千葉・芝山 成田空港の裏側の町を結ぶ芝山鉄道と空港物流の拠点

芝山
しばやま

日本国千葉県山武郡芝山町

千葉・芝山 成田空港の裏側の町を結ぶ芝山鉄道と空港物流の拠点

 芝山(しばやま)町は、千葉(ちば)県の山武(さんぶ)郡にある人口0.7万人の町。北西が成田(なりた)市、西が富里(とみさと)市、南が山武(さんむ)市と山武郡横芝光(よこしばひかり)町、東が香取(かとり)郡の多古(たこ)町と接している。

 日本の首都圏の玄関口である成田国際空港のターミナルビルや滑走路の大部分は、隣接する成田市にあるが、成田空港に着陸する飛行機は芝山町を低空飛行する。このような地理的環境にあることから、成田空港建設時には昭和40年代より激しい反対運動があり、特に「三里塚芝山連合空港反対同盟」が激しい反対闘争を繰り広げた。

 しかしながら成田空港の建設は日本の重要な国策であり、反対闘争により建設が遅れながらも、昭和53年(1978年)に開港した。芝山町はのどかな農園が多いとはいえ、開港後は離着陸する飛行機の騒音が激しく、さらに滑走路を横切れないため、成田空港東側の地区は成田空港敷地を大きく迂回する必要があった。芝山町への見返りとして、成田国際空港株式会社、京成電鉄、日本航空、千葉県、成田市、芝山町などが出資した第3セクターの「芝山鉄道」が昭和56年(1981年)に設立され、成田空港~芝山町を結ぶ路線が建設されることになった。

 芝山鉄道は、空港と共存する町づくりを目指して空港建設反対派などを説得しながら、建設計画を進め、平成10年(1998年)に着工されたが、C誘導路の地下を通る建設予定ルート上(成田市側)に空港反対派の「一坪共有地」(木の根ペンション)があり、その地権者の同意を得ることが困難だったことから、平成12年(2000年)その区間を迂回する形にルート変更されることになり、平成14年(2002年)に東成田(ひがしなりた)~芝山千代田(しばやま ちよだ)が開業した。

 東成田駅は、平成3年(1991年)まで京成電鉄本線の成田空港駅だったが、本線が旧・成田新幹線の土木構造物を利用して第2ターミナルと第1ターミナルに直結する新線に切り替わり、東成田駅は芝山鉄道と京成電鉄の共同駅となった。芝山鉄道線は東成田から京成電鉄・東成田線に乗り入れ、京成成田駅を結んでいる。さらに朝夕時には東京方面へ京成本線にも直通運転している。

 芝山千代田駅は、成田空港のA滑走路の南東側にあり、ホームから成田空港の飛行機が見える。芝山千代田駅周辺は空港の整備場が近く、また空港に近いことからさまざまな物流業者のロジスティクスセンターがあり、また空港の南側には工業団地もあり、空港の立地を生かした産業が発展している。成田空港の裏側にあたるので、芝山千代田駅の利用者は多いとはいえないが、将来的には芝山千代田駅から九十九里浜(くじゅうくりはま)方面への延伸構想もあり、駅前には早期建設を求める看板もある。

 今は日本を代表する国際空港として欠かすことのできない成田空港であるが、長年にわたる空港反対闘争が繰り広げられてきた歴史があり、芝山町内にはそのいくつかの足跡が残る。A滑走路の南端にあたる岩山(いわやま)地区では、昭和47年(1972年)に成田空港の着陸妨害を目的に高さ約60mの「岩山大鉄塔」が建てられ、反対闘争の拠点の一つとなっていた。開港する昭和52年(1977年)に「岩山大鉄塔」の強制撤去が執行され、機動隊が反対派を制圧して鉄塔は解体されたが、この鉄塔の撤去後にはそれに抗議する反対派と機動隊が再衝突して死者も出る「東山事件」も発生した。撤去後も基礎部分と鉄塔の低層部分が残り、反対闘争の歴史を伝える遺構となっている。

 A滑走路の南の岩山地区には現在、「スカイパークしばやま」が広がり、「ひこうきの丘」からは、A滑走路に着陸する飛行機が眺められる。平成元年(1989年)に開館した「航空科学博物館」には、さまざまな飛行機が展示され、飛行シミュレーターを体験することもできる。また、「航空科学博物館」の近くに平成23年(2011年)に開館した「成田空港 空と大地の歴史館」は、成田空港の建設側と反対側の双方の観点から展示している資料館で、成田国際空港株式会社の歴史伝承委員会が運営し、成田空港の歴史を伝えている。

 成田空港の反対闘争は、実際にはまだ続いており、成田空港の敷地内には、いくつか反対派が所有する土地が残る。第二ターミナルの南東、芝山町側のC誘導路にはフェンスや金網で囲まれた「横堀鉄塔」が今も残り、内部には「抗議する農民」の像が置かれ、「案山子亭」などもあるのだという。一般立入はできない。このほか、成田市側にも前述の「木の根ペンション」や「東峰神社」といった反対派が所有する土地が点在し、B滑走路の延長やC横風滑走路の建設を困難にしている。

 芝山町は空港関連施設以外には、町南部に「芝山古墳群」があり、たくさん「はにわ」が出土したことで知られ、「芝山古墳・はにわ博物館」がある。

芝山エリアの主な駅

芝山千代田 / しばやまちよだ 駅
芝山鉄道 芝山鉄道線

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芝山鉄道・芝山千代田駅まで乗り入れる京成電車

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芝山千代田駅から見える成田空港の飛行機

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芝山千代田駅から見える成田空港の飛行機

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芝山鉄道・芝山千代田駅

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芝山鉄道の九十九里方面への延伸を求める看板

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芝山千代田駅から芝山町中心部方面を結ぶバス

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芝山千代田駅前にある「はにわ」のモニュメント

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愛知・高浜 三州瓦と高浜とりめし

高浜
たかはま

日本国愛知県高浜市

愛知・高浜 三州瓦と高浜とりめし

 高浜(たかはま)市は愛知(あいち)県中南部にある人口約5万人の市。北が刈谷(かりや)市、東が安城(あんじょう)市、南が碧南(へきなん)市、西が衣浦港を挟んで半田(はんだ)市と知多(ちた)郡の東浦(ひがしうら)町と接している。

 高浜市は、西三河の中心都市である刈谷市に接し、境川の河口から広がる衣浦港が三河国(みかわのくに)と尾張国(おわりのくに)の境となっており、対岸の知多半島は尾張側に属する。

 高浜市は、衣浦港の東に平野が広がり、良質な粘土が産出されることから窯業が盛んで、特に「瓦」は「三州瓦」(さんしゅうがわら)のブランドで知られている。

 高浜市には名古屋鉄道・三河線が通り、吉浜(よしはま)、三河高浜(みかわ たかはま)、高浜港(たかはまみなと)の各駅がある。名鉄三河線は、知立(ちりゅう)~刈谷~三河高浜~碧南(へきなん)を結んでおり、刈谷でJR東海道線か、知立で名鉄名古屋本線に乗り換えれば名古屋方面にも便利だ。

 三河高浜駅は、高浜市役所の最寄り駅で、高浜市の中心駅でもある。高浜港駅は、実際には港は1キロほど離れている。高浜港駅から西へ行くと、衣浦大橋のところに「瓦」をテーマにした「やきものの里 かわら美術館」があり、衣浦大橋を渡ると知多半島の半田市に抜けられる。

 東浦町のJR武豊線・東浦駅からは衣浦臨海鉄道碧南線の貨物線が高浜市内を通っている。この貨物線は衣浦港を鉄橋で渡り、中部電力碧南火力発電所の脱硫用の炭酸カルシウムと発電の際に精製される建材になる石炭灰(フライアッシュ)を輸送している。

 高浜市はこのほか、養鶏が盛んであり、「高浜とりめし」が郷土グルメとしてPRされている。

高浜エリアの主な駅

三河高浜 / みかわたかはま 駅
名古屋鉄道 三河線

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名鉄三河線・三河高浜駅

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三河高浜駅に到着する名鉄電車

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三河高浜駅

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台湾 麗しの島国、台湾化した中華民国、日本と国交がない隣国

臺灣・中華民國
タイワン/Tâi-oân (台湾語/ホーロー語)
トイヴァン/Thoi-van (台湾客家語)
タイワン/ㄊㄞˊㄨㄢ (台湾華語/北京語)
タイワン/Taywan (アミ語、タイヤル語)
台湾・中華民国

台湾 麗しの島国、台湾化した中華民国、日本と国交がない隣国

 台湾(臺灣/タイワン)は、東アジアに位置する島国で、憲法上は「中華民国」(中華民國/ツォンホアミンクオ)を国号としている。1949年にもともとの中華民国領土に中華人民共和国が建国され、中国共産党に敗退した中国国民党の中華民国政府がもともとの領域から追い出され、台湾に移転して以来、中華民国政府が台湾本島と周辺の島嶼を実効統治する状況が続き、民主化後は台湾人による投票で国会議員や国家元首の総統(大統領)が選出されており、実質的には「中華民国≒台湾」となって久しく、中華民国政府も自国のことを「台湾」と呼ぶことが多い。中華民国国旗(青天白日満地紅旗)は旧中国国旗であり、国名の英語表記も「Republic of China」と「China」が入り、中国と混同されるため、「中華民国」ではなく「台湾」(Taiwan)または「台湾共和国」(Republic of Taiwan)を正式国名にして新憲法を制定して完全独立建国すべきという民意も根強いが、台湾を統治したことのない中華人民共和国が台湾を自国領と一方的に主張して「台湾独立」の動きに対して武力行使も辞さないと威嚇しており、台湾は「中華民国」体制の現状を維持しながら国のあり方を模索している。

 台湾の人口は約2350万人で、世界の国々の中で約55番目の人口規模を誇る。面積は約3.6万平方キロメートルで、日本の約10分の1、九州とほぼ同じ面積で、人口密度は極めて高い。国内総生産(GDP)は、約5700億ドルで世界第22位前後、一人当たりGDPは約2万4000ドルで世界第34位前後であるが、一人当たり購買力平価(PPP)は約4万9900ドルで世界第16位前後と日本より高いように、所得は日本より低いが物価は日本より安く、生活水準は先進国であるといえる。漢字文化圏でもあり、日台双方非常に親近感を抱きやすく、50年間の日本統治の歴史もあり、日本との関係が極めて密接な親日国であるが、中華人民共和国からの強い圧力により日本との国交がない。

 通貨は「新臺幣」(シンタイピー)と呼ばれ、日本語では台湾元やニュータイワンドルとも呼ばれる。通貨の単位は「圓」(ユエン)であるが、口語では華語は「クワイ」、台湾語では「コー」と呼ぶことが多い。「圓」は同じ発音の「元」(ユエン)と略されることもあるが、「圓」は「円」の旧字体(正字体)である。但し、日本では「日本円」と混同しないよう「台湾元」と呼ぶことが多い。

 台湾の名は、台湾南部の現在の台南・安平(アンピン)のあたりにあった先住民族シラヤ族のタイオワン(Taivoan)村が由来になっているとされ、オランダ統治時代に台湾全体を指して「タイワン」と呼ばれるようになったのだという。タイワンは、福建南部の福建語(閩南語)と共通する台湾語(ホーロー語)で「大員」(タイワン)と表記されるようになり、後に清国時代に「臺灣」(台湾)という表記が定着した。

 台湾本島は四方を海に囲まれ、太平洋の東に日本の沖縄県、台湾海峡を挟んで西に中華人民共和国、バシー海峡を挟んで南にフィリピンがある。台湾は南北に細長く、西部は平原が広がり、東部は山がちで、中央部は3000m級の山が連なる中央山脈があり、最高峰は3952mの玉山(ギョクサン/ユィーサン)。先住民族のツォウ語ではパットンカン(Patungkuonʉ)、ブヌン語ではトンク・サヴェク(Tongku Saveq)と呼ばれる。日本統治時代には、富士山より高いことから、明治天皇により「新高山」(にいたかやま)と命名された。北緯23.5度の北回帰線が通り、その北が亜熱帯、南が熱帯気候で、台湾北部は冬は雨が多くわりと寒いが、南部は冬も暖かく天気もよい。山地は温帯で、茶畑や竹林が多い。高山部ではヒノキが多く、冬は雪が降ることもある。また、台湾は夏場に台風がよく襲来する。台湾はタロコ(太魯閣)峡谷の大理石の断崖絶壁、阿里山や太平山のヒノキの神木、時間ごとに幻想的に色が変わる「日月潭」(ジッゴワッタム/ズーユエタン)など世界遺産級の素晴らしい自然があるが、台湾は中国の圧力により国連から排除されており、ユネスコ(国連教育科学文化機関)に加盟できないため、世界遺産に一つも登録されていない。

 台湾の主な都市は、新北(台:シンパッ/華:シンペイ)398万人、台中(臺中/タイテョン/タイツォン)278万人、高雄(コーヒョン/カオション)277万人、台北(臺北/タイパッ/タイペイ)269万人、桃園(トーフン/客:トーイェン/タオユエン)218万人、台南(臺南/タイラム/タイナン)189万人の6直轄市(6都)で台湾人口の約半数を占める。また、基隆(ケーラン/チーロン)、新竹(シンティッ/客:シンツゥッ/シンツウ)、嘉義(カーギー/チアイー)の各市も、県と同等の自治体となっている。県はこのほか、宜蘭(ギーラン)、新竹(客:シンツゥッ/シンティッ)、苗栗(客:メウリッ/ビャウリッ)、彰化(チョンホア)、南投(ラムタウ)、雲林(フンリム)、嘉義(カーギー)、屏東(ピントン)、台東(臺東/タイタン)、花蓮(ホアレン)の各県がある。

 台湾本島の周辺には台東県に緑島(リットー)、蘭嶼(ポンソノタオ)などの離島があり、宜蘭県の北東の海上にある尖閣諸島(せんかくしょとう/沖:イーグンクバシマ)は、台湾と中国(中華人民共和国)も領有権を主張しており、台湾側は「釣魚台」(ティオヒータイ/ティアオユィータイ)と呼び、中国側は「釣魚島」(ティアオユィータオ)と呼んでいる。台湾側は尖閣周辺は台湾漁民の伝統的漁業海域であると主張しており、日本側との漁業資源の共有を呼びかけている。一方、中国側の領有の根拠は、台湾を中国領と主張しているからで、実際は違うのだから中国側の領有権の根拠は弱い。

 さらに台湾海峡には離島の澎湖(ピィオー)があり、福建省側には中華民国(台湾)側が統治している金門(キンムン/チンメン)と連江(福:リエンンゴン/リエンチャン)の各県がある。金門は福建省アモイ(廈門/エームン/シアメン)の対岸にある島で、小三通の交通の拠点である。金門や廈門は台湾語が通じる一方で、連江県は馬祖(マーヅウ)列島とも呼ばれ、言語的には福州語(閩東語)文化圏に属し、台湾語とはまた異なる福州語が話されている。

 台湾の交通は、台鉄(臺鐵)が台湾を一周する路線があり、特に西部幹線(縦貫線)が基隆、台北、桃園、新竹、苗栗、台中、彰化、嘉義、台南、高雄などの主要都市を結んでいる。台鉄は日本統治時代に多くの路線が建設され、JR在来線と同じ狭軌(1067mm)である。また、2007年に開業した台湾新幹線(高鐵)は線路幅が日本の新幹線と同じ標準軌(1435mm)で、日本製の新幹線車両が採用され、台北~高雄(左営)を約100分で結んでいる。都市鉄道は、台北、新北、桃園、高雄に地下鉄・高架電車などがあり、高雄にはライトレール(LRT)も2016年に開業した。台中に高架電車が建設中であり、今後は新竹、基隆、新北などにライトレール建設計画、台南にモノレール建設計画もある。台湾の鉄道のアナウンスは、華語、台湾語、客家語、英語のアナウンスがあり、台湾東部ではアミ語のアナウンスも加わる。

 高速道路は、基隆・台北から高雄・屏東まで中山高速道路(1号線)とフォルモサ高速道路(3号線)がメインルートであり、そのほか桃園国際空港を結ぶ高速道路や1号線と3号線を東西につなぐ支線がある。高速道路の発達により、各都市を結ぶ高速バスも充実している。

 台湾の空港は、桃園市の台湾桃園国際空港が最も大きく、首都・台北および台湾北部の空の玄関口となっている。桃園空港からは高鉄桃園駅や台北駅を桃園メトロ空港線が結んでいる。台北松山空港は、以前は台湾の国内線用であったが、松山空港は台北市中心部にあり非常に交通の便がよいことから、台湾新幹線の開業で空に余裕ができた後に、中国各地の路線および東京羽田、ソウル金浦、上海虹橋への国際シャトル便を開設し、再国際化した。台湾南部の玄関口は、高雄国際空港で、東京成田や大阪などへの直行便もある。高雄国際空港は高雄メトロ紅線が高雄市中心部を結んでいて非常に便利である。このほか、台湾中部の台中国際空港は中国路線が多いが、今後は日本路線も増加が見込まれている。花蓮空港や台東空港は、台湾東部の交通が不便であることから、台北松山への便が多い。台東空港は緑島や蘭嶼など離島を結ぶ便も発着している。このほか澎湖、金門、馬祖(南竿、北竿)の各空港は台北や高雄を主に結んでおり、金門と馬祖は、中国福建省との「小三通」の旅客も利用している。「中華航空(チャイナエアライン)」と「長榮航空(エバー航空)」が台湾の2大大手航空会社である。

 台湾の産業は、スマートフォンや薄型テレビを受託生産する「鴻海(ホンハイ)」や、スマホ製造の「宏達(HTC)」、ノートパソコンの「華碩(ASUS)」、「宏碁(acer)」、半導体の「台積電(TSMC)」、石油化学や電子部品などの「奇美」や「台塑(台湾プラスチック)」などの大手企業があり、台湾経済を牽引している。日本から機械を輸入して、台湾で部品を作り、中国で組み立てて米国や日本に販売する貿易構造が確立されているほか、近年は東南アジアや南アジアの進出も積極的に行われている。新竹サイエンスパークでのハイテク工業やバイオテクノロジー、高雄の石油化学工業と輸出加工区、台湾中部や南部の工業団地など、工業が発達している。

 農業は、豊富なフルーツが台湾の特産物となっており、特にマンゴー(芒果/檨仔/ソワイアー)やバナナ(香蕉/弓蕉/キンチオ)、パイナップル(鳳梨/オンライ)は日本にも多く輸出されている。そのほかパパイヤ(木瓜/ボッコエ)、グアバ(芭樂/菝仔/パラー)、スターフルーツ(楊桃/イウトー)、アテモヤ(釋迦/シッキア)など南国ならではの果物が豊富だ。米は日本時代に台湾の在来米と日本米を掛け合わせて改良された「蓬莱米」が台湾の最も主流の米として食されている。かつてはサトウキビの栽培が盛んであり、製糖鉄道が各地に張り巡らされていたが、近年は衰退し、国営製糖会社の広大な用地が工業区に転用されたりしている。畜産は、養豚と養鶏が盛んで、羊肉(ヤギ肉)もよく食される。牛肉はかつては食べる人が少なかったが、新華人の食文化の影響や食の西洋化などで牛肉を食べる人も増えた。ガチョウ(鵝肉)やアヒル(鴨肉)もよく食される。山の中腹ではお茶の栽培が盛んで、烏龍茶(オーリョンテー/ウーロンツァー)は台湾の特産品の一つである。

 スポーツは、野球が盛んで、日本時代に嘉義農林学校が甲子園で準優勝したほか、戦後も台湾東部の台湾原住民族の少年野球チームが国際大会で優勝し、台湾の子どもたちに夢を与えた。郭源治、郭泰源、大豊泰明(陳大豐)、陽岱鋼など台湾から日本のプロ野球で活躍する選手も多い。また、世界のホームラン王の王貞治が中華民国(台湾)籍であることも台湾人の憧れとなっている。このほか、ゴルフ、テニス、バドミントン、囲碁、重量挙げなどの競技でも台湾選手が国際舞台で活躍している。国際スポーツの場では、台湾チームは中国チームとの兼ね合いから「オリンピック方式」として「Chinese Taipei(中華台北)」名義で出場することになっているが、これが台湾を矮小化するものとして台湾人からの不満が年々高まっており、堂々と「Taiwan(台湾)」として国際舞台に出場できるかが今後の課題となっている。

 宗教は、島国であるため、海の神様である媽祖(マーツォー)信仰が篤く、道教の廟がたくさんある。媽祖廟(マーツォービョー)のほか関帝廟や孔子廟も各地にある。また客家地区では三山國王(サムサンクェッヴォン)の廟や義民廟(ニーミンメウ)がある。また、仏教も広く根付いていて、素食(ベジタリアン)の人も多い。仏教団体の慈済や佛光山は国際ボランティア活動も積極的に行っていることでも知られる。キリスト教も根付いており、プロテスタントが「基督教」、カトリックが「天主教」と区別されている。長老教会は台湾で最大のキリスト教宗派であり、台湾教会ローマ字の普及にも貢献している。山間部の台湾原住民族にもキリスト教が根付いており、それぞれの部族語での礼拝が行われている。

 台湾は異なる時代に異なる移民がやって来たことから、面積は小さいがかなり複雑な多民族社会である。古くから住んでいるのは「台湾原住民族」と呼ばれる先住民であり、日本時代には高砂族(たかさごぞく)と呼ばれ、中華民国統治時代になってから高山(カオサン)族と呼ばれるようになったが、民主化の進展とともに「台湾原住民族」が正式名称となった。現在は、固有の言語が現代も残るアミ、パイワン、タイヤル、ブヌン、タロコ、プユマ、ルカイ、セデック、ツォウ、サイシヤット、タオ、カバラン、サキザヤ、サオ、サアロア、カナカナブの16族が政府認定されており、主に台湾東部と中部の山間部に住み、台湾の人口の約2%を占める。台湾原住民族は、言語的には南島語族(マレー・オーストロネシア語族)に属し、フィリピン、マレーシア、インドネシア、ミクロネシア、ポリネシア、メラネシア、ニュージーランド、マダガスカルへと太平洋に広がる南島語族の古い祖先は、台湾から派生したという説が有力である。海を越えて数字の5を「lima(リマ)」と呼ぶなど、その南島語族の共通点は興味深い。2005年に原住民族テレビ(原視)が開局され、台湾原住民各族の族語でニュースや番組が制作・放送されるようになった。

 台湾原住民族は、広義では政府認定16族のほかにも、台湾の平地に住む平埔(ペェポー)族を含む。平埔族は、血統的には台湾原住民族であるが、言語的には台湾語を話すホーロー人(Holo人)や客家(ハッカ)語を話す客家人にほぼ同化した民族で、ケタガラン、タオカス、パゼッヘ、パポラ、バブザ、ホアニヤ、シラヤ、マカタオなどの部族があり、台湾の多くの地名は平埔族の言語が由来になっている。サオ族とカバラン族はもともと平埔族として分類されていたが、台湾原住民族として認定されたように、平埔族と高砂族の区別は崩れており、台湾原住民族の政府認定は族語の復興の意味合いが強かったが、今後は台湾民族文化復権の意味合いから平埔族についても文化復興が盛んになりそうだ。

 台湾の言語は、中華民国の「国語」として1945年以降に台湾で教育やマスメディアを通して普及が進んだ「華語」(ホアユィー)が事実上の公用語となっている。中華民国式の中国語(北京語)のことで、中華人民共和国(中国)の中国語(北京語、普通話)と会話は通じるが、中華民国の華語は台湾語や台湾社会の影響を受けて語彙や発音に若干の違いがあることから、中華民国の華語は中国語と区別して「台湾華語」と呼ぶこともある。

 台湾華語と中国の中国語との最大の違いは漢字であり、台湾華語は正体字や繁体字と呼ばれる伝統的な旧字体を維持しているのに対し、中国の中国語は簡体字と呼ばれる簡略化された漢字を正式表記としており、この区別は一目瞭然であり、文字表記だけを見るとまったく別の言語である。また、発音表記についても、台湾華語は「ㄅㄆㄇㄈ(ボポモフォ)」と呼ばれる注音符号を用いていることも、ローマ字に声調記号を組み合わせた漢語ピンインを用いる中国語とは異なる。

 台湾の多数派民族は、主に福建省南部から400年ほど前から台湾に移民し、平埔族と融合したHolo人(ホーローラン)と呼ばれる人たちで、台湾人口の約75%を占める。台湾語(ホーロー語)を日常生活で話しているが、近年は華語の普及で、華語を日常会話でも併用している。

 台湾語(ホーロー語)は、多数派のHolo人(ホーローラン)の母語であり、「台語」(タイギー)や「Holo話」(ホーローオエ)と呼ばれる。台湾語は中国福建省南部廈門(エームン)、漳州(チャンチウ)、泉州(ツォワンチウ)などで話されている福建語(閩南語/バンラムギー)と意思疎通が可能だが、日本統治の影響や別の国となって久しいことから語彙が異なるものも多い。

 もともと台湾の多数派言語であったが、1895~1945年の日本統治時代は、日本語が国語とされてきたため、公的文書や学校教育での普及などを国家権力で推進していく機会がなく、中華民国時代になると、公的機関や教育普及でのノウハウがある華語が日本語に代わって「国語」とされたため、台湾語は公用語としての地位を長年得られなかった。生活会話、歌や芝居などの民間では使用されてきたが、学校教育やテレビ放送などでは中国国民党独裁時代の政策で台湾語の使用が制限され、台湾語文化に大きな世代間断絶が発生してしまった。長年、台湾語の教育体制が整っていなかったことから、漢字表記が統一されておらず、しかも華語とかなり違う表現があり、漢字を当てるのが難しい表現もあり、文書で書かれることは少ない。台湾の長老教会などでは教会ローマ字(白話字、pe̍h-ōe-jī/POJ)というローマ字による台湾語表記が用いられており、民主化後の台湾語教育でも広く用いられている。台湾語のローマ字発音表記をめぐっては、さまざまな表記法が対立してきたが、歴史ある教会ローマ字(POJ)か教育部台湾ローマ字(台羅/Tâi-lô)の二つが主流になりつつある。

 台湾語は、民主化とともに復権しつつあるが、華語の普及に慣れた人々からは抵抗もあり、多数派言語でありながら若い世代では話せない人も増えている。しかしながら、華語がもともと外来言語であることから、台湾語は台湾人のアイデンティティーとして欠かせないものであり、テレビ放送や学校教育の充実などを通じた台湾語文化の復興を進める動きもある。華語が日常会話にも浸透する中、台湾語を混ぜながらの会話は台湾人にとっては自然な会話である。また、一般的傾向として台湾北部では華語勢力が優勢で、中南部では台湾語勢力が優勢といえる。台湾の伝統芸能である台湾歌劇の「歌仔戲」(コアヒー)や、人形芝居の「布袋戲」(ポーテーヒー)は、台湾語で演じられる。

 第2のエスニックグループは客家(ハッカ)人と呼ばれる民族で、ホーロー人より遅れて主に広東省東部から台湾に移民し、台湾人口の約15%を占める。客家語を話すが、少数派であるため、客家語を話せない人も多い。また、血統は客家人であるがホーロー人が多数の地区に住んで言語的にホーロー人化した人たちはHolo客(ホーローケ)とも呼ばれる。客家人は桃園、新竹、苗栗、台中、高雄、屏東、花蓮、台東などの山麓部に多く住んでおり、質素倹約を美徳とし、アブラギリの花「油桐花」(ユートンファー)は台湾客家の象徴となっている。

 客家語は、主に四県(シーイェン)方言と海陸(ホイリュッ)方言に分かれ、四県方言が苗栗(メウリッ)県、桃園(トーイェン)市、および高雄市・屏東県の六堆(リュットゥイ)地区、海陸方言が主に新竹県、桃園市などで話されている。四県方言は、中国広東省の梅州(モイツウ)で話されている客家語と近く、客家語の標準語の地位を築いており、鉄道や飛行機の客家語アナウンスは四県方言が用いられる。マイノリティーである客家語は、伝承の危機にあり、「客家語なくして客家人なし」とのことで客家語文化の復興が、政府機関の「客家委員会」により進められている。特に2003年に開局した「客家テレビ」(客家電視台/ハッカー ティエンスートイ)は世界初の24時間客家語放送テレビであり、客家語のドラマやバラエティー番組も放送されるようになり、客家語文化の復権に大きな役割を果たしている。「客家テレビ」のニュース番組などは時間帯によって四県や海陸、その他方言でも放送されており、どの方言を用いているかが表示される。

 3番目に多いエスニックグループは、1945年以降に中国国民党軍、中華民国政府とともに中国各地から渡って来た人たちで、華語を台湾に持ち込んだが、実際には中国各地方の言葉を話す人も多く、多様な文化が混在している。中国国民党軍の兵士として日中戦争や国共内戦を戦い、中国国民党とともに台湾に渡って来た人が多く、当時の政府幹部は非常に優遇されたが、下級兵士たちは台湾に来たものの住居にも困るほどで、家族とも離散した人も多い。「外省人」(ワイセンレン)と呼ばれてきたが、台湾の国家意識が高まる中、「省」の位置づけや、「外」という表現が現代にふさわしいか議論があり、台湾に新たに移り住んだ華人(ホアレン)なので、「台湾新華人」と呼んだほうが、台湾人意識が強まる外省人の2世、3世の意識ともマッチするだろう。

 このほか近年は、ベトナム、フィリピン、インドネシア、マレーシア、タイなどからの移民も多い。また、これらの国々には福建語(≒台湾語)や客家語が母語の東南アジア華人も多く、これらのネットワークも東南アジアとのビジネスに有利となる要素である。また、中国人との婚姻も増えている。

 台湾の食文化は、これら台湾の多様なエスニックグループにより、多彩な進化を遂げてきた。一般的な台湾料理は、「米粉」(ビーフン)がよく知られている。このほか、「切仔麵」(ツェガミー)、「擔仔麵」(タアミー)などのスープ麺、「滷肉飯」(ローバープン)、「雞肉飯」(ケーバープン)、「排骨飯」(パイクップン)などの丼料理、おこわの「筒仔米糕」(タンガービーコー)や、ちまきの「肉粽」(バーツァン)、「魚丸湯」(ヒーワントゥン)、「貢丸湯」(コンワントゥン)などのスープ、「肉羹」(バーケェ)、「花枝羹」(ホエキーケェ)などのとろみスープ、ホルモン入りとろみにゅうめんの「大腸麵線」(トアトゥンミーソワ)、切干大根入り卵焼きの「菜脯蛋」(ツァイポーヌン)、大根もちの「菜頭粿」(ツァイタウコエ)、カキの入ったお好み焼きの「蚵仔煎」(オアツェン)、肉の餡をぷるんとした皮で包んだ「肉圓」(バーワン)など豊富な料理がある。

 客家料理は、「粄條」(パンテャウ)というお米のうどん料理があり、高菜を発酵させた「福菜」(ポクツォイ)や「鹹菜」(ハムツォイ)を料理に用いるのが特徴であり、「鹹菜」を干した「鹹菜干」(ハムツォイコン)は華語で「梅干」(メイカン)と呼ばれ、これと豚三枚肉を煮込んだのが「梅干扣肉」(ハムツォイコン ケウニュク)。そのほか、豚の大腸をショウガと酢で炒めた「薑絲炒大腸」(キョンシーツァウタイツォン)、スルメと豚肉とセロリとネギの炒め物「客家小炒(炒肉)」(ツァウニュク)などの料理がある。また、台湾北部の客家は、「桔醤」(キッチョン)という柑橘ソースを多用する。お茶の葉とゴマやピーナッツなどを擂り潰して飲む「擂茶」(ルイツァー)も特色ある客家飲食文化の一つである。

 台湾原住民料理は、部族によって異なるが、竹筒飯、焼きイノシシ肉、ビンロウ花の炒め物、キョン(羌)肉の炒め物、カタツムリの炒め物、粟ちまきの「アバイ」や「チナブ」など、独特の料理がある。

 台湾料理は日本統治時代の影響もあり、おでんが「黒輪」(オレン)や「關東煮」(クワントンツウ)、てんぷらが「甜不辣」(テンプラ)などそのまま音訳されて定着している。但し、「甜不辣」はさつま揚げを煮込んだもので、日本の天婦羅とは異なり、台湾料理化している。

 台湾をグルメ天国にしたのは、新華人(外省人)が中国各地方から持ち込んだ中華料理である。特に中華民国政府は一流シェフも連れてきており、北方料理、上海料理、広東料理、湖南料理、四川料理など、中国各地のレストランが台湾にできた。さらに中国各地の料理が台湾の地で融合し、新たな台湾の飲食文化が生まれた。台湾の湖南料理は本場中国湖南省の激辛湖南料理とは異なる、湖南出身のシェフが宴会料理として考案した食べやすい高級料理であるし、もともと激辛の四川料理も台湾人の嗜好に合わせて甘辛く変わり、「宮保雞丁」(コンパオチーティン)や「蒜泥白肉」(スワンニーパイロウ)なども甘辛い台湾風四川料理となった。上海料理の「小籠包」(ショーロンポー/シャオロンパオ)は、台湾では北方餃子の技術と台湾人の好みの味を融合しながら発展し、「鼎泰豊」(ティンタイフォン)をはじめ今や台湾を代表するグルメの一つとなっている。また、「牛肉麺」(ニョウロウミエン)も四川出身の老兵が改良した紅焼牛肉麺が広まり、台湾を代表するグルメとなった。「葱油餅」(ツォンヨウピン)や「水餃」(スエチャオ)も台湾の庶民食として定着している。

 このほか、台湾は豊富なフルーツがあることからスイーツ天国としても知られており、マンゴーかき氷「芒果冰」(マングオピン)、愛玉ゼリー「愛玉」(オーギョー/アイユィー)、タピオカミルクティー「珍珠奶茶」(ツェンツウナイツァー)、やわらか豆腐にシロップをかけた「豆花」(タウホエ)など、台湾ならではのスイーツがある。

 台湾の音楽文化も同様に、華語歌謡曲の流行発信基地であるのみならず、台湾原住民族音楽、台湾語歌謡、客家語歌謡など多様な音楽文化がある。台湾原住民音楽は、アミ族のディファン(Difang/郭英男)の歌声がエニグマの「リターン・トゥ・イノセンス」にサンプリングされ、1996年のアトランタ五輪のプロモーションソングとなり、注目を集めた。プユマ族の阿妹(アメイ)こと張惠妹(Kulilay Amit)は台湾を代表する歌姫としてアジア各地で活躍している。また、近年はブヌン族の8部合唱の美しさが注目されたり、プユマ族のサミンガ(Samingad)やアミ族のスミン(Suming)など部族の言葉で創作し、日本でもファンが増えてきている。また、原住民族の児童合唱団が国際コンクールで入賞したり国際的に活躍している。

 台湾語歌謡は、伝統楽器の演奏に合わせて台湾語の歌を歌いながら演じる台湾伝統歌劇である「歌仔戲」(コアヒー)の歌曲のほか、日本時代に台湾客家人の鄧雨賢(テン イーヒエン)が作曲した「雨夜花」(ウーヤーホエ)や「望春風」(バンツンホン)といった名曲が生まれ、戦後は日本の演歌を台湾語に訳して歌う歌謡曲が流行した。また、その影響で台湾独自の台湾語演歌文化も生まれていった。中国国民党独裁時代に台湾語が弾圧されたことから、華語歌謡に比べて古臭くて市場が狭いというネガティブなイメージもあったが、特に1990年代より江蕙(カン フイ)が台湾語歌謡の女王の地位を築き上げ、カラオケでは台湾語歌謡の人気は強い。また、2000年代に最も人気のバンドの「五月天」(メイデイ)は台湾語でポップスを歌い、若者層にも支持された。また、伍佰(ゴーパ/ウーパイ)も台湾語ロックのスターとして国際的に人気がある。台湾語歌曲は台湾が市場の中心であるが、シンガポールなど東南アジアや香港、中国でも一定の市場がある。

 客家語歌謡は、市場が狭いことから台湾語歌謡に比べて少ないが、「山歌」(サンコー)と呼ばれる民謡のほか、「客家本色」(ハッカープンセッ)という歌は台湾客家精神が込められているとして、客家の集会でよく歌われる。近年は客家文化振興の観点から政府が客家語歌曲の創作を奨励しており、さまざまな音楽ジャンルで新しい客家語の歌が生まれている。客家語歌曲の市場は、台湾の客家地区が中心であるが、台湾語と同様に東南アジアや中国広東・江西などに客家人が多く住むことから、これらの地域にも一定の市場がある。

 華語歌謡は、台湾における華語普及の観点から奨励され、ラジオやテレビを通じて広く流行し、1980年代にはテレサ・テン(鄧麗君/テン リーチュン)やオーヤン・フィーフィー(歐陽菲菲/オウヤン フェイフェイ)など台湾出身の歌手が日本でも活躍した。華語歌謡は、市場が台湾のみならず、中国全土や東南アジアの華僑・華人も需要があることから、台湾で制作される音楽市場は華語の歌が優勢的な地位にある。

 台湾のマスメディアは、「自由時報」「聯合報」「頻果日報」「中國時報」などの4大大手紙のほか、国営通信社の「中央通信社」、ネットメディアの「民報」「上報」などのネットメディアも影響力がある。また、テレビは「台視」「中視」「華視」の歴史ある3大地上派テレビ局と民主化後にできた「民視」、公共テレビの「公視」、さらにケーブルテレビの「TVBS」「東森」「三立」「中天」などのテレビ局もニュース専門チャンネルがあり、メディア間の競争が激しい。また、24時間客家語で放送する「客家電視」、台湾原住民族の専門チャンネル「原住民族電視」などもある。

 台湾の政治は、かつては中国国民党の独裁体制であったが、1980年代から民主化が進み、2017年現在は与党が民主進歩党、最大野党が中国国民党であり、そのほか第3勢力として時代力量、親民党などの政党がある。台湾は総統(大統領)を元首とし、行政院長(首相)を内政のトップとしており、総統は国民の直接選挙で選出され、行政院長は総統が任命する。総統は内政の方針も打ち出すが、特に外交、国防は総統が大きな権限を持つ。立法院(国会)は「立法委員」が国会議員、「立法院長」が国会議長に相当する。

 台湾の憲法は、1946年に中国大陸で中国国民党政権により制定された「中華民国憲法」をそのまま台湾で使用しているが、中華民国政府が台湾に移ってからは38年間戒厳令が敷かれ、事実上は凍結されてきた。1987年に戒厳令が解除され、民主化が進むと、台湾の実情に合わせて2006年までに憲法が7回改正され、条文を書き加えることで中華民国憲法の台湾化が進められた。その結果、中華民国を「自由地区(台湾地区)」と「大陸地区」に分けることにより、台湾のみで国政選挙を実施することを合法化し、統治権が及ばない「大陸地区」(中華人民共和国が統治する地区等)については外交部(外務省)とは別に大陸委員会を設けて関係構築を進めているが、実際に統治が及んでいない大陸地区を領土に含める建前はおかしいとして、中華人民共和国を正式に認め、台湾の主権をはっきりさせる憲法を制定すべきとの民意もある。

 台湾の外交は、1971年に国連を脱退して以来、中華人民共和国の国際的存在感が高まる一方で台湾の中華民国と断交する国が続出し、台湾の国交国は2017年現在わずか20カ国となっている。日本は1972年に中華人民共和国と国交を結んだ際に台湾の中華民国と断交している。これは、中華人民共和国が諸外国と国交を樹立する際に、中華人民共和国を唯一の中国の合法政府であることと、台湾が中国の不可分の一部であることを認めるよう要求し、台湾の中華民国と断交するよう迫るためで、この中華人民共和国の強引な態度が両国の国際社会における平和共存を困難にしている。このため、台湾は国連をはじめとする国際機関への参加が中国の反対により制限されており、台湾は外交的に孤立している。しかし、一方で正式な外交関係がなくても国と国の交流の窓口が必要であることから、国交がない国とは、大使館のかわりに「代表処」、総領事館のかわりに「弁事処」を置いている。日本では東京にある台北駐日経済文化代表処が駐日台湾大使館の役割を果たしている。台北市の出先機関ではないことから、「台北」を「台湾」に変えるよう求める要望もある。また、日本は「日本台湾交流協会」台北事務所が駐台日本大使館の役割を果たしている。しかしながら台湾の国連加盟や、日本、米国等の主要国との国交樹立は台湾の人々の悲願であり、外交関係の正常化および中華人民共和国との平和共存のために国際社会の支持を必要としている。

 台湾の歴史は、台湾原住民族の時代と、福建・広東からの移民による漢字文化圏の時代に大別される。台湾人は母なる台湾原住民文化と、父なる漢人系文化が融合したものであることが歴史を見ていくとよく分かる。

 台湾は古くから南島語系(マレー・オーストロネシア系)の民族が住み、山深い台湾ではいくつもの部族に分かれている一方で、長い年月をかけて太平洋の島々に広がっていった。なので、フィリピン、インドネシア、マレーシア、ミクロネシアなどに住む人々と民族的、言語的に近い。また、沖縄とも地理的に近いことから、やはり民族的に近いと考えられる。

 台湾は、さまざまな部族が別々に暮らしていたため、台湾の島を統一する国がなく、島全体を統治する国王もいなかった。日本は豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の時代に「高山国」(たかさぐに)宛に朝貢を要求する文書を届けようとしたが、台湾の国王に該当する人物がいなかったため失敗したという。ヨーロッパ人に台湾が発見されたのは16世紀中頃のことで、ポルトガル人が水平線に緑に覆われた島を発見し、その美しさに「Ilha Formosa!(イラ、フォルモサ!)」(美しい島だ!)と叫んだことから台湾はヨーロッパで「Formosa(フォルモサ)」と呼ばれるようになったという。その「Formosa」の音訳である「福爾摩沙」や意訳の「美麗島(ビーレートー)」は、台湾の代名詞でもある。

 大航海時代からヨーロッパの国々がアジアにも進出するようになり、17世紀に入ると、「東インド会社」でアジアに勢力を伸ばすオランダが1622年に明国を追い払い、澎湖諸島を占領。その後、明との戦いを経て、オランダは1624年に拠点を澎湖から台湾南部に移した。そして、台南の安平にゼーランディア(Zeelandia)城を築いた。さらに、台湾北部では1626年にスペインが台湾にやって来て、滬尾(淡水)にサント・ドミンゴ(Santo Domingo)城を築城した。もし、この後、ヨーロッパ人の統治が続き、漢人が台湾に移住しなかったら、オランダ領ならインドネシア、スペイン領ならフィリピンにようになっていたかもしれない。オランダが建てたゼ―ランディア城は現在の台南「安平古堡」(アンピンコーポー)、スペインが建てたサント・ドミンゴ城は現在の淡水・「紅毛城」(アンムンシヤ)としてその歴史を伝えている。

 オランダは、台湾からさらに日本に進出する際に邪魔になる台湾北部のスペイン勢力を1642年に駆逐した。オランダによる統治は、プランテーションのために明の福建省から労働者を連れて来た。これが台湾における漢人系移民の始まりであり、福建系の台湾ホーロー人となっていく。オランダは、キリスト教の布教も行った。台南のあたりでは、宣教師がローマ字を用いて先住民シラヤ族のシラヤ語を用いて布教や交易を行った。1652年にオランダの重税に反抗した福建系の郭懷一(コエ ホワイイッ)による乱が発生し、オランダとシラヤ族の軍により鎮圧された。翌1653年に台南のチャカム(赤崁)にプロヴィンティア(Provintia)城が築かれた。

 福建出身の鄭芝龍(テェ チーリョン)を父に、日本長崎平戸出身の田川マツを母とする鄭成功(テェ シンコン)は、シナ大陸で漢人による明国が満洲人による清国に滅ぼされることに抵抗し、1661年に台湾・台南のプロヴィンティア城を攻め、チャカムを「東都」(タントー)と改め、プロヴィンティア城は「承天府」(シンテンフウ)と改められた。翌1662年に台南のゼ―ランディア城を攻撃し、オランダを追放し、漢人系の鄭氏政権が反清の拠点として台湾を統治するようになった。この歴史は日本でも近松門左衛門の人形浄瑠璃「国姓爺合戦」として知られ、鄭成功は英語では福建語≒台湾語読みの「Koxinga」(國姓爺/コクシンヤー)と呼ばれている。

 実際には、鄭成功はオランダを追放したその年に病没し、台湾における鄭氏政権は息子の鄭経(鄭經/テェ キン)によって引き継がれる。鄭経は台湾を「東寧(タンリン)王国」と名乗り、台湾では明が滅んだ後も明の元号「永暦」を使い続けていたが、「東寧国」は台湾を領土とする独立国家であった。鄭経は1681年に死去。次男の鄭克塽(テェ キクソン)が継いだが、まもなく清国が台湾に侵攻し、鄭氏は清国に降伏し、東寧王国は滅び、清国の統治が始まった。

 満洲人政権である清国にとっては、台湾ははるか遠く、清に反抗する鄭氏が投降した後は、「化外の地」だとしてあまり重要視せず、福建省の一部とし、開発には積極的ではなかった。平地には福建省や広東省からのホーロー系、客家系の移民が増え、米、砂糖、樟脳などの栽培が行われるようになった。一方、山地は台湾原住民族の各部族が清国人を寄せ付けず、独自の生活圏を維持していたため、実際に清国の支配が及んだのは国土の一部に過ぎなかった。清国時代には1721年の朱一貴(ツウ イックイ)の乱、1786年の林爽文(リム ソンブン)の乱、1862年の戴潮春(テー ティオツン)の乱など、台湾人が清国統治に反抗する事件もたびたび起こった。また、台湾原住民と福建・客家系漢人の衝突、福建人(ホーロー人)と客家人の衝突、福建の泉州(ツォワンチウ)出身者と漳州(チャンチウ)出身者による衝突など「分類械鬥」と呼ばれる民族間の対立事件もあった。

 19世紀前半には台南・府城(フウシヤ)、彰化・鹿港(ロッカン)、台北・艋舺(バンカ)が商業の港町として発展した。平地に住むシラヤ族やケタガラン族などの先住民族は言語的にはホーロー、客家と同化が進み、平埔(ペェポー)族と呼ばれるようになった。清国は、1874年に日本は漂流した琉球漁民がパイワン族に殺害され、その責任をめぐり、責任逃れする清に対し日本が台湾に出兵した「牡丹社事件」が発生し、そのほか欧米列強のアジア進出が活発になってきたことから1885年に清国は台湾を福建省から分離して台湾省を設置した。この後、劉銘伝(劉銘傳/リョウ ミンツォワン/ラウ ビントワン)巡撫の時代に台湾にも電気や鉄道などのインフラ建設が着手された。

 1895年(明治28年)の日清戦争は、朝鮮の独立をめぐる日本と清国の戦争で、台湾は直接の戦場にはならなかったが、4月の「下関条約」で台湾が清国から日本に割譲されることになった。日本は台湾を占領するために軍隊を派遣。台湾割譲に反対する台湾に残った清国の幹部らが台湾住民と協力して同年、「台湾民主国」の独立を宣言し、唐景崧(タン チンソン/トゥン キンション)が初代総統(大統領)に就任し、元号を「永清」とした。日本軍が上陸すると、台湾民主国軍は近代化された日本軍の兵力にかなわず、唐総統は6月に清国福建に逃亡してしまい、基隆や台北に日本軍が入る。台湾人は台湾南部で抵抗を続け、清国の軍人で太平天国の乱にも参加した広西省出身の客家人である劉永福(リュウ ユンフッ/ラウ インホッ)を総統に据えたが、日本軍はじわじわ南下し、10月に清国へ逃亡し、台湾民主国はわずか半年で崩壊した。

 日本は台湾に台湾総督府を置き、樺山資紀(かばやま すけのり)海軍大将が初代台湾総督に任命され、初期の頃は軍部が中心となって台湾統治の基礎を築いた。1898年(明治31年)に就任した児玉源太郎(こだま げんたろう)総督(第4代)は、民政長官に後藤新平(ごとう しんぺい)を抜擢し、台湾各地の調査事業を行い、各地の地理的特徴や風習などを理解した上で、公衆衛生の改善、インフラ建設や殖産興業に取り組んだ。さらに技師として来台した新渡戸稲造(にとべ いなぞう)が台湾のサトウキビ栽培と製糖産業の発展の基礎を作った。台湾各地に学校が作られ、日本語がはじめからできる内地人は小学校、日本語がわからない台湾人は公学校に入学した。これにより台湾での識字率が上昇し、商業、工業、農業などの職業学校も整備された。交通も台湾の南北を結ぶ縦貫線が1908年(明治41年)に完成した。1906年(明治39年)より約9年間総督を務めた佐久間左馬太(さくま さまた)総督(第5代)は、阿里山の森林開発や、山間部の台湾原住民族を日本に帰順させ日本式学校教育を受けさせる「理蕃事業」などを行った。安東貞美(あんどう さだよし)総督(第6代)の時代には、1915年(大正4年)に台南で余清芳(ウー チンホン)を首謀者とする抗日武装蜂起「タパニー事件」が発生した。1918年(大正7年)に就任した明石元二郎(あかし もとじろう)総督(第7代)のは、台湾電力を設立し、日月潭に大規模な水力発電所が着工された。また、八田與一(はった よいち)技師が計画する嘉南平原を潤すための烏山頭ダムと嘉南大圳(カーラム トアツン)の建設を承認した。明石総督は死後に台北市内に墓を建てた。

 第8代以降の総督は文民となり、田健治郎(でん けんじろう)総督(第8代)は、内地と台湾の差別解消のため「内台一体」の方針で融合を進め、1920年(大正9年)には行政区画の改正も行い、打狗(タアカウ)→高雄(たかお)、葫蘆墩(コロトゥン)→豊原(とよはら)、阿猴(アカウ)→屏東(へいとう)など、台湾語の一部の地名が日本風に改められた。大正時代の台湾は、日本の大正デモクラシーの流れもあり、社会が比較的安定していた。1921年(大正10年)には、林獻堂(リム ヘントン)を総理とする台湾文化協会が設立され、台湾文化の発揚運動が行われた。林獻堂は蒋渭水(チウ ウイスイ)、蔡培火(ツォア ポエホエ)らとともに台湾議会設置運動を行い、蔡培火は1920年(大正9年)に「台湾青年」を1923年(大正12年)に「台湾民報」を出版し、台湾民族意識を啓発した。林獻堂らは1927年(昭和2年)に政治結社「台湾民衆党」を結成し、日本統治時代における台湾の自治を追求した。台湾人による自治運動は1912年に清国を倒して中華民国を建国した中国国民党の影響も大きかった。一方、1928年(昭和3年)には台北帝国大学が開設され、台湾における高等教育も充実してきた。

 石塚英蔵(いしづか えいぞう)総督(第13代)の時代の1930年(昭和5年)には、当時世界最大規模の烏山頭ダムが完成した。一方で、セデック族のモナ・ルド(Mona Rudo)による大規模な蜂起事件である「霧社事件」が発生した。日本軍が動員され、日本側に参加するセデック族も動員して鎮圧し、反抗したセデック族の多くは自殺するなど、深い傷を残し、石塚総督は引責辞任した。最後の文民総督である中川健蔵(なかがわ けんぞう)総督(第16代)は昭和10年(1935年)に「始政40周年」を記念する台湾博覧会を開催した。

 満洲事変後に東アジア情勢が緊迫化し、昭和11年(1936年)以降の総督は再び軍人となり、小林躋造(こばやし せいぞう)総督(第17代)より皇民化教育が進められ、長谷川清(はせがわ きよし)総督(第18代)の時代に台湾が南進基地化していく。大東亜戦争中の台湾では、志願兵制度や徴兵も行われ、特に台湾原住民族(高砂族)で構成される高砂義勇隊は南方の戦線で大活躍したが多大な犠牲が出た。また、台湾の軍用飛行場は神風特攻隊の軍機の出発基地となった。米軍による空爆も受けた。最後の台湾総督となった安藤利吉(あんどう りきち)総督(第19代)は台湾軍司令官も兼務しており、1945年(昭和20年)に日本が連合国に降伏した後、10月25日に安藤総督が中華民国政府および連合国への降伏文書に調印した。安藤総督は中華民国に拘束され、翌1946年に上海の監獄で自決した。

 戦後、台湾を占領した中華民国は、満洲人支配の「清」を打倒するため孫文(孫中山/スン ツォンサン)らが1911年に辛亥革命を起こし、1912年に「中華民国」が建国されたのをルーツとし、中華民国は清国の領土の大部分を継承していた。しかし中華民国政府も建国後、混乱と分裂状態が続いた。臨時大総統だった孫文は南北統一のために袁世凱(ユエン スーカイ)に臨時大総統の座を譲ったが、袁世凱は1915年に一時的に国名を「中華帝国」に改めるなど独裁的体制であった。そのあと軍閥が各地で割拠する内戦状態となり、孫文は1919年に中国国民党を結成し、1921年に広州で革命政府を樹立し、1925年に孫文が死去すると、1926年から蒋介石(蒋中正/チャン ツォンツェン)が北伐を開始し、1928年に南京に中華民国国民政府が樹立された。それまで「五色旗」だった中華民国国旗は1928年に「青天白日満地紅旗」に変更された。その後、1937年の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争となり、その際には蒋介石の中国国民党軍を米国が支援し、毛沢東の中国共産党軍をソ連が支援し、日本は汪兆銘政権を支援していた。1945年に日本が敗戦となると、中国国民党の中華民国政府は米国を中心とする連合国とともに日本を降伏させ、中華民国は当時日本領だった台湾を接収した。日本人は基本的に残留を許されず、日本の内地へ引き揚げ、台湾に生まれ育った日本人は「湾生」(わんせい)と呼ばれた。

 台湾は中華民国による接収後、中華民国に「祖国復帰」したこととされ、戦後の帰属について日本と話し合われることもなく、陳儀(ツェン イー)行政長官の下、着々と脱日本化が進められ、街路名が日本風から中国風に改められ、台湾原住民族も中国名を名乗ることとされた。学校教育も日本教育から中華民国式教育に変わったが、台湾人にとっては、台湾語も客家語も理解せず中国語を話す中国人が同胞には思えなかった。中国語を話す中国人が政府機関を独占するのは、支配者が日本人から中国人に変わっただけだった。1947年、中国人統治に不満を持つ台湾人が蜂起した「二二八事件」が発生し、これを鎮圧するために中国国民党軍を台湾に増派し、徹底的に台湾人を弾圧し、蜂起に関わった人を処刑し、その際に台湾人のエリート層を拉致して殺害するなど、数万人が犠牲になった。

 そんな中、中国大陸では1946年に中国国民党が主導して「中華民国憲法」が制定されたが、すぐに中国共産党との内戦が勃発し、憲法は事実上凍結。1949年に北京や南京、上海が中共軍に占領されると中国国民党は台湾に敗走した。1949年に中共の毛沢東が「中華人民共和国」の建国を宣言すると、国民党は台北を臨時首都として1950年に蒋介石が中華民国総統に復帰した。これにより、中華人民共和国と中華民国の二つの国が併存する形となったが、実際には中華人民共和国が中華民国のほとんどを継承し、中華民国は台湾周辺のみを実効支配領域とした。

 中華民国中央政府の台湾移転により、多くの中国人(外省人/新華人)が中華民国政府関係者および中国国民党軍とともに台湾に移住した。新華人らは日本人が住んでいた宿舎などにも住んだが、下級軍人らは宿舎を建てても収まりきらずバラックに住む人もいた。中国出身の元兵士らは来台当初は台湾人と対立する存在であったが、国民党軍に従事するなかで、多くの戦友や親戚を日中戦争や国共内戦で亡くしており、台湾にたどりつけただけでも大変なことだった。しかも、多くの人が中国大陸の家族と離れ離れになった悲哀を抱えていた。

 蒋介石総統は、台湾に戒厳令を敷き、中国国民党の独裁体制で台湾における中華民国体制を安定させようとした。このため、台湾は他のアジアの国々のような民族自決の原則による独立ができなくなり、外来政権の中華民国を受け入れざるをえなかった。さらに朝鮮戦争の勃発による東西対立がピークになり、米国が中華民国を防衛する方針をとり、1952年のサンフランシスコ条約で日本が主権を回復すると、日本も台湾の中華民国と「日華平和条約」を結び、国交を樹立した。

 日本時代に日本の台湾総督府だった建物は中華民国総統府となった。蒋介石政権は、中華民国こそが中国の正統な政権であると主張し、「大陸反抗」を掲げ、中華民国憲法制定時の中国大陸を含む広大な領土を自国領と主張し続けた。中国各地方から選出された議員の正当性を維持し、選挙区が共匪に占領させているため選挙ができないとして万年議員と呼ばれる国会非改選の状況が続いた。中国共産党のスパイを厳しく取り締まると同時に、中国人による台湾支配体制を維持するために「台湾独立」に強く反対し、台湾独立運動を厳しく取り締まった。台湾語・客家語などの使用を制限し、中国語(華語)教育や華語のメディア独占により、台湾人の中国人化を進めた。結党の自由はなく、中国国民党独裁体制と、蒋介石総統の個人崇拝化が進められ、特務が民衆を常に監視し、冤罪の政治犯が多く捕らえられた「白色テロ」と呼ばれる恐怖政治が続いた。このような中、二二八事件後、白色テロが続く時代に海外に逃れた台湾人留学生らが中心となり、日本や米国で台湾独立運動も進められた。参加した幹部らは中華民国政府からブラックリストにされ、台湾が民主化されるまで長らく帰国できなかった。

 一方、国共の対立は続き、1954年に中華民国が統治を続けている福建省側の金門島に中共軍が砲撃する九三砲戦が勃発。1955年には中華民国が統治していた浙江省の離島である一江山島が中共軍に攻められ、激しい戦闘の上、占領されると、大陳島の補給が困難になり、島民を台湾に移して大陳島と一江山島を放棄した。1958年にも金門島に中共軍が砲撃を行う八二三砲戦が勃発し、中華民国軍も反撃した。中華民国は大陳を除き、国土を防衛していたが、「大陸反抗」はもはや現実性がなかった。1964年には台湾大学の彭明敏(ペェ ビンビン)教授が、国民党でも共産党でもない台湾自救の民主国家を建てるべきとの「台湾自救宣言」を発表し、反乱罪で逮捕されたが、その後、彭教授は日本人と協力して出国に成功した。

 国連で中華民国が「中国」代表権を持ち、安保理常任理事国となっているのは、支配領域の現実から見てもあまりにおかしいとして、「中華人民共和国」を国連に加盟させるべきだという声が強まり、1971年に国連でアルバニア決議案(2758号決議)が採択された。中華人民共和国を国連における中国の唯一の合法的な代表とし、国連に加盟するとともに、国連安保理の常任理事国のポストを得た。一方で、台湾の中華民国は、中華人民共和国が中国の唯一の合法的な代表であることを承認して「蒋介石の代表を追放する」とされた。蒋介石総統は「台湾」として国連に残るよう日本や米国から説得されていたが、台湾独立に反対する蒋総統が拒否していた。結局、中華民国は国連から脱退し、この流れを受けて日本は翌1972年に中華人民共和国と国交を樹立し、台湾の中華民国と断交した。米国も中ソ対立から中国に接近し、1975年に蒋介石総統が死去した後、1979年に中華人民共和国と国交を樹立した。米国はその際に「台湾関係法」を制定して台湾への防衛武器の輸出を続けることや台湾との関係維持に努めた。

 蒋介石総統の死後、厳家淦(嚴家淦/イエン チアカン)副総統が総統に昇格したが、実質的な権力は息子の蒋経国(蔣經國/チャン チンクオ)行政院長(首相)が握っていた。台北市内には故・蒋介石(蒋中正)元総統を称える巨大な「中正紀念堂」が建てられた。蒋経国・行政院長は中山高速道路や中正国際空港(桃園国際空港)の建設、台中港の築港、台湾の鉄道を一周できるようつなぐ路線の建設など「十大建設」を進め、台湾経済発展の基礎を築いたことで政治的な権力基盤を確固たるものにした。1978年に蒋経国が総統に選出された。その翌年の1979年、黄信介(ンー シンカイ)が創刊した党外(国民党以外の無所属)活動家を応援する政治雑誌である雑誌『美麗島』が評判を呼び、同年12月の世界人権デーに高雄市でデモ活動を行ったところ、治安部隊に包囲され、党外活動家が逮捕される「美麗島事件」が発生した。この当時の党外活動家および彼らを弁護した弁護士グループが後に台湾政治を大きく変える政治家として活躍することになる。

 蒋経国総統の時代は、中国国民党による独裁体制は続いたが、「大陸反抗」がもはや不可能と悟った蒋経国総統は、台湾人の人材を抜擢し始め、中華民国の台湾化の流れはもはや止めることができなくなった。1986年には戒厳令下にありながら、初めての野党である民主進歩党(民進党)が結成された。1987年には蒋経国総統が、1949年以来38年間続いていた戒厳令の解除を宣言した。台湾在住の中国大陸出身者の里帰りも許可された。1988年には、蒋経国総統が死去し、李登輝(リー ティンフイ)副総統が総統を引き継いだ。新聞の「報禁」が正式に完全解除され、報道の自由と新聞発行の自由が認められた。野党・民主進歩党は台湾の主権独立と、北京を首都とする中華人民共和国に台湾が属さないことを主張した。1989年は、雑誌『自由時代』を出版する鄭南榕(テェ ラムヨン/ツェン ナンロン)が「台湾共和国憲法草案」を掲載したことにより、当時の中国国民党政権下で反乱罪とされ、「100%の言論の自由」を求める鄭南榕はそれに反抗するために出頭を拒否して自社の事務所に立てこもった。警察が強行突入しようとしたところ、鄭南榕はガソリンをかぶって火をつけて抗議の焼身自殺をはかった。この事件は台湾社会に衝撃を与え、さらに民主化を求める流れが加速した。

 1990年には、第8代総統選挙が国民大会の間接選挙で実施され、中国国民党の李登輝総統が再選された。李登輝総統の主導で、1991年に「動員戡乱時期臨時条款」が廃止され、中共当局との内戦状態を終了させ、民主化の道を開くとともに、台湾の国内で「台湾独立」を主張することも容認されるようになった。第2回国民大会代表選挙が実施され、立法院(国会)全面改選への第一歩を踏み出した。台湾は中華民国憲法改正によって憲法の及ぶ範囲が統治権の及ぶ範囲に限られるようになり、1992年に立法院(国会)の全面改選が始めて実現し、12月に立法委員(国会議員)選挙が実施された。「万年議員」が一掃され、全国会議員が民主的な選挙で選ばれた台湾の民主化時代が到来した。

 1996年には初めて「中華民国自由地区」(台湾本島、澎湖、金門、馬祖)において総統直接選挙を実施し、現職の中国国民党の李登輝総統が当選した。中国がミサイルで台湾を威嚇したことが、逆に現職の李登輝総統の求心力を高め、台湾独立派も一部が李総統支持に回ったことから、李登輝総統の圧勝につながった。李総統は5月20日に初の民選総統として就任した。李総統は中華民国の台湾化路線を進め、台湾の民主化が国際社会に大きくアピールされた。1998年には「台湾省」が機能凍結され、中央政府との二重行政が大幅に解消された。1999年には李登輝総統が台湾(中華民国)と中国大陸(中華人民共和国)を「特殊な国と国」と位置づける「二国論」を発表。またこの年、マグニチュード7.7の台湾中部大地震が発生した。

 2000年の2回目となる総統選挙で野党・民主進歩党(民進党)の陳水扁(タン ツイ ピィ)氏が当選。中国国民党が下野し、政権交代。国民党の李登輝総統が引退。総統選挙で次点だった宋楚瑜(ソン ツウユィー)が親民党を結成。国民党籍の行政院長(首相)を起用した陳水扁・大連立政権がスタートしたが、第4原発建設をめぐって民進党と国民党が対立し、民進党籍の行政院長が就任した。2001年に李登輝前総統を支持するグループが台湾団結連盟(台連)を結成。立法委員(国会議員)選挙で国民党が大敗して過半数割れ、民進党が第一党となり、親民党も躍進し、台連も議席を得た。しかし、民進党は台連を足しても過半数を制することができず、少数与党の「ねじれ」を解消できず、野党の国民党と親民党が接近した。2002年には陳水扁総統が「台湾と中国は『一邊一國』(チッピンチッコッ/それぞれ別の国)である」と表明。2003年は、中国で発生したSARSが流行し、台湾のWHO(世界保健機関)加盟問題が注目される。24時間客家語で放送する客家テレビが開局した。

 2004年には陳水扁総統が僅差で再選。投票日前日に銃撃事件が起こったことから、国民党候補が選挙結果を受け入れず、選挙後に票の数え直し等で混乱した。総統選挙と同時に台湾で初めて「反ミサイルの自己防衛強化」と「両岸(台中)の対等協議」の国民投票が行われたが野党陣営が投票をボイコットしたため両案とも不成立。立法委員選挙で与党の民進党は台連を加えても過半数を獲得できず、与党が敗北。また、当時世界最高の「台北101ビル」が竣工した。2005年には国民大会廃止・立法委員(国会議員)半減・立法委員選挙の小選挙区比例並立制導入などの中華民国憲法改正のための国民大会代表選挙(比例代表)が行われ、大政党に有利な小選挙区導入等の憲法改正が通過した。2007年には、日本の新幹線技術を導入した台湾新幹線(台湾高鉄)が開業。陳総統は脱中華民国の「台湾正名」政策を進め、「中華郵政」を「台湾郵政」に、「中国石油」を「台湾中油」に、「中正紀念堂」を「台湾民主紀念館」に改名。初めて「台湾」の名義で世界保健機関(WHO)に正式加盟申請。初めて「台湾」名義で国連に正式加盟申請した。

 2008年には台湾で初めて小選挙区制が導入された立法委員選挙で野党・国民党が圧勝。民進党は大敗し、小政党の台連は議席をすべて失った。続く総統選挙で民進党を破って、国民党の馬英九(マー インチョウ)元台北市長が当選。総統選挙と同時に実施された台湾国連加盟、中華民国国連復帰等の国民投票は野党のボイコットでいずれも不成立となった。馬英九総統は、「一つの中国の解釈を各自表明する」(一中各表、台湾は中国=中華民国)とした「1992年合意」に基づき、対中関係の改善を模索した。中華人民共和国のことを「中国」と呼ぶのをやめて、「中国大陸」という地域名称で呼ぶことを復活させた。また、陳水扁総統時代に名称変更された「台湾民主紀念館」が「中正紀念堂」に、「台湾郵政」が「中華郵政」に戻された。呉伯雄・中国国民党主席と中国の胡錦濤・中国共産党書記長(国家主席)の国共トップ会談が実現。中国人の台湾観光が解禁され、中台直直航週末チャーター便が就航した。

 2009年には両岸チャーター便が定期便化。世界保健機関(WHO)年次総会に、国連未加盟の台湾が「中華台北」(Chinese Taipei/チャイニーズタイペイ)名義でオブザーバーとして参加した。2010年は台湾と中華人民共和国が「両岸経済協力枠組み協定」(ECFA)を締結した。2011年は台湾で中華民国建国100周年の祝賀行事が行われ、日本で孫文の活動を主に金銭面で支えた梅屋庄吉(うめや しょうきち)らが台湾でも見直された。日本で発生した東日本大震災に対して台湾から200億円を超える義援金が寄せられ、馬英九総統も自らチャリティー番組に出演して台湾国民に募金を呼びかけた。また、慈済や仏光山などの仏教団体などの宗教団体も被災地でボランティア活動や義援金配布活動などを積極的に行った。改めて日台関係の強い絆が確認される形となり、秋に日台投資協定や日台オープンスカイ協定が結ばれ、ビジネス面でも日台協力がより促進された。

 2012年の総統選挙で馬英九総統が再選され、2期目の馬英九政権は、尖閣問題をめぐり日本と対立した。馬政権は尖閣(釣魚台)の領有権を主張する一方で、「東シナ海平和イニシアチブ」を提起し、関係国との対話と主権争議の棚上げ、資源の共有などを呼びかけた。また、日台漁業交渉の再開合意をきっけに日本との関係修復に取り組んだ。2013年は、日本と日台漁業協定に調印し、重複する東シナ海の排他的経済水域(EEZ)内の日台の共同漁業操業について合意した。中国と「両岸サービス貿易協定」に調印したが、台湾国内への説明不足で反発が強く、立法院(国会)での審議が進まない状況となった。2014年に両岸サービス貿易協定に反対する大学生らが立法院(国会)の強行採決に抗議して立法院に突入、占拠した。学生らはインターネット中継を駆使して海外に自らの主張を発信し、「ひまわり学生運動」(太陽花學運)と呼ばれるようになり、台湾の民意は大きな転機を迎えた。経済的にも中国に吞み込まれたくない台湾の若者の声が世界中に発信され、台湾国内でも若者らを支持する動きが強まり、王金平(オン キムピン)立法院長(国会議員)は学生らを排除せず、約3週間にわたり学生らが立法院に居座り抗議を続けた。王院長は学生側の要求に応じて「両岸協定監督条例」が法制化されるまでサービス貿易協定の国会承認審議を行わないと約束して学生らと合意し、平和的に立法院から退去した。これによって中台両岸の経済自由化の動きは停滞するが、これ以上の開放を望まない適度な開放でよしとする台湾国民の支持を得て、野党の民主進歩党(民進党)が12月の地方選挙で6都のうち4都を獲得。首都台北市も民進党が支持する無所属候補が勝利し、与党の中国国民党は新北市しか守れず大敗を喫した。

 2015年は、第二次世界大戦終戦70周年を迎え、台湾では、7月より中華民国抗日戦争勝利70周年の関連行事を開催。当時の中国大陸で抗日戦争に参加し、戦後中国国民党とともに台湾に渡って来た元国民党軍兵士らをねぎらうとともに、馬総統が戦時中の米軍の蒋介石政権への支援に感謝し、当時の日本軍の侵略を批判した。馬総統は11月にシンガポールで中国の習近平(习近平/シー チンピン)国家主席と会談し、1949年の中華人民共和国建国後初の中台両国の首脳会談が実現したが、馬総統は中台交流の基礎とする「92年合意」についてもともと台湾側が強調していた「一中各表」(一つの中国の解釈をそれぞれ表明する)の「各表」や現存する「中華民国」を習主席を前にした公開発言で述べず、「一つの中国」のみが強調されたため、台湾で批判され、与党の支持率回復にはつながらなかった。中国側は台湾に「同属一中」(同じ一つの中国に属する)を表明するよう再三圧力をかけていた。

 2016年は総統選挙で民主進歩党の蔡英文(客:ツァイ インヴン/台:ツォア インブン)が当選し8年ぶりに政権交代し、台湾初の女性リーダーの誕生となった。また、国会選挙も民主進歩党が初めて過半数を制し、ひまわり学生運動を支持基盤とする新政党「時代力量」も議席を獲得した。対日関係においては日本留学経験のある謝長廷(チア テョンティン)元行政院長(元首相)を駐日大使として派遣し、日本重視の姿勢を示した。中台関係について「現状維持」を公約として当選した蔡総統は、中華人民共和国(中国)が台湾に受け入れを迫る「一つの中国」を認める「1992年合意」について、前政権が主張していた「一中各表」(一つの中国の解釈を各自表明する)に基づく「一つの中国=中華民国」という路線を修正し、中華民国憲法と両岸人民関係条例に基づき両岸実務を処理し、「1992年会談」の歴史的事実を尊重するという立場をとり、中国との対話を呼びかけた。しかし、中国は台湾との対話を拒否し、国際機関からの台湾排除の圧力をかけ、台湾に「一つの中国」の受け入れを迫っている。台湾は、台湾化された「中華民国」の現状を維持しながら、国際社会に認められる正常な国を目指して、国のあり方を模索している。

台湾(中華民国)
タイワン
臺灣(中華民國)(台湾華語)
(1895~1945年日本が統治、1949年に中華民国政府が移転)
面積:3.6万平方キロ
人口:2350万
通貨:台湾元
主要言語:台湾語、台湾華語、客家語、(アミ語、タイヤル語、パイワン語、ブヌン語、セデック語、タロコ語、ルカイ語、ツォウ語、プユマ語、タウ語、サイシヤット語など)
首都:台北/臺北
タイパッ/Tâi-pak(台湾語)
タイペイ/ㄊㄞˊㄅㄟˇ (台湾華語)(人口262万)

(参考:Wikipediaなど)

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兵庫・小野 存続危機の神戸電鉄粟生線と電化されたJR加古川線

小野
おの

日本国兵庫県小野市

兵庫・小野 存続危機の神戸電鉄粟生線と電化されたJR加古川線

 小野(おの)市は、兵庫(ひょうご)県中部にある人口約5万人の市で、北が加東(かとう)市、西が加西(かさい)市、南西が加古川(かこがわ)市、南東が三木(みき)市と接している。

 小野市は昭和29年(1954年)に加東郡の小野町、河合(かわい)村、来住(きし)村、市場(いちば)村、大部(おおべ)村、下東条(しもとうじょう)村が合併して発足し、昭和31年(1956年)に加東郡社(やしろ)町(現・加東市)の一部を編入して現在の市域となった。

 小野市には、JR西日本・加古川線の市場(いちば)、小野町(おのまち)、粟生(あお)、河合西(かわいにし)、青野ヶ原(あおのがはら)の各駅と、神戸電鉄(神鉄)粟生線の樫山(かしやま)、市場(いちば)、小野(おの)、葉多(はた)、粟生の各駅、北条鉄道・北条線の粟生駅がある。

 加古川の西をJR加古川線が、東を神鉄粟生線を走り、粟生線が加古川を渡って粟生駅でJR加古川線と連絡している。粟生駅は北条鉄道線とも連絡しており、3社が乗り入れる駅となっている。粟生駅の周辺は住宅街とのどかな田園が広がっていて、商業施設は少ないが、3社との乗り換えターミナル駅の役割を果たしている。

 小野市の中心部にあるのは、神鉄粟生線の小野駅で、1面2線のホームがあり、周辺には住宅地が広がり、小野市役所の最寄り駅である。小野は「そろばん」の生産で知られる町で、戦後は神戸のベッドタウンとしても発展した。粟生線は昭和26年(1951年)に小野駅まで、昭和27年(1952年)に粟生駅まで開業した。

 神鉄粟生線は、粟生・小野駅から三木市の志染(しじみ)、神戸市の押部谷(おしべだに)、鈴蘭台(すずらんだい)を経由して神戸市中心部の新開地(しんかいち)駅まで運行しており、神戸市への通勤には欠かせない路線であるが、三木市から神戸市の最中心部の三宮(さんのみや)までの路線バスに通勤客が流れたため、近年は神鉄粟生線の乗客が減少し、粟生線は赤字が続き、廃線の危機にある。粟生線の粟生~小野~志染は、朝夕ラッシュ時こそ15分間隔の時間帯があるが、昼間はすでに1時間1本の運転間隔であり、もともと乗客が多かった志染~新開地の利用客を取り戻さなければ、粟生~志染の存続も厳しい。当面の間、存続することになったが、設備や車両の更新に多額の経費が必要であり、今後も減少が続くようなら予断を許さない。

 JR加古川線は、JR山陽本線の加古川駅から粟生駅を経由してJR福知山線の谷川(たにかわ)駅を結ぶ路線で、もともと播州鉄道として建設され、大正2年(1913年)に小野市の区間から加古川駅がつながった。大正12年(1923年)に播但鉄道に譲渡され、戦時中の昭和18年(1943年)に播但鉄道が国有化されて国鉄加古川線となった。

 北条鉄道・北条線も、播州鉄道として大正4年(1915年)に粟生~北条町(ほうじょうまち)が開業し、播但鉄道を経て、昭和18年(1943年)に国鉄北条線となった。国鉄時代は加古川線と直通運転しており、加古川~粟生~北条町が一体運行されていた。国鉄の赤字ローカル線の整理により、昭和60年(1985年)に国鉄北条線は第3セクターの北条鉄道に移管され、粟生~北条町の折り返し運転を行っている。北条鉄道沿線から神戸の三宮へ行くには、神鉄粟生線よりもJR加古川線で加古川駅経由でJR神戸線の新快速に乗り換えて向かうほうが速い。

 JR加古川線は長年、非電化ののどかなローカル線であったが、平成7年(1995年)の阪神淡路大震災の際にJR山陽本線(神戸線)が数カ月にわたり寸断され、その際に迂回路線としての役割が注目され、平成16年(2004年)に全線電化された。これにより、今後万が一、山陽本線の神戸周辺が寸断される事態が発生しても、貨物列車や臨時旅客列車などの加古川線経由の迂回輸送がスムーズにできる。普段は、1両の電車がのんびり走っているので、迂回輸送路線を考慮しなければ非電化のままでもよさそうな気もする。

 大正2年(1913年)に開業した加古川線の小野町駅は、開設当時は小野町の最寄り駅であったが、加古川の西の来住村にあり、旧・小野町の市街地(神鉄小野駅)へは川を渡って2キロほど離れていた。市場駅も同様で、旧・市場村の中心部は対岸に2キロほど離れており、後から開業した神鉄粟生線の市場駅が旧・市場村の中心部にあたる。

小野エリアの主な駅

粟生 / あお 駅
JR西日本 加古川線
神戸電鉄 粟生線
北条鉄道 北条線

小野 / おの 駅
神戸電鉄 粟生線

市場 / いちば 駅
神戸電鉄 粟生線

小野町 / おのまち 駅
JR西日本 加古川線

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JR・神戸電鉄・北条鉄道の粟生駅

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神鉄粟生線・粟生駅

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神鉄粟生線・粟生駅

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粟生駅、加古川線(手前)と神鉄粟生線(奥左)

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粟生駅、加古川線と北条鉄道ホーム(左)

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北条鉄道北条線・粟生駅

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加古川の鉄橋を渡る神鉄粟生線

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小野市内を走る神鉄粟生線

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神鉄粟生線・小野駅

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神鉄粟生線・市場駅

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神鉄粟生線・樫山駅

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JR加古川線・小野町駅

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テーマ : 駅の風景
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愛媛 松山・三津浜 レトロな商店街と文学散歩、山口県を結ぶフェリーと三津の渡し

松山・三津浜
まつやま・みつはま

日本国愛媛県松山市

愛媛 松山・三津浜 レトロな商店街と文学散歩、山口県を結ぶフェリーと三津の渡し

 三津浜(みつはま)は、愛媛(えひめ)県の松山(まつやま)市西部にある地区で、古くから漁業と商業で栄えた港町。松山市中心部の北西約4キロにあり、JR四国・予讃線の三津浜駅と伊予鉄道(伊予鉄)高浜横河原線の三津(みつ)駅があり、市街地の北西に三津浜港が広がっている。

 伊予鉄・三津駅は、明治21年(1888年)に三津~松山(現・松山市駅)が開業時に開設された四国で最も歴史の古い駅の一つである。夏目漱石(なつめ そうせき)の小説『坊っちゃん』に登場する「マッチ箱のような汽車」(坊っちゃん列車)には、三津駅から乗ったように、三津駅は文学歴史散歩のスポットでもある。

 昭和初期に建てられた三津駅の駅舎が木造とアールヌーヴォー様式を組み合わせたお洒落なデザインで、松山市民や旅行者から親しまれてきたが、老朽化が進んだことから、もともとのデザインを残しながら建て直され、平成21年(2009年)に新駅舎が竣工した。

 三津駅から西に三津浜商店街が伸びていて、周辺は江戸末期~昭和初期に建てられたレトロな町屋が並び、一時は空き店舗が増えてさびれていたが、近年は若者によるカフェやパン屋、アトリエなどレトロな雰囲気を生かした店舗が増え、町が活性化しつつある。

 三津浜港は、松山市の離島である中島(なかじま)を結ぶ中島汽船や、山口県柳井(やない)市の柳井港を結ぶ防予フェリーや周防大島松山フェリーが運航されている。また、三津浜港の東にある漁港から、北の対岸の港山(みなとやま)地区を結ぶ「三津の渡し」と呼ばれる約80mの渡し船がある。この渡し船は松山市営渡船(市道の一部)のため、無料で運航されており、地元客や観光客に愛されながら運航を続けている。三津浜港には松山出身の俳人・正岡子規(まさおか しき)が詠んだ「十一人 一人になりて 秋の暮」の碑が立っていて、文学散歩のスポットとなっている。

 JR三津浜駅は伊予鉄・三津駅から東へ約1キロ離れており、市街地から離れている。三津浜駅より三津駅のほうが浜側にあり、位置関係がややこしいが、JR三津浜駅から伊予鉄バスが三津駅方面にもバスを運行している。かつては一部の特急が停車していたが、現在は通過駅の整理により、特急全列車が通過するようになった。

松山・三津浜エリアの主な駅

三津 / みつ 駅
伊予鉄道 高浜横河原線

三津浜 / みつはま 駅
JR四国 予讃線

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伊予鉄道高浜線・三津駅

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伊予鉄・三津駅

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伊予鉄・三津駅

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伊予鉄・三津駅前の昭和レトロな商店

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三津浜商店街

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三津浜商店街

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三津浜地区の街並み

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正岡子規の句碑

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三津浜港

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三津浜港

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三津浜港と対岸の港山地区

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テーマ : 四国
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長崎・新地中華街 ちゃんぽんと皿うどんと中華街

長崎・新地中華街
ながさき・しんちちゅうかがい

日本国長崎県長崎市

長崎・新地中華街 ちゃんぽんと皿うどんと中華街

 新地中華街(しんち ちゅうかがい)は、長崎(ながさき)市の新地(しんち)町にあるチャイナタウンで、横浜中華街、神戸南京町と並ぶ日本三大中華街の一つで、中国の特色が感じられる街となっている。

 新地中華街は、長崎電気軌道・本線(1系統)、大浦支線(5系統)の築町(つきまち)電停の南東側に広がっている。築町電停からは、南側で出島(でじま)、長崎駅前方面へ向かう本線(1系統)と、大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)、石橋(いしばし)方面へ向かう大浦支線(5系統)が分かれている。また、1系統は、西浜町(にしはまのまち)から思案橋(しあんばし)、正覚寺下(しょうかくじした)方面を、5系統は西浜町から諏訪神社前(すわじんじゃまえ)、蛍茶屋(ほたるぢゃや)方面を結んでいる。

 出島の東側にある築町電停は銅座(どうざ)町にあり、周辺は夜ににぎわう繁華街が広がっている。新地中華街は、銅座町から橋を渡った南側にある。

 長崎は、鎖国が行われていた江戸時代において、貿易特区として認められ、清国人は主に福建省出身者が多く長崎に住むようになった。江戸幕府は当初、丘陵地に唐人屋敷(とうじんやしき)を設け、清国人の居住区としたが、港の清国船の荷蔵が火事になったのをきっかけに、唐人屋敷の近くの海岸を埋め立てて清国船専用の倉庫用地とした埋立地が「新地」と呼ばれるようになった。江戸時代末期に開国すると、清国人は唐人屋敷の外に住むようになった。さらに、1870年の大火事の後、新地に集まって住むようになり、中華街が形成された。

 新地中華街には中国福建省の福州(フッチウ/フゥーツォウ)出身者が多く、関係も深く、長崎市と姉妹都市を締結している。その福州市の協力により、中華街の石畳や中華門が整備された。また、新地中華街では毎年の春節(旧正月)にランタンフェスティバルが行われ、イルミネーションが美しい。一方、普段の夜は、横浜や神戸の中華街と異なり、夜は比較的静かで人通りも少ない。

 現在、中華街には中華料理屋が並んでおり、長崎の中華街で特徴的なのは、福州料理をベースにした「ちゃんぽん」や「皿うどん」のお店が並んでいることだ。もやしやキャベツなどの野菜、豚肉、かまぼこなどを炒めたスープ麺の「ちゃんぽん」と、揚げた細麺にあんかけの具をのせた「皿うどん」は、今や長崎郷土料理として全国的に有名になり、長崎観光の定番になっている。九州の最西端にある長崎県は、鄭成功の母の田川マツが長崎県平戸市出身であるなど、中国・福建との縁が深く、中国は長崎市に駐長崎総領事館を置いていることからも、中国が長崎との関係を重視していることがわかる。中国駐長崎総領事館は、新地中華街とは北に4キロほど離れており、浦上(うらがみ)の平和公園の近くにある。

長崎・新地中華街エリアの主な駅

築町 / つきまち 駅
長崎電気軌道 本線(1系統、5系統)、大浦支線(5系統)

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長崎電気軌道・築町駅

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築町駅前

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長崎新地中華街

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長崎新地中華街

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湊公園

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夜の新地中華街

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夜の新地中華街

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テーマ : 九州の旅
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時の旅・1979年(昭和54年) 自民党過半数割れで党内抗争、米中国交樹立、イラン革命、韓国朴正煕大統領が暗殺、中越戦争、ソ連がアフガン侵攻

1979年
昭和54年

時の旅・1979年(昭和54年) 自民党過半数割れで党内抗争、米中国交樹立、イラン革命、韓国朴正煕大統領が暗殺、中越戦争、ソ連がアフガン侵攻

当時の日本の首相 大平正芳(自由民主党)

 1979年(昭和54年)は、大平正芳(おおひら まさよし)内閣総理大臣(首相)の下、消費税の導入を示唆して第35回衆議院選挙に突入した結果、定数511の内、自由民主党248、日本社会党107、公明党57、日本共産党39、民社党35、新自由クラブ4、社会民主連合2、無所属19で、与党の自由民主党(自民党)が過半数割れした。

 自民党では、大平首相の責任を問う声が福田派、三木派、中曽根派といった反主流派から上がり、「四十日抗争」と呼ばれる党内抗争が勃発した。主流派(大平派、田中派等)は大平首相の続投を、反主流派は福田赳夫(ふくだ たけお)元首相を擁立しようとした。自民党は真っ二つに割れ、自民党の両院議員総会の開催を阻止するためにバリケードが築かれる騒ぎとなった。結局、自民党は首相指名で大平正芳と福田赳夫に票が分かれ、僅差で大平氏が勝ち、首相続投が決まった。大平首相は新自由クラブと連立を組んで政権を安定させようとしたが、反主流派が連立に反対したため、大平首相は新自由クラブからの閣僚起用を断念した。大平首相は外交的には冷戦下の環境の中で、ソビエト連邦(ソ連)と対立する中華人民共和国(中国)との関係を強化し、日中文化交流協定を調印した。

 交通については、鉄道は、1月に建設中の上越新幹線の大清水トンネルが貫通した。2月に西日本鉄道(西鉄)福岡市内線の循環線と貝塚線が廃止された。3月に北総開発鉄道の北初富~小室が開業した。7月に名古屋鉄道(名鉄)豊田線の赤池~梅坪が開業した。9月に営団地下鉄・半蔵門線の青山一丁目~永田町が延伸開業した。12月に営団地下鉄・千代田線(北綾瀬支線)の綾瀬~北綾瀬が開業した。

 文化については、音楽は、渥美二郎「夢追い酒」、ジュディ・オング「魅せられて」、小林幸子「おもいで酒」、さだまさし「関白宣言」、千昌夫「北国の春」、ゴダイゴ「ガンダーラ」「銀河鉄道999 (THE GALAXY EXPRESS 999)」「MONKEY MAGIC」、西城秀樹「YOUNG MAN(Y.M.C.A)」、アリス「チャンピオン」、牧村三枝子「みちづれ」、ピンク・レディー「カメレオン・アーミー」、サザンオールスターズ「いとしのエリー」、山口百恵「いい日旅立ち」、桑名正博「セクシャルバイオレットNo.1」、円広志「夢想花」、ツイスト「燃えろいい女」、チューリップ「虹とスニーカーの頃」などがヒットした。映画は、「スーパーマン」、「ジョーズ2」、「エイリアン」などの洋画と、「銀河鉄道999」、「あゝ野麦峠」、「男はつらいよ」シリーズなどの邦画がヒットした。

 スポーツは、江川卓のプロ野球入りをめぐって巨人がドラフト対象外の盲点を突いてドラフト会議前日に入団契約するという「空白の一日」が問題となり、ドラフトで指名権を得た阪神タイガースに一旦入団し、すぐ巨人にトレードするという電撃的な展開となり、巨人の強引なやり方に批判が上がった。埼玉県所沢市に西武ライオンズの本拠地となる西武球場が完成した。ペナントレースは、セリーグが広島東洋カープ、パリーグが近鉄バッファローズがそれぞれ優勝し、日本シリーズでは広島が初の日本一となった。大相撲は、北の湖が3場所で優勝し、強さを見せつけた。

 世界の動きは、1月にアメリカ合衆国(米国)が中華人民共和国(中国)と国交を樹立。同時に中華人民共和国側の要求で中華民国(台湾)と断交したが、米国は「台湾関係法」を制定し、台湾との関係維持に努め、台湾への武器売却を含む防衛に協力の余地を残した。しかし、すでに国連からも排除された中華民国(台湾)は最大の後ろ盾だった米国とも国交断絶し、蒋経国(蔣經國/チャン チンクオ)総統の中国国民党独裁体制が続く台湾は、ますます国際的孤立の危機に瀕することとなった。米中国交樹立により、中国の実質的な最高指導者である鄧小平(邓小平/テン シャオピン)副総理が米国を訪問し、ジミー・カーター(Jimmy Carter)大統領と会談した。

 イランでは、イラン革命が起こり、皇帝制が倒れた。イランは、1941年に即位したモハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー( محمدرضا شاه پهلوی )皇帝により、1960年代から米国の支援を受けながら農地改革や工業化、女性権利向上、イスラム色を抑えた世俗主義を取り入れるなどの近代化が進められたが、貧富の差が深刻化し、シーア派の宗教学者でイラン革命の指導者となるルーホッラー・ホメイニー( روح‌الله خمینی )師は国王を批判し、1964年に逮捕され、国外追放されていた。パフラヴィー皇帝による開発独裁とオイルショック後の貧富の差拡大は、イスラム主義者や共産主義者らによる反体制運動のうねりとなり、デモやストライキが頻発し、1979年1月に戒厳令が敷かれたが収拾できず、皇帝はエジプトに脱出し、国外逃亡した。ホメイニー師がイランに帰国し、イスラム革命評議会を設立し、皇帝派を制圧し、イスラム共和制のイラン・イスラム共和国が樹立された。パフラヴィ―元皇帝は海外を転々とした後、癌の治療名目で米国に亡命しようとし、10月にカーター大統領も人道的見地から入国を認めたが、これが革命を成功させたイラン国民らの反米感情に火をつけ、駐イラン米国大使館がイラン人学生らにより占領され、パフラヴィ―元皇帝の引き渡しを要求する「イラン米国大使館人質事件」が発生した。

 韓国では、第二次オイルショックによる特に釜山(プサン)における経済悪化と、釜山を基盤とする野党・新民党の金泳三(김영삼/キム ヨンサム)総裁が与党により議員除名案を可決され、野党が国会をボイコットし、釜山大学などの学生らが釜山市内でデモを行い、警察と衝突し、鎮圧されると、近隣の馬山(マサン)でも大規模な学生デモが発生した。このデモの処理をめぐり、強硬に鎮圧を求める朴正煕(박정희/パク チョンヒ)大統領が、対応が生ぬるいと金載圭(김재규/キム ジェギュ)中央情報部長を叱責し、これがきっかけとなり、10月に大統領晩餐会の席で金載圭が朴大統領を銃撃して殺害した。

 朴大統領暗殺事件により、崔圭夏(최규하/チェ ギュハ)国務総理が大統領代行となり、12月に統一主体国民会議代議員会で第10代大統領に選出された。崔大統領は文民出身であることから、政治犯や民主運動家の金大中(김대중/キム デジュン)の自宅軟禁を解除するなど、民主化ムードがもたらされ、「ソウルの春」(서울의 봄)と呼ばれた。一方で、軍の実権をめぐって韓国軍内部の権力争いが起こり、軍内部で反乱が起こり、全斗煥(전두환/チョン ドゥファン)保安司令官が軍の実権を握る「粛軍クーデター」が発生した。

 1975年にカンボジアで政権を握り「民主カンプチア」に国名変更したカンプチア共産党(クメール・ルージュ)のポル・ポト(ប៉ុល ពត)首相は、毛沢東主義の急進的な共産主義化を進めた結果、国内が大混乱し、大虐殺が発生していた。隣国のベトナムに逃れたカンボジア人らによるカンプチア救国民族統一戦線がベトナムの支援を受けて、1978年12月に民主カンプチアに進攻し、カンプチア革命軍を撃退し、79年1月にベトナム軍がプノンペンを占領して、ポル・ポト政権は崩壊し、ベトナムの影響下で親ベトナムのヘン・サムリン(ហេង សំរិន)を国家元首とする「カンプチア人民共和国」が樹立された。これに対して、カンボジアのポル・ポト政権を支援していた中華人民共和国がベトナムに懲罰を与えるとして2月に中越戦争が勃発。中国人民解放軍がベトナム北部に侵攻したが、実戦経験が豊富なベトナム軍は強く、激しい戦闘を経て、中国軍は1カ月で撤退した。

 アフガニスタンでは、1978年に共産主義のアフガニスタン人民民主党が政権を握ったが、武装勢力の抵抗に遭い内戦状態となり、抵抗勢力が優勢となっていた。アフガニスタン当局はソビエト連邦(ソ連)に介入を求め、ソ連軍が12月にアフガニスタンに侵攻した。アフガニスタンのハフィーズッラー・アミーン( حفيظ الله امين )大統領・革命評議会議長に収拾能力がないと見たソ連はアミーン大統領をソ連KGB特殊部隊が殺害。バブラク・カールマル( ببرک کارمل )を大統領・革命評議会議長に据えた。その後、ソ連は約10年間アフガニスタンに軍事介入を続けることになる。

 このほか、3月にエジプトとイスラエルがエジプト・イスラエル平和条約に調印した。米国のスリーマイル島原子力発電所で冷却機能喪失による燃料棒溶解で炉心溶融(メルトダウン)となり爆発まで危機一髪の、重大な放射能漏れの事故が発生した。5月にイギリスで保守党のマーガレット・サッチャー(Margaret Thatcher)首相が就任した。7月に太平洋のキリバス共和国がイギリスから独立した。イラクでサダム・フセイン( صدام حسين )大統領が就任した。9月に中央アフリカ帝国で、反帝政の学生デモが鎮圧され、フランスも帝政打倒を支援し、フランス軍による無血クーデターでボカサ(Bokassa)皇帝が亡命し、帝政が廃止され、中央アフリカ共和国に国名も戻された。10月にパナマ運河の米国海外領土がパナマ共和国に施政権が返還された。11月にサウジアラビアでメッカのアル・ハラム・モスクが反王政イスラム主義者らの武装集団に占領される事件が発生した。

(参考:Wikipediaほか)

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テーマ : 歴史
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東京・早稲田 早稲田大学と学生街と都電荒川線

東京・早稲田
とうきょう・わせだ

日本国東京都新宿区

東京・早稲田 早稲田大学と学生街と都電荒川線

 早稲田(わせだ)は、東京(とうきょう)都の新宿(しんじゅく)区にある地区で、日本有数のマンモス私立大学である「早稲田大学」があることで知られている。

 新目白通りに東京都電・荒川線の早稲田駅、早稲田通りの地下に東京メトロ東西線の早稲田駅があり、両駅は約1キロ離れているが、その間に早稲田大学の早稲田キャンパスが広がっている。

 早稲田は、古くより水田が広がっていたことから「早稲田」(わせだ)という地名となり、江戸時代から早稲田村と呼ばれていた。明治時代になると、東京府の牛込早稲田(うしごめ わせだ)村となり、明治22年(1889年)に東京市牛込(うしごめ)区に編入された。牛込区は、昭和18年(1943年)に東京都制が施行されると東京都牛込区となり、戦後の昭和22年(1947年)に牛込区は四谷(よつや)区、淀橋(よどばし)区と合併して新宿(しんじゅく)区となった。

 早稲田大学は、佐賀藩士から明治時代に政治家となり、内閣総理大臣を務めることになる大隈重信(おおくま しげのぶ)によって明治15年(1882年)に設立された私立学校「東京専門学校」を前身とし、イギリス流の政治・経済学を志向し、明治35年(1902年)に大学に昇格し、その所在地をとって「早稲田大学」と命名された。法律上の大学令による「大学」と正式に認められたのは大正9年(1920年)のことである。以来、ライバルの慶應義塾大学とともに東京の名門私立大学として全国的に知られるようになり、自由な気質を持った活発で優秀な卒業生を多く輩出していった。

 早稲田大学の早稲田キャンパスには政治経済学部、法学部、教育学部、商学部、社会科学部、国際教養学部などの学部があり、学校の規模が大きくて学生数も非常に多く、授業の教室の移動が大変そうだが、さまざまな人材が集まり若者の無限の可能性を感じさせる。キャンパス内には創設者の大隈重信の像や「大隈講堂」がある。早稲田キャンパスの中央部にバス乗り場があり、JR山手線や西武鉄道新宿線が走る高田馬場(たかだのばば)駅を結ぶバスが頻繁に運行されており、通学の便をはかっている。

 東京メトロ東西線・早稲田駅は昭和39年(1964年)に開設され、地下鉄早稲田駅の南側にある戸山(とやま)キャンパスは、文学部があり、これらのキャンパスの周辺から西早稲田、高田馬場駅にかけては、学生らの腹を満たす食堂やラーメン屋など飲食店が集まり、活気ある学生街が形成されている。アジアや欧米からの留学生も多く、国際色も豊かだ。

 都電荒川線の早稲田・電停は、昭和5年(1930年)に王子電気軌道として開業。大正7年(1918年)に早稲田まで伸びていた東京市電(後の都電)と接続していた。王子電気軌道は昭和17年(1942年)に東京都に買収され東京都電・荒川線となった。荒川線と接続していた東京都電・江戸川線の早稲田~江戸川橋(えどがわばし)~九段下(くだんした)は、昭和43年(1968年)に廃止され、そのルートは地下鉄・有楽町線がカバーするようになった。都営バス早稲田営業所は、かつての都電江戸川線の車庫の跡地を利用している。

 このほか、東京メトロ副都心線の西早稲田(にしわせだ)駅前には早稲田大学の西早稲田キャンパスがあり、理系部門の理工学部などが入っている。西早稲田駅の東側には、戸山高校や学習院女子大学、学習院女子高等科などの学校が集まっている。平成20年(2008年)に副都心線が開業し、通学が便利になった。

東京・早稲田エリアの主な駅

早稲田 / わせだ 電停
東京都電 荒川線(東京さくらトラム)

早稲田 / わせだ 駅
東京メトロ 東西線

西早稲田 / にしわせだ 駅
東京メトロ 副都心線

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東京都電荒川線・早稲田駅

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東京都電荒川線・早稲田駅

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早稲田大学・大隈講堂

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テーマ : 東京23区
ジャンル : 地域情報

埼玉 秩父・大滝 三峯神社と秩父湖と大滝温泉

秩父・大滝
ちちぶ・おおたき

日本国埼玉県秩父市

埼玉 秩父・大滝 三峯神社と秩父湖と大滝温泉

 大滝(おおたき)は、埼玉(さいたま)県西部の秩父(ちちぶ)市にある地区で、もともと人口約0.2万人の秩父郡大滝村であったが、平成17年(2005年)に秩父郡の吉田(よしだ)町、荒川(あらかわ)村とともに秩父市と合併し、新しい秩父市の一部となった。

 旧・大滝村は、旧・荒川村の西にあり、北は秩父郡の小鹿野(おがの)町と隣接し、群馬県の上野(うえの)村、長野県の川上(かわかみ)村、山梨県の山梨(やまなし)市、甲州(こうしゅう)市、丹波山(たばやま)村、東京都の奥多摩(おくたま)町などと接している。このうち実際に幹線道路が通っているのは、旧・荒川村と山梨県山梨市のみであり、彩甲斐街道と呼ばれる国道40号線の雁坂(かりさか)トンネルで山梨県側に抜けることができる。雁坂トンネルが開通したのは平成10年(1998年)のことで、それ以前は大滝村から山梨県へ自動車で通り抜けることはできなかった。

 大滝村は、荒川の最上流部にあたり、旧・荒川村にある秩父鉄道・秩父本線の三峰口(みつみねぐち)駅からバスで国道140号線沿いを走ると、道の駅「大滝温泉」がある。ここには、日帰り温泉「大滝温泉 遊湯館」などの入浴施設があるほか、周辺は大滝の集落があり、近くに秩父市大滝総合支所(旧・大滝村役場)もある。このあたりで荒川と中津川が合流しており、中津川の上流には滝沢ダムと奥秩父もみじ湖や中津峡がある。

 荒川を上っていくと二瀬ダムと秩父湖があり、三峯神社へ向かう車両はこのダムの天端上の道路を通る。ここからさらに細い道路を上っていくと三峯神社の大きな駐車場に到着する。三峯神社(みつみねじんじゃ)は、秩父神社、宝登山(ほどさん)神社とともに秩父三社の一社であり、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉册尊(いざなみのみこと)を主祭神としている。境内には三つの鳥居が組み合わさった「三ツ鳥居」があり、さらに奥に進んでいくと杉の神木が聳え立つ拝殿があり、関東有数のパワースポットとして観光客にも人気がある。

 かつては三峰口~大滝温泉の間の大輪から三峰山頂まで秩父鉄道が三峰ロープウェイを運行していたが、設備の老朽化により平成18年(2006年)に運休し、そのまま廃止された。これにより、三峯神社へのアクセスが不便になったが、現在は西武秩父駅および秩父鉄道・三峰口駅から三峯神社を結ぶバスの運行が強化されている。但し、多客時にはマイカーが押し寄せ、三峯神社へ向かう道路が大渋滞し、バスも大遅延することから、多客時のマイカー規制とバス優先運行確保などが課題である。

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道の駅・大滝温泉

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荒川上流部の峡谷

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二瀬ダム

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秩父湖

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三峰ビジターセンター

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三峯神社への参道のお土産屋とレストラン

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三峯神社の三ツ鳥居

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三峯神社

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三峯神社

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三峯神社

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三峯神社の拝殿と杉の神木

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テーマ : 埼玉県を散歩
ジャンル : 地域情報

福島・大熊 福島第一原発事故が発生した原発の町

大熊
おおくま

日本国福島県双葉郡大熊町

福島・大熊 福島第一原発事故が発生した原発の町

 大熊(おおくま)町は、福島(ふくしま)県浜通り地方の双葉(ふたば)郡にある町で、平成23年(2011年)の東日本大震災発生時まで人口約1.1万人が住んでいた町。

 北が双葉郡の双葉(ふたば)町と浪江(なみえ)町、西が田村(たむら)市、南が双葉郡の川内(かわうち)村と富岡(とみおか)町と接しており、東には太平洋が広がっている。

 大熊は、古くは「苦麻」(くま)と呼ばれ、かつての常陸国(ひたちのくに)の北限で、後に浜通り全体が石城国(いわきのくに)となった(その後、陸奥国に編入)。苦麻は、後に「熊川」(くまかわ)と呼ばれるようになり、鎌倉時代から戦国時代にかけては、標葉(しねは)氏に続いて相馬(そうま)氏の領土の南限となり、江戸時代には中村藩の南限で、大熊町と富岡町の境の夜ノ森(よのもり)が、中村藩と磐城平藩との境であった。江戸時代には浜街道(現・国道6号線)が整備され、熊川宿の宿場町として栄えた。

 「大熊」(おおくま)になったのは、昭和29年(1954年)に標葉郡の大野(おおの)村と熊川(くまかわ)村が合併し、頭文字を合わせて「大熊」(おおくま)町が発足した。

 大熊町にはJR東日本・常磐線が通り、町内に大野駅があり、大熊町役場、大熊町図書館、双葉病院などへの最寄り駅であったが、平成23年(2011年)3月の東日本大震災の際に発生した福島第一原子力発電所の爆発事故による放射能汚染で、運休が続いている。

 大熊町およびその周辺の福島県浜通り地区は、夜ノ森以南に広がっていた常磐炭田が衰退し、昭和30年代からの産業近代化と高度経済成長の波に乗り遅れて、大熊町は農業以外の目立った産業がなく、過疎化が進んでいた。一方で、高度経済成長を続ける日本は電力需要が急増し、石炭・石油の火力発電のほか、大きなエネルギーを生み出せる原子力発電の実用化の研究が進められていた。

 そこで、東京電力は1964年(昭和39年)より用地取得を開始し、翌年に原子力発電所の建設が可能であると判断する調査結果を発表し、原発の建設に向けて地元への説明と交渉を進めていった。この海岸段丘上にある用地は、もともと昭和16年(1941年)に建設された日本陸軍の磐城飛行場の跡地であり、戦後は民間に払い下げられ、国土計画興業(後のコクド)が塩田の用地として土地の多くを取得していたが、この時点ですでに製塩事業は行われていなかった。

 福島第一原発は、昭和46年(1971年)に完成し、1号機が稼働し始めた。その後、1~4号機が大熊町、5~6号機が双葉町の敷地に整備され、関東地方の電力を支える役割を果たした。首都圏に電気を供給する原発を、わざわざ東京電力の管轄外の福島県に造ったのは、万が一、大規模な原発事故が発生した場合に、首都東京への影響を軽減するためであった。そのリスクを地方が負うことになるが、雇用が増え、国から補助金により町の財政が豊かになるというメリットを天秤にかけ、原発の誘致が進められたのだった。原発があるおかげで、町には安定した産業と税収があり、平成の大合併でも、近隣都市と合併しなくても町の独立を維持できた。原発の安全性についても、日本の技術力は高く、町の生存を脅かすような大規模な事故は起こらないだろうと思われてきた。
 
 ところが福島第一原発は、平成23年(2011年)3月11日に東日本大震災発生後、自動的に緊急停止したものの、そのあと襲った大津波で非常用電源も壊れてしまい、全電源喪失状態となり、自動循環冷却機能が喪失した。それによって、原子炉の炉心の燃料棒が過熱し、メルトダウン(炉心溶融)する深刻な事態となった(日本政府や東電がメルトダウンを公式に認めたのは発生から約2ヶ月後)。

 震災で炉心溶融や水素爆発などの大事故を起こしたのは大熊町にある1号機~4号機で、大熊町は大部分が原発から10キロ以内、町すべてが20キロ以内に含まれ、原発事故による大規模な放射能汚染が発生したことから、大熊町全体が一般人立入禁止の警戒区域となり、平成25年(2013年)に帰還困難区域と避難指示解除準備区域に分けられたが、中心市街地が帰還困難区域にあり、立入が厳しく制限されている。

 日本政府は3月11日21時過ぎに原発から半径3キロ圏内に避難指示、半径3~10キロに屋内待機を指示した。さらに、翌日になると避難指示が半径10キロまで拡大。放射能放出のベントや、水素爆発発生後の12日20時過ぎに避難指示が半径20キロまで拡大され、大熊町は全域が避難対象となり、全町民が町を出なければならなくなった。

 福島第一原発では3月12日15時過ぎに1号機で水素爆発が発生し、建屋の上部が吹き飛んだ。その二日後の14日11時頃に3号機が1号機より激しく爆発し、建屋の上部が吹き飛んだ。2号機も15日に爆発し、格納容器が損傷し、4号機でも火災が発生した。これらによって、大量の放射能が漏れ出し、双葉町には放射性のヨウ素、セシウムなど高濃度の放射性物質が降り注ぎ、町全域が極めて深刻な放射能汚染にさらされた。

 大熊町にある双葉病院は、福島第一原発からわずか4.5キロの距離にあり、東日本大震災による原発事故が発生した際には、患者の避難とその輸送で大きく混乱した。特に原発事故による避難指示の影響で、避難を命じられた医療関係者の再入町が許可されず、困難な状況の中で自衛隊による救援作業が行われたが、移送中や搬送先の病院等で多くの患者が亡くなった。

 4月12日、日本政府の原子力安全・保安院は、事故後に放出された放射性物質が少なくとも37万テラベクレル(37京0000兆0000億0000万0000ベクレル)以上に及んだことを認め、福島第一原発事故のINES深刻度について、とうとう旧ソ連チェルノブイリ原発事故と並ぶ最悪の「レベル7」に引き上げた。4月21日には大熊町の全域を含む半径20キロ圏内が警戒区域となり、一般人立入禁止となった。

 このような経緯により、大熊町民は避難の準備もできないまま着の身着のままで避難を迫られたため、ペットが避難できず、一部は逃がされて野生化したほか、特に酪農や養豚の農家で、家畜を置き去りにせざるを得ず、一部は殺処分されたが、放置された状態が続いていた。また、処分されていない一部は野生化し、家畜の多くは餓死した。

 原発の警戒区域として全町民が町外に避難している大熊町などの住民は、地震や津波の後片付けもできず、復興の見通しすら立たない状態が続いている。大熊町役場は、福島県の会津若松市、いわき市、郡山市などに出張所や連絡事務所を設け、町民もこれらの町外で避難生活を続けている。大熊町の場合は、原発事故が収束しない限り、町に戻れるかどうかもわからない。福島第一原発では事故を収束させるための注水が続けられ、廃炉に向けた懸命な作業が続けられている。

 大熊町の復興計画によると、福島第一原発の南西側に除染廃棄物など放射性廃棄物の中間貯蔵施設の建設が進められている。大熊町はかつて、梨やキウイの栽培が盛んで、国道6号線から見える「フルーツの香り漂うロマンの里 おおくま町」と書かれた建物がむなしく廃墟になっている。もうこの町で農業の再開はできないだろうから、せめて大熊町のフルーツ栽培の技術が他の町で再び生かされて特産品となるよう願うしかない。

 大熊町の放射能汚染問題は何十年にもわたり尾を引くだろう。原発事故の代償は極めて大きく、大熊町の今後の展望はまだ見えない。町内の空間放射線量は依然非常に高く、平成28年(2016年)の大熊町の発表資料によると、福島第一原発周辺では、15μSv/h以上の区域もある。常磐線の大野駅や大熊町役場附近も依然3.8~9.6μSv/hと極めて高い線量のままである。だが、完成間近だった常磐自動車道は平成27年(2015年)に開通し、町内にも大熊ICが平成30年(2018年)に開設される予定である。これがきっかけとなり、町内の主要部の除染作業が加速するなど、少しでも前向きな光が差し込んでほしいものだ。

 JR常磐線は、平成32年(2020年)の運転再開に向けて除染および復旧作業が進められている。これが開通すれば、原発事故により十年近く続いた浜通り地区の南北の交通の分断が解消されることになり、常磐線は再び幹線の機能を取り戻すことになる。かつて特急「スーパーひたち」の一部も停車していた過去の原発都市の栄光は戻らないにしても、JR常磐線が再び大熊町を走る日が来て、大野駅の線量が下がって安全が確保され、再び大野駅が一般営業を再開できたなら、ぜひ途中下車して、もはや不可能と思われた大熊町の復興に向けて歩む町を見てみたい。

大熊エリアの主な駅

大野 / おおの 駅
JR東日本 常磐線(休止中)

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国道6号線から見た福島第一原発と雑草が生い茂る元農地

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国道6号線から福島第一原発へと続く道

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「フルーツの香り漂うロマンの里 おおくま町」と書かれた建物

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大熊町南部の風景

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