で、酒田市のシンボルとなっており、一部の倉庫が「庄内米歴史資料館」、「酒田市観光物産館 酒田夢の倶楽(くら)」となっている。

酒田エリアの主な駅

酒田 / さかた 駅
JR東日本 羽越本線

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JR羽越本線・酒田駅、特急「いなほ」

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酒田駅で出発を待つ羽越本線の普通気動車

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酒田駅

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車両基地が広がる酒田駅

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酒田駅の庄内米と山居倉庫のPR

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JR酒田駅の駅舎

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酒田駅の近くにある八雲神社

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酒田駅付近の街並み

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酒田駅付近の街並み

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青森・今別 北海道新幹線の奥津軽いまべつ駅と青函トンネル

今別
いまべつ

青森県東津軽郡今別町

青森・今別 北海道新幹線の奥津軽いまべつ駅と青函トンネル

 今別(いまべつ)町は、青森(あおもり)県北西部の東津軽(ひがしつがる)郡にある人口約0.3万人の町。西と南を東津軽郡の外ヶ浜(そとがはま)町に挟まれ、南西が旧・市浦(しうら)村だった五所川原(ごしょがわら)市の市浦地区と接しており、北は三厩湾とその先に津軽海峡が広がっている。津軽半島をはじめとする東北地方北部は、北海道と同様にアイヌ語が由来の地名が多く、「今別」もアイヌ語由来説が有力で、アイヌ語が由来ならば「別」は「ペッ」(川)であり、「イマ・ペッ」は、「焼く・川」という意味になるのだという。

 今別町には、JR北海道・北海道新幹線とJR東日本・津軽線が通り、JR北海道の海峡線は北海道新幹線の開業で旅客列車は新幹線に移されたが、青函トンネルの区間で引き続き貨物列車が運行されている。町内には、北海道新幹線の奥津軽いまべつ(おくつがる いまべつ)駅と、津軽線の津軽二股(つがる ふたまた)、大川平(おおかわだい)、今別(いまべつ)、津軽浜名(つがる はまな)の各駅がある。

 JR津軽線は、昭和26年(1951年)に国鉄津軽線として青森~蟹田(かにた)が開業し、昭和33年(1958年)に今別町内の区間を含む蟹田~三厩(みんまや)が開業した。国鉄津軽線は、青森から津軽半島の東部の町を結ぶローカル線であったが、青森県の津軽半島と北海道の渡島半島の間の津軽海峡をトンネルでくぐって結ぶ「青函トンネル」が昭和63年(1988年)にJR北海道・海峡線(津軽海峡線)の青函トンネル区間を含む中小国(なかおぐに)~木古内(きこない)が開業し、本州と北海道がトンネルで結ばれるようになり、JR津軽線は青森~函館(はこだて)を結ぶ青函トンネルルートの一部に組み込まれ、青森~中小国が電化された。一方、津軽線の蟹田駅以北は非電化のローカル線のままで、今別町内は津軽線はローカル線、海峡線は青函トンネルを走る幹線となっていた。

 本州と北海道を結ぶ交通機関は、かつては青森~函館に青函連絡船が運航されていたが、青函連絡船は昭和29年(1954年)9月の台風で「洞爺丸」が沈没し、1155名の犠牲者を出す大惨事となった。これを機に青函トンネル構想が具体化し、昭和36年(1961年)に着工。27年間かけて昭和63年(1988年)に青函トンネルを含む津軽海峡線が開業し、本州と北海道が陸続きになった。青函トンネルは全長53.9キロで、2016年にスイスのゴッタルドベーストンネル(全長約57キロ)に抜かれるまでは世界最長であった。日本国内においてはもちろん日本最長のトンネルである。

 JR津軽線の中小国駅(外ヶ浜町)から分岐するJR海峡線は、現在の奥津軽いまべつ駅のところに津軽今別駅があり、快速「海峡」や特急「白鳥」などが停車していた。また、海峡線には、青森~函館を結ぶ特急「白鳥」「スーパー白鳥」、青森~札幌を結ぶ寝台急行「はまなす」、大阪~函館・札幌を結ぶ寝台特急「日本海」「トワイライトエクスプレス」、東京上野~札幌を結ぶ寝台特急「北斗星」「カシオペア」などが運行されていた。

 青函トンネルは、将来の新幹線の走行を見越して、新幹線が走れる規格で建設されていたが、軌道は在来線の1067mmの狭軌で運行されていた。東北新幹線が平成22年(2010年)に新青森駅まで開業して全通すると、青函トンネルがもともと新幹線規格であることから、北海道の函館(新函館北斗駅)まで結ぶ北海道新幹線の工事が本格化し、平成28年(2016年)に開業した。その際、新幹線の軌間は1435mmの標準軌であり、海峡線の区間に狭軌にもう一本レールを敷いて標準軌の車両を走れる三線軌条とし、青函トンネルに狭軌の在来線貨物列車と標準軌の新幹線旅客列車が両方走れるようにした。しかしながら、列車の最高速度の違いと、列車がすれ違う際の貨物列車にかかる風圧の影響を考慮して、青函トンネル内では新幹線は在来線のスピードに抑えざるを得なかった。北海道新幹線は青函トンネルの区間が時間短縮のネックになっており、貨物列車の走らない時間帯を作るなどして、一部の新幹線列車のスピードアップを試みようとしている。

 北海道新幹線の開業により開設された奥津軽いまべつ駅は、2面3線のホームで中央が下り線(新函館北斗方面)の通過線となっている。また、駅の両外側に狭軌の待避線があり、青函トンネルの保守基地の役割も担っている。駅を過ぎると狭軌と標準軌が再合流して三線軌条となる。駅周辺は特に町もなく、北海道新幹線も停車する列車は少ないが、同駅から東京まで乗り換えなしで行ける便利さがある。また、津軽線の津軽二股駅が奥津軽いまべつ駅と隣接しており、乗り換えが可能だ。連絡駅に指定されており、津軽線沿線から同駅で北海道新幹線に乗り換えることができ、実質同じ駅なのだから津軽二股駅も「奥津軽いまべつ」駅に統一したほうが利用者にとっても便利だと思う。津軽二股駅前には「道の駅いまべつ」があり、奥津軽いまべつ駅との相乗効果で津軽半島観光の拠点として今後の発展に期待したい。

 北海道新幹線は奥津軽いまべつ駅を出発するといくつかトンネルを抜けて、青函トンネルに入るが、海上を走る瀬戸大橋と違い、トンネルは真っ暗なので、いつ青函トンネルに入ったかはわかりにくい。

 今別町の中心市街地は、JR津軽線の今別駅と津軽浜名駅の間の海沿いに広がっており、今別町役場も両駅の間にある。

今別エリアの主な駅

奥津軽いまべつ / おくつがるいまべつ 駅
JR北海道 北海道新幹線
津軽二股 / つがるふたまた 駅
JR東日本 津軽線

今別 / いまべつ 駅
JR東日本 津軽線

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北海道新幹線・奥津軽いまべつ駅

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北海道新幹線(標準軌)と在来線(狭軌)の3線軌条

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奥津軽いまべつ駅の新幹線(手前)と貨物線

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新幹線の標準軌と貨物線の狭軌が合流する地点

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北海道新幹線から見た今別町の風景

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山形・庄内 羽越本線と陸羽西線が分岐する余目駅、庄内平野と最上川

庄内
しょうない

日本国山形県東田川郡庄内町

山形・庄内 羽越本線と陸羽西線が分岐する余目駅、庄内平野と最上川

 庄内(しょうない)町は、山形(やまがた)県北西部の庄内地方にある人口約2万人の町。北が酒田(さかた)市、西と南が鶴岡(つるおか)市と西村山(にしむらやま)郡の西川(にしかわ)町、南東が最上(もがみ)郡の大蔵(おおくら)村、東が最上郡戸沢(とざわ)村と接している。また、西に東田川郡三川(みかわ)町とのわずかだが接している。

 庄内町は、平成17年(2005年)に東田川郡の余目(あまるめ)町と立川(たちかわ)町が合併して「庄内町」が発足した。

 庄内町にはJR東日本の羽越本線と陸羽西線(奥の細道最上川ライン)が通り、羽越本線の北余目(きたあまるめ)、余目(あまるめ)、西袋(にしぶくろ)、陸羽西線の余目、南野(みなみの)、狩川(かりかわ)、清川(きよかわ)の各駅がある。

 余目駅は旧・余目町の中心部にあり、庄内町役場の最寄り駅である。酒田(さかた)、秋田(あきた)方面と、鶴岡(つるおか)、村上(むらかみ)、新発田(しばた)方面を結ぶ羽越本線と、山形新幹線の新庄(しんじょう)方面を結ぶ陸羽西線が分岐しており、新潟~酒田~秋田を結ぶ羽越本線の特急「いなほ」が停車する。また、本数は少ないが、陸羽西線にも酒田~余目~新庄を結ぶ快速「最上川」が運行されている。

 庄内町から東京方面に出るには、羽越本線の特急「いなほ」に乗って新潟乗り換えの上越新幹線経由と、陸羽西線に乗って新庄で乗り換えの山形新幹線経由がある。JRの寝台特急は廃止されたが、駅前に東京都内を結ぶ高速バスが停車する。余目駅前また、酒田市の庄内空港から羽田空港の航空路線も利用しやすい。

 余目駅前(西側)には、「カフェ余目製パン」や庄内特産品を販売する「なんでもバザールあっでば」、庄内の食材を用いたレストラン「やくけっちゃーの」などが入る「庄内町新産業創造館クラッセ」や、「庄内町ギャラリー温泉町湯」などの施設がある。

 庄内町は庄内平野が広がり、羽越本線および陸羽西線の車窓からは田園風景が美しい。陸羽西線(奥の細道最上川ライン)の狩川駅は旧・立川町にある駅で、快速「最上川」も停車する。旧・立川町は風が強いことから風力発電が盛んである。

狩川~清川のあたりから最上川沿いを走り、峡谷の車窓が美しい。清川駅の東側では立谷沢川(たちやざわがわ)が最上川に合流している。旧・立川町の南は山深く、出羽の名山である標高1984mの「月山」(がっさん)がそびえ、鶴岡市や西川町との境となっている。

庄内エリアの主な駅

余目 / あまるめ 駅
JR東日本 羽越本線、陸羽西線(奥の細道最上川ライン)

狩川 / かりかわ 駅
JR東日本 陸羽西線(奥の細道最上川ライン) 

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庄内町の中心地にあるJR余目駅

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JR余目駅

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陸羽西線から見た雪の庄内平野

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狩川駅から見える風力発電所

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最上川に合流する立谷沢川

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時の旅・1975年(昭和50年) 山陽新幹線が博多まで全通、国鉄蒸気機関車が引退、サイゴン陥落でベトナム戦争終結、台湾の蒋介石総統が死去

1975年
昭和50年

時の旅・1975年(昭和50年) 山陽新幹線が博多まで全通、国鉄蒸気機関車が引退、サイゴン陥落でベトナム戦争終結、台湾の蒋介石総統が死去

当時の日本の首相 三木武夫(自由民主党)

 1975年(昭和50年)は、三木武夫(みき たけお)内閣総理大臣(首相)をトップとする自由民主党(自民党)政権は、与党が長い自民党の金脈政治を払拭するため、党内の反対を押し切って「政治資金規正法」を改正した。三木首相は戦争終結から30周年にあたる8月15日に、総理としては初めて終戦記念日に靖国神社を参拝した。三木首相はこの参拝を「私的参拝」であるとした。

 一方で野党は、7月に対立していた日本共産党が公明党の支持母体「創価学会」と「相互不干渉・共存」十年協定を公表したが、8月に公明党は共産党との政治共闘を否定した。

 戦後30年にあたり、7月に皇太子の明仁親王は美智子妃とともに沖縄を訪問。戦後初の皇族の沖縄訪問となったが、左翼および「沖縄人自身による沖縄解放」を掲げる沖縄解放同盟準備会などは皇太子の沖縄訪問に反対し。糸満市の「ひめゆりの塔」で過激派から火炎瓶を投げられたが、皇太子にケガはなかった。一方、昭和天皇は9月に香淳皇后とともにアメリカ合衆国を訪問した。

 4月の統一地方選挙では、東京都知事選で革新派で社会党、公明党、共産党の推薦を受けた美濃部亮吉知事が、自民党推薦の石原慎太郎を破って再選された。また、大阪府知事に黒田了一、神奈川県知事に長洲一二がそれぞれ当選し、革新派の首長の当選が目立った。

 交通については、鉄道は、3月に国鉄山陽新幹線の岡山~博多が延伸開業し、山陽新幹線が全通。東京から九州まで新幹線がつながった。山陽本線を走っていた特急「つばめ」「はと」「しおじ」などは廃止され、新幹線「ひかり」「こだま」に移された。一方で、12月に国鉄室蘭本線で国鉄最後の蒸気機関車による旅客列車(室蘭→岩見沢の普通)が運行され、廃止。同月に国鉄最後の蒸気機関車による貨物列車(夕張→追分)が運行され、廃止となり、蒸気機関車はディーゼル機関車化され、長年の雄姿を惜しまれながら、その役割を終えた。

 また、3月に静岡鉄道の清水市内線(港橋~新清水~清水前~横砂)が廃止された。北大阪急行の緑地公園駅が開設された。4月に北海道炭礦汽船・夕張鉄道線の野幌~鹿ノ谷が廃止された。庄内交通・湯野浜線の鶴岡~湯野浜温泉が廃止。越後交通の栃尾線(長岡~上見附)、長岡線(越後関原~大河津)が廃止。富山地方鉄道・笹津線(南富山~地鉄笹津)が廃止された。小田急電鉄・多摩線の小田急永山~小田急多摩センターが延伸開業。京急電鉄・久里浜線の三浦海岸~三崎口が延伸開業した。5月に阪神電鉄・国道線(野田~上甲子園)、北大阪線(野田~天神橋筋六丁目)が廃止された。7月に国鉄久慈線の久慈~普代が開業した。8月に国鉄三江北線の浜原と三江南線の口羽の間が開業し、国鉄三江線が全通した。11月に西鉄福岡市内線の貫線(九大前~姪の浜)、呉服町線(呉服町~祇園)、城南線(渡辺通一丁目~西新)が廃止された。
  
 文化については、音楽は、さくらと一郎「昭和枯れすゝき」、布施明「シクラメンのかほり」、小坂恭子「思い出まくら」、沢田研二「時の過ぎゆくままに」、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」、岩崎宏美「ロマンス」、風「22才の別れ」、細川たかし「心のこり」、かまやつひろし「我が良き友よ」、山口百恵「冬の色」、バンバン「『いちご白書』をもう一度」、五木ひろし「千曲川」などがヒットした。また、アルバムでは井上陽水の「氷の世界」がミリオンヒットとなった。3億円事件の時効に合わせて発売予定だったアルフィー「府中捕物控」がレコード会社の都合で発売中止となった。

 映画は、洋画は「タワーリング・インフェルノ」、「大地震」、「エマニエル夫人」、「007 黄金銃を持つ男」、邦画は「男はつらいよ 寅次郎子守唄」、「伊豆の踊子」などがヒットした。

 スポーツは、野球はセリーグは広島東洋カープ、パリーグは阪急ブレーブスがペナントレースで優勝し、日本シリーズで阪急が初優勝した。日本ハムの張本勲がプロ通算400本本塁打、300盗塁、4000塁打、17年連続100本安打などを達成し、大活躍した。大相撲は北の湖と貴ノ花が2場所ずつ優勝するなど強さを見せつけたほか、三重ノ海が年間最優秀力士賞を獲得した。

 世界は、ベトナム戦争が続く南北ベトナムで、北ベトナム(ベトナム民主共和国)は、アメリカ合衆国(米国)の後ろ盾を失くした南ベトナム(ベトナム共和国)に対し、ラオスやカンボジアからも攻め込み、3月にフエ(Huế)とダナン(Đà Nẵng)が陥落した。4月からは「ホーチミン作戦」が決行され、ベトナム南部のカントー(Cần Thơ)、ビエンホア(Biên Hòa)、サイゴン国際空港(タンソンニャット基地)などを占領して、南ベトナムの首都サイゴン(Sài Gòn/柴棍)市内に攻め込んで戦車部隊が南ベトナム大統領府に突入し、サイゴンが陥落した。

 サイゴン陥落の直前に南ベトナムのグエン・バン・チュー(Nguyễn Văn Thiệu/阮文紹)大統領が辞任し、チャン・バン・フォン(Trần Văn Hương/陳文香)大統領が引き継ぎ、グエン・ヴァン・チュー前大統領を台湾に脱出させた上で、北ベトナムと停戦を求めた。しかしこれが実現せず、わずか一週間で北の要求を受け入れて辞任した。在越アメリカ人は「フリークエント・ウィンド作戦」でサイゴンからヘリコプター等で南シナ海の米海軍の艦船へと脱出した。北がサイゴンに突入すると、停戦のために大統領に就任した南ベトナムのズオン・バン・ミン(Dương Văn Minh/楊文明)大統領は、北ベトナム軍が作成した降伏声明を読み上げ、ベトナム戦争は北ベトナムの勝利により終戦を迎えた。

 ベトナム共和国が崩壊した南ベトナムは、北ベトナム主導で「南ベトナム共和国」臨時政府が設立され、北の「ベトナム民主共和国」との統一の準備が進められた。南ベトナムの首都だったサイゴンは、5月に北ベトナムの指導者であったホー・チ・ミン(Hồ Chí Minh/胡志明)の名をとってホーチミン市に改名された。

 ベトナムの隣国のクメール共和国(カンボジア)では、4月にクメール・ルージュ(カンプチア共産党)によるカンプチア民族統一戦線が首都プノンペンを占領し、クメール共和国のロン・ノル政権が崩壊し、ロン・ノルは米国に亡命した。クメール・ルージュは「民主カンプチア」を建国し、前政権幹部・警察・軍人らを殺害し、ポル・ポト(ប៉ុល ពត)が実権を握るようになる。

 台湾(中華民国)では、1949年に中国の国共内戦に敗退し、台湾に中華民国政府を移転し、台湾で「大陸反抗」をスローガンに中国国民党独裁体制を築き、万年総統(大統領)だった蒋介石(蔣中正/チャン ツォンツェン)が1月に死去した。副総統だった厳家淦(嚴家淦/イエン チアカン)が総統に就任したが、実権は蒋介石の息子の蒋経国(蔣經國/チャン チンクオ)が握っていた。

 中国(中華人民共和国)は、1月に中国共産党(中共)の毛沢東(毛泽东/マオ ヅォートン)主席により鄧小平(邓小平/テン シャオピン)が中共中央軍事委員会副主権兼中国人民解放軍参謀総長に任命された。同月、中華人民共和国第4期全国人民代表大会第一次会議が北京で開かれ、周恩来(ツォウ エンライ)が国務院総理(首相)、鄧小平が国務院副総理(副首相)に任命され、文革路線を進めた「四人組」は政権の中枢を固めることはできなかった。

 そのほか世界は、4月にシッキム王国で王の退位を求めるデモ隊に王軍が発砲し、その混乱を収めるためにインド軍が介入し、シッキム王軍が武装解除され、インドに編入が議決され、国民投票でも賛成多数となり、翌月シッキム州としてインドに編入された。5月にイギリスのエリザベス2世夫妻が日本を初訪問した。6月にフィリピンが中華人民共和国と国交を樹立し、台湾(中華民国)と断交した。ポルトガル領モザンビークが共産主義体制の「モザンビーク人民共和国」として独立した。7月にポルトガル領サントメ・プリンシペが「サントメ・プリンシペ民主共和国」として独立した。8月にマレーシアで日本赤軍がアメリカ大使館を占拠する事件が発生した。10月にバングラデシュでクーデターが発生し、ムジブル・ラフマン大統領が暗殺された。11月にポルトガル領東ティモールが「東ティモール民主共和国」として独立を宣言したが自国領と主張するインドネシアが介入し、インドネシア軍が東ティモール全域を制圧し、併合した。12月にラオスで王制が廃止され、ラオス人民民主共和国が樹立された。

(参考:Wikipediaほか)

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テーマ : 歴史
ジャンル : 政治・経済

大阪・南森町 天神祭の大阪天満宮と天神橋筋商店街

大阪・南森町
おおさか・みなみもりまち

日本国大阪府大阪市北区

大阪・南森町 天神祭の大阪天満宮と天神橋筋商店街

 南森町(みなみもりまち)は、大阪(おおさか)市の北(きた)区にある地区で、大阪市営地下鉄の堺筋線・谷町線の南森町駅とJR西日本・東西線の大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)駅がある。

 南森町駅は谷町線が昭和42年(1967年)、堺筋線が昭和44年(1969年)に開業した。乗り換え客が多いことから、平成9年(1997年)に谷町線上りホームが増設された。JR大阪天満宮駅は、南森町駅の東側に隣接して平成9年(1997年)に開業した。

 南森町は、平安時代の949年(天暦3年)に創建された「大阪天満宮」の杜(もり)の町として天神橋筋を軸に門前町として発展した。大阪天満宮から北へ天神橋筋六丁目(天六/てんろく)まで伸びる天神橋筋商店街は、南北に約2.6キロあり、日本一長いアーケード商店街となっており、地元の住民やビジネス客、観光客などでいつもにぎわっている。南森町駅および大阪天満宮駅は天神橋筋と京阪国道(国道1号線)の交差点のところにある。

 大阪天満宮は、901年に菅原道真(すがわら の みちざね)が九州の大宰府(だざいふ)へ左遷させられた際、大阪のここにあった大将軍社に立ち寄り、旅の無事を祈願した。大宰府で死去した菅原道真公を「天神様」として畏れ、祀るようになると、大阪の大将軍社の前に7本の松が生えた伝説から、ここに天満宮を建立することになり、949年(天暦3年)に菅原道真公を祀る天満宮が創建された。

 大阪天満宮は地元では「天満天神」(てんま てんじん)と呼ばれ親しまれている。毎年7月に行われる「天神祭」(てんじんまつり)は、大阪三大祭りの一つとして知られ、多くの人でにぎわい、特に桜ノ宮公園での奉納花火は大阪の夏の風物詩となっている。また、大阪天満宮に隣接して天満天神「繁盛亭」が、六代目・桂文枝(かつら ぶんし)師匠の尽力により、落語の寄席の定席として平成18年(2006年)にオープンした。これに合わせて、商売繁盛を祈願する「十日えびす」(天満天神えびす祭)も平成18年(2006年)より復活し、大阪天満宮にさらなる活気がもたらされた。

 天神橋筋商店街の南端の大川の河川敷のあたりには、江戸時代から「天満青物市場」があり、大正時代、昭和初期の頃までにぎわっていたが、昭和6年(1931年)に大阪中央卸売市場に集約され、さらに昭和20年(1945年)の米軍による空襲により完全に焼失した。現在、跡地は河川敷の公園になっており、「天満青物市場跡」の碑が立っている。大阪野菜の「しろ菜」(しろな)は、江戸時代から明治時代に、このあたりで盛んに栽培されていたことから、「天満菜」とも呼ばれるが、現在はこの周辺も市街化しており、畑はないが、大阪市郊外や大阪府内で今も盛んに栽培されている。

 南森町駅の北のあたりにはお寺が並び、大阪の歴史を伝える史跡が残されている。江戸時代に大坂天満に生まれ、大坂町奉行組与力だった大塩平八郎(おおしお へいはちろう)は1830年代の「天保の大飢饉」の際に、豪商が米を買い占め、庶民が飢餓にあえいでいるのを見て、奔走するが聞き入れられず、1837年(天保8年)に豪商に天誅を加えるべく民衆とともに蜂起した。この「大塩平八郎の乱」は反日で鎮圧され、大坂の町は蜂起による火災が広がった。蜂起は成功せず、大塩平八郎は最後に自決した。「正成寺」には大塩平八郎の墓所と「大塩の乱に殉じた人びとの碑」がある。また、南森町駅から東へ、京阪国道の東天満交差点の東側の造幣局の手前には「大塩の乱 槐(えんじゅ)跡」の碑があり、大塩の乱の際にまず大砲がここに打ち込まれたのだという。

 大阪造幣局には、「造幣博物館」があり、日本の貨幣の歴史や外国の貨幣が展示され、貨幣について学ぶことができる。また、ヤエザクラなどの桜の名所として知られ、毎年4月には大阪造幣局の「桜の通り抜け」が開放される。

大阪・南森町エリアの主な駅

南森町 / みなみもりまち 駅
大阪市営地下鉄 谷町線堺筋線
大阪天満宮 / おおさかてんまんぐう 駅
JR西日本 東西線

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大阪地下鉄谷町線・南森町駅

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大阪地下鉄堺筋線・南森町駅

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JR東西線・大阪天満宮駅

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天神橋筋商店街

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天神橋筋商店街

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大阪天満宮(天満天神)

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大阪天満宮

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大阪天満宮・登竜門

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天満天神繁盛亭

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天満青物市場跡

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大塩平八郎の墓所がある「正成寺」

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「大塩の乱 槐(えんじゅ)跡」の碑 

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大阪・ユニバーサルシティ ユニバーサルスタジオジャパン(USJ)がある街

大阪・ユニバーサルシティ
おおさか・ユニバーサルシティ

日本国大阪府大阪市此花区

大阪・ユニバーサルシティ ユニバーサルスタジオジャパン(USJ)がある街

 ユニバーサルシティは、大阪(おおさか)市の此花(このはな)区にある地区で、JR西日本・桜島線(ゆめ咲線)のユニバーサルシティ駅がある。

 ユニバーサルシティ駅は、「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」(USJ)がオープンした平成13年(2001年)に、JR桜島線の安治川口~桜島の間に開設された。

 USJは、米国大手映画会社であるユニバーサル・スタジオ(Universal Studio)社のハリウッド映画の魅力を体験できるテーマパークで、大阪に日本初進出した。USJは、平成9年(1997年)に移転のため閉鎖された日立造船桜島工場の跡地と、住友金属工業(現・新日鐵住金)製鋼所の敷地の一部を再開発し、平成13年(2001年)にオープンした。

 USJの最寄り駅であるユニバーサルシティ駅からUSJの入口までは「ユニバーサル・シティウォーク大阪」の商業施設があり、商店や飲食店が集まる複合施設やたこ焼き店が集まる「大阪たこ焼きミュージアム」、「ホテル京阪ユニバーサルシティ」、「ホテル近鉄ユニバーサルシティ」などのホテルのほか、駅前で大道芸人によるショーも行われる。

 USJは、ハリウッドの街並みを再現した「ハリウッド・エリア」、1930年代のニューヨークの街並みをイメージした「ニューヨーク・エリア」、アメリカ西海岸をイメージした「カリフォルニア・エリア」、映画『ジュラシック・パーク』をイメージした「ジュラシック・エリア」、映画『ジョーズ』の舞台のアミティ村をイメージした「アミティ・ビレッジ」、映画『ウォーターワールド』の水上要塞をイメージした「ウォーターワールド」、スヌーピーやハローキティなどの人気キャラクターの住む街をイメージした「ユニバーサル・ワンダーランド」、映画『ハリー・ポッター』の世界を再現した「ウィザーディング・ワールド・オブ・ハリー・ポッター」などのエリアがある。

 USJのオープンは、さびれつつある臨海工業地区だった大阪市此花区に新たな活気をもたらすとともに、大阪定番の新しい観光スポットとなった。一方で、関西の郊外にある既存の遊園地はUSJに客を奪われ、兵庫県の「宝塚ファミリーランド」、奈良県の「奈良ドリームランド」、「あやめ池遊園地」、大阪府の「エキスポランド」などが次々と閉園し、結果としてUSJの一人勝ち状態となってしまったのは、幼い頃にこれらの遊園地で遊んだ思い出がある関西人は複雑な気持ちもあるが、それは時代の流れで仕方ないのだろうか。

大阪・ユニバーサルシティエリアの主な駅

ユニバーサルシティ
JR西日本 桜島線(ゆめ咲線)

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JR桜島線(ゆめ咲線)ユニバーサルシティ駅

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ユニバーサルシティウォーク大阪

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ユニバーサルシティウォーク大阪

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ユニバーサルシティウォーク大阪

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ユニバーサルスタジオジャパンの入場口

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ユニバーサルスタジオジャパン

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ユニバーサルスタジオジャパン

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ユニバーサルスタジオジャパン

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ユニバーサルスタジオジャパン

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テーマ : 大阪
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大阪・桜島 天保山の対岸の埠頭と日立造船跡に再開発されたUSJ

大阪・桜島
おおさか・さくらじま

日本国大阪府大阪市此花区

大阪・桜島 天保山の対岸の埠頭と日立造船跡に再開発されたUSJ

 桜島(さくらじま)は、大阪(おおさか)市西部の此花(このはな)区にある地区で、JR西日本・桜島線(ゆめ咲線)の桜島駅がある。

 JRゆめ咲線の前身は、西成鉄道であり、西成鉄道は大阪駅から安治川(あじがわ)の河口を結ぶ路線として明治31年(1898年)に大阪~安治川口が開業、さらに明治38年(1905年)に安治川口~天保山(てんぽうざん)が延伸開業した。翌明治39年(1906年)に国有化されて国鉄西成線となり、明治43年(1910年)に天保山~桜島が延伸されると天保山駅は廃止された。

 桜島駅は、大阪港で陸揚げされる石炭や穀物、塩などの物資を貨物列車に積み替えて各地に輸送する貨物の重要な拠点として発展した。特に昭和初期は石炭の輸送が増加し、貯炭場などの施設も拡張された。桜島駅近くには大阪鐵鋼所(後の日立造船)桜島工場があり、戦時中は軍需工場の輸送も多く、昭和20年(1945年)には米軍による空襲も受けた。

 戦後は、日立造船桜島工場の通勤輸送や、石炭などの貨物輸送で重要な役割を担った。昭和36年(1961年)に大阪環状線が開業すると、国鉄西成線のうち、大阪~西九条は大阪環状線の一部に、西九条~桜島は国鉄桜島線となった。昭和41年(1966年)に日立造船の桜島工場は造船事業を廃止して機械工場のみとなり、昭和48年(1973年)には桜島駅の国鉄貯炭場も廃止された。昭和61年(1986年)には桜島駅の貨物取扱が廃止され、平成9年(1997年)には日立造船桜島工場が九州に移転し、桜島工場が閉鎖された。

 桜島駅は工場通勤客利用者が多く、朝夕の通勤時間帯のみ混雑し、昼間は閑散としていた。貨物輸送もなくなった平成初期の頃の桜島駅周辺はさびれた雰囲気だったが、日立造船の工場跡地に米国映画のテーマパーク「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」(USJ)が建設されることになり、桜島周辺の風景は一変することになる。

 平成13年(2001年)にUSJが開園し、その最寄り駅として桜島~安治川口にユニバーサルシティ駅が開設されると、桜島線は「ゆめ咲線」との愛称で、USJ行楽客の輸送でにぎわうようになった。一方、桜島駅はユニバーサルシティでほとんどの旅客が降りた状態で到着するので、混雑はしないが、USJの従業員ゲートが近いことから桜島駅の利用客も増えた。

 桜島駅の西側には梅町桟橋は、石炭埠頭として使われ、桜島駅から貨物線が伸びていた。梅町桟橋は現在は、三菱倉庫桜島配送センター、桜島埠頭物流センター、東洋埠頭倉庫などの倉庫・物流拠点となっている。また、UFJの北側にもかつて安治川口から伸びる桜島線貨物支線が伸びていて大阪北港貨物駅があり、貯炭場もあった。

 桜島から天保山方面には平成2年(1990年)に阪神高速5号湾岸線の「天保山大橋」が開通した。桜島側には旧・大阪北港貨物駅のあたりに北港JCT(ジャンクション)と淀川左岸出入口と湾岸舞洲出入口がある。人工島の舞洲へは一般道路の此花大橋で結ばれ、同じく平成2年(1990年)に開通した。舞洲はバブル崩壊後、開発が遅れ、鉄道交通で結ばれていないが、万博やカジノの誘致構想があり、今後の大規模開発が期待されている。

 天保山は江戸時代の安治川(旧淀川)の浚渫工事で出た土砂を積み上げた人工の山で、わずか5mに過ぎず、現在は山というよりは、安治川の南の大阪港駅周辺を指す地名となっている。桜島線の旧・天保山駅は、実際には天保山側ではなく、天保山側へ行くには渡し船に乗る必要があった。

 安治川の河口部の川幅は広く、天保山大橋は高速道路であるため、桜島の渡し場から天保山(築港)まで大阪市による公営渡船が運航されており、ミニ船旅が楽しめる。

大阪・桜島エリアの主な駅

桜島 / さくらじま 駅
JR西日本 桜島線(ゆめ咲線)

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JRゆめ咲線・桜島駅

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JRゆめ咲線・桜島駅

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天保山大橋と対岸の天保山の観覧車

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テーマ : 大阪
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フィリピン 多数の島々と熱帯フルーツ、東南アジアの多民族国家

Republika ng Pilipinas (フィリピン語/タガログ語)
Republika sa Pilipinas (セブアノ語)
Republika ti Filipinas (イロカノ語)
Republic of the Philippines (英語)
フィリピン共和国

フィリピン 多数の島々と熱帯フルーツ、東南アジアの多民族国家

 フィリピン共和国(Republika ng Pilipinas / Republic of the Philippines)は、東南アジアのフィリピン海(太平洋)と南シナ海に挟まれた海域に浮かぶフィリピン諸島の島々からなる国で、通称は日本語では「フィリピン」、フィリピン語(タガログ語)では「Pilipinas」(ピリピーナス)、英語では「Philippines」(フィリピーンズ)と呼ばれている。

 フィリピンは、北がルソン海峡、バシー海峡を挟んで台湾、西が南シナ海を挟んで北西に中華人民共和国(中国)、西にベトナム、南はスル海を挟んで南西にマレーシア、セレベス海を挟んでインドネシア、東がフィリピン海、太平洋を挟んでパラオや米領グアムと近接している。

 フィリピンの国土を形成するフィリピン諸島は、7000を超える島々からなり、そのうち11の島が面積の95%を占める。最も大きな島は首都マニラ(マイニラ/タ:Maynila/英:Manila)のあるルソン(Luzon)島で、二番目に大きな島が南のミンダナオ(Mindanao)島で中心都市はダバオ(セ:Dabaw/英:Davao)、ルソン島とミンダナオ島の間にあるビサヤ諸島(セ:Kabisay-an/タ:Kabisayaan/英:Visayas)のセブ(タ:Cebu/セ:sugbo)島は、メトロ・セブ(スグボ)がフィリピン第2の都市圏となっている。ビサヤ諸島にはセブ島のほか、サマール(Samar)島、ネグロス(Negros)島、パラワン(Palawan)島、パナイ(Panay)島、レイテ(Leyte)島などがある。

 フィリピンの国名は、スペインの探検家のルイ・ロペス・デ・ビリャロボスが1543年にこの諸島にたどり着いた際に、当時のスペイン皇太子、後のスペイン国王フェリペ2世(Felipe II)を称え、「Las Islas Felipinas」(ラス・イスラス・フェリピナス)と命名したことが由来となっている。

 フィリピンの面積は29.9万平方キロメートル。人口は約1億0100万人で、メキシコや日本に次ぐ第12位。通貨はフィリピン・ペソ。一人当たりのGDP(国内総生産)は約2900ドルで世界で120位~130位前後で貧しい地域も多く、貧富の差も大きい。一人当たり購買力平価(PPP)は約7500ドルで、120位前後で世界平均を下回っている。経済的には貧しいが、熱帯気候で農作物がよく育つため、食料は豊富で、バナナやマンゴーなど豊富な果物は日本にも多く輸出されている。

 フィリピンは、多くがマレー・オーストロネシア語系(南島語系)の民族が住み、台湾先住民族や太平洋の島々、マレーシア、インドネシアなどとの言語的、文化的な共通性が多い。ヨーロッパの文化が流入する前は、一部の地域でバイバイン文字などが使われ、タガログ語やイロカノ語などが書かれていた。

 14世紀後半には、マレーシアなどからの影響でイスラム教が伝来する。16世紀になるとスペインやポルトガルが東南アジアに進出するようになる。1521年にポルトガル人のマゼラン(フェルナン・デ・マガリャンイス/Fernão de Magalhães )率いるスペイン艦隊がフィリピンのセブ島に上陸し、フィリピン人にキリスト教への改宗を迫ったが、イスラム教のマクタン島部族長のラプ・ラプ(Lapu-Lapu)がマゼランを殺害し、マゼランの艦隊は退却した。

 スペイン(カスティーリャ)とポルトガルは1529年に平和条約である「サラゴサ条約」を締結し、フィリピンはフィリピン人の意思と関係なしにスペインの勢力下に置くことが決められ、スペインは本格的にフィリピンの領有を開始した。スペイン王フェリペ2世の命令によりミゲル・ロペス・デ・レガスピ(Miguel López de Legazpi)は、スペイン領のメキシコからマリアナ諸島を経由して1565年にフィリピンのセブ島に上陸。その後、セブ島にサン・ペドロ要塞(Fuerza de San Pedro)を築いてメキシコとの貿易の拠点とし、その後フィリピン北部に進出し、1570年にマニラを攻め、初代フィリピン総督となり、フィリピン人のキリスト教化を進めた。フィリピンはスペイン領東インド(Indias Orientales Españolas)の一部として支配された。

 フィリピンのマニラとヌエバ・エスパーニャ(スペイン領メキシコ)を結ぶ貿易船(ガレオン船)が運航され、マニラは「ガレオン貿易」の拠点として発展した。一方、フィリピン南西部のスールー諸島にあったスールー王国や、フィリピン南部のミンダナオ島西部のマギンダナオ王国などはイスラム勢力が強く、スペイン統治を受け付けず、19世紀後半まで独立を守っていた。

 ヨーロッパに留学し、ヨーロッパの最新学問を学び、スペイン当局に警戒されながらフィリピンに帰国後に社会改革を求める「フィリピン同盟」(ラ・リガ・フィリピナ/La Liga Filipina)を組織したホセ・リサール(Jose Rizal)は、スペイン当局に捕らえられ、1896年にマニラで銃殺刑に処せられた。

 スペインからの独立を目指す「カティプナン」(Katipunan)という秘密組織もスペイン当局に検挙され、武力闘争に発展。エミリオ・アギナルド(Emilio Aguinaldo)将軍は、1896年にカヴィテ州でスペイン軍に勝利し、武力解放した。ホセ・リサールの奪還も目指したが、叶わなかった。スペイン軍の反攻によりアギナルド軍は撤退し、ブラカン州に総司令部を置き、「ビアクナバト共和国」の独立宣言してアギナルド将軍は大統領を名乗り、ゲリラ戦を続けながらスペインと和平協定を模索し、1897年のビアクナバト協定調印により停戦し、アギナルド大統領らは香港に亡命した。

 1898年にアメリカとスペインの米西戦争が勃発すると、米国がフィリピンの独立を支持してくれると見たアギナルドらがフィリピン独立運動を再開し、フィリピン革命軍を再編成し、スペイン軍を攻撃した。そしてアギナルドがフィリピンの独立を宣言した。スペインはフィリピン革命軍への降伏を拒んでいたが、米軍がマニラに入城し、スペインは米軍に降伏した。1899年にアギナルドはブラカン州のマロロス(Malolos)で知識人らを集め、マロロス憲法を起草、公布し、「フィリピン共和国」を樹立し、アギナルドが初代大統領に就任した。ところが、米国とスペインの密約で、スペインはフィリピンを米国に引き渡そうとし、米国はフィリピン共和国を承認せず、同年の「パリ条約」により、フィリピン人の意向を無視する形でフィリピンはスペインから米国へ譲渡された。

 これにより、米国とフィリピンの米比戦争が勃発し、フィリピン軍は米軍に激しく抵抗したが、敗北を重ね、フィリピンの多くの民間人も犠牲になった。ゲリラ戦も続けたが、最後は1901年にアギナルド大統領が米軍の捕虜となり、休戦し、米国の統治下に入った。その後もイスラム勢力のフィリピン南西部では抵抗が続いた。米国は1916年にフィリピンの自治を認め、フィリピン自治領となり、1929年に世界恐慌が発生すると、米国内でフィリピンからの砂糖に関税をかけるべきとの声が強まり、米国議会でもフィリピン独立容認論が台頭し、1935年に自治領から「コモンウェルス」(Commonwealth/自治連邦区に相当)に昇格し、独立への準備が進められた。フィリピン・コモンウェルスは独立後の国語に、マニラ周辺で用いられているタガログ語を「フィリピン語」として普及させていく方針を決めた。

 第二次世界大戦では、日本が1941年(昭和16年)に米国と開戦し、大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発。日本軍はマニラから米軍を追い出し、1942年にはフィリピン全土を占領した。大東亜共栄圏を掲げる日本は形式的にフィリピンを独立させ、1943年にホセ・ラウレル(José Laurel)が大統領に就任し、日本に協力したが、米国は日本の傀儡政権だとしてこれを認めなかった。その後、日米の形勢が逆転し、日本軍は米軍に追い詰められ、1944年末に米軍がフィリピンに再上陸し、1945年(昭和20年)に日本敗戦となり、再び米国領に戻ったが、戦前に独立が約束されていたことから、1946年に三度目の正直となる「フィリピン共和国」独立が達成され、コモンウェルス時代の自治領大統領だったマニュエル・ロハス(Manuel Roxas)が大統領に就任した。

 フィリピンは冷戦期には西側につき、共産系のフクバラハップ(Hukbalahap)は抗日組織だったが独立後は地主支配の打倒を掲げ、ルソン島でゲリラ活動を続けたが、1950年代に反共主義を掲げて米国の支援を得て、共産ゲリラはほぼ壊滅した。その当時の国防相だったラモン・マグサイサイ(Ramón Magsaysay)が1953年に大統領に就任したが、1957年に飛行機事故で死去した。当時の副大統領だったカルロス・ガルシア(Carlos Garcia)が大統領を引き継いだ。1961年に政権が国民党から自由党に交代し、ディオスダド・マカパガル(Diosdado Macapagal)大統領は政治腐敗一掃に取り組み、贈収賄を抑制しようとしたが、野党が多い議会の反対に遭った。

 1965年に反共を掲げるフェルディナンド・マルコス(Ferdinand Marcos)が自由党から国民党に鞍替えして大統領選挙で当選。米国の支持を得て、開発独裁体制を築いた。工業化を進め、米国や日本との貿易関係を強化し、南ベトナムにフィリピン軍を派兵して米軍を支援した。また、フィリピン共産党の新人民軍やムスリムのモロ系民族に軍事力を行使した。1970年に学生運動や爆弾テロなどによって政情が不安定になると、マルコス大統領は1972年に戒厳令を布告し、翌年に大統領と首相を兼任する新憲法を制定して独裁を強めた。イメルダ(Imelda)夫人の贅沢な生活も国民の反感を買った。

 マルコス独裁政権に反対するニノイ(Ninoy)の愛称のベニグノ・アキノ・ジュニア(Benigno Aquino Jr.)上院議員らが拘束され、死刑判決を宣告されたが、1980年に治療名目で米国に追放された。1983年にアキノが帰国を決意し、台湾から中華航空でマニラ国際空港に到着し、タラップを降りたところを銃撃されて殺害された。アキノと同行していた日本のテレビカメラが撮影しており、報道特別番組でこの事件が国際的に知られるようになった。反マルコス運動が高まり、ベニグノ・アキノ・ジュニアの未亡人であるコラソン・アキノ(Corazón Aquino)が反マルコス運動の象徴となり、マルコス大統領が国際社会の非難をかわすために1986年に実施した大統領選挙の結果、実際にはコラソン・アキノの勝利であったにもかかわらず、マルコス政権の影響下にあった中央選挙管理委員会はマルコスの勝利を発表した。この不正選挙に軍が決起し、コラソン・アキノが大統領就任宣誓を行った。マニラのマラカニアン宮殿(Palasyo ng Malakanyang)ではフィリピン国民が囲み、マルコス夫妻はヘリコプターで脱出し、米国へ亡命し、マルコス独裁政権が倒された。市民の力によるこの革命は「エドゥサ革命」(Rebolusyon sa EDSA)と呼ばれる。
 
 コラソン・アキノ大統領は、マルコス時代の憲法を停止し、1987年に自由、人権、多選禁止などを含む新憲法を制定し、フィリピン民主化への道が開かれた。1988年に農地改革法、1991年に地方自治法が制定され、さらには在比米軍の撤退も決定した。1992年からはアキノ政権時に国防相を務めたフィデル・ラモス(Fidel Ramos)が大統領に就任し、国営企業の民営化や発電所建設などを進めた。1998年に就任したジョセフ・エストラーダ(Joseph Estrada)大統領は、通貨危機後の富裕層優遇の経済政策がペソの下落を招き、さらに不正蓄財疑惑で弾劾され、途中退陣した。

 2001年に就任したグロリア・アロヨ(Gloria Arroyo)大統領は、マカパガル第9代大統領の娘であり、エストラーダ大統領辞任により副大統領だったアロヨが大統領に昇格したため、政権基盤が弱かったが、2004年の大統領選挙で勝利し、2010年まで大統領を務めた。2010年からはコラソン・アキノ大統領の息子であるベニグノ・アキノ3世(Benigno Aquino III)が大統領に就任。貧困対策、教育、医療、インフラの整備に取り組み、森林の再生のための植林も進めた。2016年の大統領選挙では、フィリピン南部のダバオの治安改善を成功させたロドリゴ・ドゥテルテ(Rodrigo Duterte)が大統領に当選した。ドゥテルテ大統領は麻薬撲滅のためにかなり強権的に臨み、それが国際人権団体から非難されたことに激しく反発し、親中反米の姿勢を見せたが、米国で2017年にドナルド・トランプ大統領が就任すると対米関係改善に動き、日本とは友好関係を築いている。

 人口1億人を超えるフィリピンは多民族国家であり、マレー・オーストロネシア語系(南島語系)の民族が多数を占め、宗教はスペイン統治の影響でカトリックが多いが、ミンダナオ島西部にはムスリム地域もある。ルソン島はタガログ語を話すタガログ族が多数派で、タガログ語はフィリピン語として全国で通用し、そのうち約2500万人がタガログ語を母語としている。2番目の勢力はセブ島をはじめとするビサヤ諸島に住むセブアノ族であり、約1800万人がセブアノ語を母語とし、第2言語としてセブアノ語を話す人を加えると約3000万人がセブアノ語を話し、フィリピン中南部の最大勢力となっている。そのほか、ルソン島のイロカノ語を話すイロカノ族が約800万人でフィリピン第3の勢力となっている。そのほか、ヒリガイノン族、ビコラノ族、ワライ族、パンパンガ族などの民族があり、それぞれ南島語系の独自の言語を話している。ミンダナオ島西部などではマギンダナオ族などのムスリム系民族が住み、総称してモロ族と呼ばれている。山岳部にもネグリト族やボントック族など独自の言語や生活様式を持つ少数民族が住んでいる。バタン諸島に住むイバタン族のイバタン語は、台湾・蘭嶼(Ponso no Tao)に住むタオ族が話すタオ語と非常に近く、互いに意思疎通が可能であり、フィリピン北部の住民と台湾先住民族は非常によく似た共通の言語・文化のつながりがある。

 フィリピンには、中国福建省南部からの移民も多く、フィリピン華人の約100万人が福建語(閩南語/バンラムグー)を話せ、シンガポールやマレーシアの福建系華人の福建語や台湾ホーロー人の台湾語とも意思疎通ができる。混血が進んでいるが、華人の影響力は大きく、特に商業で成功した人が多いことから、フィリピンの政治・経済への影響力が大きい。このほか、スペイン人との混血(メスティーソ)や、外国への出稼ぎ労働者が多いことから、日本やアメリカとの混血も増えている。

 フィリピンは、独立後の国の独自性と一体性のため、タガログ語をフィリピン語として普及に努めてきたが、一方で多民族であるため、英語が共通語として受け入れられやすかった。タガログ語はフィリピン全体で通じるようになっているが、中南部では日常会話はセブアノ語が優勢である。

 フィリピンの産業は、熱帯気候であることから、バナナ、サトウキビ、ココナッツ、マンゴー、マニラ麻、タバコなどの農作物の栽培が盛んで、コメやトウモロコシなどの主食の栽培も多いが、人口が多く、意外にも自給率は低い。スペイン時代からのプランテーション農業の悪習が、大地主と貧乏な小作人という貧困の固定化が続いてしまっている。

 工業は、銅やニッケルなどの鉱業や、繊維工業、食品加工業などの軽工業が盛んであるが、重工業は造船業が盛んであるが、他国と比べて重工業の割合が低く、経済が伸び悩む原因となっている。英語が通じる強みを生かして、家政婦や介護などのサービス業で外国に出稼ぎする人も多い。

 フィリピンの空の玄関は、ニノイ・アキノ国際空港(Ninoy Aquino International Airport)がマニラ首都圏を代表する空港となっており、日本へは東京成田、大阪関西、名古屋中部、福岡などを結ぶ路線が就航している。また、フィリピン中部のマクタン・セブ国際空港もセブ島などフィリピン中部の玄関口となっており、日本からも東京成田からの直航便があり、リゾート客の利用も多い。

 フィリピンの鉄道は、長距離輸送については、ルソン島の各地を結ぶ路線があったが、管理の悪さと現代化の遅れ、自然災害による被害などから、ほとんど輸送機関として機能していないが、将来は再整備する可能性もある。

 都市部については、マニラ・ライトレール(Manila LRT)、マニラ・メトロレール(Manila MRT)などの都市鉄道が徐々に整備され、マニラ首都圏の主要交通として発展しつつある。

 フィリピンの都市は、マニラ(マイニラ)首都圏(Kalakhang Maynila)に約1200万人が住み、その中にケソン(Quezon)280万人、マニラ/マイニラ(Maynila)165万、カロオカン(Caloocan)150万、パシッグ(Pasig)67万、タギッグ(Taguig)65万などの都市がある。そのほか、地方都市はミンダナオ島のダバオ(Dabaw)145万、セブ島のセブ/スグボ(Cebu/Sugbo)87万、スペイン文化が残るミンダナオ最西端のサンボアンガ(Zamboanga)80万、ルソン島リサール州のアンティポロ(Antipolo)68万、ミンダナオ島北部のカガヤン・デ・オロ(Cagayan de Oro)60万、などの都市がある。このほか、ミンダナオ西部にはイスラム教徒ミンダナオ自治地域(Nagsasariling Rehiyon sa Muslim na Mindanao)があり、その中心都市はコタバト(Cotabato)である。

フィリピン共和国(ピリピナス)
Republika ng Pilipinas (フィリピン語/タガログ語)
Republic of the Philippines(英語)
(1946年、アメリカより独立)
面積:29.9万平方キロ
人口:9198万
通貨:フィリピン・ペソ
主要言語:フィリピン語、英語、セブアノ語、(イロカノ語、福建語、華語、スペイン語、イロンゴ語、ワライ語、ビコル語、パンパンガ語、パンガシナン語など)
首都:
マイニラ/Maynila(フィリピン語)
マニラ/Manila(英語)(人口1155万)

参考:Wikipediaなど

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