FC2ブログ

愛媛 松山・松山空港 伊予灘にある四国最大の空の玄関、松山空港

松山・松山空港
まつやま・まつやまくうこう

日本国愛媛県松山市

愛媛 松山・松山空港 伊予灘にある四国最大の空の玄関、松山空港

 松山空港(まつやまくうこう)は、松山(まつやま)市西部の伊予灘(いよなだ)に面する空港で、2500mの滑走路を持つ。

 松山空港は、中国・四国地方で最多の利用客数がある国際空港で、旅客ターミナルの機能は充実し、「みかん」を前面に出した愛媛県のお土産店も充実している。

 松山空港は、日本海軍が広島湾要塞の防空のために建設して吉田浜飛行場が前身であり、昭和18年(1943年)に一部完成して松山海軍航空基地として使用されていた。昭和20年(1945年)の終戦後に、連合国(GHQ)軍に接収され、朝鮮戦争の期間は米軍も同飛行場を使用した。昭和27年(1952年)に連合国軍の接収が解除され、日本に返還されると、民間空港として整備され、昭和31年(1956年)に大阪伊丹空港との航空輸送を不定期で開始した。昭和34年(1959年)に初代ターミナルビルが竣工し、1200mの滑走路が使用可能になると、昭和36年(1961年)より松山―大阪線、松山―広島線の定期便が就航し、昭和40年(1965年)より松山―東京羽田の直行便も運航を始めた。

 その後、昭和47年(1972年)に滑走路が2000mに延長され、ジェット機の乗り入れが実現し、着実に路線網を増やしていった。平成3年(1991年)に滑走路が2500mに延長。3代目の新旅客ターミナルビルも竣工し、ジャンボジェット機が乗り入れられるようになった。平成6年(1994年)には国際線ターミナルビルも完成した。

 松山空港からは東京羽田を結ぶメイン路線に加え、大阪伊丹への需要も大きいことから、高松空港より利用者が多い。また、広島空港は新幹線との競合があるが、東京から松山は飛行機が非常に便利である。このほか、福岡、名古屋中部、札幌新千歳、沖縄那覇、鹿児島、大阪関西、東京成田などの路線が運航されている。

 国際線は、中国上海浦東、韓国ソウル仁川への定期便が運航されているほか、令和元年(2019年)7月より台湾のエバー(長栄)航空が松山―台北桃園に定期便が就航する。

 松山空港から松山市中心部へは、松山駅まで約5キロとわりと近いものの、鉄道交通はなく、リムジンバスや一般路線バス、タクシーなどを利用することになる。愛媛県および松山市では、伊予鉄道市内線の路面電車を松山空港まで延伸することに前向きな姿勢を見せており、もし実現すれば、松山空港からJR松山駅を経由して松山市駅や道後温泉(どうごおんせん)まで路面電車でつながることになる。

matsuyamakuko1.jpg
松山空港旅客ターミナルビル

matsuyamakuko2.jpg
松山空港旅客ターミナルビル

matsuyamakuko3.jpg
愛媛県のみかんをPRする松山空港

matsuyamakuko4.jpg
松山空港


ドルジバツアー ホームページ(バックナンバー)
http://drughbatour.web.fc2.com/

にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ
にほんブログ村 
スポンサーサイト

テーマ : 愛媛県
ジャンル : 地域情報

福岡・中間 大正鉱業と中鶴炭鉱と筑豊本線、炭鉱閉鎖から北九州の近郊都市へ

中間
なかま

日本国福岡県中間市

福岡・中間 大正鉱業と中鶴炭鉱と筑豊本線、炭鉱閉鎖から北九州の近郊都市へ

 中間(なかま)市は、福岡(ふくおか)県北部にある人口約4万人の市。北が遠賀(おんが)郡の水巻(みずまき)町と遠賀郡遠賀町、西が鞍手(くらて)郡の鞍手町、南と東が北九州(きたきゅうしゅう)市の八幡西(やはたにし)区に接している。

 中間市は中央に南北に遠賀川(おんががわ)が流れ、市は川西(かわにし)地区と川東(かわひがし)地区に分けられる。中間市は、遠賀郡長津村が大正11年(1922年)に長津町となってすぐ、大正13年(1924年)に中間町に改名された。中間町は昭和7年(1932年)に遠賀郡底井野(そこいの)村を合併した。戦後は、周辺の町村との「遠賀市」構想や、さらに現・北九州市の八幡市・若松市・戸畑市なども加えた「大遠賀市」構想があったが、遠賀川の水利権や、大都市の辺境よりは小都市の中心のほうがよいということで合併話が消え、昭和33年(1958年)に単独で市制を施行し、「中間市」が発足した。

 中間は、遠賀川が流れる平野にあるため、古くから稲作が盛んな豊かな町だった。江戸時代は筑前国(ちくぜんのくに)のほとんどを占めた黒田藩(くろだはん)の領域となり、よく氾濫する遠賀川の治水のため、遠賀川から洞海湾(どうかいわん)を結ぶ運河(堀川)が建設され、1762年(宝暦12年)に完成した。

 明治時代になると筑豊炭田の開発が本格化し、遠賀川や堀川の水運を使って石炭が輸送された。また、明治24年(1891年)に筑豊本線の前身の筑豊興業鉄道、明治41年(1908年)には中間駅から香月線が開業し、石炭輸送の主役が鉄道に移ると炭鉱の開発が本格化した。市内には主に大正鉱業により炭鉱開発が行われ、遠賀川に近い中鶴炭鉱をはじめ、新手、大根土などに炭鉱が開発され、隣町の香月(かつき)の炭鉱からも石炭が香月線を使って中間へ運ばれた。深く掘られた炭坑から出た捨石(ボタ)は、市東部の蓮花寺の周辺に積み上げられ、ボタ山が形成された。このボタ山は現在すでに樹木に覆われており、炭坑からできたものとは見た目だけではわからない。

 これらの中間市の炭鉱は、エネルギーが石炭から石油に切り替わっていく中で徐々に縮小し、昭和39年(1964年)に最後の炭鉱が閉山した。それとともに人口が大きく流出した。

 現在、中間市には、JR九州・筑豊本線(福北ゆたか線)の中間(なかま)駅と筑前垣生(ちくぜん はぶ)駅、筑豊電気鉄道線の通谷(とおりたに)、東中間(ひがしなかま)、筑豊中間(ちくほう なかま)、希望が丘高校前(きぼうがおかこうこうまえ)の各駅がある。

 中間市の市街地は主に遠賀川の川東地区に広がっており、JR中間駅を中心に市街地が広がっていたが、炭鉱産業の衰退とともに、駅周辺の街並みもさびれ、昭和レトロの面影を残す街並みが広がっている。炭鉱の工場や宿舎があったところは、中鶴県営住宅や大根土団地になった。

 中間駅は、かつては国鉄香月線も乗り入れ、香月方面からの石炭を筑豊本線を使って若松(わかまつ)港へ運んでいた。香月線は昭和49年(1974年)に貨物営業を終了し、昭和60年(1985年)に全線廃止された。市内には新手(あらて)駅と岩崎(いわさき)駅がああり、両駅の近くにも炭鉱があった。筑豊本線は、筑豊炭田から若松港を結ぶ貨物中心の幹線で、蒸気機関車が石炭を運んでいたので、電化もされていなかった。炭鉱が閉鎖され、貨物が少なくなると、筑豊本線は平成13年(2001年)に黒崎(くろさき)・折尾(おりお)~桂川(けいせん)および篠栗線(桂川~吉塚・博多)を電化した上で、このルートの愛称を「福北ゆたか線」とし、筑豊地方から北九州市と福岡市を結ぶ新しい旅客路線の道を切り拓こうとしている。中間駅は北九州市の折尾・黒崎に近く、JR鹿児島本線に乗り換えれば小倉(こくら)にも便利であり、北九州市に通勤しやすい近郊都市である。

 遠賀川を渡った川西地区にある筑前垣生駅は、桜やツツジが美しい垣生公園の最寄り駅で、中間市出身のプロ野球選手・監督だった仰木彬(おおぎ あきら)を記念した市営の「中間仰木彬記念球場」がある。遠賀川の橋梁には古いレンガ造りの橋脚が保存されている。

 筑豊電鉄は、昭和31年(1956年)に八幡市(現・北九州市)の貞元(現・熊西)~筑豊中間が開業。さらに昭和34年(1959年)までに筑豊直方(ちくほう のおがた)まで延伸された。筑豊中間駅は市中心部の本町や新手地区、中間市役所などに近い。

 通谷駅は市の東部にあるが、炭鉱閉山後のまちづくりの中で消費人口の市外流出を防ぐためにダイエーを誘致し、昭和53年(1978年)に「ダイエー中間店」がオープンしたことがきっかけで、市の商業の中心となっている。平成10年(1998年)に規模拡大され「ショッパーズモール中間」となり、「ダイエーショッパーズモールなかま」を経て、平成27年(2015年)より「イオンなかま店」となっている。ダイエーの進出は、郊外型の大規模商業施設の成功事例となった一方で、中間駅周辺の商店街の客が流れ、商店街は衰退していった。通谷駅からJR中間駅までは「ふれあい大通り」がつながっており、中間市立病院、なかまハーモニーホール、中間市民図書館などの施設がある。

中間エリアの主な駅

中間 / なかま 駅
JR九州 筑豊本線(福北ゆたか線)

通谷 / とおりたに 駅
筑豊電気鉄道 筑豊電気鉄道線

筑豊中間 / ちくほう なかま 駅
筑豊電気鉄道 筑豊電気鉄道線

nakama1.jpg
JR福北ゆたか線・中間駅

nakama2.jpg
遠賀川を渡るJR福北ゆたか線


ドルジバツアー ホームページ(バックナンバー)
http://drughbatour.web.fc2.com/

にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ
にほんブログ村 

テーマ : 福岡
ジャンル : 地域情報

ルクセンブルク ルクセンブルク大公の立憲君主国、ベネルクスの金融センター

Groussherzogtum Lëtzebuerg (ルクセンブルク語)
Grand-Duché de Luxembourg (フランス語)
Großherzogtum Luxemburg (ドイツ語)
ルクセンブルク大公国(レツェブエシ)

ルクセンブルク ルクセンブルク大公の立憲君主国、ベネルクスの金融センター

 ルクセンブルク大公国は、西ヨーロッパにある独立国家で、北と西がベルギー、南がフランス、東がドイツに接している。ルクセンブルク語、フランス語、ドイツ語を公用語としており、ルクセンブルク語では「Grousherzogtum Lëtzebuerg」(グロウスヘルツォークトゥム・レツェブエシ)、フランス語では「Grand-Duché de Luxembourg」(グハンデュシェ ドゥ リュクサンブーフ)、ドイツ語では「Großherzogtum Luxemburg」(グロースヘアツォークトゥム ルクセンブルク)であり、日本語では「ルクセンブルク大公国」と表記される。

 ドイツ語系の国民が多いことから、日本語ではドイツ語読みの「ルクセンブルク」(Luxemburg)が用いられているが、現地のドイツ中部方言に近いルクセンブルク語は「レツェブエシ」(Lëtzebuerg)と呼ばれる。また、ルクセンブルクの行政言語はフランスが用いられており、フランス語なら「リュクサンブーフ」(Luxembourg)となる。フランスとドイツの2大国に挟まれながらも、ルクセンブルク語が1984年に公用語に格上げされ、多様性の中での独自のアイデンティティーを大事にしている。

 ルクセンブルク大公国は、人口が約58万人。面積が0.26万平方キロメートルの小さな国であるが、一人あたりの国内総生産(GDP)は約11万ドルで世界1位。一人当たりの購買力平価(PPP)も約13万ドルでカタールと1位、2位を争う世界の中で極めて所得が高い国である。

 ルクセンブルクには、古くはケルト系の民族が住み、後にゲルマン系の民族が進出し、ローマの支配下の時代には、キリスト教も布教された。ルクセンブルクの都市は、963年にフランス貴族のアルデンヌ家(Maison d'Ardenne)のジーケフロイト(Sigefroid)伯爵が城を築き、「Lucilinburhuc」と呼び、それが「Luxembourg」の由来となった。11世紀に、アルデンヌ家の分家のルクセンブルク家(Haus Luxemburg / Maison de Luxembourg)に伯爵位が与えられ、14世紀にはルクセンブルク家からのローマ皇帝カール4世(Karl IV)により、伯領から公領に格上げされた。その後、ルクセンブルク家の断絶により、1461年にブルゴーニュ公国(État bourguignon)に併合された。ブルゴーニュ公のシャルル(Charles)はブルゴーニュとネーデルラントの諸公国を合併させようとしたが、1477年のナンシーの戦いでシャルルが戦死し、娘のマリー(Marie)がハプスブルク家(Haus Habsburg)のマクシミリアン1世(Maximilian I.)に嫁ぎ、ルクセンブルク公国はハプスブルクの勢力下に入った。

 ハプスブルク家の統治下にあったルクセンブルク公国は、1556年にネーデルラント(現ベルギー、オランダ)とともにスペイン・ハプスブルク家の統治下となった。このうち北部は1582年にネーデルラント連邦共和国(オランダ)として独立し、ルクセンブルク公国を含む南ネーデルラントは引き続きスペイン領ネーデルラントとなった。
 
 1667年にフランスとスペインがネーデルラント継承戦争を起こし、1668年のアーヘンの和約、1714年のラシュタット条約などにより、スペイン領ネーデルラントはオーストリアに移譲された。これはフランスの侵入を防ぐ目的があった。神聖ローマ帝国のオーストリア領ネーデルラントは中央集権化を進めるヨーゼフ2世(Joseph II.)への反乱が1788年に発生し、1790年にルクセンブルク公国を含む「ベルギー合衆国」が建国された。しかし、国際的な承認が得られない中、神聖ローマ帝国のレオポルト2世(Leopold II.)がネーデルラントのベルギー合衆国を解体してオーストリアに奪還した。1789年のフランス革命により、フランスの支配を受けたが、1815年のウィーン会議により、ルクセンブルクはネーデルラント連合王国の一部とされ、オランダ国王を大公とする「ルクセンブルク大公国」となった。

 1830年にベルギー独立革命の際、「ルクセンブルク大公国」の西半分がリュクサンブーフ州としてベルギー王国に参加した。1939年にベルギー王国が国際承認されると、西側がベルギー王国リュクサンブーフ州、東側がオランダ王を元首とする「ルクセンブルク大公国」となった。プロイセン王国(ドイツ)はルクセンブルクをオランダの勢力圏に置いてフランスの侵入を防ごうとした。1867年のロンドン条約で、オランダ王国とルクセンブルク大公国が同君連合を組むことを確認したうえで、ルクセンブルクの永世中立が謳われた。1890年に元ナッサウ公のアドルフ(Adolph)がルクセンブルク大公となり、オランダとの同君連合は解消された。

 ルクセンブルク大公国は永世中立が謳われていたが、第一次世界大戦、第二次世界大戦ともにドイツの占領下に置かれ、中立を維持できなかった。戦後は、1948年にベネルクス関税同盟を結び、ベルギーおよびオランダとの関係を強化し、さらに1949年にはNATO(北大西洋条約機構)に加盟し、永世中立を放棄し、西側に立つことを明確にした。欧州連合(EU)には現加盟国として参加し、ヨーロッパ統合を積極的に進め、通貨もドイツ、フランス、ベルギーなどとともに1999年に決済通貨、2002年に現金通貨としてユーロを導入した。

 ルクセンブルク大公国の国家元首である大公はナッサウ家(Haus Nassau)が世襲している。2000年にアンリ(アンヒ/Henri)がルクセンブルク大公に即位した。ルクセンブルク大公は儀礼的な職務のほかにも、内閣とともに行政権がある。議会は一院制で、議員は直接選挙で選出される。

 ルクセンブルク大公国の経済は、外国資本を積極的に誘致し、税率を低く抑える新自由主義に近い経済体制であり、金融業が栄え、IT系企業の本社誘致にも成功し、外国人労働者の比率も高い。また、外国資本による鉄鋼業を中心とする重工業も国内産業を堅実に支えており、鉄鋼業が下がってきたぶんを金融の伸びが経済を牽引している。フランス、ベルギー、ドイツと非常に緊密な関係にあることから、国境を超えた人の行き来が盛んである。農業は、国土が狭いことから有機農法を盛んに採り入れ、価値を高めている。ベルギーやフランスと同様に、白ワインやチョコレートが特産品として人気がある。

 首都のルクセンブルク(Lëtzebuerg / Luxembourg / Luxemburg)市は、人口約10万人で、標高約500mのアルデンヌ(Ardennes)高原にある。市内には高層ビルがなく、古い街並みが保存されている。中心部にはルクセンブルク・ノートルダム大聖堂(Kathedral Notre-Dame / Cathédrale Notre-Dame)があり、要塞として建造された城壁も残る。欧州連合(EU)の関連機関も多くあり、欧州議会事務局本部、欧州司法裁判所、欧州会計監査院、欧州投資銀行などが置かれている。

 ルクセンブルク駅(Gare Lëtzebuerg / Gare de Luxembourg / Bahnhof Luxemburg)からは、2007年に開業したLGV東ヨーロッパ線を通るTGVがパリまで約2時間05分で結んでいる。また、ベルギーのブリュッセルまで約3時間、ドイツ方面への国際列車も走っている。

 また、ルクセンブルク-フィンデル空港(de Fluchhafe Lëtzebuerg / l'Aéroport de Luxembourg-Findel / der Flughafen Luxemburg)からはヨーロッパ各主要都市への路線が就航しており、ルクセンブルクの航空会社である「ルクスエア」(Luxair)および貨物の「カーゴルックス航空」の拠点空港となっている。

 ルクセンブルク大公国には、首都のルクセンブルク市のほか、ブドウとワインが有名な東部のグレーヴェンマハ(Gréiwemaacher / Grevenmacher)、ディーキルヒ(Dikrech / Diekirch)などの都市がある。

ルクセンブルク大公国
Groussherzogtum Lëtzebuerg(ルクセンブルク語)
Grand-Duché de Luxembourg(フランス語)
Großherzogtum Luxemburg(ドイツ語)
面積:0.3万平方キロ
人口:58万
通貨:ユーロ
首都:
レツェブエシ/Lëtzebuerg(ルクセンブルク語)
リュクサンブーフ/Luxembourg(フランス語)
ルクセンブルク/Luxemburg(ドイツ語)(人口9万) 

参考:Wikipediaなど


ドルジバツアー ホームページ
http://drughbatour.web.fc2.com/

にほんブログ村 旅行ブログ 海外旅行へ
にほんブログ村

テーマ : ヨーロッパ旅行記
ジャンル : 旅行

北海道・木古内 北海道新幹線と道南いさりび鉄道

木古内
きこない (日本語)
リ ロ ナイ (アイヌ語)

日本国北海道渡島地方上磯郡木古内町

北海道・木古内 北海道新幹線と道南いさりび鉄道

 木古内(きこない)町は、北海道(ほっかいどう)の渡島(おしま)地方、上磯(かみいそ)郡にある人口約0.4万人の町。東が北斗(ほくと)市、北が檜山(ひやま)郡の厚沢部(あっさぶ)町、西が檜山郡上ノ国(かみのくに)町、南が上磯郡の知内(しりうち)町と接している。また、南東には津軽海峡(つがるかいきょう)が広がる。

 木古内の地名は、アイヌ語が由来であることは間違いないが、渡島半島には江戸時代の頃にはもう和人(日本人)が住んでいて、古くから「木古内」(きこない)と表記されたため、元のアイヌ語が何だったか諸説あり、潮が入る川という意味の「リ ロ ナイ」が転訛したという説が有力である。

 木古内に和人が住むようになったのは一番古い記録で室町時代の1433年(嘉吉3年)とされている。1457年(康正3年)には、渡島半島東部を拠点とするアイヌの首領コシャマインによる蜂起があり、木古内にあった「中野館」が落城した。江戸時代になると松前藩領となり、1799年(寛政11年)に江戸幕府の直轄地となった。明治2年(1869年)の箱館戦争を経て、北海道の渡島支庁の上磯郡木古内村となる。昭和17年(1942年)に町制を施行して上磯郡木古内町となった。

 木古内駅は国鉄江差線の駅として昭和5年(1930年)に開業。昭和10年(1935年)に江差線は湯ノ岱(ゆのたい)まで延伸、昭和11年(1936年)に江差(えさし)まで延伸して全線開業した。また、木古内からは昭和12年(1937年)に国鉄福山線として木古内~渡島知内(おしま しりうち)が開業。その後、徐々に延伸して昭和28年(1953年)に松前(まつまえ)まで延伸され、全線開通した際に国鉄松前線となった。

 木古内駅は江差線と松前線が分岐する交通の拠点であったが、北海道と本州を結ぶ青函トンネルが建設されることになると、江差線の五稜郭~木古内が津軽海峡線ルートの一部に組み入れられ、木古内から新線を建設して青函トンネルにつなげることになった。そして、昭和63年(1988年)に松前線が廃止され、木古内~中小国(JR津軽線)を結ぶJR津軽海峡線が開業した。これに合わせて、江差線の木古内~五稜郭が電化された。

 木古内駅は、青函を結ぶルートとして快速「海峡」や特急「はつかり」、後に特急「スーパー白鳥」などが停車するようになった。青函トンネルは新幹線に対応した規格で建設されているため、これを有効活用するために東北新幹線の新青森駅から木古内駅を経由して北斗市の函館本線・渡島大野駅(現・新函館北斗駅)まで北海道新幹線が建設されることになった。一方、ローカル線化していたJR江差線の木古内~江差は平成26年(2014年)に廃止された。

 平成28年(2016年)に北海道新幹線が開業し、新幹線の木古内駅が開設され、「はやぶさ」の一部が停車するようになった。青函トンネルの旅客輸送が北海道新幹線に移行すると、並行在来線となったJR江差線の木古内~五稜郭は、第3セクターの「道南いさりび鉄道」に移管された。同区間は廃止も検討されたが、北海道と本州を結ぶ貨物列車が多く走る貨物の幹線であるため、廃止がまぬがれた。

 木古内町には現在、JR北海道・北海道新幹線の木古内駅および道南いさりび鉄道線(旧・JR江差線)の木古内、札苅(さつかり)、泉沢(いずみさわ)、釜谷(かまや)の各駅がある。道南いさりび鉄道は、路線自体は電化されていて、JR江差線の時代は電車特急が走っていたが、経費節減のためなのか、現在はJRから譲渡された古い気動車が走っている。しかし、貨物列車は電気機関車に牽引されて青函トンネルへ向かうため、この貨物列車がある限りは、同線の存在価値がある。

 道南いさりび鉄道の普通列車は、全列車が函館(はこだて)駅まで直通している。北海道新幹線は函館駅には乗り入れておらず、新函館北斗駅から函館方面に乗り換える必要がある。それならば、木古内駅から道南いさりび鉄道で函館へ向かうのも悪くない選択だ。海沿いを走って景色もよい。

 青函トンネルは地下なので、海が見えないが、木古内駅の北側では北海道新幹線から海が見える。木古内駅の南西には鶴岡(つるおか)という集落があるが、ここは明治時代に山形県庄内(鶴岡)地方からの移住者が開墾したところで、平成26年(2014年)までJR江差線の渡島鶴岡(おしま つるおか)駅があった。また、中野(なかの)という地名は、かつて松前藩成立前に「道南十二館」の一つだった中野館が置かれていたことに由来する。

木古内エリアの主な駅

木古内 / きこない 駅
JR北海道 北海道新幹線
道南いさりび鉄道 道南いさりび鉄道線

kikonai1.jpg
北海道新幹線から見た木古内の風景

kikonai2.jpg
北海道新幹線・木古内駅

kikonai3.jpg
北海道新幹線・木古内駅

ドルジバツアー ホームページ(バックナンバー)
http://drughbatour.web.fc2.com/

にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ
にほんブログ村 

テーマ : 北海道
ジャンル : 地域情報

宮城・気仙沼 津波被害を受けた漁港都市、BRT化した気仙沼線と大船渡線

気仙沼
けせんぬま

日本国宮城県気仙沼市

宮城・気仙沼 津波被害を受けた漁港都市、BRT化した気仙沼線と大船渡線

 気仙沼(けせんぬま)市は、宮城(みやぎ)県北東部にある人口約6万人の市で、南が本吉(もとよし)郡の南三陸(みなみさんりく)町、西が登米(とめ)市と岩手県一関(いちのせき)市、北が岩手県陸前高田(りくぜんたかた)市と接していて、東には太平洋が広がっている。

 気仙沼市は、昭和28年(1953年)に本吉郡の気仙沼(けせんぬま)町と鹿折(ししおり)町、松岩(まついわ)村が合併して、気仙沼市が発足した。昭和30年(1955年)に、さらに本吉郡の新月(にいつき)村、階上(はしかみ)村、大島(おおしま)村を編入合併した。平成の大合併では、平成18年(2006年)に本吉郡の唐桑(からくわ)町と合併。さらに平成21年(2009年)に本吉郡本吉町を編入合併し、現在の市域となった。

 気仙沼は、古くは「計仙麻」と書かれ、「ケセマ」や「ケセンマ」と読まれていたとみられる。ケセマの地名の由来は諸説あり、「ケセ・モイ」(南端の入り江)や、「ケセ・マ」(削らせた場所)などアイヌ語由来の説もあり、それから旧・気仙郡に属していたことから、後に「気仙沼」(けせんぬま)と表記されるようになった。

 気仙沼周辺は、古くは陸奥国(むつのくに)の気仙(けせん)郡に属していた。この気仙郡は今の気仙沼市に加え、岩手県の陸前高田市や大船渡(おおふなと)市、釜石(かまいし)市の一部を含んでいた。戦国時代に豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)による奥州仕置があり、気仙郡より南が伊達(だて)氏領、北の閉伊(へい)郡が南部(なんぶ)氏領となった。伊達氏領は江戸時代には仙台藩となり、気仙郡は南が本吉郡に分けられ、気仙沼は本吉郡に属した。明治維新の際には、仙台藩であった気仙郡まで陸前国(りくぜんのくに)とされたが、後に本吉郡側が宮城県に、気仙郡側が岩手県に属することになった。そのため気仙沼市の北に隣接する陸前高田市は、「陸前」だが「岩手県」となっており、本吉郡の市町村合併を経て、気仙沼市が宮城県の北端となっている。

 気仙沼市には、JR東日本の大船渡線とBRT大船渡線、BRT気仙沼線が通り、平成23年(2011年)の東日本大震災で発生した津波により、JR気仙沼線とJR大船渡線は甚大な被害を受け、それ以降、鉄道駅として機能しているのは気仙沼駅だけであり、大船渡線の気仙沼~盛(さかり)および気仙沼線の気仙沼~柳津(やないづ)の鉄道としての復旧は断念され、一部鉄道の路盤を活用したバス路線であるBRT(バス・ラピッド・トランジット)として復旧した。

 震災前には、JR気仙沼線は気仙沼駅から、不動の沢(ふどうのさわ)、南気仙沼(みなみけせんぬま)、松岩(まついわ)、最知(さいち)、陸前階上(りくぜん はしかみ)、大谷海岸(おおやかいがん)、小金沢(こがねざわ)、本吉(もとよし)、陸前小泉(りくぜん こいずみ)、蔵内(くらうち)の各駅と、JR大船渡線の気仙沼駅から鹿折唐桑(ししおりからくわ)、上鹿折(かみししおり)の各駅があった。

 東北本線の一ノ関(いちのせき)駅から気仙沼を経由して大船渡市の盛(さかり)まで結ぶ大船渡線は、一ノ関側から工事が始まり、昭和4年(1929年)に気仙沼駅まで延伸開業した。その後、昭和7年(1932年)に上鹿折まで延伸、その後も延伸を続け、昭和10年(1935年)に盛まで全通した。東北本線から三陸海岸の気仙沼、大船渡を結ぶ路線として三陸地方の経済発展に寄与した。

 気仙沼線は、気仙沼より南の三陸海岸沿岸部を結ぶ路線として、気仙沼駅から石巻線の前谷地(まえやち)まで結ぶ路線として戦前より計画され、一部着工されたが、開業は戦後にずれ込み、昭和32年(1957年)に気仙沼~本吉が開業した。前谷地からは国鉄柳津線として前谷地~柳津が昭和43年(1968年)に開業した。残る区間は、三陸リアス式海岸が迫る地形のため、トンネルや橋梁が多く、昭和52年(1977年)に残る本吉~柳津がようやくつながり、悲願の全線開通を果たした。気仙沼線には気仙沼~仙台を直通する快速「南三陸」が運行されていた。本来なら、気仙沼線が気仙沼から仙台を結ぶ最短ルートになるはずであったが、東北新幹線の開業後は、大船渡線の一ノ関経由と時間は変わらなかった。

 東日本大震災の津波により、気仙沼市の駅のうち、気仙沼線の南気仙沼、松岩、最知、小金沢、陸前小泉の各駅と大船渡線の鹿折唐桑駅が流失した。また、本吉~陸前小泉の津谷川鉄橋の橋桁が流失し、橋脚も傾斜した。そのため、海側を走る大船渡線の気仙沼以東の区間と、気仙沼線は長期運休を強いられることになった。津波で路盤が崩壊し、復旧させるのに時間がかかることと、津波で危険な沿岸部の町では、集落ごと移転したり、土地のかさ上げなど大規模な都市計画を立て、駅もそれに合わせて移転する必要があり、もし鉄道で復旧するとしたら新線を建設するような莫大な費用がかかることになる。しかも大船渡線と気仙沼線は赤字路線であることから、JR東日本は路線の復旧を渋った。

 震災で甚大な被害を受けた自治体もお金がなく、県や国も民間鉄道への支援には積極的でなかった。JR東日本は、早く運行再開できて工事費用や運行費用も安いBRT(バス・ラピッド・トランジット)方式で復旧させることを提案し、鉄道路盤の一部を利用してそこにバスを走らるBRT専用道化し、復旧が難しい区間を一般道路を使用するという方式で、段階的に仮復旧することになった。

 気仙沼線は、平成24年(2012年)5月に沿線自治体がBRT仮復旧に合意し、同年8月に先行区間として最知~陸前階上のBRT専用道の運行を開始。同年12月に南三陸町の陸前港~歌津のBRT専用道化が行われ、それ以外は一般道路を走行した。平成25年(2013年)に気仙沼市内の気仙沼~不動の沢、松岩~最知、小金沢~本吉、南三陸町の志津川~陸前戸倉がBRT専用道化。BRTによる運行の実績を積んだ上で、JR東日本は平成28年(2016年)に沿線自治体の合意を得て鉄道による復旧を正式に断念した。BRTによる本復旧ということになり、平成30年(2018年)に陸前戸倉(南三陸町)~柳津(登米市)、令和元年(2019年)に歌津~清水浜がBRT専用道化され、令和元年(2019年)現在で、気仙沼~不動の沢、松岩~陸前階上、小金沢~本吉、陸前港~清水浜、志津川~柳津がBRT専用道を走り、不動の沢~松岩、陸前階上~小金沢、本吉~陸前港、清水浜~志津川は一般道を迂回している。気仙沼市内の区間である気仙沼~本吉は鉄道時代より運転本数がかなり増え、利用しやすくなった。

 気仙沼~盛の区間で津波被害に遭った大船渡線は、平成24年(2012年)10月に沿線自治体がBRT仮復旧に合意。平成25年(2013年)3月に大船渡~盛がBRT専用道化され、気仙沼~盛のBRTが運行を開始した。同年9月に小友~大船渡がBRT専用道化された。平成27年(2015年)3月に気仙沼~鹿折唐桑がBRT専用道化され、同年12月にJR東日本は沿線自治体の合意を得て鉄道による復旧を正式に断念し、BRTによる本復旧ということになった。令和元年(2019年)現在、気仙沼~鹿折唐桑と小友(の脇ノ沢寄り)~盛がBRT専用道化されているほか、鹿折唐桑~上鹿折、陸前高田~陸前矢作がBRT支線として運行されている。

 せっかく三陸地方が鉄道でつながったのに、BRT化により分断されてしまうのは非常に惜しいが、仙台までのアクセスは三陸自動車道の開通区間延長で、高速バスが有利になっている。単線の鉄道復旧より高速道路開通のほうが経済効果も利便性も高いのだろう。地域輸送の面から見れば、鉄道とBRTを比べた場合、BRTのほうが本数を増やせる利点があるが、定時走行と乗り心地で鉄道より劣る点がある。線路と道路を両方走行できるDMV(デュアル・モード・ビークル)が実用化できれば、専用区間を再び線路にして乗り心地の向上が可能で、大船渡線と大船渡BRTの直通運転もできる。観光誘致の面でもインパクトがあるので、検討してみてもよいのではないかと思う。

 気仙沼駅は、気仙沼の市街地とは離れた高台にあるため、津波の被害はまぬがれた。そのため、JR大船渡線の気仙沼~一ノ関については、震災後に比較的速やかに運行を再開することができた。一方、大船渡線の気仙沼以東および気仙沼線は長らく不通が続き、BRT化されることになったため、南側の2線がBRTのバスが乗り入れられるよう、線路が道路舗装された。これにより、平成26年(2014年)に気仙沼線BRTが、平成27年(2015年)より大船渡線BRTが気仙沼駅構内に乗り入れ、大船渡線の列車との乗り換えおよびBRTの乗り継ぎが便利になった。

 気仙沼駅は津波被害を受けていないので、駅周辺には古い街並みが残っている。気仙沼駅から東へ約1キロ、坂をくだっていくと気仙沼市役所がある。津波はこのあたりまで到達し、約1.5mの高さまで津波が来たことが市役所の入口の柱に記録されている。市役所の北側は山があるが、南側の海側にかけて市街地が広がり、気仙沼港がある魚町や南町は津波の大きな被害を受けた。南町では震災後、「南町紫市場・気仙沼復興商店街」が商業の復興に力を入れているほか、南町の内湾(ないわん)地区では、防潮堤を商業施設も兼ねた公共空間とし、防潮堤と遊歩道と商業施設からなる「内湾 迎(ムカエル)」が平成30年(2018年)にオープンした。その南側には、大島方面を結ぶフェリー乗り場がある。

 港沿いを歩くと、大きなエレベーター塔が見えてくる。このエレベーターを上った丘の上にあるのが「気仙沼プラザホテル」で、同ホテルは高台にあったため、津波被害から逃れることができた。その横にある「気仙沼お魚いちば」は、2階の手前の高さまで津波が来たことが記録されている。今、ここでは気仙沼名物の「フカヒレ」やワカメ、アワビ、ウニ、サンマ、カツオ、マグロなどの豊かな海産物が販売されている。

 そこから漁船が並ぶ気仙沼港の港町を南に歩いていくと、「気仙沼市魚市場」があり、その南側には平成26年(2014年)に「シャークミュージアム」や「氷の水族館」からなる「気仙沼 海の市」がオープンした。その先にある「気仙沼中央公民館」は比較的新しい建物のように見えるが、震災前は宮城県の地元紙「河北新報」のビルだった。震災時にはここにも津波が押し寄せたが、このビルの屋上や上階に大勢の人が避難して助かった。もともと潮見町にあった中央公民館が被災したため、震災後にこのビルに移った。

 JR気仙沼線の南気仙沼駅周辺の幸町や仲町は気仙沼市の中心部にあたるが、東の気仙沼港からと西の大川からの両方から津波が押し寄せ、気仙沼市のなかでも特に甚大な被害が発生した。震災から8年が経った令和元年(2019年)現在も、駅周辺は更地が広がり、駅自体もBRT化されて大川の西側の東浜街道に南気仙沼駅バス停が移転したので、南気仙沼駅があった場所にはバスも列車も来ない。土地かさ上げを含め、土地区画整理事業が一段落すると、新しい市街地の再建が始まるようで、飲食店が集まる「ゑびす大漁恋町(こまち)」が建設され、にぎわいのある町を呼び戻そうとしている。また、南気仙沼駅前にはロータリーが再整備され、気仙沼線BRTが再びこの駅跡を経由する計画があるようだ。再び、気仙沼の中心市街地が形成されるまでは時間がかかりそうだが、震災で壊滅した南気仙沼はこのように生まれ変わろうとしている。

 しかし、再び東日本大震災のような津波が来たとき、このあたりは、やはり浸水リスクがありそうだが、新しい高層マンションがいくつか建っており、津波の危険があるときは、そういう頑丈な高層建築に避難することなどが考えられているのだろう。津波で氾濫した大川は、河川の護岸工事も進み、きれいになった。

 気仙沼線BRTの南気仙沼駅バス停は、大川の西側の県道26号線(東浜街道)にある。BRTは不動の沢駅の手前で線路があった路盤を利用したBRT専用道に入り、不動の沢駅バス停は不動の沢駅のホームを活用している。そこからBRT専用道を通って気仙沼駅に乗り入れている。

 大船渡線BRTは、気仙沼駅を出発するとBRT専用道でトンネルを抜け、鹿折唐桑駅に到着する。ここも駅の手前まで津波が押し寄せ、駅前には全長60mの「第18共徳丸」が打ち上げられた。港から750mも流されたこの船を震災の記憶を伝える「震災遺構」として保存すべきとの意見もあったが、市民アンケートで約7割が保存に否定的であったことから、震災から2年後の平成25年(2013年)に解体された。ここから内陸部を走る大船渡線は、上鹿折方面の線路は大丈夫であったが、BRT化後は海側の一般道(東浜街道、国道45号線)を走るようになり、新設されたバス停の唐桑大沢(からくわ おおさわ)を経由して陸前高田市方面に向かっている。同区間の線路は使われておらず廃線状態となっている。そのかわり、大船渡線BRTの支線バスが気仙沼駅から上鹿折駅を結んでいる。

気仙沼エリアの主な駅

気仙沼 / けせんぬま 駅
JR東日本 大船渡線、大船渡線BRT、気仙沼線BRT

南気仙沼 / みなみけせんぬま 仮駅
JR東日本 気仙沼線BRT

不動の沢 / ふどうのさわ 駅
JR東日本 気仙沼線BRT

鹿折唐桑 / ししおりからくわ 駅
JR東日本 大船渡線BRT

本吉 / もとよし 駅
JR東日本 気仙沼線BRT 

kesennuma1.jpg
気仙沼駅、JR大船渡線ホーム

kesennuma2.jpg
気仙沼駅、JR大船渡線のポケモン列車

kesennuma3.jpg
鉄道とBRTの乗り換えが考慮された気仙沼駅

kesennuma4.jpg
鉄道のホームを改造した気仙沼駅BRT乗り場

kesennuma5.jpg
鉄道のホームを改造した気仙沼駅BRT乗り場

kesennuma6.jpg
気仙沼駅で出発を待つ大船渡線BRT

kesennuma7.jpg
気仙沼駅の駅舎

kesennuma8.jpg
JR大船渡線から見た気仙沼線BRT専用道

kesennuma9.jpg
気仙沼駅前

kesennuma10.jpg
古い街並みが残る気仙沼駅前の通り

kesennuma11.jpg
気仙沼市役所

kesennuma12.jpg
気仙沼市役所まで迫った津波の高さ

kesennuma13.jpg
気仙沼市役所前の八日町の街並み

kesennuma14.jpg
気仙沼・南町(2019年)

kesennuma15.jpg
気仙沼・南町の「内湾 迎(ムカエル)」

kesennuma16.jpg
「内湾 迎(ムカエル)」から見た気仙沼港

kesennuma17.jpg
気仙沼・南町(2019年)

kesennuma18.jpg
気仙沼港

kesennuma19.jpg
気仙沼プラザホテル

kesennuma20.jpg
気仙沼お魚いちば

kesennuma21.jpg
気仙沼お魚いちば

kesennuma22.jpg
気仙沼港

kesennuma23.jpg
気仙沼市魚市場

kesennuma24.jpg
「シャークミュージアム」や「氷の水族館」がある「気仙沼 海の市」

kesennuma25.jpg
津波被害の痕跡が残る気仙沼の市街地(2019年)

kesennuma26.jpg
震災時は河北新報社ビルだった気仙沼中央公民館

kesennuma27.jpg
津波被害を受けた気仙沼中心部

kesennuma28.jpg
「ゑびす大漁恋町(こまち)」建設予定地

kesennuma29.jpg
南気仙沼駅前のJR気仙沼線の線路跡

kesennuma30.jpg
南気仙沼駅前のJR気仙沼線の線路跡

kesennuma31.jpg
南気仙沼駅があった場所に再整備されたロータリー

kesennuma32.jpg
JR気仙沼線・南気仙沼駅跡(2019年)

kesennuma33.jpg
震災後、堤防の改修工事が進む大川

kesennuma34.jpg
一般道路にある気仙沼線BRTの南気仙沼・停留場(2019年)

kesennuma35.jpg
気仙沼BRTから見た休止中のJR気仙沼線との交差地点(2019年)

kesennuma36.jpg
不動の沢駅近くで気仙沼線BRT専用道に入る地点

kesennuma37.jpg
気仙沼線BRT・不動の沢駅

kesennuma38.jpg
津波で大きな船が流されてきた鹿折唐桑駅周辺

kesennuma39.jpg
鹿折唐桑駅

kesennuma40.jpg
唐桑大沢経由で海側の一般道を走る大船渡線BRT

ドルジバツアー ホームページ(バックナンバー)
http://drughbatour.web.fc2.com/

にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ
にほんブログ村 

テーマ : 宮城県
ジャンル : 地域情報

茨城・古河 渡良瀬川の渡し場、東北本線だが茨城県の古河駅

古河
こが

日本国茨城県古河市

茨城・古河 渡良瀬川の渡し場、東北本線だが茨城県の古河駅

 古河(こが)市は、茨城(いばらき)県西部にある人口約14万人の市。東が結城(ゆうき)市と結城郡八千代(やちよ)町、南が坂東(ばんどう)市、猿島(さしま)郡の境(さかい)町、猿島郡五霞(ごか)町と埼玉県幸手(さって)市、西が埼玉県久喜(くき)市と埼玉県加須(かぞ)市、北が栃木県野木(のぎ)町、栃木県小山(おやま)市などと接している。

 古河は古くは「許我」(こが)と表記され、奈良時代から渡良瀬川(わたらせがわ)の渡し場として街が形成されていた。江戸時代は下総国(しもうさのくに)の古河藩(こがはん)が置かれ、古河城の城下町および日光街道の宿場町「古河宿」として栄えた。

 渡良瀬川を利用した水運により、農産物の集散地として発展した古河は、下総国に属していたが、明治時代の廃藩置県で、古河藩は明治4年(1871年)にまず古河県となり、同年再統合されて印旛県の一部となった。明治6年(1873年)に印旛県と木更津県が合併し、千葉県が成立したが、明治8年(1875年)に利根川(とねがわ)および旧利根川(きゅうとねがわ)より北が茨城県に統合され、千葉県だった古河町は茨城県に編入された。

 もともとは鬼怒川(きぬがわ)が下総国(千葉県)と常陸国(茨城県)の境目であったが、明治時代に入り、利根川が千葉県と茨城県の境目となり、江戸川が千葉県と埼玉県・東京都との境になった。これにより、古河は茨城県に属することになったが、地形から考えると利根川から東に平野が続いているので合理的だったと思われる。

 古河は、江戸時代は下総国の葛飾(かつしか)郡に属していたが、明治時代になると西葛飾郡に分割され、茨城県となると、明治29年(1896年)に猿島郡となった。古河は猿島郡古賀町であったが、昭和25年(1950年)に市制を施行して古河市となった。平成17年(2005年)に猿島郡の総和(そうわ)町、三和(さんわ)町が合併し、現在の古河市の市域となった。

 古河は江戸(東京)から日光(栃木)を結ぶ日光街道の宿場町として発展した歴史があり、茨城県の大部分を占める常陸国(ひたちのくに)とは関係性が薄く、しかも明治18年(1885年)にJR東北本線(宇都宮線)の前身である日本鉄道の古河駅が開業すると、川の地形とは関係なく南北の移動が便利になり、栃木県や埼玉県との関係性が深くなり、茨城県にありながら茨城県の他の主要都市との関係は薄い。

 古河市にはJR東日本・東北本線(宇都宮)線の古河駅があるが、「東北本線」の古河駅が茨城県にあるとは気づかない人が多い。同様に東北新幹線も古河市を通っているが、市内に駅はなく、茨城県を通ることをほとんどの乗客は意識していない。また、渡良瀬川の西にある東武鉄道・日光線の新古河(しんこが)駅は、埼玉県加須市側にある。

 一方、古河から茨城県の各都市へは、鉄道が直接通っていないので、鉄道だけ見ると、つながりがうすく見えるが、古河から国道125号線が下妻(しもつま)、土浦(つちうら)方面を結び、また、近年開通した圏央道の境古河IC(インターチェンジ)が境町にあり、坂東、常総、つくば方面を国道354号線とともに結んでおり、自動車なら東西の交通の便は実は悪くない。

 渡良瀬川や利根川は多くの県との境になっていて、埼玉県、千葉県、栃木県、群馬県のいずれとも近く、古河はこれらの県境地区の中心都市となっている。JR古河駅からは栃木県の小山(おやま)駅まで約15分ほどであり、埼玉県さいたま市の大宮(おおみや)や浦和(うらわ)まで約35~42分、東京都心まで1時間余りで行くことができるので、南北の交通は非常に便利である。古河市は周辺の町と比べて人口が比較的多く、JR古河駅は昭和59年(1984年)に高架化され、快速「ラビット」も停車する。

古河エリアの主な駅

古河 / こが 駅
JR東日本 東北本線(宇都宮線) 

koga1.jpg
JR宇都宮線(東北本線)古河駅

koga2.jpg
JR宇都宮線(東北本線)古河駅

ドルジバツアー ホームページ(バックナンバー)
http://drughbatour.web.fc2.com/

にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ
にほんブログ村 

テーマ : 茨城県
ジャンル : 地域情報

カタール・ドーハ カタール伝統のアラビアンムード満点の市場、スークワーキフ

الدوحة ・ سوق واقف  (アラビア語)
Doha・Souq Waqif (英語)
ドーハ(アッダウハ)・スークワーキフ

カタール・ドーハ カタール伝統のアラビアンムード満点の市場、スークワーキフ

 カタール国の首都・ドーハ( الدوحة /アッダウハ)は近年、オイルマネーを背景に急速に開発が進み、新市街地では高層ビルの建設ラッシュだが、ドーハの旧市街地には、アラビアらしい雰囲気を感じることができるスークワーキフ( سوق واقف /Souq Waqif)と呼ばれる市場がある。スーク( سوق )はアラビア語で「市場」を意味し、この地域はアル・スーク( اسوق /Al Souq)とも呼ばれる。

 このあたりは、ドーハの旧市街地にあたるが、近年の急速な開発で、カタールの伝統的な街の雰囲気が失われつつあった。そこで、2003年~2008年頃にかけてドーハの伝統的建築による市場を復元したのが「スークワキーフ」( سوق واقف )であり、ドーハで最も人気のある観光・ショッピングスポットの一つとなっている。カタール航空のドーハ・ハマド空港トランジットでもしカタールに入国するチャンスがあるなら、ぜひとも立ち寄りたいスポットである。

 ここはカタールの地元の人々にも人気がある買い物スポットであり、カタール伝統の白い服を着た男性や目以外の顔まで隠した黒い服を着た女性らもいて、日本から見ると異国情緒満点だ。外国人労働者が多いカタールらしく、店員は必ずしもカタール地元の人ではなく、インドなど南アジアからの外国人労働者が店員であることが多い。

 カタールは国土が狭いので、市場で販売されているものは輸入商品が多いが、近年は隣国のサウジアラビアやアラブ首長国連邦との関係悪化のため、比較的良好な関係を維持しているイラン製の商品が多い。また、アラビアらしいデザインの生活雑貨も多いが、よく見ると中国製が多く、中国が世界の工場として機能している現実と、アラビアの日常生活の中に日本と同様に「Made in China」が普通に存在していることに気付く。アラビアらしい雑貨をおみやげに買おうとして中国製だったら、ちょっとがっかりするが、それは日本の100円ショップで日本みやげを買おうとしてもほとんど中国製だったというのと似た感覚なのかもしれない。スークワーキフで特徴的なのは、ペットコーナーで、鳥市場が非常に活気がある。

 スークワーキフの北側は幹線道路のアル・コーニッシュ通りを挟んでその先に湾が広がり、海岸沿いを散歩できる。地下には駐車場やエアコンの入った地下道、エレベーターなどもあり、カタールがお金持ちの国であることが垣間見える。海を挟んだ対岸には新市街地の高層ビル群が見えて、アラビア版の香港(ホンコン)のようだ。北東側にはドーハ港があり、カタール国旗を掲げた船がたくさん停泊している。

 2019年にドーハ・メトロが開業し、スークワーキフはアフマル線( الخط الأحمر /Red Line)のメシェレブ( مشيرب /Mushayrib)駅にも近いが、近くダバブ線( الخط الذهبي /Gold Line)のスークワーキフ( سوق واقف )駅が開業する予定である。

souqwaqif1.jpg
ドーハのスークワーキフ前広場

souqwaqif2.jpg
ドーハのスークワーキフ前広場

souqwaqif3.jpg
ドーハのスークワーキフ前広場

souqwaqif4.jpg
ドーハ・スークワーキフ

souqwaqif5.jpg
ドーハ・スークワーキフ

souqwaqif6.jpg
ドーハ・スークワーキフ

souqwaqif7.jpg
ドーハ・スークワーキフ

souqwaqif8.jpg
ドーハ・スークワーキフ

souqwaqif9.jpg
ドーハ・スークワーキフ

souqwaqif10.jpg
ドーハ・スークワーキフ

souqwaqif11.jpg
ドーハ・スークワーキフ

souqwaqif12.jpg
ドーハ・スークワーキフ

souqwaqif13.jpg
ドーハ・スークワーキフ

souqwaqif14.jpg
スークワーキフの鳥市場

souqwaqif15.jpg
スークワーキフの鳥市場

souqwaqif16.jpg
カタール・イスラムセンター

souqwaqif17.jpg
ドーハのアラビア語道路標識

souqwaqif18.jpg
夕暮れのドーハ港

souqwaqif19.jpg
カタール国旗を掲げた船が並ぶドーハ港

souqwaqif20.jpg
ドーハ港と対岸の高層ビル群

ドルジバツアー ホームページ
http://drughbatour.web.fc2.com/

にほんブログ村 旅行ブログ 海外旅行へ
にほんブログ村

テーマ : カタール
ジャンル : 海外情報

東京・南千住 千住宿と隅田川貨物駅、泪橋と山谷ドヤ街と汐入公園

東京・南千住
とうきょう・みなみせんじゅ

日本国東京都荒川区

東京・南千住 千住宿と隅田川貨物駅、泪橋と山谷ドヤ街と汐入公園

 南千住(みなみせんじゅ)は、東京(とうきょう)都の荒川(あらかわ)区にある地区で、JR東日本・常磐線(快速)、東京メトロ・日比谷線、首都圏新都市鉄道・つくばエクスプレスの南千住駅がある。また、南千住駅の南側にJR貨物の隅田川(すみだがわ)貨物駅がある。

 南千住は、江戸時代に日光街道・奥州街道・水戸街道の宿場町である「千住宿」(せんじゅじゅく)として発展した。千住宿は「江戸四宿」の一つとして需要が多く、大いに栄えた。千住宿は旧・荒川(現・隅田川)を挟んで南北に形成され、江戸時代から千住大橋が架けられ、南北の宿場をつないでいた。南千住は千住大橋より南側を指す。

 JR常磐線の南千住駅は明治29年(1896年)に日本鉄道の駅として開業し、明治39年(1906年)に国有化された。昭和46年(1971年)に常磐線各駅停車が綾瀬(あやせ)から営団地下鉄(現・東京メトロ)千代田線に乗り入れるようになったため、南千住駅は常磐線の快速電車のみ停車することになった。

 南千住駅の南側に広がる隅田川貨物駅は、明治29年(1896年)に開設された貨物ターミナルで、東京都品川区の東京貨物ターミナル駅と並ぶ東京二大貨物駅の一つである。隅田川貨物駅は、主に東北・北海道方面からの貨物列車を取り扱っており、常磐線だけでなく、東北本線からも尾久(おく)駅から三河島(みかわじま)駅を結ぶ貨物線を経由して隅田川駅と連絡している。

 隅田川貨物駅は、もともと隅田川の水運を活用し、隅田川駅から水運で東京の市街地へ物資を輸送していた。水運からトラックへと輸送形態が変わると、コンテナに対応する貨物ターミナルとなり、東京の物流拠点として発展した。さらに、隅田川沿いの南千住汐入(しおいり)地区には、「大日本紡績」(ニチボウ、現・ユニチカ)と「鐘淵紡績」(カネボウ)の繊維工場が造られ、繊維工業の町として発展した。隅田川貨物駅の規模は縮小したものの、その重要性は今も変わらない。

 日比谷線の南千住駅は昭和36年(1961年)に開業した。隅田川を渡るため2面2線の高架駅となっており、三ノ輪(みのわ)方面に向かうと徐々に高度を下げて地下に潜る。日比谷線は東武伊勢崎線(スカイツリーライン)の混雑緩和のために北千住駅から各駅停車を日比谷線に直通運転し、さらに上野(うえの)、秋葉原(あきはばら)、銀座(ぎんざ)、霞ケ関(かすみがせき)などの都心を結ぶ路線で、南千住駅の北東側に日比谷線の車両基地がある。

 つくばエクスプレスの南千住駅は、平成17年(2005年)に開業した。ホームは地下にあり、すぐに地上に上って隅田川を渡り、北千住方面に向かっている。つくばエクスプレスは秋葉原(あきはばら)方面を結んでおり、日比谷線の混雑緩和にも寄与している。また、平成27年(2015年)にJR東京上野ラインが開業したことにより、JR常磐線の一部の電車が上野(うえの)から先の東京(とうきょう)、新橋(しんばし)、品川(しながわ)方面へ直通するようになり、都心方面は3路線とも便利であり、需要の増加により、南千住駅周辺では大規模な住宅や商業施設の再開発が行われた。

 南千住駅西口の駅前には「ブランズタワー南千住」のタワーマンションがあるほか、東口の北東側には「BiVi南千住」、「LaLaテラス南千住店」、「ロイヤルホームセンター」などの商業施設がある。さらにその先の南千住4丁目、8丁目のあたりは隅田川貨物駅の敷地が国鉄清算事業団の処分用地として売却されて大規模なマンション群となり、大日本紡績と鐘淵紡績の工場があった汐入・白鬚西(しらひげにし)地区は昭和40年代後半から工場が移転し、昭和63年(1988年)より再開発が行われ、スーパー堤防も整備され、東京都の防災拠点としての役割も担う都立汐入公園が平成18年(2006年)に開園した。汐入地区からは隅田川を渡って東武伊勢崎線(スカイツリーライン)の鐘ヶ淵(かねがふち)駅および牛田(うしだ)駅、京成電鉄本線の京成関屋(けいせい せきや)駅にも近い。

 南千住駅の南西側の小塚原(こづかっぱら)地区は、江戸時代に「仕置場」(しおきば)と呼ばれた小塚原刑場があった。小塚原刑場は1651年(慶安4年)に開設され、磔刑(はりつけの刑)、火刑(火炙りの刑)、獄門(打ち首の刑)などが行われた。明治時代になると廃止されたが、それまでに江戸の数多くの人々がここで処刑された。跡地を常磐線が通り、線路の北側に「回向院」(えこういん)、南側に「延命寺」(えんめいじ)があり、それぞれ刑死者を供養している。延命寺には「首切地蔵」が立ち、「仕置場」の歴史を伝えている。

 延命寺の南の明治通りとの泪橋(なみだばし)交差点は、かつてここに流れていた思川(おもいがわ)に架かっていた橋で、山谷(さんや)地区から小塚原刑場へ行くときにこの橋を渡った。処刑される人と最後の別れの場となったことから「泪橋」と呼ばれるようになった。南千住の悲しい歴史を伝える地名である。

 泪橋交差点の南の日本堤・清川・東浅草地区は、かつて「山谷」(さんや)と呼ばれ、周辺に工場が多かったことから、日雇い労働者の宿泊施設が集まる「ドヤ街」として知られていた。「ドヤ」とは「宿」(やど)の逆さ読みである。今は、格安宿泊施設が多いことから、外国人観光客が増えてきたが、山谷の元日雇い労働者の多くが生活保護を受け、不安定雇用と貧困と社会保障などを考えさせられる。

南千住エリアの主な駅

南千住 / みなみせんじゅ 駅
JR東日本 常磐線(快速)
東京メトロ 日比谷線
首都圏新都市鉄道 つくばエクスプレス

minamisenju1.jpg
東京メトロ日比谷線・南千住駅

minamisenju2.jpg
東京メトロ日比谷線・南千住駅

minamisenju3.jpg
日比谷線ホームから見たJR常磐線・南千住駅

minamisenju4.jpg
日比谷線ホームから見たJR隅田川貨物駅

minamisenju5.jpg
隅田川貨物駅

minamisenju6.jpg
隅田川貨物駅

minamisenju7.jpg
南千住駅西口

minamisenju8.jpg
南千住駅西口

minamisenju9.jpg
千住宿の面影を残す南千住仲通り

minamisenju10.jpg
南千住駅東口の開発進む商業施設と高層住宅


ドルジバツアー ホームページ(バックナンバー)
http://drughbatour.web.fc2.com/

にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ
にほんブログ村 

テーマ : 東京23区
ジャンル : 地域情報

神奈川 横浜・海芝浦 東芝の工場前の京浜運河に面した秘境駅

横浜・海芝浦
よこはま・うみしばうら

日本国神奈川県横浜市鶴見区

神奈川 横浜・海芝浦 東芝の工場前の京浜運河に面した秘境駅

 海芝浦(うみしばうら)は、横浜(よこはま)市の鶴見(つるみ)区にある地区で、JR鶴見線海芝浦支線の海芝浦駅がある。

 横浜市鶴見区の臨港埋立地は、浅野総一郎(あさの そういちろう)が築いた「浅野財閥」が、港湾機能を持つ工業地帯の開発に取り組み、鶴見・川崎地区の海面を埋め立てて造成された。

 JR鶴見線の浅野(あさの)駅から海芝浦駅を結ぶJR海芝浦支線は、もともと芝浦製作所の専用線として建設され、それが工場勤務の労働者らを輸送するために旅客化されて鶴見臨港鉄道として昭和7年(1932年)に浅野~新芝浦(しんしばうら)が開業。昭和15年(1940年)に新芝浦から海芝浦まで延伸された。戦時中の昭和18年(1943年)に国有化され、国鉄鶴見線の支線となった。

 海芝浦支線は、浅野駅から旭運河沿いを南に進む。新芝浦駅は芝浦製作所(現・東芝)の最寄り駅として開設され、東芝京浜事業所の正門は新芝浦駅のほうにある。新芝浦駅からさらに南に進み、埋立地の先端の手前で西に90度大きく曲がると終点の海芝浦駅に到着する。海芝浦支線の電車は浅野から鶴見線の本線に乗り入れ、海芝浦~浅野~鶴見を直通運転している。

 海芝浦駅前にある東芝の工場は、東芝の前身である東京・芝浦(しばうら)に本社を置く「芝浦製作所」が、この埋立地に工場を開設したもので、昭和14年(1939年)に芝浦製作所が東京電気株式会社を合併し、「東京芝浦電気株式会社」となり、それが今の「東芝」グループとなった。

 海芝浦駅は1面1線の海(京浜運河)に面した小さなホームがあるほか、駅の外はすぐ東芝京浜事業所の発電機等を製作する工場敷地となっており、一般人は立ち入りができない。そのため、平日の朝夕ラッシュ時以外は電車の運転本数が極めて少ないので、都会の秘境駅としても知られるようになった。駅前は東芝の私有地であるが、電車の待合客向けに「海芝公園」が開放されている。ここから眺める京浜運河と京浜工業地帯は美しく、日本の産業発展を支えた重工業の重要性を感じることができる。

 京浜運河の向こうは、人工島の扇島(おうぎしま)で、海芝浦駅の対岸の横浜市鶴見区側には東京ガス扇島LNG基地(LNG地下貯蔵タンク)、扇島パワーLNG火力発電所、JFEスチール東日本製鉄所扇島地区があり、その東の川崎市川崎区側にはJFEスチール東日本製鉄所扇島地区、東京電力扇島太陽光発電所、JX日鉱日石エネルギー扇島風力発電所などがある。扇島には首都高速道路湾岸線が通っており、扇島から大黒ふ頭(だいこくふとう)を結ぶ「鶴見つばさ橋」が海芝浦駅から見える。

横浜・海芝浦エリアの主な駅

海芝浦 / うみしばうら 駅
JR東日本 鶴見線海芝浦支線

新芝浦 / しんしばうら 駅
JR東日本 鶴見線海芝浦支線

umishibaura1.jpg
JR鶴見線海芝浦支線・新芝浦駅

umishibaura2.jpg
新芝浦から海芝浦へのカーブ

umishibaura3.jpg
JR鶴見線海芝浦支線・海芝浦駅

umishibaura4.jpg
海芝浦駅

umishibaura5.jpg
海芝浦駅

umishibaura6.jpg
海芝浦駅のホームと京浜運河

umishibaura7.jpg
海芝浦駅のホームと京浜運河

umishibaura8.jpg
海芝浦駅からの京浜運河の眺め

umishibaura9.jpg
海芝浦駅前の海芝公園

umishibaura10.jpg
海芝公園から見た首都高速湾岸線「鶴見つばさ橋」

umishibaura11.jpg
海芝公園から見た扇島の工場

ドルジバツアー ホームページ(バックナンバー)
http://drughbatour.web.fc2.com/

にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ
にほんブログ村 

テーマ : 鉄道旅行
ジャンル : 旅行

石川・宝達志水 能登最高峰の宝達山と千里浜なぎさドライブウェイ

宝達志水
ほうだつしみず

日本国石川県羽咋郡宝達志水町

石川・宝達志水 能登最高峰の宝達山と千里浜なぎさドライブウェイ

 宝達志水(ほうだつしみず)町は、石川(いしかわ)県中部の羽咋(はくい)郡にある人口約1.2万人の町。北が羽咋(はくい)市、南が かほく市と河北郡津幡(つばた)町、東が富山県氷見(ひみ)市、富山県高岡(たかおか)市と接している。

 宝達志水町は、能登半島南部の羽咋郡にあり、平成17年(2005年)に羽咋郡の志雄(しお)町と押水(おしみず)町が合併して発足した。合併するにあたり、新町名について志雄町側は志雄の「志」と押水の「水」を合わせた「志水町」、押水町側は宝達山からとった「宝達町」を主張し、結局この二つを合わせた「宝達志水町」となった。

 宝達志水町役場は、旧・志雄町役場の庁舎が使われている。旧・押水町役場は合併当初は宝達志水町役場押水庁舎として使われていたが、平成22年(2010年)に閉鎖されて志雄庁舎に統合された。

 宝達志水町にはJR西日本・七尾線が通り、免田(めんでん)、宝達(ほうだつ)、敷浪(しきなみ)の各駅がある。特急「能登かがり火」「サンダーバード」「花嫁のれん」などの七尾線を走る特急列車はいずれも通過する。

 宝達駅は旧・押水町の玄関駅であり、宝達駅の南東約5キロのところに能登最高峰の宝達山(ほうだつさん、標高637m)があり、江戸時代に金山があったことから「宝達」の名前がついた。宝達山から日本海へと流れる宝達川は平野部では天井川となっており、JR七尾線は宝達駅の南側で宝達川をトンネルでくぐる。宝達駅の南西にはゴルフ場「能登カントリークラブ」がある。

 敷浪駅は旧・志雄町の玄関駅であり、宝達志水町役場は敷浪駅の北東約1.5キロのところにある。敷浪駅の約1キロ西には、のと里山海道が通り、今浜IC(インターチェンジ)や志雄PA(パーキングエリア)があり、その海側には千里浜(ちりはま)の砂浜が広がっている。「千里浜なぎさドライブウェイ」は、のと里山海道・今浜ICから羽咋市の千里浜ICの間にある千里浜海岸の砂浜を自動車で走ることができる観光道路であり、ここの砂浜は粒子が細かく、しまっていることから自動車が砂に沈まず走行ができる。

宝達志水エリアの主な駅

宝達 / ほうだつ 駅
JR西日本 七尾線

敷浪 / しきなみ 駅
JR西日本 七尾線 
 
houdatsushimizu1.jpg
JR七尾線・宝達駅

ドルジバツアー ホームページ(バックナンバー)
http://drughbatour.web.fc2.com/

にほんブログ村 旅行ブログ 国内旅行へ
にほんブログ村 

テーマ : ☆北陸(富山・石川・福井)の情報☆
ジャンル : 地域情報

プロフィール

drughba

Author:drughba
日本国内・世界各国の行って面白かったところ、行ってみたいところ、興味深い都市、交通、地理、文化等。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード