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埼玉・鶴ヶ島 関越道と圏央道が交差する鶴ヶ島JCT、雷電池と脚折雨乞

鶴ヶ島
つるがしま

日本国埼玉県鶴ヶ島市

埼玉・鶴ヶ島 関越道と圏央道が交差する鶴ヶ島JCT、雷電池と脚折雨乞

 鶴ヶ島(つるがしま)市は、埼玉(さいたま)県中部にある人口約7万人の市。北が坂戸(さかど)市、東と南が川越(かわごえ)市、西が日高(ひだか)市と接している。

 鶴ヶ島は、古くは武蔵国(むさしのくに)の高麗(こま)郡に属し、江戸時代には新田開発が進められた。明治時代になると廃藩置県で入間県、熊谷県を経て明治9年(1876年)に埼玉県に編入された。明治22年(1889年)に高麗郡鶴ヶ島村が発足した。明治29年(1896年)に高麗郡が入間(いるま)郡に統合され、入間郡鶴ヶ島村となった。戦後、坂戸町や川越市などとの合併が検討されたが、村内で意見が分かれ、見送られた。鶴ヶ島村は村の独立を維持するために工場を積極的に誘致するなど建設計画を強化した。昭和41年(1966年)に入間郡鶴ヶ島町に昇格。その後も人口が着実に増加し、平成3年(1991年)に鶴ヶ島市に昇格した。

 鶴ヶ島市には、東武鉄道の東上線と越生線が通り、市の北東部に東武東上線の鶴ヶ島(つるがしま)駅と若葉(わかば)駅、北西部に東武越生線の一本松(いっぽんまつ)駅があり、鶴ヶ島市西部と坂戸市の境に越生線の西大家(にしおおや)駅がある。

 東武東上線の鶴ヶ島駅は鶴ヶ島市東部と川越市との境にあり、駅の東の川越市側に東洋大学・川越キャンパスがある。鶴ヶ島駅は東上鉄道として大正5年(1916年)に川越町(現・川越市)~坂戸が開業した際には駅はまだ設置されず、大正9年(1920年)に東上鉄道が東武鉄道と合併して東武東上線となり、昭和7年(1932年)に鶴ヶ島駅が開設された。鶴ヶ島駅は普通、準急、急行、快速急行が停車し、川越特急とTJライナーは通過する。

 鶴ヶ島駅の西約2キロには、関越自動車道(関越道)と首都圏中央連絡自動車道(圏央道)が交差する鶴ヶ島JCT(ジャンクション)がある。関越道は昭和50年(1975年)に川越IC(インターチェンジ)~東松山ICが開通し、鶴ヶ島JCTの北西に鶴ヶ島ICが設けられ、国道407号線と連絡している。鶴ヶ島JCTは、圏央道の鶴ヶ島JCT~青梅ICが開通した平成8年(1996年)に開設され、鶴ヶ島市の南部に圏央鶴ヶ島ICが設けられている。また、圏央道は平成20年(2008年)に鶴ヶ島JCTから川島ICが延伸され、その後も延伸が続けられ、都心部を迂回して放射状に伸びる中央道、関越道、東北道、常磐道などが都心を経由せずに結ばれるようになった。

 関越道の鶴ヶ島ICと連絡する国道407号線沿いには「ケーズデンキ」鶴ヶ島インター店、「ニトリ」鶴ヶ島店などの大型商業施設やレストランが集まっている。その南にある「雷電池」(かんだちがいけ)は、かつて雷と雨をつかさどる大蛇が棲み、「脚折雨乞」(すねおりあまごい)と呼ばれる雨乞い祈願の祭りが行われてきた。現在は伝統文化の保存を目的に「脚折雨乞」が4年に1度開催されている。竹や麦藁で作られた龍蛇を旧・脚折村の白鬚神社(しらひげじんじゃ)から雷電池まで練り歩く。

 東武東上線の若葉駅は、昭和54年(1979年)に開設された駅で、坂戸市との境にある。むさし緑園都市・富士見地区の住宅開発に合わせて開設された駅で、若葉駅東口にはショッピングセンター「ワカバウォーク」がある。坂戸市側に女子栄養大学や筑波大学附属坂戸高校などがあり、駅周辺は住宅が多いことから若葉駅の利用者は多く、普通、準急、急行、快速急行が停車し、川越特急とTJライナーは通過する。

 東武越生線は、越生鉄道として建設され、昭和7年(1932年)に坂戸町(現・坂戸)~高麗川(後の森戸)が開業し、昭和9年(1934年)に国鉄八高線と連絡する越生(おごせ)駅まで全通した。昭和18年(1943年)に越生鉄道は東武鉄道に買収され、東武越生線となった。

 鶴ヶ島市西部にある東武越生線の一本松駅は、昭和9年(1934年)に開設された駅で、かつて江戸時代に大きな一本松があったことが地名の由来となった。

 東武越生線の西大家駅は鶴ヶ島市の西の境の坂戸市側にあり、鶴ヶ島市民の利用も多い。坂戸市側の駅の北側には東京国際大学・坂戸キャンパスの多目的グラウンドが広がっている。また、西大家駅の手前からは、かつて日高市の日本セメント(現・太平洋セメント)埼玉工場への西大家貨物線が伸びていた。同貨物線は昭和59年(1984年)に廃止された。また、日本セメント埼玉工場からJR八高線・川越線の高麗川(こまがわ)駅までも貨物線が伸びていたが、こちらは平成11年(1999年)に廃止された。

鶴ヶ島エリアの主な駅

鶴ヶ島 / つるがしま 駅
東武鉄道 東上線

若葉 / わかば 駅
東武鉄道 東上線

一本松 / いっぽんまつ 駅
東武鉄道 越生線

西大家 / にしおおや 駅(坂戸市)
東武鉄道 越生線

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関越道と圏央道が連絡する鶴ヶ島JCT
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千葉・富里 空港建設で揺れた農村、乗馬と富里スイカ

富里
とみさと

日本国千葉県富里市

千葉・富里 空港建設で揺れた農村、乗馬と富里スイカ

 富里(とみさと)市は、千葉(ちば)県北中部にある人口約5万人の市。北が成田(なりた)市、西が印旛(いんば)郡の酒々井(しすい)町、南が八街(やちまた)市、山武(さんむ)市、東が山武郡芝山(しばやま)町と接している。

 富里は、下総国(しもうさのくに)の印旛(いんば)郡に属し、古くより台地は牧場として利用されてきた。江戸時代には「佐倉七牧」(さくらななまき)と呼ばれる7つの牧場があり、富里には現在の七栄周辺に「内野牧」(うちのまき)、十倉周辺に「高野牧」(こうやまき)があり、馬が飼育されていた。また、後に成田空港となった成田市三里塚(さんりづか)は「取香牧」(とっこうまき)が広がっていた。

 明治時代になると、失業した下級武士などの新たな生活のため、牧場の開拓が進められた。その後、羊毛の需要急増に対応するため下総牧羊場などが開かれ、明治22年(1889年)に三里塚の旧・取香牧を中心に宮内省御料牧場となった。

 富里(とみさと)の地名は、明治22年(1889年)に七栄(ななえ)村、十倉村などを含む印旛郡の13の村が合併して「十三里」(とみさと)の意味を込めて印旛郡富里(とみさと)村が発足した。

 富里村は戦後、国有地の払い下げが進められ、開拓が進められ、農村が切り拓かれた。日本は昭和30年代より高度経済成長時代に入り、東京を中心とする首都圏の人口が急増し、当時国際空港だった東京羽田空港の需要が急増した。昭和30年代後半より、首都第二国際空港の建設が検討されるようになり、候補地探しが始まった。

 当時、浦安、木更津、霞ケ浦などとともに農村であった「富里・八街地域」が昭和38年(1963年)に新空港建設の候補地に浮上すると、空港建設反対運動が起こった。空港誘致賛成の声もあったが、移転先や補償が準備されるとはいえ、開拓した農地を手放さなければならない農民にとっては深刻な問題であり、反対の陳情のほか、耕耘機デモで反対の強い意志を表明した。

 結局、昭和41年(1966年)に日本政府は新空港の建設地を、富里から少し離れた成田三里塚地区に決定した。宮内庁下総御料牧場の国有地が広がっており、土地収用が少なくて済むことが主な決定理由となった。もし、富里に空港が建設されていた場合は、この三里塚地区が農民らの移転先候補であったという。成田空港建設のため、宮内庁下総御料牧場は栃木県高根沢町の高根沢御料牧場へ移転し、昭和44年(1969年)に下総御料牧場は閉鎖された。

 当時は国際空港の重要性や経済効果などが国民からあまり理解が得られず、広大な土地を確保するために開拓した農地や民家を強制的に取り上げるというイメージから激しい空港建設反対運動が起こり、学生運動や左翼運動の主要テーマにもなり、成田空港開港まで紆余曲折を経ることとなった。成田国際空港は「新東京国際空港」として昭和53年(1978年)に開港した。東京から成田空港へのアクセス道路として新空港自動車道(後に東関東自動車道に改名)が建設され、富里には富里IC(インターチェンジ)が昭和46年(1971年)に開設された。

 成田空港の開港により、空港関連産業が盛んになり、成田駅に近い富里市北西部に日吉台(ひよしだい)ニュータウンが開発されると富里村の人口も増加し、昭和60年(1985年)に印旛郡富里町となり、平成14年(2002年)に富里市に昇格した。

 富里市には鉄道が通っていないが、日吉台ニュータウンから成田市の京成電鉄・成田駅およびJR成田線・成田駅は1~2キロと比較的近い。

 また、富里市におけるバスの主要停留所として富里バスターミナルや富里七栄スクエアなどがあり、東京から富里(富里バスターミナル、富里七栄スクエア)、成田(三里塚公園、航空博物館前)を経由して多古町の多古台バスターミナルを結ぶ高速バスが運行されている。

 富里市の中部および東部は農地が多く、スイカの栽培が盛んであり、「富里スイカ」は高級品として知られている。また、東京ガスの富里供給所ガスタンクはスイカの模様の塗装がなされており、富里市のシンボルとなっている。

 このほか、かつて馬を飼育していた牧場が広がっていたことから、市内には「クレイン千葉 富里」、「アクシス千葉」、「ボナンザ牧場」など乗馬クラブが多い。
 
 成田市との境の国道51号線沿いにショッピングモール「イオンタウン成田富里」があり、成田空港を利用するインバウンド外国人観光客の利用者も多い。また、富里市は機内食製造やリネンなど空港関連、宿泊関連の産業も盛んである。

富里エリアの主な駅

京成成田 / けいせいなりた 駅(成田市)
京成電鉄 京成本線、東成田線
成田 / なりた 駅(成田市)
JR東日本 成田線(我孫子支線、成田空港支線)

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富里市を通る東関東自動車道

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東関東自動車道から見た富里の眺め

東京・利島 伊豆諸島北部の利島、宮塚山と椿

利島
としま

日本国東京都利島村

東京・利島 伊豆諸島北部の利島、宮塚山と椿

 利島(としま)村は、東京(とうきょう)都の島嶼部にある人口約0.03万人の村。伊豆諸島の北部にある利島からなり、海を挟んで北が伊豆大島の大島(おおしま)町、南が新島(にいじま)と式根島(しきねじま)からなる新島村と近接している。

 伊豆諸島は、古くは伊豆国(いずのくに)の賀茂(かも)郡に属し、伊豆半島とのつながりが密接であった。伊豆諸島は、明治時代になると東京府の一部となり、明治33年(1900年)に伊豆諸島を管轄する大島島庁が発足した。利島は大正12年(1923年)に島嶼町村制が施行され、利島村が発足。大正15年(1926年)に大島島庁が大島支庁となった。昭和18年(1943年)に東京都が発足すると、大島支庁から三宅支庁が分離した。これにより、東京都の大島支庁は大島、利島、新島、式根島、神津島を管轄するようになった。

 利島は標高508mの宮塚山(みやつかやま)が聳える丸い島で、もともと火山でできた島であるが、数千年前より火山活動は休止しており、山から火山の煙は出ていない。

 海に浮かぶ火山島であるため、平地がほとんどなく、島の北側に利島港があり、港の南側の斜面に集落があるほかは、島の南はほとんどが椿畑になっていて、椿油が利島村の特産品となっている。村の人口は300人余りであり、一つの自治体の人口としては極めて少ない。

 平地がほとんどなく、淡水が湧く泉もないことから、江戸時代は飢饉に見舞われることもあった。現在は海水淡水化装置により、水の確保は解決した。海に囲まれていることから漁業が盛んで、「利島の大サザエ」が獲れるほか、伊勢エビや金目鯛などの漁業が盛んである。

 利島には、東京竹芝からの高速船(ジェットフォイル)やフェリーが大島を経由し、利島・新島・式根島・神津島を結ぶ便が利島に寄港する。しかし、風や波の影響を受けやすい高速船は欠航率が高い。また、静岡県・伊豆半島の下田港からも利島・新島・式根島・神津島を結ぶフェリーが運航されており、旅客輸送のほか島に必要な物資を運んでいる。高速船で利島から大島へは約30分、新島へは約25分。東京へは約2時間25分、下田へはフェリーで約1時間45分で結ばれている。

 利島にはヘリポートも整備され、ヘリコミューター「東京愛らんどシャトル」が伊豆大島の大島空港を結んでいる。

 利島港の周辺には宿泊施設が数軒あり、利島を訪れる観光客は多くないが、釣り客やトレッキング客がいる。利島の宮塚山への登山道があり、山頂には展望台があり、伊豆諸島の美しい島々の眺めが広がるほか、阿豆佐和気命神社本宮、大山小山神社などの神社がある。

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伊豆半島から見た利島(左)

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伊豆大島から見た利島

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利島

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利島港

神奈川 横浜・藤棚 藤棚商店街と水道道と相鉄西横浜駅

横浜・藤棚
よこはま・ふじだな

日本国神奈川県横浜市西区

神奈川 横浜・藤棚 藤棚商店街と水道道と相鉄西横浜駅

 藤棚(ふじだな)は、横浜(よこはま)市の西(にし)区にある地区。藤棚町の地名の由来は、交差点にあった和菓子店「鈴木屋」の軒先に立派な藤棚があったことから、それが横浜市電の電停名に採用され、後に町名も電停に合わせて藤棚町となった。

 藤棚浦舟通りには、かつて横浜市電の藤棚町(ふじだなちょう)電停があり、昭和30年代頃には中央市場~横浜駅前~浜松町~藤棚町~阪東橋~浦舟町~八幡橋を結ぶ系統と、六角橋~横浜駅西口~浜松町~藤棚町~阪東橋~浦舟町を結ぶ系統の2種類の市電が運行されていた。しかし、昭和43年(1968年)に六角橋線や尾張橋線が廃止されて浜松町から横浜駅西口方面への系統がなくなり、昭和44年(1969年)に久保山線の浜松町~阪東橋が廃止され、藤棚町電停も廃止された。

 藤棚交差点の東には「ふじだな一番街」、「西前中央商店会」、西には「藤棚商店会」、「サンモール西商店会」、「久保町ニコニコ商店街」などの商店街が続いており、総称で「藤棚商店街」と呼ばれている。藤棚交差点の近くには横浜市バスの藤棚バス停があるほか、相模鉄道本線の西横浜(にしよこはま)駅からも「水道道」(すいどうみち)と呼ばれる通りを歩いて約5分と近い。

 相鉄本線の西横浜駅は、昭和4年(1929年)に開業した駅で、1面2線のホームがあり、横浜駅と近いことから普通電車のみ停車し、快速、通勤急行、特急などは通過する。相鉄本線は横浜~西横浜をJR東海道本線・横須賀線と並走しており、西横浜駅のすぐそばをJR東海道本線・横須賀線の電車が通過していく。相鉄本線は西横浜駅から北西にカーブして天王町(てんのうちょう)駅方面へと向かっている。かつては西横浜駅から国鉄保土ヶ谷駅まで相鉄の貨物線も伸びていたが、昭和54年(1979年)に廃止された。

横浜・藤棚エリアの主な駅

西横浜 / にしよこはま 駅
相模鉄道 本線

藤棚町 / ふじだなちょう 電停(1969年廃止)
横浜市電 久保山線

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相鉄本線・西横浜駅

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相鉄西横浜駅前を通過するJR横須賀線電車

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相鉄西横浜駅前を通過するJR東海道本線の特急「踊り子」

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天王町方面へカーブする相鉄本線(右)

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藤棚商店街「ふじだな一番街」

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藤棚商店街「ふじだな一番街」

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藤棚商店街「ふじだな一番街」

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藤棚日限地蔵寺入口

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藤棚商店街「西前中央商店会」

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藤棚商店街「藤棚商店会」

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藤棚商店街「サンモール西ヨコハマ」

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藤棚商店街付近の街並み

中国・安徽 長江と淮河の水運、省都の合肥と巣湖、安慶と徽州

安徽
アンホエイ/Ānhuī (中国語/北京語)
アンホエイ/Ang huei (江淮官話/南京語)
エーホエ/ウーホエ (呉語)
オンフィー (江西語/贛語)

中华人民共和国安徽省
中華人民共和国安徽省

中国・安徽 長江と淮河の水運、省都の合肥と巣湖、安慶と徽州

 安徽(アンホエイ)省は、中華人民共和国東部にある人口約6100万人の省。北東が山東(サントン)省、東が江蘇(江苏/チャンスウ/コォソー)省、南東が浙江(ツェッコォ/ヅォーチャン)省、南が江西(コンシー/チャンシー)省、西が湖北(フウペイ)省、北西が河南(ホーナン)省と接している。

 安徽省の面積は約13.9万平方キロメートル。漢族が99%を占め、そのほか回族が約0.6%。漢族の言葉は公共の場や放送などでは標準中国語(北京語)が公用語として用いられている一方で、日常生活では地方ごとにさまざまな言語が話されている。

 州都の合肥(ホーフェイ)周辺、六安(リョウアン)、安慶(安庆/アンチン)、馬鞍山(马鞍山/マーアンサン)、蕪湖(芜湖/ウーフウ)、銅陵(铜陵/トンリン)、宣城(シュエンツェン)、池州(ツーツォウ)などでは南京語とも呼ばれる北方方言の一つである「江淮(チャンホワイ)官話」が話されている。

 河南省に近い淮河の北の阜陽(阜阳/フゥーヤン)、亳州(ポーツォウ)、淮北(ホワイペイ)、宿州(スウツォウ)、蚌埠(ポンプウ)、淮南(ホワイナン)などでは中原(ツォンユエン)官話が話されている。

 安慶市の懷寧(怀宁/ホワイニン)、嶽西(岳西/ユエシー)など江西省に近い西部では江西語(贛語/赣语)が話されているほか、南東部の馬鞍山(モーエーセー)、蕪湖(ヴーフゥー)、銅陵(トンリン)、宣城(シエサン)、池州、黄州などの郊外では呉語が話されている。

 このほか、南部の黄州(ホアンツォウ)では徽州(ホエイツォウ/ホエツュー)を中心に徽州語(徽語/徽语)が話されている。徽州語は七大漢語(または方言)の分類では呉語の一部とされることもあるが、十大漢語の分類では独立した一つの言葉とみなされている。

 安徽省の歴史は、春秋戦国時代は呉や楚に属した。紀元前221年に秦が中国を統一。漢の時代を経て三国時代になると呉の都が今の南京付近の建業に置かれた。4世紀に西晋が北方民族の侵略を受け、長江流域に移り、建業を建康に改め、ここに東晋を建てた。

 6世紀末に隋により中国が統一され、7世紀に入り、唐の時代になると約1世紀にわたり比較的平和な時代が続いたが、唐の末期には戦乱が起こり、唐が滅亡した。宋の時代には淮河が南北対立の境となり、1127年に北方から女真族(満洲)の金が華北を征服すると、宋朝が南に移り、臨安(杭州)を首都とする南宋となり、淮河が南宋と金の国境となった。

 13世紀にはモンゴル人により元が建てられたが、1368年に朱元璋が明を建国し、モンゴル人を追い出して再び漢族の政権が建てられた。明の都は南京に置かれ、南京は応天府と呼ばれ、安徽は江蘇とともに直隷の地とされた。1421年に永楽帝により北京に遷都されると、南直隷と呼ばれるようになった。

 1616年に満洲族による清が建国され、17世紀に北方から満洲族が南下し、北京が清の統治下に入った後も、南方は南明として明の政権が存続していたが、1645年に清軍が南京を占領し、江南省が置かれた。1662年に南明政権が崩壊して清が中国を統一すると、1667年に江南省が分割されて江蘇省と安徽省に分割された。

 1840年のアヘン戦争により、清はイギリスと江寧条約を結び、江蘇省南東部だった上海が開港され、欧米列強が上海に進出するようになった。1851年に広西客家(ハッカ)人のキリスト教徒、洪秀全(フゥン シウチョン/ホン ショウチュエン)による「太平天国の乱」が発生すると、洪秀全は太平天国の天王となり、1853年に太平天国は南京に都を置き、天京と改名した。安徽省は太平天国の反乱を鎮圧するための清軍との戦場となり、安徽省南部では人口流出が起こった。に太平天国は1864年に洪秀全の死によって崩壊し、再び清の統治下に戻った。その後は、河南や湖北から安徽省南部への移住者が増え、呉語圏だった宣城などではさまざまな官話話者が混在するようになった。

 清国時代末期には、安徽省出身の徽州商人のネットワークが形成され、中国の茶や塩の交易で大きな富を築いた。

 1911年の孫文(孫中山/スン ツォンサン)を指導者とする辛亥革命により清朝が崩壊し、1912年に中華民国が建国されると、首都が南京に定められたが、1913年に北京の北洋政府が発足した。1916年に北洋政権の袁世凱(ユエン スーカイ)が死去すると、軍閥が中国各地を支配するようになった。その後、蒋介石(蔣介石/チャン チエスー)により北伐が行われ、中華民国の政権が統一されると、1928年に中華民国国民政府が南京に発足し、改めて正式に中華民国の首都となった。安徽省の省都は1912年の中華民国建国から1938年まで懐寧(現・安慶市)に置かれていた。

 1937年より日中戦争が勃発すると、蒋介石をトップとする中華民国政府は1938年に首都を重慶(ツォンチン)に移転させた。一方、日本軍が占領した南京には、1940年に日本に協力的な汪兆銘(ワン ツァオミン)による中華民国政府が発足し、南京を首都とした。この南京国民政府は「和平・反共・建国」をスローガンに、日本軍と緊密に協力しながら、日本軍の勢力下にある地域を統治した。汪兆銘主席は1944年に病死し、陳公博(ツェン コンポー)が政府主席を引き継いだが、1945年に日本が敗戦となると、汪兆銘が建てた南京国民政府は崩壊し、蒋介石の中華民国政府が再び南京に戻った。安徽省の省都は1938年~45年には立煌(現・六安市)に置かれ、1945年~48年は合肥に置かれた。

 その後、国共内戦となり、中国北部で勢力を拡げた中国共産党軍(中国人民解放軍)と中国国民党軍の激しい戦闘が続いた。その後、1948年の淮海戦役(徐蚌会戦)で国民党軍が敗退し、1949年4月に中共軍が長江を越えて南京を占領した。中国国民党政権は中国大陸から撤退し、中華民国政府を台湾の台北に遷し、1949年10月に中国共産党の指導者である毛沢東(毛泽东/マオ ヅォートン)は北京で中華人民共和国の建国を宣言した。これにより、首都は北京に遷った。

 1948年より安徽省の省都は中華民国政府により一時的に安慶や蕪湖に移されていたが、1949年に中華人民共和国が建国されると、安徽省は皖北(ワンペイ)人民行政公署と皖南(ワンナン)人民行政公署に分割され、皖北は合肥、皖南は蕪湖に首府が置かれていた。皖北と皖南は1952年に中華人民共和国安徽省として再統一され、安徽省人民政府が設立され、合肥が省都となった。

 中華人民共和国建国後、安徽省は急進的な共産化が進められ、1950年代後半の大躍進運動や人民公社化により1959年~61年には大規模な気がが発生し、数百万人規模の餓死者が出たとみられている。さらに1966年からの文化大革命などの混乱の時代を経て、安徽省の農業は発展が遅れた。その後、1970年代末からの農民の生産自主権などの改革により生産量が大きく増え、改革開放の流れで、安徽省の農業と農民の生活は落ち着きを取り戻すようになった。社会主義市場経済の導入により、安徽省の経済は大きく成長し始め、人々の生活は大幅に改善された。

 安徽省は大きな河川と豊富な降水量と平野が多いことから土地は肥沃で、古くより農業が盛んである。黄山の祁門は祁門(キームン)紅茶の産地として国際的に知られている。また、安徽省北東部の亳州は古くから漢方薬の原材料の産地である。工業は改革開放後に大きく発展した。馬鞍山では鉄鋼業が盛んで、安慶と蕪湖は長江の河川港の港湾都市として発展している。そのほか、合肥を中心に近年は人工知能(AI)、原子力発電研究、液晶パネル、半導体などのハイテク産業が発展している。

 合肥(ホーフェイ)は、安徽省の中央部にある安徽省の省都で、市区人口は約640万人、郊外も含めた人口は約960万人。東が馬鞍山(马鞍山/マーアンサン)市、蕪湖(芜湖/ウーフウ)市、南が銅陵(铜陵/トンリン)市、安慶(安庆/アンチン)市、西が六安(ルウアン)市、北が淮南(ホワイナン)市、滁州(ツウツォウ)市と接している。

 合肥は、中国の淡水湖で5番目に大きい巣湖(巢湖/ツァオフウ)の北にあり、歴史的には魏と呉が戦った「合肥(がっぴ)の戦い」の舞台となり、三国時代より戦略的に重要な都市であった。その後、廬州(ルウツォウ)と呼ばれるようになり、清末まで廬州と呼ばれた。中華民国時代になると合肥県が置かれ、日中戦争後の1945年(民国34年)に安徽省の省都が合肥に置かれたが、国共内戦で1949年の淮海戦役(徐蚌会戦)で合肥が中国共産党軍に占領され、中華人民共和国が建国されると安徽省が皖北(ワンペイ)と皖南(ワンナン)に分割され、合肥に皖北行政公署が置かれた。1952年に皖北と皖南が統合されて再び安徽省が設置されると合肥は安徽省の省都となった。

 合肥市は、中心部に廬陽(庐阳/ルウヤン)区、瑶海(ヤオハイ)区、蜀山(スウサン)区、包河(パオホー)区がある。巣湖の東に巣湖(巢湖/ツァオフウ)市があり、合肥の郊外は東に肥東(肥东/フェイトン)県、西に肥西(フェイシー)県、北に長豊(长丰/ツァンフォン)県、南に廬江(庐江/ルウチャン)県がある。

 合肥市では標準中国語(普通话/プウトンホア)のほか、現地では「合肥话」(ホーフェイホア)と呼ばれる江淮官話(淮語)の洪巣方言が話されている。しかし、省都となった合肥は外来人口が多く、しかも安徽省は省内での言葉の違いが大きいことから、逆に標準中国語がよく普及し、合肥の江淮官話を話す人は減少傾向にある。伝統文化である廬劇(庐剧)は、合肥の江淮官話で演じられる。

 合肥は、北緯31度にあり、気候は温帯モンスーン気候で夏に降水量が多く、平均気温は1月が0℃~7℃、7月が25℃~32℃。

 合肥の空の玄関口は、以前は包河区に合肥駱崗(ルオカン)国際空港(合肥骆岗国际机场)があったが、2013年に蜀山区に合肥新橋(シンチャオ)国際空港(合肥新桥国际机场)が開港し、駱崗空港は閉鎖された。合肥新橋空港は、中国主要各都市への国内線のほか、コロナ前は台北松山(台湾)、シンガポール、バンコク(タイ)、モスクワ(ロシア)、大阪関西(日本)などへの国際線が運航されていた。

 瑶海区にある中国国鉄の合肥(ホーフェイ)駅は、1936年(民国25年)に開業し、1995年に現在地に移転した。在来線の蕪湖方面を結ぶ淮南線、南京と西安を結ぶ寧西線、南京南駅を結ぶ合寧線、湖北省の漢口駅(武漢市)方面を結ぶ合武線、江西省の九江方面を結ぶ合九線、蚌埠南駅を結ぶ合蚌高速線、浙江省の杭州方面を結ぶ合杭高速線などの列車が発着している。

 合肥南(ホーフェイナン)駅は、包河区に2014年に開業した高速鉄道の列車が発着する新しいターミナル駅で、北京と福州方面の京福高速線、京港高速線の肥西連絡線、上海と四川省成都を結ぶ滬渝蓉高速線などの列車が乗り入れている。

 合肥の都市鉄道は2016年に「合肥メトロ」(合肥轨道/Hefei Metro)の1号線が開業し、2022年までに5号線まで次々と開業し、地下鉄および高架鉄道のネットワークが形成されている。そのほか路線バスも充実している。

 合肥の見どころは、廬陽区に「包青天」として知られる北宋の政治家・包拯を記念した「包公園」(包公园/パオ コンユエン)があるほか、三国時代の古戦場だった逍遥津に「逍遥津公園」(逍遥津公园)がある。また、包河区から巣湖市にかけて広がる巣湖(巢湖/ツァオフウ)は中国で5番目に大きな淡水湖であり、巣湖中廟(中庙/ツォンミャオ)と姥山島(姥山岛/ムウサンタオ)の眺めは美しい。

 合肥は、清国時代に洋務運動を推進して日清戦争では欽差大臣として下関条約に調印した李鴻章(リー ホンツァン)の出身地であり、そのほかレノボ(联想/Lenovo)グループCEOの楊元慶(杨元庆/ヤン ユエンチン)や、袁世凱政権を支えた後に安徽派の安福倶楽部を指導して汪兆銘政権で考試院長も務めた王揖唐(ワン イータン)、中国国民党とともに台湾に逃れて台湾で財務部長や立法委員(国会議員)、監察院長などを務めた王建煊(ワン チエンシュエン)なども合肥出身である。

 安慶(安庆/アンチン)市は、合肥市の南西にある都市で市区人口は約82万人、郊外を含めると約415万人。長江に面する港湾都市として発展した。郊外はいくつも大きな湖がある。北宋の時代には舒州と呼ばれ、南宋の時代に安慶府と改称された。安徽省の「安」にあたる都市である。西が湖北省黄岡(黄冈/ホアンカン)市、南が江西省九江(チウコン/チョウチャン)市と接している。

 安慶は清国時代の1760年(乾隆25年)に安徽省の省都となった。1853年(咸豊3年)の太平天国の乱では太平天国軍に占領され、安徽省の政府機能は廬州(合肥)に移った。1876年(光緒2年)に英国との条約で開港され、港湾都市として発展するようになった。中華民国時代になると安徽省の省都は現在は安慶市の一部となっている懐寧(懷寧/ホワイネイ)に置かれていた。日中戦争では日本軍が安慶を占領し、国共内戦を経て、中華人民共和国の安徽省が設置されてからは、合肥が安徽省の省都となっている。1988年に懐寧県を含む周辺都市と合併し、現在の市域となった。

 安慶は石油化学、機械製造、紡績などの工業が盛んで、大規模な「安慶石化」(安庆石化/アンチン スーホア)などの石油化学工場がある。また、外資を含む民営企業の工場も多く、製品が日本や米国に輸出されている。

 安慶駅は、合肥を結ぶ合九線が通るほか、池州、銅陵、蕪湖、馬鞍山を経由して江蘇省の南京を結ぶ寧安高速線が2015年に開業した。2020年には合安九高速線が合肥まで開業し、2021年には江蘇省の九江まで延伸された。

 安慶の中心部は江西語(贛語)の影響を大きく受けた江淮官話の黄孝方言が話されている。また、郊外の懐寧(怀宁)、嶽西(岳西)、潜山、太湖、望江、宿松などでは江西語の懷嶽方言が話されている。

 銅陵(铜陵/トンリン)市は、合肥と安慶の間にある都市で、市区人口約75万人、郊外を含めると約160万人。地名の通り、銅の鉱産資源に恵まれ、銅、金、銀、鉄などの鉱業で発展している。ここはもともと呉語の宣州方言が話されている地区であるが、太平天国の乱とその後の移住者らにより江淮官話を話す人が多くなった。

 池州(ツーツォウ)市は、安慶の東にある長江南岸の都市で、市区人口約60万人、郊外を含めると約150万人。池州ももともと呉語圏であったが、太平天国の乱の後に移住者により、住民構成が変化したため、江淮官話が主に話されるようになった。林業や鉱業が盛んで、中国四大仏教名山の一つの九華山(九华山/チョウホアサン)や、鶴の飛来地としても知られる「升金湖」(センチンフウ)がある。

 黄山(ホアンサン)市は、安徽省南部にある都市で、安慶の南東、宣城の南西にある。市区人口は約50万人。郊外を含めると約145万人。中心部は古くより徽州(ホエイツォウ/ホエツュー)と呼ばれ、安徽省の「徽」の由来となった。ここでは徽州語(徽语)という独特の言葉が話されている。徽州語は七大漢語(または方言)の分類では呉語の一部とされることもあるが、徽州語には呉語の特徴である濁音がないため、十大漢語の分類では独立した一つの言葉とみなされている。呉語と江西語の両方の特色を持っているとされ、黄山市および江西省景徳鎮市北部でよく話され、中国全体で約350万人の話者がいる。黄山は奇松・怪石・雲海・温泉で知られ、その風光明媚な山々は世界遺産にも登録されている。山がちで貧しい地方であったが、行商で財をなすようになり、清国末期には徽州商人として中国各地で活躍した。

 黄山市には屯渓(トゥンシー)区に2015年に黄山北駅が開設され、北京と福州を結ぶ京福高速線と、黄山から浙江省の杭州(ハァツィー/ハンツォウ)を結ぶ杭黄高速線の列車が発着するようになった。

 宣城(シュエンツェン/シエサン)市は、安徽省の南東部、黄山の北東にある都市で、市区人口約100万人、郊外を含めると約250万人。呉語の宣州方言が話される地方であったが、太平天国の乱の後の人口構成の変化により呉語が衰退し、江淮官話を話す人が多くなり、呉語は主に家庭内で話されている。中心部の宣州区にある宣城駅は浙江省杭州を結ぶ宣杭線や、河南省商丘(サンチョウ)と合肥と杭州を結ぶ商杭高速線の列車が発着している。宣城は2000年以降、商業とサービス業の発達により急速に経済発展した。

 蕪湖(芜湖/ウーフウ/ヴーフゥー)市は、宣城の北西にある都市で、市区人口約215万人、郊外を含めると約370万人。長江の右岸(東)に市街地があり、三国時代は呉に属し、中華人民共和国建国当初は皖南行政公署の所在地であったが、1952年に皖南と皖北が統合されて安徽省が再統合されると、安徽省人民政府が合肥に置かれるようになった。長江の河港があり、清国末期には徽州商人の交易の中継基地として発展した。繊維や機械、テレビ、自動車などの工業が盛んで、自動車メーカー「奇瑞汽車」(奇瑞汽车/CHERY)の本部がある。蕪湖で話されている江淮官話蕪湖方言は南京語と非常に近い。また、湾沚区や南陵などの郊外では呉語蕪湖県方言も話されている。

 馬鞍山(马鞍山/マーアンサン/モーエーセー)市は、安徽省東部の長江右岸(東岸)にある都市で、市区人口約105万人、郊外を含めると約215万人。鉄鋼メーカー「馬鞍山鋼鉄」(马鞍山钢铁)の本社がある製鉄工業が発展している工業都市である。

 馬鞍山は、戦に敗れた項羽が愛馬が川を渡った後に捕らえられて殺されたが、それを見た愛馬が悲しんで川に飛び込んで溺死し、船乗りによってその馬は鞍の近くの山に埋葬されたという伝説が「馬鞍山」という地名の由来となった。

 馬鞍山は江蘇省の南京市の南西にあり、2015年に寧安都市間高速線(宁安城际铁路)が開業し、馬鞍山東(马鞍山东)駅から南京南駅の約42キロが約16分で結ばれるようになったほか、南京市とを結ぶ都市鉄道の建設も進められている。南京との交通の便が良いこともあり、急速に経済発展している。江淮官話(南京語)が話されているほか、呉語宣州方言も博望、当塗などの郊外で話されており、馬鞍山は呉語では「モーエーセー」と呼ばれている。中心市街地の花山(ホアサン)区、雨山(ユィーサン)区は長江の右岸であるが、馬鞍市の領域には長江左岸の和(ホー)県や含山(ハンサン)県も含んでいる。

 滁州(ツウツォウ)市は、合肥の北西、馬鞍山の北にある都市で、市区人口約60万人、郊外を含めると約400万人。江蘇省南京市の北西にあり、南京との結びつきも強く、南京と合肥を結ぶ高速道路も滁州を通過している。中心部の琅琊(ランヤー)区には1911年に北京と上海を結ぶ幹線鉄道である京滬線の滁州駅が開設され、滁州の中心駅として機能してきたが、2011年に滁州北駅と改められ、新しく開業した京滬高速線(京沪高速铁路)の駅が滁州駅となった。京滬高速線は滁州市郊外の定遠(定远/ティンユエン)県にも定遠駅が設置されているが、定遠は開業当時の国務院副総理で2013年~2023年まで国務院総理(首相)を務めた李克強(リー コーチャン)の故郷であることから当時の鉄道相の判断であえて建設されたのではないかと言われている。滁州市では江淮官話が主に話されており、北東部の天長の方言は江蘇省の揚州と近い。

 淮南(ホワイナン)市は、滁州の西、合肥の北にある都市で、市区人口は約175万人、郊外を含めると約345万人。石炭、化学工業、電力、製薬などの工業が盛んで、豊富な石炭を活用した発電所が集まっている。淮南市には東西に淮河(ホワイホー)が流れ、南岸に田家庵(ティエンチアアン)区などの中心市街地が広がっているほか、淮河の北岸も淮南市の領域に含まれている。淮河を境に南が江淮官話、北が中原官話が話される地域となるが、住民の往来も盛んであることから、淮南市では標準中国語以外にも両方の言葉が話されている。

 六安(ルウアン)市は、合肥の西、淮南の南西、安慶の北にある都市で、市区人口は約185万人、郊外も含めると約475万人。「六」は通常の標準中国語では「リョウ」と読むが、六安は南京語の伝統的な読み方の「六」(ルウ)が使われ、中国政府も「六安」を「ルウアン」と読むことを認めており、英語表記も「Lu'an」と表記されている。「六安瓜片」(ルウアンコアピエン)と呼ばれる緑茶の産地として知られている。六安市は河南省にも近接していることから、江淮官話のほか中原官話も話されている。

 阜陽(阜阳/フゥーヤン)市は、六安の北にある安徽省北西部の都市で、市区人口は約190万人、郊外も含めると約825万人。淮河より北にあり、西は河南省の周口(ツォウコウ)市や信陽(信阳/シンヤン)市と接している。主に中原官話が話されている。阜陽駅には北京と香港を結ぶ京九線の列車が発着している。河南省を中心とする中原経済区を形成する都市でもある。

 亳州(ポーツォウ)市は、阜陽の北にある都市で、市区人口は約150万人、郊外を含めると約505万人。北が河南省商丘(サンチョウ)市と接しており、河南省との結びつきも強い。中原官話が主に話されている。亳州は後漢の曹操の出身地として知られる。黄淮平原が広がり、白酒の醸造や漢方薬の製造が盛んである。

 蚌埠(ポンプウ)市は、亳州の東、滁州の北にある都市で、市区人口は約120万人、郊外を含めると約335万人。華北平野の南端にあたり、淮河が流れ、両岸に都市が形成されている。主に中原官話が話されている。日中戦争や国共内戦では激しい淮河をめぐり激しい戦闘が繰り広げられた。蚌埠駅は北京と上海を結ぶ京滬線が通り、蚌埠淮河鉄橋が架かり、南側に蚌埠駅がある。旧橋梁は、日中戦争の際には1938年に中国国民革命軍が日本軍の侵攻を阻止するために爆破した。その後、修復されたが、国共内戦で1949年の淮海戦役(徐蚌会戦)の際に、中国共産党軍の南下を阻止するために再び中国国民党軍により爆破された。その後、再び修復され、中国南北を結ぶ重要な交通路を支えている。

 蚌埠南駅は、2011年に京滬高速線(京沪高速铁路)が開業した際に開設された新しいターミナル駅で、2012年には京福高速線の一部となる合蚌高速線が開業し、合肥まで結ばれるようになった。

 宿州(スウツォウ)は、蚌埠の北にある安徽省北部にある都市で、市区人口は約170万人。郊外も含めると約555万人。中原官話が主に話されており、江蘇省徐州(シュィーツォウ)にも近い。黄淮平原の南端にあたり、小麦、大豆、さつまいも、高粱、トウモロコシなど農業が盛んであるほか、石炭や鉄、金、銅、石灰石、大理石などの地下資源が豊富で鉱業も盛んである。楚の項羽と漢の劉邦が争った「垓下の戦い」で楚の項羽が敗れた「四面楚歌」の地であると伝えられている。また、国共内戦の淮海戦役(徐蚌会戦)では、鄧小平(邓小平/テン シャオピン)らが中国共産党軍を導き、共産党軍が勝利し、中華人民共和国が建国される決定的な流れを作った。

 宿州駅は北京と上海を結ぶ京滬線と、甘粛省蘭州(兰州/ランツォウ)と江蘇省連雲港(连云港/リエンユンカン)を結ぶ隴海線が連絡しており、隴海線は中国から中央アジアを経由してヨーロッパまで鉄道で結ぶ物流ルートの一角を担っている。京滬高速線(京沪高速铁路)は宿州東(宿州东)駅がある。

 淮北(ホワイペイ)市は、宿州の西にある都市で、市区人口は約125万人、郊外も含めると約220万人。以前は濉渓(濉溪/スエイシー)と呼ばれていたが、1971年に淮北市に改名された。江淮官話が主に話され、江蘇省徐州や河南省商丘とも近い。石炭の工業と酒の醸造が盛んである。

(参考:Wikipedia)
 

富山・婦中 旧婦負郡の中心、高山本線速星駅とファボーレと日産化学

富山・婦中
とやま・ふちゅう

日本国富山県富山市

富山・婦中 旧婦負郡の中心、高山本線速星駅とファボーレと日産化学

 婦中(ふちゅう)は、富山(とやま)県の富山市にある地区で、JR西日本・高山本線の速星(はやほし)駅がある。婦負(ねい)郡の婦中町に属していたが、平成17年(2005年)に合併により富山市の一部となった。合併直前の婦中町の人口は約3.6万人だった。

 婦中は古くより越中国(えっちゅうのくに)の婦負郡に属し、婦負は古代には売比(めひ)と呼ばれ、万葉集では婦負(をむなゐ)と読まれていた。速星(はやほし)は、の神通川(じんずうがわ)の西に広がる旧・婦中町の中心部にあたり、明治22年(1889年)に婦負郡速星村が発足。昭和17年(1942年)に婦負郡の速星村と鵜坂(うさか)村が合併し、婦負郡婦中町が発足した。昭和30年(1955年)に婦負郡の婦中町、朝日(あさひ)村、熊野(くまの)村、宮川(みやかわ)村が合併して、新しい婦負郡婦中町となり、昭和34年(1959年)に婦負郡の神保(じんぼ)村、古里(ふるさと)村、音川(おとかわ)村を編入した。

 平成の大合併では、平成17年(2005年)に婦負郡婦中町は、婦負郡の八尾(やつお)町、山田(やまだ)村、細入(ほそいり)村、上新川(かみにいかわ)郡の大沢野(おおさわの)町、大山(おおやま)町とともに富山市と合併し、新たに発足した富山市の一部となった。

 JR高山本線の速星駅は、婦中町およびその前身の旧・速星村の中心駅で、昭和2年(1927年)に国鉄飛越線の富山~越中八尾(えっちゅう やつお)が開業時に開設された。国鉄飛越線は、高山(たかやま)を経由して東海道本線の岐阜(ぎふ)まで結ぶ路線が全通した昭和9年(1934年)に国鉄高山本線となった。富山市内の区間である富山~越中八尾の利用者は比較的多く、越中八尾で折り返す区間列車もある。また、富山~高岡~岐阜~名古屋を結ぶ特急「ひだ」の一部も停車する。

 速星駅の北西側には昭和3年(1928年)に大日本人造肥料・速星工場が開設され、後に日産化学富山工場となった。速星駅から貨物線が伸びていて、タンク車による化学薬品の貨物列車が運行されている。

 婦中の中心市街地は速星駅の東に広がり、旧・婦中町役場は富山市婦中総合行政センターとなっている。国道359号線沿いに平成12年(2000年)にオープンした「フューチャーシティ・ファボーレ」は、県内有数規模のショッピングモールであり、「アル・プラザ富山」、「TOHOシネマズ・フォボーレ富山」、「スポーツデポ・ファボーレ婦中店」などが入っている。周辺には「ヤマダデンキ テックランドNew 富山婦中店」、富山西総合病院、富山県中央植物園などもある。

 旧・婦中町の北部にあるJR高山本線の婦中鵜坂(ふちゅう うさか)駅は、JR高山本線活性化のために婦中町の鵜坂地区に平成20年(2008年)に臨時駅として開設され、3年間の社会実験の結果、一日100名を超える利用者がいたことから常設化が決まり、平成26年(2014年)に正式な駅に昇格した。駅前には「富山イノベーションパーク」が開発され、北陸コンピュータ・サービス富山本社や、北日本新聞の製作拠点と新聞博物館(メディアプラザ)が併設されている「創造の森 越中座」がある。また、井田川の対岸には安田城跡がある。駅の南に北陸自動車道が通り、駅から約3キロ西に富山西IC(インターチェンジ)がある。

 JR高山本線の千里(ちさと)駅は、当時の婦負郡千里村に開設された駅で、昭和17年(1942年)に千里村は富川(とみかわ)村と合併して神保(じんぼ)村となり、昭和34年(1959年)の合併で婦中町の一部となった。駅の東側には三光機械工業、津根精機婦中工場、田中精密工業婦中工場、北越婦中工場など精密機械の工場が集まっている。

富山・婦中エリアの主な駅

速星 / はやほし 駅
JR西日本 高山本線

婦中鵜坂 / ふちゅううさか 駅
JR西日本 高山本線

千里 / ちさと 駅
JR西日本 高山本線

静岡・清水 沼津卸商社センターと柿田川公園

清水
しみず

日本国静岡県駿東郡清水町

静岡・清水 沼津卸商社センターと柿田川公園

 清水(しみず)町は、静岡(しずおか)県東部の駿東(すんとう)郡にある人口約3.1万人の町。北が駿東郡長泉(ながいずみ)町、西と南が沼津(ぬまづ)市、東が三島(みしま)市と接している。

 静岡県には県中部(元・有渡郡)に以前、清水市があったが、平成15年(2003年)に静岡市と合併し、静岡市清水区となった。清水町は、県東部の駿東郡にあり、旧・清水市や静岡市清水区とはまったく別の自治体である。

 清水町は、古くより駿河国(するがのくに)の駿東郡に属し、明治22年(1889年)に駿東郡清水村が発足。昭和38年(1963年)に駿東郡清水町に昇格した。

 清水町には、町の北端をJR東海・東海道本線が通過しているが、町内に駅は設置されていない。町内の路線バスは三島市の三島駅(東海道新幹線、JR東海道本線、伊豆箱根鉄道駿豆線)、三島広小路駅(伊豆箱根鉄道駿豆線)、長泉町の下土狩駅(JR御殿場線)、沼津市の大岡駅(JR御殿場線)、沼津駅(JR東海道本線、御殿場線)などを結び、これらの駅が比較的近い。

 以前は、三島広小路(みしま ひろこうじ)駅~沼津駅前を結ぶ伊豆箱根鉄道軌道線(島津線)が清水町を通っていた。同線は、明治39年(1906年)に駿豆電気鉄道として開業。明治45年(1912年)に伊豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道駿豆線)を買収し、大正時代には駿豆線の三島町(現・三島田町)駅まで乗り入れていた。後に社名が駿豆鉄道となり、昭和32年(1957年)に伊豆箱根鉄道となった。

 伊豆箱根鉄道軌道線は、旧・東海道を通り、町内に玉井寺前、長沢、国立病院前などの電停があった。しかし、昭和36年(1961年)に発生した黄瀬川(きせがわ)の洪水により橋梁が流失し、国立病院前~沼津駅前が運転休止となり、バスとの競合も進んでいたことから昭和38年(1963年)に全線廃止となった。

 清水町には国道1号線(沼津バイパス)が通り、沼津市と三島市への交通の利便性が良い。湧水で知られる柿田川公園の北側にはショッピングモール「サントムーン柿田川」があり、清水町の商業の中心となっている。狩野川の東側には、もともと沼津駅北口にあった市場や商店が移転して「卸団地」とも呼ばれる「沼津卸商社センター」が開発され、静岡県東部の物流の拠点として機能している。また、卸団地には「食遊市場」があり、食料品や生活雑貨を販売する店舗が入っている。

 沼津市と三島市に挟まれた清水町は、同じ駿河国駿東郡だった沼津市との合併が以前から検討され、昭和40年代に具体化したが、当時は合併に至らなかった。平成に入り、再び沼津市との合併の機運が高まったが、平成15年(2003年)から平成16年(2004年)にかけて当時の町長の合併の姿勢をめぐり沼津市が不信感を持つ時期があり、両自治体の関係が悪化した。清水町は伊豆国の三島市を含めた合併案を提案するが、三島市議会が否決したため、合併は白紙となった。その後、清水町と沼津市は信頼関係を回復したが、合併には至らず、清水町がそのまま維持されている。

 三島と沼津の中間地点であることから、清水町には国立三島病院と国立沼津病院を統合した国立病院機構「静岡医療センター」が置かれ、循環器病、がん、エイズなどの治療が行われている。

 清水町南部の本城山公園にあった戸倉城(とくらじょう)は、駿河国と伊豆国の境にあり、地理的には駿河側にあったが、戦国時代においては狩野川の南にあるため伊豆国側の城として認識されていた。

清水エリアの主な駅

玉井寺前 / たまいでらまえ 電停(1963年廃止)
伊豆箱根鉄道 軌道線

長沢 / ながさわ 電停(1963年廃止)
伊豆箱根鉄道 軌道線

国立病院前 / こくりつびょういんまえ 電停(1963年廃止)
伊豆箱根鉄道 軌道線

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JR東海道本線から見た黄瀬川

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JR東海道本線から見た清水町の眺め

愛知・飛島 飛島新田と藤前干潟、伊勢湾岸の工業地帯

飛島
とびしま

日本国愛知県海部郡飛島村

愛知・飛島 飛島新田と藤前干潟、伊勢湾岸の工業地帯

 飛島(とびしま)村は、愛知(あいち)県の海部(あま)郡にある人口約0.4万人の村。西と北がが弥富(やとみ)市、東が名古屋(なごや)市の港(みなと)区と接し、海を挟んで南東に東海(とうかい)市、知多(ちた)市と近接している。

 飛島は、江戸時代に新田開発として開発されたところで、尾張国(おわりのくに)の海西(かいさい)郡に大宝前新田が1707年(宝永4年)に開発されたが、洪水で荒廃した。その後、1801年(享和元年)に「飛島新田」(とびしましんでん)として再び開発された。その後、政成新田(まさなりしんでん)、福岡新田なども開発され、明治22年(1889年)に海西郡飛島村が発足。大正2年(1913年)に海西郡が海部(あま)郡に統合され、海部郡飛島村となった。

 飛島は筏川と日光川の河口部にあり、ゼロメートル地帯の低地が広がり、稲作が盛んであるほか、花卉栽培が行われている。また、昭和34年(1959年)の伊勢湾台風では、高潮の大きな被害を受け、約130人が死亡した。非常に貧しい農村地帯であったが、その後の復興計画で、伊勢湾北端の名古屋港の開発にともなう埋立地の拡大が行われた。昭和37年(1962年)から埋立地の造成が行われ、昭和43年(1968年)に貯木場が完成し、その後も昭和56年(1981年)まで埋立事業が行われ、工業地帯が形成され、名古屋港西部臨海工業地帯の飛島埠頭が整備され、JERA西名古屋火力発電所や、愛知海運流通センター、三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所飛島工場、トヨタ自動車飛島物流センター、UCC上島珈琲名古屋工場など物流施設や工場などが集まるようになった。飛島村は居住人口は約0.4万人であるが、日中は村外から飛島村の工場に通勤する人も多く、昼間の人口は約1.4万人となる。

 平成の大合併では、海部郡の弥富(やとみ)町、蟹江(かにえ)町、十四山(じゅうしやま)村との合併が検討されたが、飛島村は港湾と工業が発展し、裕福な村であるため、周辺町村との合併に村民の反対が多かったことから、そのまま飛島村は単独で残ることになった。また、十四山村は弥富町と合併して弥富市となり、蟹江町は飛島村とともにそのまま現状を維持している。

 飛島村には鉄道の駅はなく、昭和60年(1985年)に伊勢湾岸自動車道の飛島IC(インターチェンジ)が開設され、名港西大橋で名古屋市の金城ふ頭(きんじょうふとう)がある名港中央ICが結ばれた。平成12年(2000年)には湾岸弥富ICまで延伸。平成15年(2003年)に四日市JCTに延伸され、伊勢湾岸自動車道が東名阪自動車道と連絡した。令和3年(2021年)には伊勢湾岸自動車道に飛島JCT(ジャンクション)が開設され、名古屋第二環状自動車道(名二環/めいにかん)と連絡し、名二環の飛島北ICも開設された。

 飛島村には鉄道が通っていないが、臨海部の通勤需要があることから、飛島村から伊勢湾岸自動車道・名港西大橋経由で、あおなみ線・稲永(いななが)駅、名古屋地下鉄名港線・築地口(つきじぐち)駅、名古屋地下鉄名港線・名古屋港(なごやこう)駅方面のバスが運行されている。また、飛島村から近鉄蟹江駅(蟹江町)を結ぶ路線バスも運行されている。

 飛島村は埋立地の開発で急速な工業化が進んだが、伊勢湾に注ぐ庄内川、新川、日光川の河口部に広がる藤前干潟は、昭和50年代にゴミ処分場の開発計画が発表されたが、反対運動が起こり、平成11年(1999年)に埋立計画が断念され、「藤前干潟」として保全されることになり、平成14年(2002年)にラムサール条約に登録された。藤前干潟は伊勢湾・名古屋港に残る自然として、多くの渡り鳥が飛来するスポットとなっている。

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飛島村を通る名二環道路

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飛島JCT付近の眺め

岐阜・岐南 境川と徳田ねぎ、名鉄岐南駅と岐南IC

岐南
ぎなん

日本国岐阜県羽島郡岐南町

岐阜・岐南 境川と徳田ねぎ、名鉄岐南駅と岐南IC

 岐南(ぎなん)町は、岐阜(ぎふ)県の羽島(はしま)郡にある人口約2.6万人の町。北と西が岐阜市、南が羽島郡笠松(かさまつ)町、東が各務原(かかみがはら)市と接している。

 岐南は古くは尾張国(おわりのくに)の葉栗(はぐり)郡に属し、北に流れる境川がかつての木曽川であり、尾張国と美濃国(みののくに)の境となっていた。しかし、16世紀末の大洪水で木曽川が岐南・笠松より南に流れるようになり、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の時代に美濃国に編入され、江戸時代には美濃国羽栗(はぐり)郡となっていた。

 明治時代になると現在の岐南町の領域には岐阜県羽栗郡の上羽栗(かみはぐり)村と八剣(やつるぎ)村が発足。明治30年(1897年)に羽栗郡と中島(なかしま)郡が統合されて羽島(はしま)郡が発足。羽島郡に所属するようになった。昭和31年(1956年)に羽島郡の上羽栗村と八剣村が合併し、羽島郡岐南村が発足。同年、羽島郡岐南町に昇格した。平成の大合併では羽島郡4町の合併や、各務原市、岐阜市などとの合併が検討されたが、いずれも他の自治体の離脱などによりうまくいかず、岐南町単独で町制を維持している。

 岐南町には名古屋鉄道(名鉄)名古屋本線が通り、町内に岐南(ぎなん)駅がある。また、JR東海・東海道本線も岐南町を通っているが、町内には駅は設置されていない。

 岐南駅は、大正3年(1914年)に境川(さかいがわ)駅として開設され、現在より約150m北にあった。昭和55年(1980年)にホーム延長と待避線設置のため現在地に移転した際に岐南駅に改名された。待避線は当初は下りのみであったが、平成4年(1992年)に上り線にも待避線を新設し、外側にホーム、中間線に通過線がある新幹線タイプの駅となった。

 岐南駅は岐南町の西端にあり、岐南町の中心部からも岐阜駅方面への路線バスが多く運行されている。

 岐南町には東西に国道21号線(岐大バイパス)が通り、岐南町の中央部にある岐南IC(インターチェンジ)で南へ国道22号線(名岐バイパス)、北へ国道156号線(岐阜東バイパス)と連絡している。この交通の便を生かして、岐南町では物流施設や工場が多く集まっている。国道沿いには商業施設や飲食店も多い。

 また、岐南町の農業は青ネギと白ネギのバランスがちょうどよい「徳田ねぎ」が特産品となっている。

岐南エリアの主な駅

岐南 / ぎなん 駅
名古屋鉄道 名古屋本線

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名鉄名古屋本線・岐南駅

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名鉄名古屋本線・岐南駅

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名鉄名古屋本線・岐南駅

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名鉄名古屋本線・岐南駅

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名鉄名古屋本線・岐南駅

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岐南駅に停車する名鉄普通電車

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岐南駅東口

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岐南駅前の街並み

三重 津・一志 イチゴと自然薯とベビースターラーメン

津・一志
つ・いちし

日本国三重県津市

三重 津・一志 イチゴと自然薯とベビースターラーメン

 一志(いちし)は、三重(みえ)県の津(つ)市南部にある地区で、平成18年(2006年)の合併で一志郡一志町が津市の一部になった。合併時の一志町の人口は約1.4万人。

 一志は、古くより伊勢国(いせのくに)の一志郡に属し、かつては一志(いし)と呼ばれていたが、後に一志(いちし)と読まれるようになった。昭和30年(1955年)に一志郡の大井(おおい)村、川合(かわい)村、高岡(たかおか)村、波瀬(はせ)村が合併して一志郡一志町が発足した。一志町は平成の大合併により、平成18年(2006年)に一志郡の香良洲(からす)町、白山(はくさん)町、美杉(みすぎ)村、久居(ひさい)市、安芸(あげ)郡の河芸(かわげ)町、芸濃(げいのう)町、安濃(あのう)町、美里(みさと)村と津市が合併し、新しい津市が発足し、一志町も津市の一部となった。

 旧・一志町は農業が盛んで、稲作のほか、イチゴと自然薯が特産品として知られている。

 旧・一志町には、JR東海・名松線と近畿日本鉄道(近鉄)大阪線が通り、JR名松線の伊勢八太(いせ はた)、一志(いちし)、井関(いせぎ)、伊勢大井(いせ おおい)の各駅、近鉄大阪線の川合高岡(かわい たかおか)、伊勢石橋(いせ いしばし)の各駅がある。

 一志は津市の一部となったが、鉄道路線はJR名松線と近鉄大阪線ともに松阪(まつさか)市方面に向かっているため、津市中心部へ向かうには近鉄大阪線は松阪市の伊勢中川(いせ なかがわ)駅で近鉄名古屋線に、JR名松線は松阪駅でJR紀勢本線に乗り換える必要がある。

 近鉄大阪線は大阪・奈良方面から伊勢を結ぶ参宮急行電鉄として建設され、昭和5年(1930年)に佐田(現・榊原温泉口)~参急中川(現・伊勢中川)が開業し、当時の川合村と高岡村の境界付近に川合高岡駅が開設された。参宮急行は昭和16年(1941年)に大阪電気軌道(大軌)との合併で関西急行鉄道となった後、戦時中の統合で近畿日本鉄道(近鉄)の大阪線となった。近鉄大阪線は伊勢・名古屋方面を結ぶ特急が頻繁に走る幹線であり、名古屋方面への列車は伊勢中川駅の西側から分岐するデルタ短絡線を経由して近鉄名古屋線に入る。川合高岡駅は普通電車のみが停車し、津・名古屋方面へは伊勢中川駅で乗り換える。一志から鉄道へは松阪市を経由する必要があるが、川合高岡駅から津市の久居駅を結ぶ路線バスがある。

 川合高岡駅のすぐ南にはJR名松線の一志駅があり、乗り換えが可能である。名松線は、松阪から名張(なばり)を結ぶ国鉄名松線として建設され、松阪側から建設が始まり、昭和5年(1930年)に井関まで開業。徐々に延伸して昭和10年(1935年)に伊勢奥津(いせ おきつ)まで開業したが、名張を通る参宮急行が先に伊勢方面への路線を開通させたため、国鉄名松線はその先の建設意義を失い、名張までの延伸は実現しなかった。JR名松線は松阪市から津市の一志、白山、美杉地区を結ぶローカル線として運行されている。

 一志駅は昭和13年(1938年)に伊勢田尻(いせ たじり)駅として開設され、昭和43年(1968年)駅が近鉄の川合高岡駅の近くに移転した際に当時の町名である一志駅に改名された。一志駅と川合高岡駅の駅前には旧・一志町役場が津市一志総合支所となっている。また、津市一志総合支所の西には「ベビースターラーメン」で知られる「おやつカンパニー」の本社がある。川合高岡駅・一志駅の西約2キロには一志温泉「やすらぎの湯」がある。また、一志駅の南には弁天宮があり、その南の丘には薬師谷古墳群、大広古墳群、ヒジリ谷古墳群などの古墳群がある。

 JR名松線の井関(いせぎ)駅は、おやつカンパニー井関工場の最寄り駅で、駅の近くには「三重のまんなかまちかど博物館 元縄文生活再現地」、立切古墳群、ユガミ谷古墳群などがあるが、井関駅の利用者は極めて少ない。

 近鉄大阪線の伊勢石橋駅は、井関駅の約2キロ北にあり、駅の西側には一志ゴルフ倶楽部が広がっている。かつて久居駅から石橋を経由して名松線の伊勢川口駅までナローゲージの中勢鉄道があったが、参宮急行(現・近鉄大阪線)や名松線の開業で並行するようになったことから、速度の遅い中勢鉄道は昭和18年(1943年)に廃止された。

 このほか、松阪市(旧・一志郡嬉野町)との境には、伊勢自動車道の一志嬉野IC(インターチェンジ)がある。

津・一志エリアの主な駅

川合高岡 / かわいたかおか 駅
近畿日本鉄道 大阪線
一志 / いちし 駅
JR東海 名松線

伊勢石橋 / いせいしばし 駅
近畿日本鉄道 大阪線

井関 / いせぎ 駅
JR東海 名松線

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近鉄大阪線・川合高岡駅

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近鉄大阪線から見た津市一志地区の眺め
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