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ハイチ カリブ海の世界初の黒人による共和国

Repiblik d Ayiti (ハイチ・クレオール語)
République d'Haïti (フランス語)
ハイチ(アイチ)共和国

ハイチ カリブ海の世界初の黒人による共和国

 ハイチ共和国(Repiblik d Ayiti / République d'Haïti)は、カリブ海の大アンティル諸島(Grandes Antilles)のイスパニョーラ島(Ispayola / Hispaniola)の西部にある共和制国家で、東がドミニカ共和国と接している。また、海を挟んで西がキューバとジャマイカ、東が米領プエルトリコ、北が英領タークス・カイコス諸島と近接している。

 日本では慣用的に「ハイチ」と呼ばれるが、フランス語は語頭の「H」を読まないため、「Haïti」は「アイチ」と発音され、ハイチクレオール語(ハイチ語)では「Ayiti」と綴られる。英語は「Haiti」と綴るが発音は「ヘイティ」に近く、日本語の「ハイチ」とは発音に差がある。「アイチ」とは、アラワク系先住民族タイノ人の言葉で「山ばかりの土地」を意味する。かつてフランス領時代は「サン・ドマング」(Saint-Domingue)と呼ばれていた。

 ハイチ共和国の面積は約2.8万平方キロメートルで、人口は約1110万人。通貨はグールドで、フランス語では「gourde haïtienne」、ハイチ語では「goud ayisyen」と呼ばれている。ハイチの一人当たりのGDP(国内総生産)は約730ドルで、172位前後。一人当たりの購買力平価(PPP)は約1730ドルで174位前後。経済基盤がもろく、国民の多くが貧困状態にある。農業が主な産業であるが、農業インフラの整備が遅れ、自然災害も重なり、海外からの支援に依存している。仕事を求めて都市部に人口が集まるものの、雇用は十分ではなく、失業率も高い。

 ハイチの国民は、約95%がアフリカ系の黒人であり、残りがムラート(Mulâtre)と呼ばれるアフリカ系黒人とヨーロッパ系白人の混血である。古くはアラワク系タイノ人が住んでいたが、16世紀にスペインからの入植者により滅ぼされ、その後、奴隷としてカリブ人が連れて来られが、過酷な労働で死に追いやられた。次にスペインは西アフリカの黒人奴隷を連れてきた。17世紀にはフランスがイスパニョーラ島の西部を占領するようになり、1697年以降、ハイチは仏領サン・ドマングとなり、アフリカの奴隷海岸(Côte des Esclaves)から多くの黒人奴隷が連れて来られた。そのような歴史的経緯からセネガル、ガンビア、ガーナ、ナイジェリア、ベナン、コンゴ、アンゴラなどの出身者が多い。そのうち、ベナンにあったダホメ王国のフォン人の文化が出身地や民族を越えてアフリカ系黒人の結束を固める役割を果たし、現在はキリスト教徒が多数派ではあるものの、ベナンのダホメ王国がルーツのブートゥー教の信仰文化も根付いている。

 ハイチの言語は、ハイチ・クレオール語(ハイチ語)とフランス語が公用語となっている。以前はフランス語のみだったが、1961年にハイチ語も公用語に認められた。フランス語は公的機関や教育などで主に用いられるが、日常会話はハイチ語が主流である。ハイチ語はフランス語をベースに、アフリカのウォロフ語、フォン語、エウェ語などが交じり合ったクレオール言語で、ハイチで独自に発展した。ハイチ語はハイチおよび隣国のドミニカ共和国のほか、貧困から脱却するために海外移住したハイチ人のコミュニティーがあるバハマ、米国、カナダ、フランスなどでもハイチ系住民により話されている。

 ハイチのイスパニョーラ島が初めてヨーロッパ人に「発見」されたのは、1492年のクリストファー・コロンブス(クリストーフォロ・コロンボ/Cristoforo Colombo)によるとされ、当時は先住民であるアラワク系タイノ人が住んでいたが、16世紀にスペイン人入植者らにより滅ぼされた。スペインはカリブ人やアフリカ人を奴隷としてイスパニョーラ島に移住させ、サント・ドミンゴ総督領(Capitanía General de Santo Domingo)としたが、17世紀半ばよりイスパニョーラ島西部に徐々にフランス人が進出し、1697年のライスワイク条約で、イスパニョーラ島の西約3分の1をフランス領とすることをスペインに認めさせた。この現在のハイチにあたる領域をフランスは「サント・ドミンゴ」をフランス語読みしてフランス領サン・ドマング(Colonie de Saint-Domingue)とした。

 仏領サン・ドマングではアフリカ西部(トーゴ・ベナン・ナイジェリアなど)の奴隷海岸(Côte des Esclaves)から多くのアフリカ系黒人を奴隷として連れて来て、サトウキビやコーヒーの栽培を行った。この過程では奴隷の過酷労働による死亡者が多く、アフリカからさらに奴隷を供給した。フランス人らヨーロッパ系白人はプランテーション経営で大儲けしたが、仏領サン・ドマングの人口比率はアフリカ出身の黒人奴隷が大多数を占めていた。

 奴隷労働から逃亡したアフリカ系黒人の逃亡奴隷はマルーン(Maroon)と呼ばれ、森の中に逃亡し、ゲリラ化してプランテーション農園をたびたび襲撃した。アフリカのさまざまな地方や部族の出身の黒人らは言葉が通じないため、徐々にフランス語とアフリカ諸言語が混じったクレオール言語が形成され、これがハイチ・クレオール語のもとになった。

 アフリカ西部のブードゥー教司祭「ウンガン」(hùn gan)であるフランソワ・マッカンダル(François Mackandal)がマルーンの指導者として黒人の抵抗運動を組織化し、1750年代に反乱を指揮した。マッカンダルは1758年にフランス軍に逮捕され、処刑されたが、その後も抵抗運動が続いた。

 仏領サン・ドマングでは、黒人奴隷およびマルーン(逃亡奴隷)のほか、フランス出身のフランス人が行政を支配し、そのほか白人(主にフランス人)農園主の富豪、労働者の貧しい白人(プチ・ブラン/petit blancs)、白人と黒人の混血(ムラート)、自由黒人(カラード)などに階層が分かれていた。

 1789年のフランス革命により、フランス本国で人権宣言などが高らかに謳い上げられると、仏領サン・ドマングでも市民権を求める声や、奴隷制維持のためにフランスからの独立も視野に入れる富裕層など、さまざまな動きが加速した。カラードのジュリアン・レイモン(Julien Raimond)はカラードと白人の完全な平等を訴えた。また、参政権を求め、サン・ドマング当局から拒否されたため、反乱を起こしたカラードのヴァンサン・オジェ(Vincent Ogé)は、1791年に処刑された。これは白人とカラードとの対立であったが、黒人奴隷らが反乱に加わり、白人の農園主らに報復した。これはイスパニョーラ島東部(サント・ドミンゴ)を領有するスペインの介入を招いたが、1792年にフランス議会がフランス植民地の自由と平等を宣言し、1793年に奴隷制度が廃止された。

 黒人の指導者トゥサン・ルヴェチ(Tousen Louvèti / Toussaint Louverture)はフランス側につくことを拒否し、1801年にサン・ドマング憲法を公布し、自治政府を開設し、自身が総督に就任した。フランス本国で権力を掌握したナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)は、再びサン・ドマングを支配するためにフランス軍を送り、トゥサンは最終的にフランス軍に投降し、捕らえられ、フランスに移送され、獄死した。その後、フランスによる奴隷制復活の動きに抵抗する反乱が起こり、1803年の「ヴェルティエールの戦い」をハイチ独立運動の指導者ジャンジャック・デサリーヌ(Jean-Jacques Dessalines)の下、ハイチ革命軍はフランス軍を破り、1804年にデサリーヌはスペイン領だったサント・ドミンゴ(現・ドミニカ共和国)を含むイスパニョーラ島全土を掌握してハイチ独立を宣言し、国名を先住民アラワク・タイノ人が呼んだ「山がちの土地」を意味する「ハイチ」(アイチ/Haiti)と定めた。デサリーヌはジャック1世(Jacques I)としてハイチ初代皇帝に即位し、「ハイチ(アイチ)帝国」(Empire d'Haïti)が成立した。

 奴隷出身のジャック1世は、ハイチが黒人国家であることを宣言し、白人が土地や資産を所有することを禁じ、フランス人に対する報復で、ハイチに残るフランス人を処刑しようとした。奴隷制は廃止され、黒人が権利を取り戻したものの、経済の柱である砂糖やコーヒーのプランテーション農園の労働力の主力が黒人であることは変わらず、読み書きできる人材を経営者に求めるとムラート(白人との混血)がその地位を占めるようになった。

 ハイチ帝国では、北部の黒人の支持を受けるアンリ・クリストフ(Anri Kristòf / Henry Christophe)と南部のムラートの支持を受けるアレクサンドル・サベ・ペション(Alexandre Sabès Pétion)の2つの派閥が勢力を築き、1806年にジャック1世が暗殺され、わずか2年でハイチ帝国が崩壊し、イスパニョーラ島西部(ハイチ)では北部の「ハイチ国」(État d'Haïti)と南部の「ハイチ共和国」(République d'Haïti)に分裂した。さらに、この混乱の中で1809年にイスパニョーラ島東部(ドミニカ)は、再びスペインが支配するようになり、スペイン領サント・ドミンゴとなった。

 北ハイチの「ハイチ国」のアンリ・クリストフ大統領は1811年にハイチ国王アンリ1世となることを宣言し、北ハイチでは「ハイチ王国」(Royaume d'Haïti)が成立。アンリ1世は独裁体制を敷き、南ハイチの「ハイチ共和国」との対立も続き、クーデターを恐れて精神衰弱となっていたアンリ1世は1820年に拳銃自殺し、ハイチ王国が崩壊。ジャン・ピエール・ボワイエ(Jean Pierre Boyer)大統領のハイチ共和国が北ハイチを併合し、イスパニョーラ島西部の南北ハイチが統一された。

 一方、イスパニョーラ島東部のスペイン領サント・ドミンゴでは現地の生まれのスペイン系クリオージョを中心に独立の機運が高まり、1821年に「スペイン・ハイチ共和国」(República del Haití Español)が独立した。しかし、コロンビア共和国への加入などをめぐり内戦となり、その隙をついてハイチ共和国が1822年にスペイン・ハイチ共和国を占領した。ハイチ共和国のボワイエ大統領が失脚すると、1844年に革命軍が蜂起し、1845年に東部で「ドミニカ共和国」(República Dominicana)が建国された。ペドロ・サンタナ(Pedro Santana)がドミニカ共和国初代大統領に就任した。

 しかし、ボワイエ大統領の後のハイチ共和国大統領に就任した将軍のフォースタン・スールーク(Faustin Soulouque)大統領は1849年に帝政を宣言し、「ハイチ帝国」(Empire d'Haïti)の皇帝フォースタン1世を名乗り、国内では独裁体制を敷き、ドミニカ共和国へも侵攻した。フォースタン1世は1859年にファーブル・ジェフラール(Fabre Geffrard)将軍の蜂起により帝政が倒され、共和制の「ハイチ共和国」に戻った。

 一方、ハイチとの戦争が続き、これに疲弊したドミニカ共和国のサンタナ大統領は1861年に再びスペインに戻ることで保守派の利益を守ろうとし、サンタナはスペイン領サント・ドミンゴ総督となった。しかし、これに自由派のドミニカ人が激怒し、再び独立戦争が勃発し、1865年に「ドミニカ共和国」がスペインから再独立した。その後もハイチ共和国がドミニカ共和国にとり脅威で、ドミニカ共和国はアメリカ合衆国(米国)への併合も求めたが米国議会に拒否された。1875年にようやくドミニカ共和国とハイチ共和国の平和条約が結ばれ、イスパニョーラ島に2つの国が共存することが確定した。

 ハイチは砂糖貿易で経済の近代化を進めたが、ハイチ財政を圧迫したのが独立と引き換えのフランスへの賠償金返済であった。さらにドイツのカリブ海進出を警戒した米国は1915年に債務返済を口実に海兵隊をハイチに派遣し、ハイチを占領した。この際に米国海兵隊に抵抗したハイチから多くの難民がドミニカ共和国やキューバに逃れた。米国は1934年までハイチで軍政を続け、米国モデルの産業育成と首都機能の強化、軍隊の訓練などを実施し、ハイチの経済構造を改善することにより対外財政を強化しようとした。1934年に米国海兵隊が撤退後、ムラートの大統領が続いたが、1946年のクーデターで黒人のデュマルセ・エスティメ(Dumarsais Estimé)が大統領に就任した。

 エスティメ大統領は黒人の政治的権利拡充、社会保障と労働政策の改善を図り、観光振興と国際協調のために1949年にポルトープランス(Port-au-Prince)で万国博覧会を開催した。しかし、エスティメ大統領の再選の動きを阻止しようとクーデターが発生し、黒人軍人のポール・マグロワール(Paul Magloire)による軍事政権となった。マグロワール大統領の時代はコーヒー産業および米国からの観光誘致で景気が良くなったが1956年のクーデターで失脚した。

 その後、黒人の医師のフランソワ・デュヴァリエ(François Duvalier)が大衆的な人気を得て大統領に就任したが、1958年に独裁化し、アフリカがルーツのブードゥー教を個人崇拝に利用した。トントン・マクート(Tonton Macoute)と呼ばれる秘密警察で反対派の言論を弾圧した。一方でフランス語を基礎に西アフリカ諸語が交じり合ったクレオール言語であるハイチ語(ハイチ・クレオール語)が1961年に公用語として認められるようになった。

 1971年にフランソワ・デュヴァリエ大統領が死去すると、息子のジャンクロード・デュヴァリエ(Jean-Claude Duvalier)が19歳で大統領に就任した。反共政策で米国との経済関係を深め、1977年から「ジャンクロード主義」経済開放政策を進め、米国の資本を積極的に導入し、技術官僚を重用し、工業化と近代化を進めようとしたが、農業や牧畜が衰退し、貧困と恐怖政治から逃れたい難民が米国に押し寄せる結果となった。困窮したハイチ国民らによる武装蜂起が相次ぎ、最終的には共産革命を恐れた米国やフランスに説得され、1986年にフランスに亡命した。これにより30年近くにわたるデュヴァリエ親子の独裁政権が崩壊した。

 1987年に新憲法が制定され、民主的な選挙により左派のジャンベルトラン・アリスティド(Jean-Bertrand Aristide)が1991年に大統領に就任し、貧困層の教育普及に努めたが、軍事クーデターでベネズエラと米国に亡命した。国連や米国の圧力で軍事政権は政権を返上し、アリスティド大統領が復帰した。1996年にアリスティッド派のルネ・ガルシア・プレヴァル(René Garcia Préval)が大統領に就任し、2001年に再びアリスティド大統領が就任した。しかし、2004年に「ハイチ解放再建革命戦線」(Front pour la libération et la reconstruction nationales)が武装蜂起し、アリスティド大統領は中央アフリカ共和国へ亡命した。その後、治安維持のために多国籍軍が展開する事態となり、2006年の大統領選挙でルネ・ガルシア・プレヴァル元大統領が当選し、大統領に就任した。

 2010年にハイチでマグニチュード7.0の大地震が発生し、首都ポルトープランスで大きな被害が発生し、ハイチ大統領府も倒壊した。さらに伝染病コレラも大流行した。2010年の大統領選挙では歌手のミシェル・マテリ(Michel Martelly)が当選し、平和的な政権移行となった。2017年にはジョヴネル・モイーズ(Jovenel Moïse)大統領が就任した。2017年に国連平和維持軍が撤退したが、その後治安が悪化している。

 ハイチはフランス語圏であることからフランスやカナダとの関係が深く、また反共政策や難民の主な亡命先である米国とも深い関係がある。キューバとは反共のため長らく国交が断絶していたが1996年に国交回復している。また、反共政策をとっていたため、台湾(中華民国)との国交を維持してきた。

 ハイチは、労働人口の約3分の2が農業に従事しているが、その約70%は自給自足の小規模農業であり、国民の約80%が貧困状態であると見られている。灌漑等のインフラが未整備であり、生産性が低く、食料が自給できていない。デュヴァリエ独裁時代には国際的孤立でも生存のために食料自給が最優先されていたが、民主化後に安価な米国産米が輸入されるようになり、生産性の悪いハイチの稲田は放棄され、都市に人口が流入し、都市に失業者があふれるようになった。また、2010年のハイチ大地震がハイチ経済に甚大なダメージを与えており、雇用の創出と貧困の克服が課題となっている。

 ハイチの都市部ではフランス系のムラートが多いことから、フランス文化が比較的重視されている。一方、農村ではアフリカ系黒人が大多数であるため、アフリカをルーツとする文化や、ハイチの土地に根付いたクレオールの多様な文化が重視されている。

 ハイチはカリブ海地域にありながら、アフリカとフランスの文化の影響を受け、独特のハイチ音楽が生まれた。フランスのコントレダンスとアフリカ・コンゴ地方の踊り、バンジョー(Banjo)などの楽器を用いたメラング(メハング/meringue)と呼ばれる音楽ジャンルが発展した。また、隣国のドミニカ共和国のダンス音楽「メレンゲ」(merengue)の影響を受け、ハイチ語で歌うコンパ(compas)というジャンルが発達した。ハイチ音楽は米国のジャズなどとの関係も深く、ヴードゥー教のアフリカ伝統音楽などの要素も取り入れながら、ハイチ音楽は発展を続けている。

 ハイチの首都はフランス語で「王子の港」を意味するポルトープランス(ポフトープハンス/Port-au-Prince)で、ハイチ語ではポトプガンス(Pòtoprens)と呼ばれる。ポトプガンスの人口は約125万人で、近年は人口集中が続き、郊外を含む人口は約280万人に達する。イスパニョーラ島西部におけるフランス領サン・ドマングの拠点として、独立後はハイチの首都として発展した。ゴナーヴ(Gonâve)湾の湾岸沿いに市街地が形成され、海側に商業地区、丘陵側に高級住宅街が広がっている。コーヒー豆や砂糖の積出港としてハイチ経済を牽引しているが、近年は仕事を求め、地方から首都に人口が流入するようになり、郊外で都市のスラム化が進み、治安の悪化が深刻となっている。

 ポトプガンスの気候は、一年中暑いサバナ気候で、冬季は雨が少ない。平均気温は1月が23℃~31℃、7月は25℃~35℃である。

 ハイチの空の玄関口は、ポルトープランス(ポトプガンス)国際空港(L'aéroport international de Port-au-Prince)は「トゥーサン・ルーヴェルチュール国際空港」(L'aéroport international Toussaint Louverture)という愛称があり、ハイチ独立運動家のトゥーサン・ルーヴェルチュール/トゥサン・ルヴェチ(Toussaint Louverture / Tousen Louvèti)から命名された。

 ポルトープランス国際空港からは、マイアミ(米国フロリダ州)、フォートローダーデール(米国フロリダ州)、ニューヨーク(米国ニューヨーク州)などの米国方面、パリ(フランス)、ポワンタピートル(仏領グアドループ)、モントリオール(カナダ・ケベック州)などのフランス語圏方面、サントドミンゴ(ドミニカ共和国)、パナマシティー(パナマ)、プロビデンシアレス(英領タークス・カイコス諸島)、シント・マールテン(蘭領シント・マールテン)など中米カリブ海方面の路線が運航されている。

 ハイチ第2の都市は、首都ポトプガンスの南西に隣接するカフ/カフフーフ(Kafou / Carrefour)で、人口約50万人。第3の都市は、ポトプガンスの東に隣接するデルマ(Dèlma)で人口約40万人。第4の都市はペシオンヴィル(Petyonvil / Pétion-Ville)で、ポトプガンスの南東に隣接している。第5の都市はポトプガンスの北に隣接するシテ・ソレイ(Site Soley / Cité Soleil)で、大規模なスラム街があり、犯罪やギャング抗争も多く、治安が課題となっている。これらの都市はいずれも西県ポトプガンス郡にあり、ポトプガンス都市圏を形成している。

 このほか、ハイチの北部にゴナイーヴ(Gonayiv / Gonaïves)、サン・マク(Sen Mak / Saint-Marc)、カパイシャン(Kap Ayisyen / Cap-Haïtien)、ポドペ(Pòdpè / Port-de-Paix)、南部にジャクメル(Jakmèl / Jacmel)、南西部にオカイ(Okay / Les Cayes)などの都市がある。

ハイチ共和国(アイチ)
Repiblik d Ayiti(ハイチ語)
République d'Haïti(フランス語)
(1804年、フランスから独立)
面積:2.8万平方キロ
人口:1110万
通貨:グールド
主要言語:ハイチ語、フランス語
首都:ポルトープランス(ポトプガンス)
Pòtoprens(ハイチ語)
Port-au-Prince(フランス語)(人口125万)
 

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山梨・甲斐 釜無川と信玄堤、ワイナリーと甲州ワインビーフ

甲斐
かい

日本国山梨県甲斐市

山梨・甲斐 釜無川と信玄堤、ワイナリーと甲州ワインビーフ

 甲斐(かい)市は、山梨(やまなし)県中西部にある人口約7万人の市。東が甲府(こうふ)市、北が北杜(ほくと)市、西が韮崎(にらさき)市、南アルプス(みなみアルプス)市、南が中巨摩(なかこま)郡の昭和(しょうわ)町と接している。

 甲斐市は、甲府盆地の北西部にあり、古くは甲斐国(かいのくに)の巨摩(こま)郡に属した。明治11年(1878年)に巨摩郡が北巨摩郡・中巨摩郡・南巨摩郡に三分割された。平成16年(2004年)に中巨摩郡の竜王(りゅうおう)町、敷島(しきしま)町、北巨摩郡の双葉(ふたば)町が合併して甲斐市が発足した。

 甲斐市の市名の由来は山梨県全体を指す旧国名の「甲斐国」から来ているが、甲斐市の地域が甲斐国の中心部であったわけではなく、竜王・敷島・双葉の3町合併の際に中立的な市名を付けようとしたことによる。山梨県では平成の合併により、山梨市、甲府市、甲斐市、甲州市など、似た市名が乱立し、合併前より位置が分かりにくくなってしまった。定着し、慣れるまでにはまだ年月がかかりそうだ。

 甲斐市には、JR東日本・中央本線が通り、市内に竜王(りゅうおう)駅と塩崎(しおざき)駅がある。竜王駅は旧・竜王町の中心駅で、現在は甲斐市を代表する駅となっている。一部の特急「かいじ」が竜王駅を起点に新宿方面を結んでいる。また、貨物の取扱も行われていて、コンテナ貨物や石油輸送の貨物列車が運行されている。

 JR中央本線は、甲府駅から竜王駅方面にまっすぐ西に進み、竜王駅の先では釜無川(かまなしがわ)の手前で北にカーブし、塩崎方面に向かう。

 塩崎駅は、開設当時の北巨摩郡塩崎村に由来し、塩崎村は後に合併で双葉町となったため、塩崎駅は旧・双葉町の中心駅である。駅周辺にはユニー系のショッピングセンター「ラザウォーク甲斐双葉」や、日本航空高校・山梨キャンパスと双葉滑空場がある。

 釜無川と笛吹川に挟まれた甲府は、古くはたびたび水害に悩まされてきたが、甲斐国を拠点とする武田信玄(たけだ しんげん)により竜王地区に釜無川の堤防が築かれたことから「信玄堤」(しんげんづつみ)と呼ばれるようになった。信玄堤の整備により、竜王河原宿や新田が開発され、養蚕が盛んになった。

 赤坂台総合公園は、竜王地区にあることから「ドラゴンパーク」の愛称があり、富士山や八ヶ岳、甲府盆地が見渡せる展望塔がある。

 甲斐市には、敷島醸造、サントリー登美の丘ワイナリー、シャトレーゼベルフォーレワイナリーなど、山梨県特産のブドウを用いたワインの醸造が盛んである。また、小林牧場ではワインの搾りかすを飼料の一部として牛を飼育しており、「甲州ワインビーフ」ブランドで知られている。

 甲斐市には中央自動車道が通り、双葉SA(サービスエリア)と双葉スマートIC(インターチェンジ)があり、双葉JCT(ジャンクション)で静岡県方面を結ぶ中部横断自動車道が分岐している。また、昭和町および甲府市との境に中央自動車道の甲府昭和ICがあり、国道20号線(甲州街道)と接続している。

甲斐エリアの主な駅

竜王 / りゅうおう 駅
JR東日本 中央本線

塩崎 / しおざき 駅
JR東日本 中央本線

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JR中央本線・竜王駅

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JR中央本線・塩崎駅

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JR中央本線から見た甲斐市の眺め

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テーマ : 山梨
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千葉・大網白里 外房線と東金線が分岐する大網駅と白里の九十九里浜

大網白里
おおあみしらさと

日本国千葉県大網白里市

千葉・大網白里 外房線と東金線が分岐する大網駅と白里の九十九里浜

 大網白里(おおあみしらさと)市は千葉(ちば)県中東部にある人口約5万人の市。西が千葉市の緑(みどり)区、南が茂原(もばら)市、長正(ちょうせい)郡の白子(しらこ)町、北が山武(さんぶ)郡の九十九里(くじゅうくり)町、東金(とうがね)市と接している。

 大網白里市は、古くは上総国(かずさのくに)の山辺(やまべ)郡に属し、明治30年(1897年)に武射(むさ)郡と統合して山武(さんぶ)郡が発足。昭和29年(1954年)に山武郡の大網(おおあみ)町、白里(しらさと)町、増穂(ますほ)村が合併し、山武郡大網白里町が発足した。東京へも通勤可能な千葉市郊外の住宅開発が進み、人口5万人を突破したことから、平成25年(2013年)に市制施行し、大網白里市となった。

 大網白里市には、JR東日本の外房線と東金線が通り、外房線・東金線の大網(おおあみ)駅と外房線の永田(ながた)駅がある。

 大網駅は、房総鉄道の駅として明治29年(1896年)に開業。明治30年(1897年)に大網~一ノ宮(現・上総一ノ宮)、明治33年(1900年)に大網~東金が延伸され、明治40年(1907年)に房総鉄道が国有化された。大網駅は以前は東金線方面に500mほどの北東にあった。千葉方面からの外房線の列車は大網駅で進行方向が変わる構造であったため、昭和47年(1972年)に外房線電化と同時に駅を現在地に移動し、外房線を高架化し、ショートカットする新線に切り替わり、スイッチバックが解消された。

 そのため、大網駅は外房線ホームと東金線ホームが離れた構造になっており、東金線ホームの南側に高架の外房線ホームがある。東金線は大網から東金を経由して総武本線の成東(なるとう)を結ぶ路線で、九十九里南部と北部をつないでいる。東金線は日中は線内折り返しの普通電車が運行されているが、外房線直通の千葉方面、外房線・京葉線直通の東京方面への列車もある。

 旧大網駅から外房線へは、スイッチバック解消後も貨物線として残っていたが、平成8年(1996年)に運行が終了し、現在はヤマダ電機大網白里店の敷地の一部となっている。

 大網駅の周辺には、みずほ台、みやこ野、みどりが丘、季美の森などの新興住宅街が開発されている。大網白里市は千葉市へ通勤しやすく、少し遠いが東京方面への通勤も可能である。バブル期の地価高騰で、千葉郊外の高級住宅開発が進められた。季美の森は、住宅地とゴルフ場が近接していているなど、バブル時代の夢の名残りが感じられる。

 大網白里市東部の白里地区は、九十九里浜の海岸が広がり、白里海水浴場がある。

大網白里エリアの主な駅

大網 / おおあみ 駅
JR東日本 外房線、東金線

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JR大網駅

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大網駅、外房線ホームから見た東金線ホーム

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外房線から見た大網白里の街並み

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テーマ : 千葉県
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千葉・千葉寺 千葉寺と青葉の森公園とアリオ蘇我

千葉・千葉寺
ちば・ちばでら

日本国千葉県千葉市中央区

千葉・千葉寺 千葉寺と青葉の森公園とアリオ蘇我

 千葉寺(ちばでら)は、千葉(ちば)市の中央(ちゅうおう)区にある地区で、京成電鉄・千原線の千葉寺駅がある。

 千葉寺駅は、平成4年(1992年)に千葉急行電鉄の千葉中央(ちばちゅうおう)~大森台(おおもりだい)が開業した際に開設され、千葉急行線は平成7年(1995年)に大森台~ちはら台(ちはらだい)が延伸。平成10年(1998年)に京成電鉄に譲渡され、京成千原線となった。

 京成千原線は京成千葉線と一体運行されており、ちはら台~京成津田沼(けいせい つだぬま)を結ぶ普通電車が運行されている。千葉寺駅は単線区間ではあるが、将来の需要増に対応できるよう複線化できる用地が確保されており、高架構造物も複線の大きさで建設されている。千葉寺駅のホームは北側の1本のみ使用され、南側はホームは準備されているが、レールが敷かれておらず、使用されていない。

 京成千原線・千葉線とJR外房線・内房線は千葉駅~蘇我(そが)駅の間で並走しており、京成の千葉中央駅はJRの千葉~本千葉(ほんちば)の間、本千葉駅は京成千原線の千葉中央~千葉寺の間にある。千葉寺駅の手前で、京成千原線はJR内房線をオーバークロスして離れていくが、千葉寺駅は位置的には本千葉~蘇我の間にあり、京成とJRが千鳥状に駅を設けることにより、棲み分けしている。

 千葉寺駅から西に800m歩けばショッピングモール「アリオ蘇我」や「島忠ホームズ」蘇我店などがあり、徒歩の距離は蘇我駅からとほぼ変わらない。

 駅名の由来である「千葉寺」(せんようじ/ちばでら)は、駅から約400m北にある。奈良時代の709年(和銅2年)に行基(ぎょうき)が十一面観音を安置したのが始まりで、後に千葉氏の居城である亥鼻城(千葉城)に近いことから千葉氏の祈願所として重視されるようになった。江戸時代には大晦日にお面をかぶるなど仮装して権力者への皮肉などを言い合って笑って年を越すという「千葉笑」という風習があった。境内には「千葉寺のイチョウ」の大木がある。

 千葉寺の北西には「青葉の森公園」がある。ここは、農林水産省畜産試験場の跡地に昭和62年(1987年)に開園した公園で、「青葉の森公園芸術文化ホール」、千葉県立中央博物館などの施設がある。県庁前が終点となっている千葉都市モノレール1号線は利用者が伸び悩んでいて、このままではもったいない。亥鼻公園(千葉城)、千葉大学病院を経由して青葉の森公園(千葉県立中央博物館)のあたりまで延伸すれば利用者が増えるのではないかと思う。

千葉・千葉寺エリアの主な駅

千葉寺 / ちばでら 駅
京成電鉄 千原線

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京成千原線・千葉寺駅

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千葉寺~千葉中央を走る京成千原線

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大森台~千葉寺を走る京成千原線

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テーマ : 千葉県
ジャンル : 地域情報

ベトナム・モンカイ カロン川を挟んで中国東興と接する国境都市

Móng Cái (ベトナム語)
硭街
モンカイ

ベトナム社会主義共和国クアンニン省モンカイ市

ベトナム・モンカイ カロン川を挟んで中国東興と接する国境都市

 モンカイ市(Thành phố Móng Cái/城庯硭街)は、ベトナム社会主義共和国(Cộng hoà Xã hội chủ nghĩa Việt Nam/共和社會主義越南)北部のクワンニン省(Tỉnh Quảng Ninh/省廣寧)にある人口約13万人の都市。

 中華人民共和国チワン族自治区の防城港(フォンセンコン/ファンツンカン/Fangzcwngzgangj)市(地級市)の東興・Dunghhingh(东兴/トンヘン/トンヒン/トンシン)市(県級市)と接しており、国境貿易が盛んである。

 カロン川(Sông Ka Long/北仑河)を挟んで中国の東興/Dunghhingh市と接している。ベトナム語(キン語)で東興は「Đông Hưng」(ドンフン)と呼ばれている。東興とモンカイの間には国境ゲートがあり、出入国審査を経て徒歩で中華人民共和国とベトナムの国境を渡ることができる。

 モンカイは、国境都市であることからベトナム語のほか、広東語や中国語(北京語)もよく使われ、チワン族自治区と接していることから、チワン語を話すチワン族の往来も多い。モンカイは、現代中国語では「芒街」(モンカーイ/マンチエ)と表記されるが、本来のベトナム語の漢字では「硭街」と書く。

 モンカイと防城港(東興)は、かつてはフランス領インドシナと清国の国境でもあった。清国時代、欽州・防城出身の客家(ハッカ)人である劉永福(リュウ ユンフゥク)は、同じく客家人の洪秀全(フゥン シウチョン)が1851年に反清国の決起した「太平天国の乱」に参加後、「黒旗軍」を組織し、ベトナムでフランス軍を駆逐し、ベトナムで保護されていた。ベトナムをめぐってフランスと清国が利権を争い、1883年(光緒9年)に清国は「黒旗軍」を説得してフランス軍を攻撃させ、フランスの指揮官であるリビエールを殺害するが、フランスから援軍が増派され、清仏戦争に突入する。1885年(光緒11年)にベトナムを保護領化したフランス軍が清国国境の広西省鎮南関に侵入し、その際には「黒旗軍」が応戦した。フランスが有利な状態で天津条約によりフランスが北ベトナムを獲得し、黒旗軍は解散させられた。

 第二次世界大戦後、日本の敗戦によりベトナムを再占領しようとしたフランスは、ベトナム独立の勢いが増す中で、インドシナ戦争となった。モンカイを中心とするベトナム北部の当時のハイニン(Hải Ninh/海寧)省はヌン(Nùng/農)族と呼ばれる客家人など華人の割合が高かったことから、フランスはベトナム独立に対抗するためヌン族自治区(Territoire Autonome Nung / Khu tự trị Nùng/區自治農)を1947年に設置した。モンカイに首府が置かれ、ヌン族(客家)の黄亜生(ヴォン アーサン/Voòng A Sáng)が自治政府の最高指導者を務めた。

 1950年にベトナム国(Quốc gia Việt Nam)国長となっていたバオ・ダイ(Bảo Đại/保大)帝が少数民族に土地を分け与えたという名目の「皇朝疆土」(Hoàng triều Cương thổ)を設け、ヌン族自治区もここに含まれ、ベトナム人の入植が制限されたが、1954年にベトナム民主共和国(Việt Nam Dân chủ Cộng hòa)が北ベトナムを統一したことにより、ヌン族自治区は解散され、共産主義体制のベトナム民主共和国(北ベトナム)の一部となった。

 ハイニン省は1963年にホンクアン(Hồng Quảng/丸廣)区と合併し、クワンニン省(Quảng Ninh/廣寧)省となった。モンカイは客家人など華人系の住民が多く、陶磁器の生産が盛んな焼き物の町として発展していたが、ベトナム戦争後のベトナムが中ソ対立のなかで1978年にソビエト連邦とソ越友好協力条約を結び、さらに在ベトナム華人・華僑らを追放する動きに出たことから、中国がベトナムに懲罰を与えるとして1979年に中越戦争が勃発し、国境の町のモンカイでは、華人らは中国へ、ベトナム人は内陸へと避難し、戦争によりモンカイの町は破壊された。

 1990年以降、ようやくベトナムと中国の関係が緩和し、国境の往来が再開し、1994年にモンカイに国境経済特区(自由貿易区)が設けられ、新しい住民が増えた。中国との貿易で経済発展し、ベトナム北部を代表する都市の一つに成長した。

 モンカイ市にはバスターミナルがあり、ハノイ(Hà Nội/河内)やハイフォン(Hải Phòng/海防)などの都市との結びつきも強い。モンカイにはショッピングモールもあり、国境貿易と商業で発展を続けている。

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モンカイのバスターミナル

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モンカイのショッピングモール

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モンカイの街並み

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モンカイの免税店

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ベトナム・モンカイ側の出入国ゲート

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中国・防城港東興側の出入国ゲート

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中越国境のカロン川(北崙河)

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テーマ : ベトナム
ジャンル : 海外情報

東京・亀戸 下町情緒残る亀戸、JR総武線と東武亀戸線、天神社と香取神社と水神社

東京・亀戸
とうきょう・かめいど

日本国東京都江東区

東京・亀戸 下町情緒残る亀戸、JR総武線と東武亀戸線、天神社と香取神社と水神社

 亀戸(かめいど)は、東京(とうきょう)都の江東(こうとう)区にある地区で、JR東日本・総武本線(緩行線)と東武鉄道・亀戸線の亀戸駅がある。

 亀戸は、「亀井戸」(かめいど)が由来で、省略されて「亀戸」と表記されるようになった。古くは「亀島」と呼ばれ、旧中川と旧隅田川(横十間川)の間に土砂が堆積して亀の形に似た島だったことからそのように呼ばれた。後に土砂の堆積で陸続きとなり、亀井戸を経て亀戸となった。

 江戸時代に南北に開削された横十間川(よこじっけんがわ)が明治時代に東京市本所(ほんじょ)区と南葛飾(みなみかつしか)郡の境となり、明治22年(1889年)に東京府南葛飾郡亀戸村が発足した。明治33年(1900年)に亀戸村は亀戸町に昇格し、昭和7年(1932年)に東京市に編入され、東京市城東(じょうとう)区の一部となった。東京市は昭和18年(1943年)に東京都に統合され、昭和22年(1947年)に東京都の区が統合されて、城東区が深川(ふかがわ)区と合併して江東区が新設され、亀戸は東京都江東区の管轄となった。

 亀戸駅は、明治37年(1904年)に総武鉄道と東武鉄道が連絡する駅として開設された。東武鉄道は北千住(きたせんじゅ)方面から曳舟(ひきふね)を経由して亀戸から総武鉄道に乗り入れて隅田川の両国橋(りょうごくばし)駅(現・りょうごく)まで直通運転していた。しかし、総武鉄道が明治40年(1907年)に国有化され、国鉄総武本線となると、東武鉄道は曳舟から浅草(あさくさ)に自前のターミナルを設けた。一方で、国鉄常磐線からの貨物列車が東武亀戸線を経由して亀戸駅から総武本線へと直通運転を行っていた。しかし、国鉄が大正15年(1926年)に常磐線の金町(かなまち)から総武本線の新小岩(しんこいわ)を結ぶ貨物線を開通させたことにより、東武亀戸線の曳舟~亀戸は支線化した。

 東武鉄道はターミナルの浅草駅が東京都心から離れているため、浅草駅から営団地下鉄(現・東京メトロ)銀座線または東京都営地下鉄・浅草線に乗り換えるか、曳舟から東武亀戸線に乗り、亀戸駅から総武線で秋葉原(あきはばら)、新宿(しんじゅく)方面へ向かうルートがあり、東武亀戸線は短い区間ではあるが、多くの通勤客が利用するルートであった。後に北千住駅から営団日比谷線や千代田線が開業し、東武沿線通勤客の分散化が図られ、東武亀戸線以外にも都心に出るルートは多様化した。混雑分散と利便性向上のため建設された営団半蔵門線が押上(おしあげ)まで開業し、東武伊勢崎線(スカイツリーライン)と直通運転するようになると、東武亀戸線の利用者の多くが半蔵門線に流れ、亀戸線の利用者が減少した。それ以来、東武亀戸線は亀戸~曳舟をのんびり折り返す下町のローカル線となっている。

 亀戸は、関東大震災と第二次世界大戦のアメリカ軍による東京大空襲の被害が甚大で、焼け野原になった歴史があるが、戦後は町工場が高度経済成長を支えた。その昭和の下町の雰囲気がよく残っている。亀戸中央公園は、かつての日立製作所の工場跡に開園した。また、亀戸駅の南東側にはセイコー電子工業の本社工場跡地が再開発された「サンストリート亀戸」が平成9年(1997年)にオープンしたが、平成28年(2016年)に営業終了し、新しいタワーマンションと商業施設が再開発されている。

 亀戸駅の南口には国道14号線の広い道が東西に伸びているが、ここにはかつて城東電気軌道の路面電車が通り、急速に拡大する東京の市街地の輸送を担っていた。亀戸駅から南にも現在の東京メトロ東西線・東陽町(とうようちょう)駅の近くにある洲崎まで路線が伸びていた(後の都電砂町線)。城東電気軌道は東京都電に買収され、営業が続けられたが、昭和47年(1972年)に専用軌道もあった都電砂町線は全線廃止され、その専用軌道の廃線跡は亀戸緑道公園となており、大島緑道公園へとつながっている。

 東京都心と郊外を結ぶ鉄道の整備は進んだが、江東区の南北を結ぶ都市鉄道交通がないことから、東京メトロ有楽町線の豊洲(とよす)駅と半蔵門線の住吉(すみよし)駅を結ぶ地下鉄の建設計画があるほか、旅客化できないか検討されているのが、金町~新小岩~亀戸~越中島貨物駅を結ぶ新金貨物線と越中島貨物線の旅客化であるが、単線で主要国道と平面交差する現在の構造では、そのまま旅客化するのはなかなか難しく、旅客化するためには複線高架化などかなりの大幅改修が必要となるため、なかなか具体化はしていない。しかし、もし旅客化できれば、亀戸駅から西大島駅(都営新宿線)、アリオ北砂、砂町銀座商店街、南砂町駅(東京メトロ東西線)などが結ばれ、便利になりそうだ。東武亀戸線と直通すれば亀戸線も活性化できそうだ。

 亀戸駅の北には、横十間川の東岸に亀戸天神社、北十間川の南岸に亀戸香取神社、東武亀戸線の亀戸水神(かめいど すいじん)駅の近くにある亀戸水神社の3つの歴史ある神社がある。神社めぐりの下町散歩も楽しい。亀戸水神駅の東側には亀戸中央公園が広がっている。

東京・亀戸エリアの主な駅

亀戸 / かめいど 駅
JR東日本 総武本線(緩行線)
東武鉄道 亀戸線

亀戸水神 / かめいどすいじん 駅
東武鉄道 亀戸線

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東武亀戸線・亀戸駅

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東武亀戸線・亀戸駅

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亀戸駅北口

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テーマ : 東京23区
ジャンル : 地域情報

東京・鮫洲 旧東海道と勝島運河と鮫洲運転免許試験場

東京・鮫洲
とうきょう・さめず

日本国東京都品川区

東京・鮫洲 旧東海道と勝島運河と鮫洲運転免許試験場

 鮫洲(さめず)は、東京(とうきょう)都の品川(しながわ)区にある地区で、京浜急行電鉄(京急)本線の鮫洲駅がある。

 鮫洲駅は明治37年(1904年)に開業した歴史ある駅で、平成元年(1989年)から平成2年(1990年)にかけて高架化された。中央に1面2線の島式ホームがあり、その両外側に通過線がある東海道新幹線・三島駅タイプの駅となっている。普通電車のみが停車し、普通電車は鮫洲駅でエアポート急行、特急、快特、エアポート快特、ウイング号などの待避を行う。

 鮫洲駅の西側は京急本線に沿って国道15号線(第一京浜)が通り、その西側には大井公園があり、園内に旧越前鯖江藩間部家下屋敷跡や大井公園内古墳などがある。鮫洲駅の東側には鮫洲八幡神社、富士浅間大神、厳島神社などがあり、その東側に旧東海道が南北に伸びている。旧東海道の周辺は住宅街になっている。

 鮫洲駅の東には警視庁鮫洲運転免許試験場があり、運転免許取得や免許更新のために訪れる東京都民も多く、「鮫洲」と聞けば運転免許試験場というイメージが強い。

 旧東海道の東には勝島(かつしま)運河があり、京浜運河とつながっている。鮫洲入江広場のあたりには多くの小型船が停泊している。鮫洲運転免許試験場から鮫洲橋が勝島へつながっている。

 勝島は「京浜第一区埋立地」として造成された人工島で、昭和14年(1939年)から埋め立てが始まり、昭和24年(1949年)に完成した。大井競馬場や物流倉庫、警視庁関連施設などがある。勝島運河は以前は勝島南運河とつながっていたが、立会川の南側が埋め立てられて勝島と陸続きになり、勝島運河が埋め立てられた部分は昭和58年(1983年)に「しながわ区民公園」となった。

東京・鮫洲エリアの主な駅

鮫洲 / さめず 駅
京浜急行電鉄 京急本線

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京急本線・鮫洲駅

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京急本線・鮫洲駅

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京急本線・鮫洲駅

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京急本線・鮫洲駅

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京急のグッズショップ「おとどけいきゅう」

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鮫洲駅西口から見た第一京浜道路と大井公園

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京急本線・鮫洲駅東口

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京急鮫洲駅前の街並み

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鮫洲八幡神社

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旧東海道

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勝島運河

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勝島運河と鮫洲橋

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勝島運河

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勝島運河と勝島

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勝島運河と勝島

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テーマ : 東京23区
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東京・小金井 高架化されたJR中央線と小金井公園

小金井
こがねい

日本国東京都小金井市

東京・小金井 高架化されたJR中央線と小金井公園

 小金井(こがねい)市は、東京(とうきょう)都中西部の多摩(たま)地区にある人口約13万人の市。西が国分寺(こくぶんじ)市、南が府中(ふちゅう)市、調布(ちょうふ)市、東が三鷹(みたか)市、武蔵野(むさしの)市、北が西東京(にしとうきょう)市、小平(こだいら)市と接している。

 小金井は、古くは武蔵国(むさしのくに)の多磨(たま)郡に属し、明治初期の廃藩置県で多摩地区は神奈川(かながわ)県の北多摩(きたたま)郡の所属になった。明治22年(1889年)に神奈川県北多摩郡小金井村が発足。明治26年(1893年)に北多摩郡の所属が神奈川県から東京府に移管された。昭和12年(1937年)に町制施行で東京府北多摩郡小金井町となり、戦時中の昭和18年(1943年)に東京府が東京都となり、戦後の昭和33年(1958年)に人口増加で市に昇格し、東京都小金井市となり、現在に至る。

 小金井市には、JR東日本の中央本線、西武鉄道の新宿線と多摩川線が通り、市内にJR中央本線の武蔵小金井(むさし こがねい)駅と東小金井(ひがしこがねい)駅、西武多摩川線の新小金井(しんこがねい)駅がある。また、西武新宿線の花小金井(はなこがねい)駅は小平市にある。

 小金井市の中心駅は、JR中央本線の武蔵小金井駅であるが、国分寺市のターミナル駅である国分寺駅が隣にあることから、中央特快や通勤快速などは通過する。武蔵小金井駅は大正13年(1926年)に開設されたが、すでに栃木県に東北本線の小金井駅があったため、区別するために武蔵小金井駅となった。昭和34年(1959年)に駅の西側に武蔵小金井電車区(現・豊田車両センター武蔵小金井派出所)の車両基地が開設され、中央線の電車の運行における重要な駅であり、武蔵小金井駅で折り返す電車も運行されている。開かずの踏切解消のため、平成15年(2003年)から平成25年(2013年)にかけて高架化工事が行われ、2面4線の高架駅となった。高架化工事の完成により、駅を挟んだ街の南北の分断が解消され、道路交通もスムーズになった。

 武蔵小金井駅前には北口と南口の双方にバスターミナルがあり、北口からは西武新宿線の花小金井(はなこがねい)駅や小平駅方面、西武池袋線の東久留米(ひがしくるめ)駅方面などのバスがある。南口からは、京王線の府中駅、多磨霊園駅、調布駅方面などのバスが運行されている。

 武蔵小金井駅周辺はJR中央本線の高架化工事とともに再開発が進められ、平成18年(2006年)に解体された小金井市公会堂の跡地は超高層マンション「プラウドタワー武蔵小金井」となった。駅の高架下には商業施設「ノノワ武蔵小金井」、南口には「アクウェルモール」、スーパー「イトーヨーカドー」武蔵小金井店、ショッピングモール「ソコラ武蔵小金井クロス」、小金井市民交流センター(小金井宮地楽器ホール)などがある。

 JR中央線の東小金井駅は、昭和39年(1964年)に開設された駅で、以前は東側に自動車輸送の貨物駅もあったが、昭和59年(1984年)に貨物取扱は廃止された。武蔵小金井駅と同様に2000年代に高架化工事が行われ、2面3線の高架駅になった。平成26年(2014年)には駅西口の高架下に商業施設「ノノワ東小金井」がオープンした。さらに、高架下を利用した生鮮食品スーパー「ヒガコ・マルシェ」、高架下にショップや飲食店、レンタルカフェなどが並ぶコミュニティースペース「ののみちヒガコ」も同年オープンし、高架下のスペースを活用した新しい街づくりが進められている。東小金井駅は東京農工大学・小金井キャンパスの最寄り駅であり、学生の利用も多い。

 東小金井駅の南約800mのところには、西武多摩川線の新小金井駅がある。西武多摩川線は、多摩鉄道として大正6年(1917年)に境(現・武蔵境)~北多磨(現・白糸台)が開業。大正11年(1922年)に是政(これまさ)まで延伸し、全通した。開業当時は多摩川の砂利の貨物輸送が行われ、昭和2年(1927年)に西武鉄道に買収されたが、他の西武の路線とはつながっていない。現在は、府中市・調布市から中央本線の武蔵境駅を結ぶ通勤路線の役割を果たしている。新小金井駅は、駅名に「新」がついているが、大正6年(1917年)に開設された小金井市で最も古い駅であり、この「新」は栃木県の東北本線にすでにあった小金井駅と区別するためだった。

 小金井市には、府中市にまたがる広大な都立霊園である「多磨霊園」の北側が小金井市に属している。多磨霊園は東京の市街地人口増加にともない墓地不足となったことから、郊外の当時の北多摩郡多磨(たま)村に大正12年(1923年)に「多磨墓地」として開園し、昭和10年(1935年)に「多磨霊園」に改称された。多磨霊園へは府中市側にある西武多摩川線の多磨駅が最寄りであるが、武蔵小金井駅からもバスがある。また、京王線の多磨霊園駅は約2キロ離れていて、駅からバスに乗る必要がある。
 
 小金井市北部、玉川上水の北に広がる「小金井公園」は、小金井市、小平市、西東京市、武蔵野市にまたがる都立公園で、昭和15年(1940年)の紀元2600年記念事業の「小金井大緑地」として整備された。小金井市側には昭和の銭湯建築「子宝湯」などもある「江戸東京たてもの園」、桜の園、つつじ山広場、小金井総合体育館などがある。また、小平市側にはゴルフ場「小金井カントリー倶楽部」が広がっている。

小金井エリアの主な駅

武蔵小金井 / むさしこがねい 駅
JR東日本 中央本線

東小金井 / ひがしこがねい 駅
JR東日本 中央本線

新小金井 / しんこがねい 駅
西武鉄道 多摩川線

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JR中央線・武蔵小金井駅

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JR中央線・武蔵小金井駅

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JR中央線・武蔵小金井駅

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JR中央線・武蔵小金井駅北口

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JR中央線・武蔵小金井駅北口

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JR中央線・武蔵小金井駅南口

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小金井市民交流センター(小金井宮地楽器ホール)

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武蔵小金井駅前のアクウェルモール

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ソコラ武蔵小金井クロス

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JR中央線・東小金井駅

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JR中央線・東小金井駅

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JR中央線・東小金井駅

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東小金井駅西口高架下「ノノワ東小金井」

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JR中央線・東小金井駅南口

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JR中央線・東小金井駅北口

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JR中央線・東小金井駅北口

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高架化されたJR東小金井駅

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高架化されたJR中央線

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JR中央線高架下「ののみちヒガコ」

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JR中央線高架下「ののみちヒガコ」

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西武多摩川線・新小金井駅

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テーマ : 東京・多摩地域
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時の旅・2010年~2019年 SNSやスマホの普及、東日本大震災、九州・北陸・北海道等新幹線延伸、戦乱続く中東、米朝ミサイルと対話、中国に抵抗する香港と統一拒否の台湾

2010年~2019年
平成22年~平成31年/令和元年

時の旅・2010年~2019年 SNSやスマホの普及、東日本大震災、九州・北陸・北海道等新幹線延伸、戦乱続く中東、米朝ミサイルと対話、中国に抵抗する香港と統一拒否の台湾

当時の日本の首相 鳩山由紀夫(民主党) → 菅直人(民主党) → 野田佳彦(民主党) → 安倍晋三(自由民主党)

 2010年代は、21世紀に入り急速に普及したインターネットがソフト面、ハード面ともに進化を続け、携帯電話は薄型化、小型化、カラー化、インターネット化が進んで、パソコンと変わらない通信機能を持つスマートフォン(スマホ)へと進化した。画面は液晶フルカラーとなり、ウェブサイトのページを簡単に開くことができ、カメラやビデオの撮影と加工とアップロードも自由にできるようになった。ツイッターやライン(LINE)、フェイスブック(Facebook)、インスタグラムなどのSNS(ソーシャルメディア)が普及し、世界中に利用者が増え、多言語化した。米企業のグーグル(google)のグーグルマップは、世界地図が衛星写真化され、道路はストリートビュー機能で、実際に旅行したような風景が再現できるようになった。ウェブ上の自由編集百科事典である「ウィキペディア」(Wikipedia)は世界各言語による情報が蓄積され、世界のインターネットは多言語化され、リアルタイムで文章、写真、動画が共有されるようになった。

 日本の政治は、鳩山由紀夫(はとやま ゆきお)首相の民主党・社民党・国民新党連立政権が、沖縄県の米軍普天間基地移設問題、子ども手当て、外国人参政権問題、高速無料化、郵政改革などをめぐって迷走し、社民党も連立を離脱し、鳩山首相が辞任。菅直人(かん なおと)内閣総理大臣が就任した。菅首相は、財政再建のために消費税増税を唐突に打ち出すと支持率が急降下。参議院選挙で民主党・国民新党の連立与党が過半数割れし、「みんなの党」が議席を伸ばし第4党に成長した。尖閣諸島沖で違法操業をしていた中国の漁船が日本の海上保安庁巡視船に故意に衝突する事件が発生し、逮捕した船長の安易な釈放や映像公開をめぐり混乱した。神奈川県横浜市でアジア太平洋経済協力(APEC)の首脳会議が開催された(10年)。

 東日本大震災の発生後、菅首相はただちに震災救援に取り組んだが、福島第一原発事故の対応にも追われた。菅首相は今後地震で津波被害を受ける懸念のある静岡県御前崎市の浜岡原発を政治判断で停止させ、脱原発路線を鮮明にし、太陽光エネルギーの推進を掲げた。菅首相は海外からの支援に対し感謝のメッセージを発信し、そのタイトルとなった「絆」(きずな)が流行語にもなった。震災対応で不信を招いた菅首相の支持率は下がり続け、菅首相は2次補正予算、特例公債法案、再生エネルギー特別措置法案などの法案通過のめどをつけ、辞任した。民主党代表選挙で勝利した野田佳彦(のだ よしひこ)財務大臣が首相に就任した。

 野田首相はアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議出席の際に環太平洋連携協定(TPP)の交渉参加方針を示したが、賛否が分かれた。TPPは輸出に頼る大企業や経団連などが積極的に賛成していたほか、TPP反対については行き過ぎた新自由主義に反対し、食品安全基準などを重視する左派から、アメリカ等外国に従属するのではなく日本らしい国柄を守るべきという右派まで、珍しく左右合同の反対運動が展開された。名古屋市で市議会リコール署名が規定に達したため実施された住民投票で市議会解散が可決し、出直し選挙の結果、河村たかし・名古屋市長派の新党「減税日本」が第1党に躍進した。名古屋市議会は市民税5%減税条例案を可決した。「大阪維新の会」の橋下徹・大阪府知事が府市二重行政解消のため大阪市長に鞍替え出馬した大阪府知事・大阪市長ダブル選挙で、大阪府知事と大阪市長ともに「大阪維新の会」候補が当選し、「大阪都」構想が前進することになった(11年)。

 政権与党の民主党は、自民党の増税路線を批判して増税しないことを公約にして選挙に勝って政権を獲ったのに、増税路線に転換したことから、国民の信用を失い、党も路線をめぐる内紛で、分裂するに至った。民主党離党議員らにより「新党きづな」が結成された。増税への対応をめぐり、連立与党の国民新党で、増税反対を貫いた亀井静香代表が党首を解任され、離党した。原発稼働ゼロの状態が実現したが夏の電力需要を乗り切れないと判断した政府が関西電力大飯原発再稼働を決定し、発送電を開始した。消費増税法案が採択され、その際、与党の民主党から造反議員が続出した。新党「国民の生活が第一」や新会派「みどりの風」が結成された。

 石原慎太郎・東京都知事は、尖閣諸島の魚釣島、北小島、南小島を埼玉県の地権者から購入する方針を発表。東京都が沖縄県の土地を購入することに対する疑問の声も上がったが、国が積極的でないことに対する都の積極姿勢に賛同が集まった。東京都に押される形で、野田首相は東京都が購入しようとしていた尖閣3島の国有地化を発表し、実行した。民主党代表選挙では野田首相が民主党代表に再選され、野党の自民党総裁選挙では谷垣禎一総裁は再出馬せず、安倍晋三(あべ しんぞう)元首相が自民党総裁に選出された。「大阪維新の会」の橋下徹・代表(大阪市長)を党首とする新党「日本維新の会」が結党し、国会議員7名が合流した。総選挙では複数の新党が参加し、与党の民主党が惨敗して野党の自民党が圧勝。第三極は「日本維新の会」が躍進して、「日本未来の党」は民主党小沢派のイメージが拭い去れず伸び悩んだ。野田首相が辞任し、安倍晋三首相が就任。自民党と公明党の連立政権が3年ぶりに復活した。「日本未来の党」は選挙後に分裂し、小沢派が「生活の党」に改名した(12年)。

 2度目の登板となる安倍晋三首相の下、「アベノミクス」と呼ばれる積極的経済政策が実行された。安倍政権は、2%のインフレ目標を掲げ、日銀にも協力を要請。デフレ脱却と景気回復への期待から株価が上昇。日本の経済界もこの動きを歓迎し、経済再生への期待が高まった。安倍政権は新自由主義路線への転換をはかり、「聖域なき関税撤廃」を前提とするTPP(環太平洋連携協定)交渉参加反対としていた自民党の公約について当初の立場を翻し、TPP交渉参加を表明した。参議院議員選挙は円安誘導政策で株高が続き、自民党は維新支持層の票も獲得して勝利し、自民党と対抗軸が明確だった共産党も議席を伸ばす一方で、対抗軸が不明な民主党が惨敗した。選挙後、安倍首相は消費税増税を表明した。東京オリンピック招致を勝ち取った猪瀬直樹・東京都知事が医療法人徳洲会グループからの金銭借り入れ疑惑で追求され、都知事を辞任した(13年)。

 「大阪都構想」を前進させたい橋下徹・大阪市長が辞任して出直し選挙を行い再選され、橋下市長の根強い支持を示した。「日本維新の会」の解党で石原グループが「次世代の党」を結成。橋下グループが「結いの党」と合併し、「維新の党」が結成された。安倍首相は消費税再増税(8%→10%)の先送りを表明し、衆議院を解散。選挙結果は自公連立政権が過半数を制し、民主党は党首の海江田万里代表が落選した、第三極ブームが去り、「維新の党」は現状維持したが、自民党と支持層が重なった「次世代の党」が議席を減らした。共産党は反自民を鮮明にして議席を増やした(14年)。

 安倍首相は、自衛隊の役割を拡大し、集団的自衛権も容認してアメリカ軍との協力を促進するための安保関連法案を提出。野党が戦争に巻き込まれやすくなる「戦争法」だとして強く反発し、賛否双方から激しい議論を呼ぶ中、自民党、公明党、次世代の党などが賛成して成立した。大阪市で大阪都構想の賛否を問う住民投票が実施され、僅差で反対が上回ったことから、大阪都構想を推進してきた橋下徹・大阪市長が任期満了時に政界引退を表明した。「維新の党」の橋下徹・最高顧問が、松野頼久代表と対立して離党し、「おおさか維新の会」を結成し、「維新の党」が分裂した。大阪府知事・大阪市長選挙では、共に「大阪維新の会」候補が当選(松井一郎知事は再選)し、大阪での橋下派の「大阪維新の会」の支持の根強さが改めて示された。「太陽の党」が解散し、「次世代の党」に吸収された。「次世代の党」は党名を「日本のこころを大切にする党」に変更した(15年)。

 低迷する第一野党の民主党と、「維新の党」が3月に合併し、「民進党」が発足した。党首は民主党代表の岡田克也が引き継いだ。参議院選挙では民進党が合併効果を発揮できず惨敗した一方で、野党共闘を呼びかけた共産党が議席を伸ばした。「おおさか維新の会」は議席を伸ばしたものの、「おおさか」の名称のために関西以外で伸び悩んだことから党名を「日本維新の会」に戻した。民進党代表選は元民主党の蓮舫が党代表に選出された。舛添要一・東京都知事の政治資金私用疑惑が噴出し、辞職したことを受け、7月に東京都知事選挙が実施され、小池百合子・元衆議院議員が圧勝し、東京都初の女性知事となった(16年)。

 小池百合子・東京都知事を支持する地域政党「都民ファーストの会」が設立され、7月に実施された東京都議会選挙で都議会の第一党勢力だった自民党を破って最大勢力に躍進し、小池知事の政治的求心力が高まった。「都民ファーストの会」が国政進出を目指し「日本ファーストの会」を立ち上げ、民進党からも離党者が新党結成を模索。9月に前原誠司氏が民進党の新代表に選出されたが、「日本ファーストの会」を中心に小池百合子知事を代表とする「希望の党」が結成された。安倍首相は先手を打って衆議院を解散した。共産党を含めた野党共闘を行うべきかで意見が分かれていた民進党の前原代表は「希望の党」への合流を提案し、衆議院の民進党は実質的な解党となった。安保問題で現実路線を強調する希望の党は、安保に対する姿勢などで民進党の候補者を公認するか選別する「排除の論理」について小池代表が言及。排除される側となった元民進党の枝野幸男氏が「立憲民主党」を立ち上げた。選挙のために小池人気に乗っかって「希望の党」に合流した民進党の姿勢が批判される中、立憲民主党は中道左派の理念の支持層の受け皿の役割を取り戻した。筋を通した「立憲民主党」が逆に伸びる中、立憲民主党と自民党の中間に挟まれた「希望の党」は、日本ファースト系の候補者が無名だったこともあり、選挙戦後半で急失速した。自民党が前回と同様に圧勝し、議席の現状を維持し、安倍首相が信任される形となった。一方、野党は立憲民主党が希望の党の議席を追い抜き、第2党に躍進した。希望の党は支持基盤がある元・民進党系議員の粘りで50議席を死守したものの、日本ファースト系の新人が当選できず、小池代表も辞任に追い込まれ、元・民進党の玉木雄一郎氏が代表に選出された(17年)。

 「希望の党」と「民進党」が新党「国民民主党」を結成したが、合併に反対する一部議員が「希望の党」の名称を引き継いだ。自民党と立憲民主党の中間を志向する国民民主党であったが、核心となる理念が不明確な中道路線の政党の支持は結党当初から低迷し、代表選挙で玉木雄一郎氏が国民民主党代表に選出された(18年)。「大阪維新の会」が大阪府知事と大阪市長のポストを握る大阪で、府と市の一体化を目指す「大阪都構想」を引き続き掲げる松井一郎・大阪府知事が大阪市長に、吉村洋文・大阪市長が大阪府知事にトレード出馬し、いずれも当選した。第25回参議院議員選挙が実施され、山本太郎氏が党首を務める「れいわ新選組」はセーフティーネットに重点を置いた主張により既存政党への不満層の受け皿となった。NHKから国民を守る党も、NHKの強制契約制度に対する国民の不満が国政の議席獲得まで至らしめた(19年)。

 皇室は、東日本大震災発生後、震災に関するおことば(ビデオメッセージ)を発表され、天皇陛下と皇后さまはその後避難生活を送る被災者らを励ますため何度も被災地へ足を運ばれた(11年)。日本の天皇制のあり方に関して、天皇陛下が8月にビデオメッセージで「おことば」を発表して、高齢の天皇の公務について重い務めを果たすことが困難になった場合どのようにすべきかを問題提起された(16年)。天皇陛下が退位の意向を示されたことを受け、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」が成立し、退位した天皇は「上皇」とすることが決められた。眞子(まこ)内親王が結婚を予定していることが報道され、婚約内定会見が行われた(17年)。明仁(あきひと)天皇が4月30日をもって退位され上皇となり、5月1日に徳仁(なるひと)皇太子が天皇に即位された。皇位継承にともない、日本の元号が改元された。明仁天皇の退位とともに「平成」が終了し、徳仁天皇即位により、日本は「令和」に改元され、「令和元年」となった。10月に「即位礼正殿の儀」(そくいれいせいでんのぎ)が執り行われ、外国元首らが参列した(19年)。

 経済は、地デジ化切り替えで好調だったデジタルテレビが、地デジに切り替わると、過剰ぎみになり、テレビを製造する日本の大手家電メーカーの業績が悪化した。日立がテレビ自社生産を撤退を発表。シャープが台湾の鴻海(ホンハイ)精密鉱業と資本・業務提携を発表。東芝が日本国内でのテレビ生産を打ち切りを発表した。コジマがビックカメラの傘下に、ベスト電器がヤマダ電機の傘下に入った。郵便局株式会社と郵便事業株式会社が統合して「日本郵便株式会社」が発足した。新日本製鐵と住友金属工業が合併して「新日鐵住金」となった(12年)。「アベノミクス」の円安効果で、株価が上昇し、経済も上向きになったことで、消費税増税(5%→8%)が行われた(14年)。

 築地市場が、移転が遅れていた豊洲市場に正式に移転した。日産自動車会長を長年務めてきたカルロス・ゴーン(Carlos Ghosn)が会社を私物化したとされ、報酬の過少申告と有価証券報告書の虚偽記載容疑で逮捕され、日産会長を解任された。米国が抜けて11カ国となったTPP11(環太平洋パートナーシップ協定)が発効した(18年)。新日鐵住金が社名を日本製鉄に改名した。三井生命が社名を大樹生命に改名した。出光興産と昭和シェル石油が経営統合して出光昭和シェルとなった。令和5年(2024年)に新しい日本円紙幣を発行し、肖像は1万円紙幣が渋沢栄一、5千円紙幣が津田梅子、千円紙幣が北里柴三郎となることが発表された。消費税が10%に引き上げられた。食品には軽減税率が導入されて8%に据え置かれた一方で外食は10%のため、計算が複雑になった。特別背任などの罪で起訴されていた日産自動車前会長のカルロス・ゴーンが保釈中にもかかわらず日本を不正出国し、レバノンに逃亡した(19年)。

 社会は、東北地方太平洋沖でマグニチュード9.0のとてつもなく巨大な地震が発生し、強烈な揺れによって引き起こされた大津波が太平洋沿岸の町を呑み込み、市街地が破壊され、鉄道などの交通インフラにも甚大な被害が発生した。死者・行方不明者数合わせて1万9千人を超え、戦後最悪の災害となった。地震により、東京電力福島第一原子力発電所が自動的に緊急停止したものの、そのあと襲った大津波で非常用電源も壊れてしまい、全電源喪失状態となり、自動循環冷却機能が喪失した。それによって、原子炉の炉心の燃料棒が過熱し、メルトダウン(炉心溶融)する深刻な事態となった。福島第一原発から半径20キロ圏内が警戒区域となり、一般人立入禁止となった。東京でも一時、水道水から基準値を超える放射線量が検出された。東京電力管内の関東では電力供給不足により、計画停電が実施された(11年)。

 「ゆるキャラ」も日本全国でブームとなり、特に熊本県の「くまモン」や、千葉県船橋市の「ふなっしー」が人気を博した(13年)。大阪に日本一の高さの高層ビル「あべのハルカス」が竣工した。御嶽山が噴火した(14年)。熊本県でマグニチュード6.5と7.3の強い地震が3日間のうちに続けて発生し、しかも震源が浅かったため、熊本県益城町や西原村で震度7、熊本市や南阿蘇村などでも震度6強の強い揺れを観測。住宅が倒壊し、熊本城も石垣や建物が崩れ、南阿蘇でも橋が崩れ、150人以上が死亡するなど大きな被害が発生した(16年)。

 大阪府北部を震源とするマグニチュード6.1の地震が発生し、大阪府の高槻、茨木、枚方、箕面、大阪北区などで震度6弱を記録した。全壊の建物は多くはなかったが、大阪府北部では屋根の損傷を受けた家屋も多く、さらに高層マンションでは建物は大丈夫でも高層階で家具が倒れるなどの被害が多かった。西日本を中心に豪雨が続き、特に岡山県、広島県で洪水や土砂崩れなどの甚大な被害が発生し、死者200名を超えた。特に岡山県倉敷市真備町の被害が大きかった。中国地方の交通も寸断され、山陽本線を含む鉄道に大きな被害が出た。台風21号が関西地方に上陸し、大阪府で非常に激しい暴風雨となり、大規模な停電も発生した。この台風で関西国際空港を結ぶ橋にタンカーが衝突し、空港島の旅行客らが取り残されるなどの混乱が生じた。また、北海道でも胆振地方でマグニチュード6.7の強い地震が発生。厚真町で震度7を記録し、大規模な土砂崩れと苫東厚真発電所が停止したことによる札幌市内を含む大規模停電が発生した。東京の地下鉄でのオウム真理教によるサリン事件の首謀者である元教祖の麻原彰晃こと松本智津夫を含む同事件の死刑囚らの死刑が7月に執行され、同事件に一区切りがついた(18年)。沖縄県那覇市の琉球王国首里城で火災が発生し、正殿など主要な建物が全焼した(19年)。

 鉄道は、北総鉄道の印旛日本医大前駅から空港第2ビル・成田空港への新線(成田スカイアクセス)が開業し、京成電鉄のスカイライナーが成田スカイアクセス経由に変更された。東北新幹線の八戸~新青森が延伸され、東京~新青森が全通した(10年)。東日本大震災の影響で東北太平洋側沿岸部で甚大な被害を受けた。三陸鉄道北リアス線、JR東日本山田線、三陸鉄道南リアス線、JR大船渡線、JR気仙沼線、JR石巻線、JR仙石線、仙台空港アクセス鉄道、JR常磐線などが津波による駅や路盤流失で長期不通となった。また、常磐線の福島県の区間では、福島第一原発原ノ町~広野が警戒区域のため復旧の見込みが立たなくなった。九州新幹線鹿児島ルートの博多~新八代が開業し、博多~鹿児島中央が全通し、JR西日本の山陽新幹線の新大阪からJR九州の九州新幹線鹿児島中央まで直通する「さくら」と「みずほ」が運行を開始した。名古屋「あおなみ線」の金城ふ頭駅前にJR東海の「リニア・鉄道館」がオープンした。JR大阪駅の新しい駅ビルが完成し、「大阪ステーションシティ」がオープンした(11年)。

 山陽新幹線の100系と東海道・山陽新幹線の300系が引退した。寝台特急「日本海」と寝台急行「きたぐに」が廃止され、臨時列車化された。JR八戸線が全線復旧した。三陸鉄道・北リアス線の陸中野田~田野畑が復旧した。十和田観光鉄道の三沢~十和田市と長野電鉄屋代線の八代~須坂が廃止された。京王電鉄の調布駅周辺が地下化された。JR東日本・気仙沼線の一部区間をBRT化して、BRT方式のバスにより仮復旧した。京急電鉄の蒲田駅立体化が完成し、羽田空港方面の電車が増発された(12年)。JR東日本・大船渡線(気仙沼~盛)が鉄道の路盤を一部利用したバス(BRT)の方式で運行開始した。東北・上越新幹線で運行されていた200系が引退した。東急電鉄東横線の代官山~渋谷が地下化され、東急東横線と東京メトロ副都心線の相互直通運転が開始。西武鉄道池袋線と東武鉄道東上線の電車も副都心線を経由して東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線に直通運転を開始した。小田急電鉄小田原線の代々木上原~梅ヶ丘が地下化され、東北沢、下北沢、世田谷代田の3駅が地下駅になった。4月にJR貨物の梅田貨物駅が廃止され、吹田貨物駅、百済貨物駅に機能移転した(13年)。寝台特急「あけぼの」が廃止され、東北地方を結ぶ定期寝台特急がすべて廃止となった。JR烏山線で日本初の蓄電池電車が運行開始した。三陸鉄道の北リアス線と南リアス線の不通区間が復旧し、全線再開となった。JR江差線の木古内~江差が廃止された。JR東海のリニア中央新幹線の品川~名古屋が着工した(14年)。

 北陸新幹線の長野~金沢が開業し、「かがやき」「はくたか」などがデビューした。北陸新幹線の開業にともない並行在来線がJRから切り離され、JR西日本・北陸本線の金沢~倶利伽羅が「IRいしかわ鉄道」、倶利伽羅~富山~市振が「あいの風とやま鉄道」、市振~直江津が「えちごトキめき鉄道」日本海ひすいライン、JR東日本・信越本線の直江津~妙高高原が「えちごトキめき鉄道」妙高はねうまライン、妙高高原~長野が「しなの鉄道」北しなの線となった。青函トンネルでは北海道新幹線の工事にともない、本州と北海道を結んでいた寝台特急「北斗星」や「トワイライトエクスプレス」の定期運行が終了した。東海道新幹線では最高時速が270キロから285キロに引き上げられた。近鉄内部線・八王子線が「四日市あすなろう鉄道」に移管された。北近畿タンゴ鉄道の経営が変わり京都丹後鉄道となった。仙台市営地下鉄東西線の八木山動物公園~荒井が開業した。札幌市電の西4丁目~すすきのが開業し、環状運転を開始した(15年)。

 北海道新幹線の新青森~新函館北斗が開業し、北海道から九州まで新幹線網がつながった。並行在来線であるJR江差線の五稜郭~木古内が「道南いさりび鉄道」に移管された。JR北海道・留萌本線の留萌~増毛が廃止された。JR東海リニア中央新幹線の品川駅が着工された(16年)。JR西日本・可部線の可部~あき亀山が開業し、2003年の廃線区間の一部復活となった。西武鉄道・東京メトロ・東急電鉄・横浜高速鉄道の4社を直通する座席指定特急「S-TRAIN」が運行開始した。東武の新型特急「リバティ」がデビューした。京阪電鉄の特急に「プレミアムカー」が連結されるようになった(17年)。京王電鉄が有料座席指定列車「京王ライナー」(新宿~京王八王子・橋本)、西武鉄道が有料座席指定列車「拝島ライナー」(西武新宿~拝島)の運行を始めた。小田急電鉄小田原線の代々木上原~梅ヶ丘の複々線化が完成した。JR西日本・三江線(三次~江津)が廃止された。大阪市営地下鉄が民営化し、「Osaka Metro」(大阪メトロ)となった(18年)。

 JR西日本・おおさか東線の放出~新大阪が開業した。東京メトロ千代田線が支線の北綾瀬駅まで直通運転を開始した。JR山田線の釜石~宮古が復旧と同時に三陸鉄道に移管され、北リアス線、山田線、南リアス線を統合して三陸鉄道リアス線(久慈~宮古~釜石~盛)となった。JR北海道・夕張支線(石勝線)の新夕張~夕張が廃止された。沖縄都市モノレールの首里~てだこ浦西が延伸開業した。相模鉄道新横浜線の西谷~羽沢横浜国大が開業し、西谷~羽沢横浜国大~武蔵小杉を経由する海老名~新宿を結ぶ相鉄・JR直通線が運行を開始した。このほか、令和元年東日本台風(台風19号)が関東地方および甲信越地方に未曾有の豪雨をもたらし、長野県の千曲川で堤防が決壊し、北陸新幹線の車両基地が浸水した。上田電鉄の千曲川鉄橋も落橋し、上田~城下が長期間運転できない状況になった。三陸鉄道リアス線のうちこの年復旧したばかりの旧JR山田線の区間で土砂崩れや路盤流失の大きな被害が出た(19年)。

 その他交通は、東京羽田空港の新国際ターミナルがオープンし、羽田空港の再国際空港化が実現した。茨城県小美玉市に茨城空港が開港した(10年)。東日本大震災による大津波が仙台空港に押し寄せた。米軍による最新装備を駆使した「トモダチ作戦」などの支援により、がれきに埋もれた仙台空港の滑走路は最速で使用可能な状態に復旧した(11年)。東京ゲートブリッジが開通した。新東名高速道路の御殿場JCT~浜松いなさJCTが開通した。中央自動車道の笹子トンネル(山梨県)でトンネル天井崩落事故が発生し、トンネル老朽化問題が注目された。全日空系の格安航空会社(LCC)のピーチ・アビエーションが就航した(12年)。沖縄県石垣市に新石垣空港(南ぬ島石垣空港)が開港し、旧・石垣空港が廃止された。全日空が新たにLCC「バニラエア」を設立した(13年)。国内線のジャンボジェットが引退した(14年)。新東名高速道路の浜松いなさJCT~豊田東JCTが開通した(16年)。

 スポーツは、バンクーバー冬季オリンピックで、特に男女フィギュアスケートで日本人選手の活躍が目立った。「2010FIFAワールドカップ」が南アフリカ共和国に6月~7月に開催され、日本も決勝トーナメントに進出し、ベスト16まで勝ち進むなど優秀な成績を残した(10年)。女子サッカーで、2011FIFAワールドカップ決勝で日本がアメリカを破り優勝すると「なでしこJAPAN」が大きく注目されるようになった。プロ野球「横浜ベイスターズ」の経営権をDeNAが取得し、2012年度から「横浜DeNAベイスターズ」になった(11年)。イギリスでロンドンオリンピックが開催され、日本は金7銀14銅17で第3位だった。日本選手は柔道女子の松本薫、体操男子個人総合の内村航平、ボクシングの村田諒太、レスリング男子の米満達弘、レスリング女子の小原日登美、吉田沙保里、伊調馨らが金メダルを獲得した。女子なでしこジャパンは米国に次ぐ銀メダル。相撲は初場所でエストニア出身の把瑠都が初優勝したほか、モンゴル出身の白鵬、日馬富士、旭天鵬など外国人力士が活躍した(12年)。

 2020年(平成32年)のオリンピック開催地が東京に決定した。WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の第2ラウンドが東京ドームで開催され、日本と台湾が延長戦接戦を演じ末、日本が勝利したが、アメリカで開催の決勝トーナメント準決勝で日本はプエルトリコに敗れた(13年)。ロシア連邦・ソチでソチ冬季オリンピックが開催され、羽生結弦がフィギュアスケート男子シングルで金メダルを獲得。日本は金1、銀4、銅3のメダルだった(14年)。ブラジルでリオデジャネイロ・オリンピック(リオ五輪)が行われ、日本は柔道、レスリング、水泳、体操、バドミントンなどで12個の金メダルを獲得し、第6位だった。伊調馨が女子レスリングで五輪4連覇を達成し、内村航平が体操個人総合で優勝した。また、卓球も男子団体が銀メダル、福原愛をキャプテンとする女子団体でも銅メダルと健闘した。閉会式には次期東京大会への引継ぎで、日本の安倍首相が演出でマリオの格好をして登場し、話題となった(16年)。モンゴル人力士の活躍が続く中、稀勢の里も2場所で優勝し、日本人横綱の意地を見せた。日馬富士が酒の席でモンゴル人後輩力士の貴ノ岩に暴力をふるったことが問題となり、日馬富士が引退した(17年)。

 韓国で冬季五輪の平昌(ピョンチャン)オリンピックが開催された。日本は金4、銀5、銅4を獲得。フィギュアスケートで羽生結弦がソチ五輪に続く2大会連続金メダルの快挙を成し遂げた。日本は女子スピードスケートでも金を獲得した。また、女子カーリングでも銅メダルを獲得した(18年)。「ラグビーワールドカップ2019」がアジア初の日本で開催された。日本は強豪のスコットランドに勝ち、準々決勝に進出した。決勝は、南アフリカ共和国がイングランドを破って優勝を果たした。「2019年世界陸上」がカタールのドーハで開催された。ドーハは日中の気温が40℃前後まで上がることから、マラソンは深夜に開催された。しかし棄権者が続出したことから、国際オリンピック委員会(IOC)は急遽、2020年東京オリンピックのマラソンを北海道札幌市で開催することを決定した。東京都は難色を示したものの、権限がIOCにあるため、変更を認めるしかなかった。米シアトルマリナーズのイチローが引退した(19年)。

 音楽のヒット曲や名曲は、AKB48「ヘビーローテーション」、いきものがかり「ありがとう」、坂本冬美「まだ君に恋してる」、上村花菜「トイレの神様」(10年)。AKB48「フライングゲット」、KARA「GO GO サマー」、少女時代「MR.TAXI」(11年)。AKB48「真夏のSounds good !」、「UZA」、嵐「ワイルド アット ホーム」、ももいろクローバーZ「猛烈宇宙交響曲・第七楽章『無限の愛』」、きゃりーぱみゅぱみゅ「つけまつける」「ファッションモンスター」、ゴールデンボンバー「女々しくて」(12年)。AKB48「恋するフォーチュンクッキー」、嵐「Calling」、サザンオールスターズ「ピースとハイライト」(13年)。AKB48「ラブラドール・レトリバー」(14年)。AKB48「僕たちは戦わない」、SKE48「コケティッシュが渋滞中」(15年)。AKB48「翼はいらない」、乃木坂46「サヨナラの意味」、桑田佳祐「ヨシ子さん」、RADWIMPS「前前前世」、星野源「恋」、ピコ太郎「ペンパイナッポーアッポーペン(PPAP)」(16年)。AKB48「願いごとの持ち腐れ」、乃木坂46「逃げ水」、欅坂46「不協和音」、SKE48「意外にマンゴー」、NMB48「僕以外の誰か」、嵐「Doors~勇気の軌跡~」、星野源「Family Song」、Mr.Children「himawari」(17年)。米津玄師「Lemon」、DA PUMP「U.S.A.」(18年)、あいみょん「マリーゴールド」、Official髭男dism「Pretender」、Foorin「パプリカ」などがヒットした(19年)。

 ヒット映画・ドラマは、ドラマ「JIN-仁-」、ドラマ「家政婦のミタ」がヒット。橋田壽賀子のドラマ「渡る世間は鬼ばかり」シリーズが完結。時代劇ドラマ「水戸黄門」シリーズが終了。東北の被災地を除いて地上波アナログ放送が終了し、地デジに切りかわった(11年)。映画「ALWAYS 三丁目の夕日'64」、「テルマエ・ロマエ」がヒットした(12年)。NHK朝の連続小説「あまちゃん」、映画「ライフ・オブ・パイ」(13年)。タモリ司会のフジテレビ系「笑っていいとも」が終了した。映画「アナと雪の女王」、「永遠の0」がヒットした(14年)。映画「シン・ゴジラ」、アニメ映画「君の名は。」、テレビドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」(16年)。映画「この世界の片隅に」「ハドソン川の奇跡」(17年)。映画「ボヘミアン・ラプソディ」、「カメラを止めるな!」(18年)。映画「翔んで埼玉」などがヒットした(19年)。

 世界の動きは、台湾(中華民国)は、台湾と中華人民共和国が「両岸経済協力枠組み協定」を締結した。台湾最高裁で陳水扁前総統に対して収賄罪などで懲役19年の判決が確定し、陳前総統は台北監獄に収監された。台北市で台北国際花卉博覧会が開幕した。東京羽田~台北松山の航空路線が就航し、地下鉄新荘線蘆洲支線が一部開業(蘆洲~忠孝新生)した。台湾の地方自治体改革で、2012年から台北県が「新北市」に、台中県と台中市が合併して「台中市」に、台南県と台南市が合併して「台南市」に、高雄県と高雄市が合併して「高雄市」となった(10年)。日本統治時代のセデック族の霧社事件を映画化した魏徳聖監督「セデック・バレ」が話題を呼び、東日本大震災では台湾から200億円を超える義援金が寄せられ、馬英九(マー インチョウ)総統も自らチャリティー番組に出演して台湾国民に募金を呼びかけた。先住民族のセデック語や日本語が全編にわたって出てくる台湾映画となった。「中華民国」建国100周年を祝う国慶節祝賀式典が盛大に行われ、日本で孫文の活動を主に金銭面で支えた梅屋庄吉が台湾でも見直された。台湾高鉄(台湾新幹線)の台南駅(沙崙駅)と台南市内のを結ぶ台鉄(在来線)の沙崙線、台湾高鉄の新竹駅(六家駅)から内湾線の竹中駅を経て台鉄新竹駅を結ぶ六家線が開業した(11年)。

 総統(大統領)選挙と立法委員(国会議員)選挙が同時に実施され中国国民党の馬英九総統が、蔡英文・民主進歩党(民進党)主席、宋楚瑜・親民党主席を破って再選された。立法委員選挙は、野党の民進党が善戦。比例区では台湾団結連盟(台連)と親民党も議席を獲得した。再選された馬英九総統とペアを組む呉敦義副総統が就任。総統選挙に敗れた民進党の蔡英文主席は党主席を辞任し、蘇貞昌・元行政院長が党主席を引き継いだ。馬政権は尖閣(釣魚台)の領有権を主張する一方で、「東シナ海平和イニシアチブ」を提起し、関係国との対話と主権争議の棚上げ、資源の共有などを呼びかけた。また、日台漁業交渉の再開合意をきっけに日本との関係修復に取り組んだ。台北メトロ(地下鉄)新蘆線の大橋頭~輔大が開業した(12年)。

 日本と日台漁業協定に調印し、重複する東シナ海の排他的経済水域(EEZ)内の日台の共同漁業操業について合意した。中国と「両岸サービス貿易協定」に調印したが、台湾国内への説明不足で反発が強く、立法院(国会)での審議が進まない状況となった。王金平・立法院長(国会議長)の口利き事件を馬英九総統自ら批判したが、特捜部の立法院(国会)に対する違法盗聴が明るみになり、違法捜査こそ問題という政治闘争に陥った。裁判所で仮処分が認められ、王金平・立法院長の身分は維持された。台北メトロ信義線(中正紀念堂~象山)が開業し、淡水線との直通運転を開始した(13年)。

 両岸サービス貿易協定に反対する大学生らが立法院(国会)の強行採決に抗議して立法院に突入、占拠した。学生らはインターネット中継を駆使して海外に自らの主張を発信し、「ひまわり学生運動」(太陽花學運)と呼ばれた。経済的にも中国に吞み込まれたくない台湾の若者の声が世界中に発信され、約3週間にわたり学生らが立法院に居座り抗議を続けた。王金平・立法院長は学生側の要求に応じて「両岸協定監督条例」が法制化されるまでサービス貿易協定の国会承認審議を行わないと約束して学生らと合意し、平和的に立法院から退去した。これによって中台両岸の経済自由化の動きは停滞するが、これ以上の開放を望まない適度な開放でよしとする台湾国民の支持を得て、野党の民主進歩党(民進党)が12月の地方選挙で6都のうち4都を獲得。首都台北市も民進党が支持する無所属候補が勝利し、与党の中国国民党は新北市しか守れず大敗を喫した。高雄市で大規模なガス爆発事故が発生した(14年)。

 中華民国抗日戦争勝利70周年の関連行事を開催。当時の中国大陸で抗日戦争に参加し、戦後中国国民党とともに台湾に渡って来た元国民党軍兵士らをねぎらうとともに、馬英九総統が戦時中の米軍の蒋介石政権への支援に感謝し、当時の日本軍の侵略を批判した。馬総統はシンガポールで中国の習近平・国家主席と会談し、1949年の中華人民共和国建国後初の中台両国の首脳会談が実現したが、馬総統が会談で「一中各表」(一つの中国の解釈をそれぞれ表明する)の「各表」や「中華民国」を強調しなかったことが批判された。総統選挙戦では、野党の民進党は女性の蔡英文主席を候補とすることでまとまり、台湾(中華民国)が民主国家として中華人民共和国統治下にない現状維持の方針を打ち出した。一方、与党の国民党候補の洪秀柱・立法院副院長(副議長)は、「一中各表」から「一中同表」へとより傾中色を強めたが、洪氏の支持率は伸び悩んだ。国民党は急遽、朱立倫・新北市長に候補を替えたが、そのやり方が非民主的と見られ、効果はなかった。「ひまわり学生運動」のリーダーや支援者を中心に新政党「時代力量」が結成された。新北市の八仙楽園のイベントで粉塵爆発事故があり、多くの若者が火傷を負った(15年)。

 総統(大統領)選挙で野党・民主進歩党の蔡英文(ツォア インブン / ツァイ インヴン)が56%獲得し当選し、8年ぶりの政権交代となった。また、立法委員(国会議員)選挙は、与党だった中国国民党が惨敗し、野党の民主進歩党が初めて過半数を制した。また、新政党の時代力量が5議席を獲得し、第3勢力となった。蔡英文総統が就任し、台湾初の女性リーダーの誕生となった。蔡総統就任後に台湾政府が国民党前政権の「中国大陸」という呼び方を踏襲したため、中台を明確に区別することを望む従来の支持者の期待を損ねた。蔡総統は外交や対中の分野で国民党系の人材を積極的に登用し、急激な変化を避け、中国に対する刺激を避けようと努めた。しかし、中国政府は「一つの中国」を認めない台湾政府との対話を一方的に打ち切り、「一つの中国」受け入れを迫った。蔡総統は新しい駐日代表(大使)に京都大学に留学経験のある謝長廷・元行政院長(首相)を任命する異例の人事で、対日関係の重要性を示した(16年)。

 桃園メトロ空港線の(台北~桃園空港~環北)が開業した。台北で「2018ユニバーシアード台北大会」が開催された。夏の大規模停電が批判され林全・行政院長が辞任し、頼清徳・台南市長が行政院長に任命された。日本側の対台窓口機関の「交流協会」が「日本台湾交流協会」に、台湾側の対日窓口機関の「亜東関係協会」が「台湾日本関係協会」にそれぞれ改名された(17年)。台湾東部の花蓮近海でマグニチュード6.4の地震が発生し、花蓮市内のホテルが倒壊した。日本の安倍首相はインスタグラム、ツイッター、フェイスブックなどのSNSを通じて色紙に書いた「台湾加油」(台湾頑張れ)のメッセージを送り、蔡英文総統も日本語で安倍首相に感謝のメッセージを送った。高雄市内を走る台鉄(在来線)の縦貫線・屏東線(新左営~高雄~鳳山)が地下化された。新北市淡水区を走る淡海ライトレール(紅樹林~崁頂)が開業した(17年)。

 台湾の地方統一選挙では、高雄市で泡沫候補とみられていた野党・国民党の韓国瑜(韓國瑜/ハン クオユィー)氏が高雄市長選挙のダークホースとしてメディアの注目を集め、韓国瑜ブームが起き、国民党の支持が回復し、さらに台北市の分裂で、若者の無党派層の支持が現職の柯氏に流れ、「反民進党」のうねりの中、無党派層が他県市では民進党ではなく国民党のほうへ流れた結果、台北市は無所属の柯文哲氏が再選され、高雄市では国民党の韓国瑜氏が逆転勝利した。さらに台中市でも民進党の現職が敗北。民進党は歴史的敗北を喫し、国民党の圧勝で国民党の党勢が回復した。国民投票では反同性婚の提案が可決し、民法に含めるのではなく特別法で処理することが決まった。また、原発廃止の期限の撤廃が決まった一方で、福島周辺食品の輸入禁止継続も決まり、国民投票がポピュリズムであるとの批判も強まった。この敗北を受けて頼清徳・行政院長が辞任を表明した(18年)。

 地方選の敗北で与党・民進党の人気が低迷するなか、中国の習近平・国家主席が「一国二制度」による統一を台湾に迫る発言をしたことに蔡英文総統が強く反発し、中国との統一の明確な拒否を表明した。蔡英文総統は行政院長の経験がある蘇貞昌(ソー チンチョン)氏を行政院長に任命した。行政院長を辞任した頼清徳氏は総統候補を決める民進党の党内予備選に出馬を表明した。蔡総統も情報発信を強化するようになり、台湾の主権を堅持する主張も以前より明確になり、頼氏との主張の隔たりは目立たなくなった。柯文哲・台北市長も総統選挙に第3勢力として出馬すると見られていたことから、3つ巴対決となった場合、蔡氏と頼氏どちらが中間票を獲得できるか世論調査に注目が集まった。野党・中国国民党の総統候補に韓国瑜・高雄市長を選出したが、韓氏の熱狂的支持者が他候補に対して排他的かつ攻撃的であったことから、しこりを残した。柯文哲・台北市長が台湾民衆党を結成し、党主席に就任した。国民党の予備選に敗れた郭台銘氏は柯市長と緊密に連絡をとっていた。勝算が低いと見たのか、柯文哲氏も郭台銘氏も総統選挙には不出馬となった。第3勢力からは親民党の公認候補として宋楚瑜(ソン ツーユィー)親民党主席が出馬することになった。蔡総統は予備選で戦った頼清徳・前行政院長を説得し、副総統候補に指名し、党内の団結を強固にし、現職の蔡総統が優勢となった(19年)。

 中国(中華人民共和国)は、高速鉄道網の整備が進み、福建省の福州~廈門に高速鉄道(新幹線)が開業。上海~南京の高速鉄道も開業し、上海虹橋空港に高速鉄道と上海地下鉄が乗り入れる上海虹橋駅が開業した。上海市で上海万博が開催され、中国の発展を世界に向けてアピールした。2010年の国内総生産(GDP)が5兆米ドルの大台を突破し、日本を抜いて第2位の経済大国となった。中国のインターネット言論統制が国際的問題となり、アメリカのgoogle社が中国のハッカーやネット検閲に反発して中国で検索サービスを一時停止した。中国の民主化を求める「08憲章」を起草し、中国当局に拘束された民主活動家である劉暁波(刘晓波/リョウ・シャオポー)氏がノーベル平和賞に選ばれたが、中国当局が拘束を解くことはなく、本人およびその家族も受賞式に出席できなかった(10年)。深圳地下鉄・都市鉄道の羅宝線、竜華線、環中線、蛇口線、竜崗線が相次いで開業。京滬高速鉄道(中国版新幹線)の北京南駅~上海虹橋駅が開業した。上海から福州方面を結ぶ中国版新幹線が浙江省の温州付近で追突事故を起こし、先頭車両などが高架橋から地上に落下した。広州と深圳を結ぶ高速鉄道の広州南駅~深圳北駅が開業した(11年)。

 日本の尖閣諸島国有化に反発し、中国各地で大規模な反日デモが行われ、日系ショッピングモールや日系企業が破壊、略奪されるなど大きな被害が出た。中国は日本に国有化撤回を求めたが、日本が拒否すると、日本に対する挑発をエスカレートさせ、巡視船「海監」による領海侵犯を断続的に繰り返し、さらに12月に中国の航空機が尖閣の領空に侵入した。中共重慶市委員会書記を務める実力者であった薄熙来・中共中央政治局委員が毛沢東思想に立ち返って左派的な改革を呼びかける運動を進めたが、中国共産党内の権力闘争の結果、汚職や妻らによる殺人関与疑惑などで失脚し、党籍を剥奪され、公職から追放された。南シナ海の西沙、中沙、南沙を管轄する「三沙市」を設置し、同海域の領有を主張するベトナムやフィリピン、マレーシア等が強く反発した。第18回中国共産党大会が開かれ、胡錦濤(胡锦涛/フウ チンタオ)国家主席の後継に習近平(习近平/シー チンピン)国家副主席が選出された(12年)。

 広東省の大手紙「南方週末」の社説差し替え事件が明るみになり、デモやストライキに発展したが、言論の自由緩和にはつながらず、当局のマスコミ締め付けが一層厳しくなった(13年)。中国の天津で倉庫の大規模な爆発事故が発生した。少子高齢化が進む中国が「ひとりっ子政策」を正式に廃止した(15年)。シルクロードの経済圏強化を目指す「一帯一路」の国際協力サミットフォーラムが北京で開かれ、習近平・国家主席が国際協力を呼びかけた。中国共産党第19回全国代表大会が北京で開催され、「習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想」が中共の党の指導思想として盛り込まれた(17年)。第13回全国人民代表大会(全人代)が開催され、習近平・国家主席の任期が撤廃され、習近平独裁体制色がより強まった。中国では電子マネー化が進み、便利になる一方で、顔認証システムなどの監視社会化が進み、特に新疆ウイグル自治区ではウイグル人に対する自由の抑圧など人権弾圧がひどくなり、再教育キャンプの存在などが国際社会から批判されるようになった(18年)。北京に世界最大規模の新空港「北京大興国際空港」(北京大兴国际机场)が開港した。中華人民共和国建国70周年の記念式典が北京の天安門で開催されたが、香港のデモ弾圧などにより、国際社会からの祝賀ムードはなかった。年末に湖北(フウペイ)省の武漢(武汉/ウーハン)市で、肺炎患者が多発していることが徐々に明らかになった(19年)。 

 香港は、間接選挙の行政長官選挙が実施され、親中共派の梁振英(リョン ツァンイン)が選出された。香港人の中華人民共和国への愛国心を強化するための愛国教育を学校教育に取り入れる案が発表されたが、中国共産党による「洗脳」教育であると猛反発が起き、当面先送りされた(12年)。次回2017年の行政長官(特首)選挙の普通選挙実施による高度な自治を求めて、9月に学生授業ボイコットやデモが発生し、中環(セントラル)などで行われた大規模な座り込み活動に対し、警察が催涙スプレーなどで攻撃して排除しようとしたことから対立が激化し、抗議活動が拡大した。習近平(习近平/シー チンピン)中国国家主席や梁振英(リョン ツァンイン)行政長官は譲歩を見せず鎮圧に動き、学生や市民らは12月に強制排除されるまで抗議活動を続け「雨傘革命」と呼ばれた(14年)。香港の議会選挙で雨傘運動を主導した民主派の候補らが当選した(15年)。香港の中国復帰20周年を記念して習近平国家主席が香港を視察した。香港行政長官選挙が実施され、制限された間接選挙制度の中で親中共派の林鄭月娥(ラムツェン ユッンゴー/キャリー・ラム)が当選した(17年)。広深港高速鉄道が広東省の福田駅から香港特別行政区の香港西九龍駅まで延伸され、香港まで乗り入れたが、香港の領域内に中国側の検査場が設けられるなど、中国共産党の香港に対する影響力が浮き彫りとなった(18年)。

 香港で逮捕された者を中国大陸への移送を可能にする「逃亡犯条例改正案」への大規模な反対運動、「反送中」デモが100万人を超える規模で起こり、香港警察が催涙弾やゴム弾を発砲してデモ参加者と衝突した。デモ隊が「立法会」を占拠し、警察に排除されるなど、2014年に台湾で起こった「太陽花(ひまわり)学生運動」の記憶をよみがえらせた。香港のデモ参加者らは顔を特定されないよう黒いマスクをかぶり、催涙弾から身を守るため雨傘やゴーグルをつけて勇敢に毎週週末デモに参加した。特には地下鉄を止めたり、ゼネストを行い、「逃亡犯条例改正案」の撤回と、さらには香港の普通選挙実施などの民主化を要求した。林鄭月娥・行政長官(特首)は、対立する民意の押される形で「逃亡犯条例改正案」の撤回表明に追い込まれた。香港住民らは林鄭特首の「逃亡犯条例改正案」撤回表明だけでは信じようとせず、抗議が続いていたが、香港立法会が議会の手続きでようやく正式に撤回された。香港では香港政府に対する抗議活動は続き、警察が暴力的に取り締まる中、学生らは大学などに立て籠もって抵抗した。香港区議会選挙が実施され、この選挙期間中は抗議デモも控えられ、民主的に選挙が実施された。その結果、「反送中」デモ活動を支持してきた民主派が地すべり的大勝利を収めた。これにより、香港はとりあえず民意の勝利が示される形となった(19年)。

 韓国(大韓民国)は、黄海の白翎(백령/ペンニョン)島付近で韓国軍の哨戒艦「天安」(천안/チョナン)が爆発し、沈没した。後に北朝鮮の攻撃による可能性が濃厚であることが明らかになった。韓国の延坪(연평/ヨンピョン)島が北朝鮮軍によって発砲され、韓国人の島民に死者が出て、韓国軍も報復して砲撃戦となった(10年)。ウォン安を活かして三星(삼성/サムソン)などの大企業が輸出を伸ばし、米国との自由貿易協定(FTA)を推進。米韓FTA批准案が可決された(11年)。李明博(이명박/イ ミョンバク)大統領が韓国の実効支配下にある竹島(独島)に上陸したうえ、李大統領は歴史認識問題で日本の天皇陛下に対して謝罪を要求し、日韓関係が緊張した。与党のハンナラ党はセヌリ党に党名変更するなど、国内経済の不振や親族の汚職などで求心力が低下する李大統領から距離を置いてイメージ刷新をはかり、総選挙で与党セヌリ党が野党の民主統合党に辛勝して過半数を維持した。第17代大統領選挙が行われ、セヌリ党の朴槿恵(박근혜/パク クネ)氏と民主統合党の文在寅(문재인/ムン ジェイン)氏が対決。朴槿恵氏が僅差で勝利した(12年)。

 セヌリ党の朴槿恵大統領が就任し、韓国初の女性大統領となった。韓国国内の反日世論に押され、反日姿勢を強め、対日外交が疎遠な状態が続いた。韓国最大財閥の三星(サムソン)の勢いが低迷し、不景気に転落した(13年)。韓国で修学旅行の高校生らを乗せた旅客船「セウォル号」が沈没し、300人近い死者を出す大惨事となった(14年)。韓国の金泳三(김영삼/キム ヨンサム)元大統領が死去した(15年)。朴槿恵大統領が、友人の民間人の崔順実(チェ スンシル)に国政の重大決定に関与させていたことが発覚し、機密文書漏洩や財団への資金不正拠出、財閥事業への介入、親族の不正入学、スポーツ選手育成や国民体操の利権など次々にスキャンダルが明らかになり、支持率は1ケタ台となり、辞任を求める大規模なデモが連日起こり、韓国国会は12月に朴大統領を弾劾訴追を可決し、朴大統領は職務停止となり、黄教安(ファン ギョアン)国務総理(首相)が当面代行することになった。韓国で国会選挙が行われ、与党のセヌリ党が過半数割れして敗北した(16年)。

 朴槿恵大統領罷免に伴い韓国大統領選挙が前倒しで行われ、「共に民主党」の文在寅(문재인/ムン ジェイン)候補が当選した(17年)。韓国で冬季五輪の平昌(ピョンチャン)オリンピックが開催された。北朝鮮から代表団が派遣され、金正恩委員長の妹である金与正(김여정/キム ヨジョン)氏が開会式に出席した。平昌オリンピックを機に、朝鮮半島の南北融和ムードが醸成され、これをチャンスと見た韓国の文在寅(문재인/ムン ジェイン)大統領は南北首脳会談を呼びかけ、4月に板門店で北朝鮮の金正恩委員長とのトップ会談を実現させ、朝鮮半島の非核化実現を目標とする共同宣言「板門店宣言」が発表された(18年)。李洛淵(イ ナギョン)首相が辞任を表明し、文在寅(문재인/ムン ジェイン)大統領は次期首相に丁世均(정세균/チョン セギュン)前国会議長を指名した(19年)。

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は、金正日(김정일/キム・ジョンイル)総書記の息子である金正恩(김정은/キム・ジョンウン)が朝鮮労働党中央委員に選出され、中央軍事委員会副委員長となったことから金正日の後継者となることが明確となった(10年)。金正日(김정일/キム・ジョンイル)総書記が12月17日に心筋梗塞で死去した。最高人民会議常任委員長により金正日総書記の三男の金正恩(김정은/キム・ジョンウン)が「党・軍・人民の最高指導者」であると宣言され、金正恩が朝鮮人民軍最高司令官に就任した(11年)。金正恩が朝鮮労働党第一書記に就任、国防委員会第一委員長にも就任し、朝鮮民主主義人民共和国のトップの地位を固めた。ミサイル実験を強行し、ロケット「銀河3号」に衛星「光明星3号」を搭載して発射したが、打ち上げに失敗し、途中で空中分解した。しかし再度、光明星3号2号機の事実上の弾道ミサイルを発射した(12年)。2009年以来3度目の核実験を咸鏡北道の吉州(キルジュ)で実施した。北朝鮮ナンバー2の張成沢(장성택/チャン ソンテク)国防副委員長が粛清され、特別軍事裁判で死刑判決となり、即日処刑され、張成沢派が大量粛清された(13年)。日本海にロケット砲や中距離弾道ミサイル「ノドン」を発射した(14年)。原爆実権と見られる人工地震があり、北朝鮮当局は水爆実験をしたと発表した。続いてミサイル発射実験を行った。さらに中距離弾道ミサイルを発射。再度核実験も行うなど、ミサイルと核実験を立て続けに実施し、北東アジアの軍事緊張を高めた(16年)。

 金正恩・委員長の異母兄である金正男(김정남/キム ジョンナム)氏がマレーシアのクアラルンプール国際空港で、何者かに顔を襲われ、その後倒れて死去した。調査の結果、殺害の際に顔に塗ったのがVXガスであると判明し、北朝鮮当局による暗殺の可能性が世界的に報道された。「火星12号」ミサイルをあえて高い角度で飛ばして飛距離を抑えるロフテッド軌道で発射し、高度2111キロに達し、日本海に落下した。これは、米国本土まで届く大陸間弾道ミサイル(ICBM)の実験であるとして、米国は警戒を強めた。国連安保理が北朝鮮のミサイル発射を避難し、制裁強化を採択したが、これに反発するように北朝鮮は日本海に向けて地対艦巡航ミサイルを数発発射した。さらに弾道ミサイルを発射し、このミサイルは日本海の日本の排他的経済水域(EEZ)に落下した。米領グアム島へミサイルを発射を検討していることを発表し、日本の島根、広島、高知の上空を通過することを予告した。「火星12号」を日本海に向けて発射。日本北海道上空を飛び越え、高度約550キロ、飛距離約2700キロで、中距離弾道ミサイルである「火星12号」をロフテッドではない通常軌道で発射した。6回目となる核実験を強行し、北朝鮮は「水爆」実験に成功したと発表した。国連安保理は、北朝鮮への禁輸を強化する決議案を採択したが、石油全面禁輸は中国やロシアの反対から見送られた。平壌近郊から弾道ミサイルが発射され、高度約800キロ、飛距離約3700キロ飛行し、日本北海道上空を通過した。さらにロフテッド軌道で最高高度4475キロに達する弾道ミサイルを発射した。大陸間弾道ミサイル(ICBM)「火星15号」とされ、通常軌道で発射した場合、約1万3000キロ飛行して米国東海岸まで射程に収める可能性がある。北朝鮮は、政府声明で「国家核戦力完成」を宣言した(17年)。

 米国本土を攻撃できる核弾頭搭載の大陸間弾道ミサイル(ICBM)が実戦配備の段階に至ったことを宣言した。金正恩委員長は平昌五輪に妹の金与正を派遣し、韓国との対話の道を開き、金正恩委員長は韓国の文在寅大統領と板門店で会談したのに続き、シンガポールで米国のトランプ大統領とも会談し、対話姿勢をアピールした。しかし、北朝鮮に対する国連制裁は解除されず、北朝鮮が約束を守らないと経済制裁は緩和されない状態が形成された(18年)。

 米国(アメリカ合衆国)は、行き過ぎた新自由主義による貧富の格差拡大に怒るデモが米ニューヨークのウォール街で発生、10月には世界各地にも飛び火した。アメリカ軍がイラクからの撤退を完了した(11年)。日本にTPP参加を勧める一方で、参加を認める条件として自動車、保険、牛肉の分野で日本の規制緩和を要求した。輸送機オスプレイを在日米軍に配備した。米国は日本の尖閣に対する施政権を支持することで安保面で協力を強化した。アメリカ合衆国大統領選挙が実施され、民主党の現職のバラク・オバマ(Barack Obama)大統領と、共和党のミット・ロムニー氏が対戦し、オバマ大統領が再選された(12年)。オバマ大統領が2期目となり、ジョン・F・ケネディ(John F. Kennedy)元大統領の長女であるキャロライン・ケネディ(Caroline Kennedy)氏が駐日大使として着任した(13年)。ニューヨークのワールドトレードセンタービル跡地に104階建てのワンワールドトレードセンタービルが完成した(14年)。オバマ大統領がラウル・カストロ(Raúl Castro)キューバ国家評議会議長と会談し、キューバ革命で共産主義化したキューバと1961年に国交断絶以来、初の両国首脳会談が実現した。これにより米国とキューバの国交が回復し、大使館が相互開設された。米国アトランタで開催されたTPP閣僚会議でTPP協定について大筋合意した(15年)。

 オバマ大統領が現職米国大統領として初めて原爆被爆地である広島を訪問した。安倍首相も太平洋戦争の開戦の舞台となった米国ハワイの真珠湾(パールハーバー)を訪れ、日米の指導者が70年前の戦争にけじめをつけ、未来志向の日米関係を築くことを誓い合った。米国大統領選挙予備選では、ヒラリー・クリントン(Hillary Clinton)と民主社会主義を主張する左派のバーニー・サンダース(Bernie Sanders)が激戦の末、ヒラリー・クリントンが正式候補となった。一方、共和党は、オバマ政権が進めたTPP(環太平洋連携協定)に反対し、不法移民の送還や、関税の強化、日本に在日米軍の駐留費を負担させる、メキシコ国境の壁を整備するなど主張する不動産王のドナルド・トランプ(Donald Trump)が予備選で独走し、公認候補となった。米マスコミは、過激な発言を繰り返すトランプに警戒し、ネガティブな報道を続けたが、トランプはマスコミ界を含む既得権益層を激しく罵り、格差や階層が固定化される社会を打破したい変化を求める労働者庶民の心をつかみ、支持を固めていった。大統領選の結果、トランプは激戦州を僅差で逆転し、得票数ではクリントンが上回ったものの、州ごとの選挙人数で過半数を確保し、米大手マスコミの予測に反して当選を決めた(16年)。

 「アメリカ第一優先」を掲げるトランプ大統領は、公約であった「環太平洋連携協定」(TPP)からの離脱を表明した。トランプ大統領は北朝鮮の核兵器および大陸間弾道ミサイルの開発をやめさせるため、圧力を強化する路線に転じ、訪中して中国の習近平・国家主席と会談し、対北朝鮮での協力を求めた。国連総会でトランプ大統領は北朝鮮を「ならずもの国家(rogue state)」と批判し、金正恩委員長を「ロケットマン」と呼び、軍事行動に踏み切れば「完全に破壊される」と警告し、北朝鮮による日本人拉致問題についても言及した。トランプ大統領がアジアを歴訪。日本では在日米軍横田基地から入国し、安倍首相とゴルフをしながら意見交換した。韓国では文在寅大統領と会談した。中国も訪問して習近平国家主席と会談し、北朝鮮問題に対する協力を話し合った(17年)。

 元CIA(中央情報局)長官のマイク・ポンペオ(Mike Pompeo)氏が国務長官に就任した。トランプ大統領は、北朝鮮の金正恩委員長とシンガポールで初の米朝首脳会談を行った。そして北朝鮮の非核化と体制保障を含む共同声明が発表された。米国は北朝鮮問題を一段落させた後、中国(中華人民共和国)との不均衡な貿易問題および安全保障問題に本腰を入れることになった。マイク・ペンス(Mike Pence)副大統領が中国の関税、通貨操作、技術移転の強要、知的財産の窃盗、国営企業への不適切な補助金、近隣国に脅威を与える軍事拡張、自由を奪う監視社会、キリスト教・チベット仏教・イスラム教などに対する宗教弾圧、他国に対する借金漬け外交、米国に対するスパイ活動などを厳しく批判する演説を行った。米国中間選挙では下院が野党・民主党が多数となったものの、上院は与党・共和党が多数派を維持した。米国下院で米台の高官の相互訪問を奨励する「台湾旅行法」が可決され、トランプ大統領が署名して成立した(18年)。トランプ大統領はベトナム・ハノイを訪問し、北朝鮮の金正恩委員長と2回目の米朝首脳会談を開催したが合意に至らなかった。トランプ大統領は「香港人権・民主法案」に署名し、中国当局による弾圧に反対した(19年)。

 ヨーロッパは、イギリスの総選挙で労働党が惨敗してゴードン・ブラウン(Gordon Brown)首相が辞任し、保守党のデービッド・キャメロン(David Cameron)氏が首相に就任し、自由民主党との連立政権が発足した(10年)。欧州連合(EU)のギリシャとイタリアの財政危機が表面化した(11年)。フランスの大統領選挙で、現職の国民運動連合のニコラ・サルコジ(Nicolas Sarkozy)大統領と社会党のフランソワ・オランド(François Hollande)の決選投票となり、5月の決選投票でオランド氏が当選し、政権交代となった(12年)。バチカンでベネディクト16世教皇が退位、3月にブエノスアイレス大司教のホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿(フランシスコ)が第266代ローマ教皇に選出された。オランダでベアトリクス(Beatrix)女王が譲位し、ウィレム(Willem)太子が国王に即位した。クロアチアが欧州連合(EU)に加盟した。ベルギーのアルベール国王がフィリップ皇太子に王位を譲位した(13年)。スペインでフアン・カルロス1世(Juan Carlos I)国王が退位し、フェリペ6世(Felipe VI)が新国王に即位した。英国スコットランドで独立を問う住民投票が実施され、独立賛成45%、反対55%で否決された(14年)。フランスのパリでISによる同時多発テロが発生し、100人以上が死亡した(15年)。

 イギリス(英国)で欧州連合(EU)離脱の是非を問う国民投票が実施され、離脱支持が52%を獲得し、EU離脱が決定した。この結果を受けて英国のデイヴィッド・キャメロン(David Cameron)首相が辞任し、保守党でEU離脱派のテリーザ・メイ(Theresa May)が首相に就任した。スペインでは、スペイン・カタルーニャ自治州で10月に独立を問う住民投票が実施され、投票率43%で独立賛成が92%となった。スペインのマリアーノ・ラホイ(Mariano Rajoy)首相の中央政府はスペイン憲法155条の自治権停止措置を決定した。これを受けてカタルーニャ自治州議会はカタルーニャ共和国の独立宣言を可決したが、スペインにより自治権が停止が発動され、カルラス・プッチダモン(Carles Puigdemont)州首相はスペインにより解任され、国家反逆罪と扇動罪で起訴され、EU本部のあるベルギーに脱出し保護を求めた。スペイン高等裁判所は独立宣言を無効と宣言し、12月にカタルーニャ自治州議会の選挙を実施した。その結果、カタルーニャ独立派が再び過半数を占め、ベルギーでプッチダモン氏はカタルーニャ共和国の勝利宣言を行ったが、スペインはカタルーニャに譲歩する姿勢は見せず、プッチダモン氏の帰国も実現しなかった。

 ポルトガルのアントニオ・グテーレス(António Guterres)元首相が国連事務総長が就任した。フランス大統領選挙の1回目投票で、EU協調派のエマニュエル・マクロン(Emmanuel Macron)候補と右派のマリーヌ・ル・ペン(Marine Le Pen)候補の上位2者で決選投票が5月に行われ、マクロン氏が勝利し、大統領に就任した。イギリス総選挙が行われ、与党の保守党が過半数割れして労働党が伸びたが議席は逆転せず、テリーザ・メイ(Theresa May)首相の政権は維持された(17年)。

 カタルーニャのカルラス・プッチダモン(Carles Puigdemont)元州首相がスペイン検察の要請を受け、ドイツで逮捕された。しかし、ドイツはプッチダモン氏の強制送還に応じず、釈放された。カタルーニャ独立派のキム・トーラ(Quim Torra)がカタルーニャ州首相に選出され、スペインのマリアーノ・ラホイ(Mariano Rajoy)首相が不信任決議案により辞任し、社会労働党のペドロ・サンチェス(Pedro Sánchez)首相が就任し、その流れでカタルーニャ州はとりあえず自治権を回復した。イギリスでヘンリー王子(Prince Henry)と米国人女優メーガン・マークル(Meghan Markle)との結婚式が行われた(18年)。

 イギリスのメイ(Theresa May)首相が欧州連合(EU)離脱案を進めようとするが、英国下院議会はEU離脱案を大差で否決した。メイ首相は離脱案が可決されたら首相を辞任する方針を表明したが、英国下院はまたしてもEU離脱案を否決した。英国保守党の新党首にボリス・ジョンソン(Boris Johnson)元外相が選出され、首相に就任した。英国議会総選挙が実施され、EU離脱を訴えるジョンソン首相率いる与党の保守党が365議席を得て圧勝した。マケドニア共和国は正式に「北マケドニア共和国」と改名した。イタリアの「5つ星運動」のジュゼッペ・コンテ(Giuseppe Conte)首相は、連立与党の「同盟」が連立離脱を表明したことから辞意を表明したが、中道左派の「民主党」と連立を組むことで合意し、新内閣が発足した。スペインの議会選挙でスペイン社会労働党が第一党を維持するが過半数には届かなかった。EUは欧州委員会委員長にドイツのウルズラ・フォン・デア・ライエン(Ursula von der Leyen)を選出した(19年)。

 ロシア周辺は、旧ソ連諸国で初めてエストニアがユーロを導入した。総選挙で与党の統一ロシアが過半数を維持して勝利した(11年)。ロシア大統領選挙でウラジミール・プーチン(Владимир Путин)首相が大統領に当選した。ロシアでプーチン前首相が大統領に就任し、ドミートリー・メドヴェージェフ(Дмитрий Медведев)前大統領が首相に就任した。(12年)。ウクライナで2月に反体制派(EU支持派)市民と警察が衝突し、デモ隊が首都キエフに集結し、ヤヌコーヴィチ(Янукович)政権が崩壊した。その混乱に乗じて、ロシア系住民の比率が高いウクライナ・クリミア半島にロシアの武装勢力が議会と地方政府庁舎を占拠し、親ロ派の首相を任命、ロシア軍の駐留を承認し、クリミア自治共和国議会がクリミア独立宣言を採択し、住民投票でロシア編入を可決し、ウクライナが反対する中でクリミアがロシアに編入された。ロシアのこのような武力による強硬手段は国際社会から非難されたが、現実にはロシアの行動を止めることはできなかった。さらに、ウクライナ東部でロシアと接するドネツク州とルガンスク州がそれぞれ独立宣言し、ドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国が連邦を組み、「ノヴォロシア人民共和国連邦」を名乗り、ウクライナから離脱する動きを見せた。旧ソ連のラトビアで通貨ユーロが導入された(14年)。

 旧ソ連のリトアニアが通貨ユーロを導入した(15年)。ロシアのプーチン大統領が訪日し、安倍首相と日露首脳会談を行った(16年)。カザフスタンのナザルバエフ大統領がカザフ語をキリル文字からラテン文字に変更する方針を発表した(17年)。ロシア連邦大統領選挙が実施され、ウラジーミル・プーチン大統領が再選された(18年)。カザフスタンの1991年の独立以来、ずっと大統領を務めてきたヌルスルタン・ナザルバエフ(Нұрсұлтан Назарбаев)大統領が辞任を表明し、カシムジョマルト・トカエフ(Қасым-Жомарт Тоқаев)上院議長が大統領に昇格した。ウクライナ大統領選挙でコメディー俳優のウォロディミル・ゼレンスキー(Володимир Зеленський)が当選した。ウクライナ政府と親ロシア派が支配するドネツク、ルガンスクなどは同地域に特別な地位を付与する和平案に合意した(19年)。

 インド太平洋は、タイのバンコクでタクシン(ทักษิณ)元首相支持派とアシピット政権の治安部隊が衝突した。フィリピン大統領選挙でベニグノ・アキノ3世(Benigno Aquino III)氏が勝利した。ミャンマーの国旗が変更され、総選挙が行われ、選挙後に民主派リーダーのアウンサンスーチー氏の軟禁が解除された(10年)。ニュージーランドのクライストチャーチでマグニチュード6.3の地震が発生した。ミャンマーで軍出身のテインセイン( သိန်းစိန် )が首相に選出され、軍部の権益を守りながらも野党を容認して民主化へと歩み始めた。タイでタクシン元首相の妹であるインラック・シナワトラ( ยิ่งลักษณ์ ชินวัตร )が首相に就任した。(11年)。タイで反タクシン元首相派がインラック・シナワトラ首相の辞任を求める大規模デモが始まった(13年)。タイでインラック・シナワトラ(ยิ่งลักษณ์ ชินวัตร)首相が失職し、タイ軍が戒厳令を発令し、クーデターを宣言し、軍人のプラユット・チャンオチャ(ประยุทธ์ จันทร์โอชา)氏が首相に就任した(14年)。

 シンガポールを建国したリー・クアンユー(リー コンイェウ/李光耀)元首相が死去した。ミャンマーで総選挙が実施され、アウンサンスーチー( အောင်ဆန်းစုကြည် )派が圧勝した(15年)。ミャンマーで事実上のアウンサンスーチー政権が発足した。ニュージーランドでユニオンジャックの入った国旗変更国民投票が行われたが、否決され、現状維持とされた。フィリピン大統領選挙で、ロドリゴ・ドゥテルテ(Rodrigo Duterte)が当選した。タイ国王ラーマ9世(รัชกาลที่ ๙)が逝去し、12月にワチラーロンコーン(วชิราลงกรณ)皇太子がラーマ10世(รัชกาลที่ ๑๐)としてタイ国王に即位した(16年)。シンガポールで前国会議長のハリマ・ヤコブ(Halimah Yacob)氏が大統領に選出された。国連安保理がミャンマー当局によるロヒンギャ族への迫害をやめるよう求める議長声明を採択した(17年)。インドネシアのスラウェシ島でマグニチュード7.5の大地震があり、地震と津波により400人以上が死亡した。フランス領ニューカレドニアで独立を問う住民投票が実施されたが、否決され、フランス残留となった(18年)。パプアニューギニアのブーゲンビル島の独立住民投票が実施され、独立賛成が圧勝した(19年)。

 中東・アフリカは、アラブ首長国連邦ドバイに世界一の超高層ビルである「ブルジュ・ハリファ」( برج خليفة )がオープンした(10年)。チュニジアで民衆のデモによって長期独裁政権が倒され、それに触発されたエジプトでもムバラク( محمد حسني مبارك‎ )政権に反対する大規模反体制デモが発生、イエメン、ヨルダンにも反政府デモが飛び火した。内戦が続いていたスーダンではスーダン南部の独立を問う住民投票の結果、圧倒的多数で独立が決まった。エジプトのムバラク大統領が辞任し、アルジェリアでも非常事態宣言が解除された。40年以上にわたりカダフィ大佐による独裁政権が続いていたリビアでも内戦となり、カダフィ政権が倒され、カダフィ氏が反体制派に拘束され殺害された。これらの北アフリカ、アラブの一連の民主化の動きは「ジャスミン革命」と呼ばれ、その原動力となった群衆の動員には携帯電話とツイッター、フェイスブックなどのツールが大きな役割を果たした。(11年)。エジプトの大統領選挙でイスラム主義派のムハンマド・ムルシー( محمد مرسي )氏が勝利した。エジプトの新憲法が施行された。リビアで人権派弁護士のアリー・ゼイダーン( علي زيدان )氏が首相に就任した(12年)。

 アルジェリアのイナメナス天然ガス関連施設が武装勢力に占拠され、多数の外国人が人質として拘束され、日本人も10人が殺害された。エジプトで軍によるクーデターが発生し、ムハンマド・ムルシー大統領の権限が剥奪された。シリアの内戦が悪化し、国連発表で死者が10万人を超えた。トルコのイスタンブールでヨーロッパとアジアをつなぐボスポラス海峡トンネルを走る地下鉄が開通した(13年)。イラク北部からシリアにまたがるイスラム教スンニ派の武装組織ISILが「イスラム国」の樹立を宣言した。イスラエルがガザを攻撃した後、ハマスと停戦合意した。米国は「イスラム国」に対する空爆を開始した(14年)。シリアとイラクにまたがる過激派勢力で2014年に建国宣言した「イスラム国」(IS)の勢力が拡大し、外国人戦闘員を拡充し、各地でテロが多発した。現地で取材活動していた日本人も2人拘束され、ISが映像を公開、2人とも首を斬られ殺害された。あまりにも残虐なISの支配や空爆や戦闘から逃れるために大量の難民が国境を接するトルコに流れ、難民はトルコからヨーロッパを目指した。サウジアラビアのマッカ(メッカ)で群衆の圧死事故が発生した(15年)。

 トルコ軍によるクーデター未遂事件が発生した。ISの勢力拡大で悩むシリアでアサド政権と反体制派の停戦が発効した(16年)。イラクは「イスラム国(IS)」の拠点都市だったモスルの奪還を宣言した。イラク・クルド自治区で独立を問う住民投票が実施され、独立賛成が約93%に達したが、イラク当局はこの投票結果を認めず、クルド自治区に乗り入れる航空路線停止などの措置を強行してクルド自治区を孤立させ、独立を断念させようとし、10月にクルド自治政府は独立を凍結することを表明した。シリア民主軍が「イスラム国(IS)」の首都とされるラッカを解放したと発表した。米国がエルサレムをイスラエルの首都として認定し、東エルサレムを将来の首都と位置づけるパレスチナ側が強く反発した(17年)。シリアのアサド政権が化学兵器を使用した疑いにより、米英仏連合軍がシリアにミサイル攻撃を実施した。スワジランド王国のムスワティ3世(Mswati III)国王が独立50周年を機に、国名をスワジ語の「エスワティニ王国」に改めることを宣言した。サウジアラビアで女性による車の運転が解禁された(18年)。

 中南米では、カリブ海のハイチで大地震が発生し、首都ポルトープランス(Port-au-Prince/Pòtoprens)が壊滅状態となった(10年)。キューバのフィデル・カストロ(Fidel Castro)前国家評議会議長がキューバ共産党第一書記からも退任し、公職から引退した(11年)。ベネズエラのウゴ・チャベス(Hugo Chávez)大統領が死去した(13年)。チリでM8.2の地震が発生した。米国とキューバが国交正常化交渉を始めることに合意した(14年)。米国とキューバが国交回復した(15年)。

(参考:Wikipediaなど)

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神奈川 横浜・鶴ヶ峰 旭区役所の最寄り駅、鶴ヶ峰商店街と帷子川

横浜・鶴ヶ峰
よこはま・つるがみね

日本国神奈川県横浜市旭区

神奈川 横浜・鶴ヶ峰 旭区役所の最寄り駅、鶴ヶ峰商店街と帷子川

 鶴ヶ峰(つるがみね)は、横浜(よこはま)市の旭(あさひ)区にある地区で、相模鉄道(相鉄)本線の鶴ヶ峰駅がある。

 相鉄本線は神中鉄道として昭和初期に横浜市の区間が開業し、鶴ヶ峰駅は昭和5年(1930年)に開設された。当初は相模川の砂利輸送などの貨物需要が大きかったが、昭和18年(1943年)に相模鉄道が神中鉄道を合併し、電化も進むと、通勤路線として沿線人口も増えていった。

 鶴ヶ峰は、古くは武蔵国(むさしのくに)の都筑(つづき)郡に属し、明治22年(1889年)の町村制施行で都筑郡都岡(つおか)村が発足した。都岡村は合併による発足の際に「都筑村」を名乗ることを希望していたが、同じく都筑郡の川和地区(現・都筑区川和町)も「都筑村」を希望したため対立し、鶴ヶ峰側が丘陵部にあることから「都岡村」、川和側が田園地帯であったことから「都田村」となることで決着した。

 都筑郡都岡村は昭和14年(1939年)に横浜市に編入され、保土ケ谷(ほどがや)区の一部となったが、人口増加により昭和44年(1969年)に保土ケ谷区の北部が分区され、旭区に属することになった。

 「鶴ヶ峰」の地名の由来は諸説あり、「鶴」が飛来したという説と「水流」の意味の「ツル」が由来という説がある。いずれにせよ、駅の近くには野鳥が飛来しそうな帷子(かたびら)川が流れている。

 鶴ヶ峰駅は、相鉄本線および相鉄いずみ野線に直通する電車が通り、特急と急行は鶴ヶ峰駅を通過するが、各停、快速と通勤急行、通勤特急が停車する。また、令和元年(2019年)より、東隣の西谷(にしや)駅から相鉄新横浜線が羽沢横浜国大(はざわ よこはまこくだい)駅まで開業し、JR線との直通運転を開始し、海老名(えびな)~新宿(しんじゅく)の直通電車が走るようになった。今後さらに羽沢横浜国大から新横浜(しんよこはま)、日吉(ひよし)方面への延伸が計画されており、開業すれば新横浜駅から東急新横浜線・目黒線に直通運転して東京の地下鉄(三田線・南北線)方面への直通列車の運行も始まる。鶴ヶ峰駅は横浜駅方面のみならず東京方面への利便性も向上することから、今後のさらなる発展が期待される街としても注目されている。

 鶴ヶ峰駅の北口は、駅前に鶴ヶ峰商店街が広がっており、飲食店が集まりにぎやかである。一方で駅前の道路が狭く、バスの乗り入れが困難であるため、商店街を抜けた帷子川側に設けられている。バスターミナルと駅は少し離れているが、商店街を通って乗り換えることになるため、乗り換えついでに買い物できる相乗効果がある。

 鶴ヶ峰バスターミナルは帷子川の橋の先で国道16号線とつながっており、鶴ヶ峰からはよこはま動物園(ズーラシア)・中山(なかやま)駅方面、若葉台(わかばだい)・十日市場(とおかいちば)駅方面、鶴間(つるま)駅方面、新横浜駅方面などのバスが発着している。

 鶴ヶ峰バスターミナルの北側を流れる帷子川は、帷子川親水緑道や鶴ヶ峰公園など、周辺に自然が多く残されており、散歩が楽しい。

 鶴ヶ峰駅の南口は、平成19年(2007年)に29階建ての再開発ビル「ココロット鶴ヶ峰」が完成し、高層部がマンション(クリオレジダンスタワー横濱鶴ヶ峰)、低層部がスーパー「そうてつローゼン」鶴ヶ峰店などが入る商業施設となっている。

 鶴ヶ峰駅を通る列車の本数が多く、南北を結ぶ道路は開かずの踏切となるため、横浜市では相鉄本線の連続立体交差化事業を推進しており、鶴ヶ峰駅周辺は地下化で整備していく方針を示している。これが進めば、鶴ヶ峰駅は将来、地下駅に改造されることになる。この地下化を進めるのであれば、横浜方面と東京方面、海老名方面と湘南台方面の電車が砂時計のくびれた場所のように集中する西谷~鶴ヶ峰の区間を合わせて複々線化したほうがよいと思うが、費用負担面などの都合により、地下化と複々線化は別事業となりそうだ。ぜひ長期的な街づくりの視点で、小田急のように深い部分を先にシールドトンネルで作り、複線ぶんを地下化した後、地上から浅い部分のトンネルを掘って複々線化する方法で実現できないものだろうか。

横浜・鶴ヶ峰エリアの主な駅

鶴ヶ峰 / つるがみね 駅
相模鉄道 相鉄本線

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相鉄本線・鶴ヶ峰駅

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相鉄本線・鶴ヶ峰駅

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相鉄本線・鶴ヶ峰駅

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相鉄本線・鶴ヶ峰駅

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鶴ヶ峰駅に到着する相鉄電車

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相鉄本線・鶴ヶ峰駅

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鶴ヶ峰駅南口の再開発ビル「ココロット鶴ヶ峰」

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鶴ヶ峰商店街

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鶴ヶ峰商店街

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鶴ヶ峰商店街

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鶴ヶ峰バスターミナル入口

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鶴ヶ峰バスターミナル

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帷子川

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帷子川

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帷子川

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帷子川

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帷子川の橋と鶴ヶ峰のマンション群

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鶴ヶ峰公園

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