ハイチ カリブ海の世界初の黒人による共和国
Repiblik d Ayiti (ハイチ・クレオール語)
République d'Haïti (フランス語)
ハイチ(アイチ)共和国
ハイチ カリブ海の世界初の黒人による共和国
ハイチ共和国(Repiblik d Ayiti / République d'Haïti)は、カリブ海の大アンティル諸島(Grandes Antilles)のイスパニョーラ島(Ispayola / Hispaniola)の西部にある共和制国家で、東がドミニカ共和国と接している。また、海を挟んで西がキューバとジャマイカ、東が米領プエルトリコ、北が英領タークス・カイコス諸島と近接している。
日本では慣用的に「ハイチ」と呼ばれるが、フランス語は語頭の「H」を読まないため、「Haïti」は「アイチ」と発音され、ハイチクレオール語(ハイチ語)では「Ayiti」と綴られる。英語は「Haiti」と綴るが発音は「ヘイティ」に近く、日本語の「ハイチ」とは発音に差がある。「アイチ」とは、アラワク系先住民族タイノ人の言葉で「山ばかりの土地」を意味する。かつてフランス領時代は「サン・ドマング」(Saint-Domingue)と呼ばれていた。
ハイチ共和国の面積は約2.8万平方キロメートルで、人口は約1110万人。通貨はグールドで、フランス語では「gourde haïtienne」、ハイチ語では「goud ayisyen」と呼ばれている。ハイチの一人当たりのGDP(国内総生産)は約730ドルで、172位前後。一人当たりの購買力平価(PPP)は約1730ドルで174位前後。経済基盤がもろく、国民の多くが貧困状態にある。農業が主な産業であるが、農業インフラの整備が遅れ、自然災害も重なり、海外からの支援に依存している。仕事を求めて都市部に人口が集まるものの、雇用は十分ではなく、失業率も高い。
ハイチの国民は、約95%がアフリカ系の黒人であり、残りがムラート(Mulâtre)と呼ばれるアフリカ系黒人とヨーロッパ系白人の混血である。古くはアラワク系タイノ人が住んでいたが、16世紀にスペインからの入植者により滅ぼされ、その後、奴隷としてカリブ人が連れて来られが、過酷な労働で死に追いやられた。次にスペインは西アフリカの黒人奴隷を連れてきた。17世紀にはフランスがイスパニョーラ島の西部を占領するようになり、1697年以降、ハイチは仏領サン・ドマングとなり、アフリカの奴隷海岸(Côte des Esclaves)から多くの黒人奴隷が連れて来られた。そのような歴史的経緯からセネガル、ガンビア、ガーナ、ナイジェリア、ベナン、コンゴ、アンゴラなどの出身者が多い。そのうち、ベナンにあったダホメ王国のフォン人の文化が出身地や民族を越えてアフリカ系黒人の結束を固める役割を果たし、現在はキリスト教徒が多数派ではあるものの、ベナンのダホメ王国がルーツのブートゥー教の信仰文化も根付いている。
ハイチの言語は、ハイチ・クレオール語(ハイチ語)とフランス語が公用語となっている。以前はフランス語のみだったが、1961年にハイチ語も公用語に認められた。フランス語は公的機関や教育などで主に用いられるが、日常会話はハイチ語が主流である。ハイチ語はフランス語をベースに、アフリカのウォロフ語、フォン語、エウェ語などが交じり合ったクレオール言語で、ハイチで独自に発展した。ハイチ語はハイチおよび隣国のドミニカ共和国のほか、貧困から脱却するために海外移住したハイチ人のコミュニティーがあるバハマ、米国、カナダ、フランスなどでもハイチ系住民により話されている。
ハイチのイスパニョーラ島が初めてヨーロッパ人に「発見」されたのは、1492年のクリストファー・コロンブス(クリストーフォロ・コロンボ/Cristoforo Colombo)によるとされ、当時は先住民であるアラワク系タイノ人が住んでいたが、16世紀にスペイン人入植者らにより滅ぼされた。スペインはカリブ人やアフリカ人を奴隷としてイスパニョーラ島に移住させ、サント・ドミンゴ総督領(Capitanía General de Santo Domingo)としたが、17世紀半ばよりイスパニョーラ島西部に徐々にフランス人が進出し、1697年のライスワイク条約で、イスパニョーラ島の西約3分の1をフランス領とすることをスペインに認めさせた。この現在のハイチにあたる領域をフランスは「サント・ドミンゴ」をフランス語読みしてフランス領サン・ドマング(Colonie de Saint-Domingue)とした。
仏領サン・ドマングではアフリカ西部(トーゴ・ベナン・ナイジェリアなど)の奴隷海岸(Côte des Esclaves)から多くのアフリカ系黒人を奴隷として連れて来て、サトウキビやコーヒーの栽培を行った。この過程では奴隷の過酷労働による死亡者が多く、アフリカからさらに奴隷を供給した。フランス人らヨーロッパ系白人はプランテーション経営で大儲けしたが、仏領サン・ドマングの人口比率はアフリカ出身の黒人奴隷が大多数を占めていた。
奴隷労働から逃亡したアフリカ系黒人の逃亡奴隷はマルーン(Maroon)と呼ばれ、森の中に逃亡し、ゲリラ化してプランテーション農園をたびたび襲撃した。アフリカのさまざまな地方や部族の出身の黒人らは言葉が通じないため、徐々にフランス語とアフリカ諸言語が混じったクレオール言語が形成され、これがハイチ・クレオール語のもとになった。
アフリカ西部のブードゥー教司祭「ウンガン」(hùn gan)であるフランソワ・マッカンダル(François Mackandal)がマルーンの指導者として黒人の抵抗運動を組織化し、1750年代に反乱を指揮した。マッカンダルは1758年にフランス軍に逮捕され、処刑されたが、その後も抵抗運動が続いた。
仏領サン・ドマングでは、黒人奴隷およびマルーン(逃亡奴隷)のほか、フランス出身のフランス人が行政を支配し、そのほか白人(主にフランス人)農園主の富豪、労働者の貧しい白人(プチ・ブラン/petit blancs)、白人と黒人の混血(ムラート)、自由黒人(カラード)などに階層が分かれていた。
1789年のフランス革命により、フランス本国で人権宣言などが高らかに謳い上げられると、仏領サン・ドマングでも市民権を求める声や、奴隷制維持のためにフランスからの独立も視野に入れる富裕層など、さまざまな動きが加速した。カラードのジュリアン・レイモン(Julien Raimond)はカラードと白人の完全な平等を訴えた。また、参政権を求め、サン・ドマング当局から拒否されたため、反乱を起こしたカラードのヴァンサン・オジェ(Vincent Ogé)は、1791年に処刑された。これは白人とカラードとの対立であったが、黒人奴隷らが反乱に加わり、白人の農園主らに報復した。これはイスパニョーラ島東部(サント・ドミンゴ)を領有するスペインの介入を招いたが、1792年にフランス議会がフランス植民地の自由と平等を宣言し、1793年に奴隷制度が廃止された。
黒人の指導者トゥサン・ルヴェチ(Tousen Louvèti / Toussaint Louverture)はフランス側につくことを拒否し、1801年にサン・ドマング憲法を公布し、自治政府を開設し、自身が総督に就任した。フランス本国で権力を掌握したナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)は、再びサン・ドマングを支配するためにフランス軍を送り、トゥサンは最終的にフランス軍に投降し、捕らえられ、フランスに移送され、獄死した。その後、フランスによる奴隷制復活の動きに抵抗する反乱が起こり、1803年の「ヴェルティエールの戦い」をハイチ独立運動の指導者ジャンジャック・デサリーヌ(Jean-Jacques Dessalines)の下、ハイチ革命軍はフランス軍を破り、1804年にデサリーヌはスペイン領だったサント・ドミンゴ(現・ドミニカ共和国)を含むイスパニョーラ島全土を掌握してハイチ独立を宣言し、国名を先住民アラワク・タイノ人が呼んだ「山がちの土地」を意味する「ハイチ」(アイチ/Haiti)と定めた。デサリーヌはジャック1世(Jacques I)としてハイチ初代皇帝に即位し、「ハイチ(アイチ)帝国」(Empire d'Haïti)が成立した。
奴隷出身のジャック1世は、ハイチが黒人国家であることを宣言し、白人が土地や資産を所有することを禁じ、フランス人に対する報復で、ハイチに残るフランス人を処刑しようとした。奴隷制は廃止され、黒人が権利を取り戻したものの、経済の柱である砂糖やコーヒーのプランテーション農園の労働力の主力が黒人であることは変わらず、読み書きできる人材を経営者に求めるとムラート(白人との混血)がその地位を占めるようになった。
ハイチ帝国では、北部の黒人の支持を受けるアンリ・クリストフ(Anri Kristòf / Henry Christophe)と南部のムラートの支持を受けるアレクサンドル・サベ・ペション(Alexandre Sabès Pétion)の2つの派閥が勢力を築き、1806年にジャック1世が暗殺され、わずか2年でハイチ帝国が崩壊し、イスパニョーラ島西部(ハイチ)では北部の「ハイチ国」(État d'Haïti)と南部の「ハイチ共和国」(République d'Haïti)に分裂した。さらに、この混乱の中で1809年にイスパニョーラ島東部(ドミニカ)は、再びスペインが支配するようになり、スペイン領サント・ドミンゴとなった。
北ハイチの「ハイチ国」のアンリ・クリストフ大統領は1811年にハイチ国王アンリ1世となることを宣言し、北ハイチでは「ハイチ王国」(Royaume d'Haïti)が成立。アンリ1世は独裁体制を敷き、南ハイチの「ハイチ共和国」との対立も続き、クーデターを恐れて精神衰弱となっていたアンリ1世は1820年に拳銃自殺し、ハイチ王国が崩壊。ジャン・ピエール・ボワイエ(Jean Pierre Boyer)大統領のハイチ共和国が北ハイチを併合し、イスパニョーラ島西部の南北ハイチが統一された。
一方、イスパニョーラ島東部のスペイン領サント・ドミンゴでは現地の生まれのスペイン系クリオージョを中心に独立の機運が高まり、1821年に「スペイン・ハイチ共和国」(República del Haití Español)が独立した。しかし、コロンビア共和国への加入などをめぐり内戦となり、その隙をついてハイチ共和国が1822年にスペイン・ハイチ共和国を占領した。ハイチ共和国のボワイエ大統領が失脚すると、1844年に革命軍が蜂起し、1845年に東部で「ドミニカ共和国」(República Dominicana)が建国された。ペドロ・サンタナ(Pedro Santana)がドミニカ共和国初代大統領に就任した。
しかし、ボワイエ大統領の後のハイチ共和国大統領に就任した将軍のフォースタン・スールーク(Faustin Soulouque)大統領は1849年に帝政を宣言し、「ハイチ帝国」(Empire d'Haïti)の皇帝フォースタン1世を名乗り、国内では独裁体制を敷き、ドミニカ共和国へも侵攻した。フォースタン1世は1859年にファーブル・ジェフラール(Fabre Geffrard)将軍の蜂起により帝政が倒され、共和制の「ハイチ共和国」に戻った。
一方、ハイチとの戦争が続き、これに疲弊したドミニカ共和国のサンタナ大統領は1861年に再びスペインに戻ることで保守派の利益を守ろうとし、サンタナはスペイン領サント・ドミンゴ総督となった。しかし、これに自由派のドミニカ人が激怒し、再び独立戦争が勃発し、1865年に「ドミニカ共和国」がスペインから再独立した。その後もハイチ共和国がドミニカ共和国にとり脅威で、ドミニカ共和国はアメリカ合衆国(米国)への併合も求めたが米国議会に拒否された。1875年にようやくドミニカ共和国とハイチ共和国の平和条約が結ばれ、イスパニョーラ島に2つの国が共存することが確定した。
ハイチは砂糖貿易で経済の近代化を進めたが、ハイチ財政を圧迫したのが独立と引き換えのフランスへの賠償金返済であった。さらにドイツのカリブ海進出を警戒した米国は1915年に債務返済を口実に海兵隊をハイチに派遣し、ハイチを占領した。この際に米国海兵隊に抵抗したハイチから多くの難民がドミニカ共和国やキューバに逃れた。米国は1934年までハイチで軍政を続け、米国モデルの産業育成と首都機能の強化、軍隊の訓練などを実施し、ハイチの経済構造を改善することにより対外財政を強化しようとした。1934年に米国海兵隊が撤退後、ムラートの大統領が続いたが、1946年のクーデターで黒人のデュマルセ・エスティメ(Dumarsais Estimé)が大統領に就任した。
エスティメ大統領は黒人の政治的権利拡充、社会保障と労働政策の改善を図り、観光振興と国際協調のために1949年にポルトープランス(Port-au-Prince)で万国博覧会を開催した。しかし、エスティメ大統領の再選の動きを阻止しようとクーデターが発生し、黒人軍人のポール・マグロワール(Paul Magloire)による軍事政権となった。マグロワール大統領の時代はコーヒー産業および米国からの観光誘致で景気が良くなったが1956年のクーデターで失脚した。
その後、黒人の医師のフランソワ・デュヴァリエ(François Duvalier)が大衆的な人気を得て大統領に就任したが、1958年に独裁化し、アフリカがルーツのブードゥー教を個人崇拝に利用した。トントン・マクート(Tonton Macoute)と呼ばれる秘密警察で反対派の言論を弾圧した。一方でフランス語を基礎に西アフリカ諸語が交じり合ったクレオール言語であるハイチ語(ハイチ・クレオール語)が1961年に公用語として認められるようになった。
1971年にフランソワ・デュヴァリエ大統領が死去すると、息子のジャンクロード・デュヴァリエ(Jean-Claude Duvalier)が19歳で大統領に就任した。反共政策で米国との経済関係を深め、1977年から「ジャンクロード主義」経済開放政策を進め、米国の資本を積極的に導入し、技術官僚を重用し、工業化と近代化を進めようとしたが、農業や牧畜が衰退し、貧困と恐怖政治から逃れたい難民が米国に押し寄せる結果となった。困窮したハイチ国民らによる武装蜂起が相次ぎ、最終的には共産革命を恐れた米国やフランスに説得され、1986年にフランスに亡命した。これにより30年近くにわたるデュヴァリエ親子の独裁政権が崩壊した。
1987年に新憲法が制定され、民主的な選挙により左派のジャンベルトラン・アリスティド(Jean-Bertrand Aristide)が1991年に大統領に就任し、貧困層の教育普及に努めたが、軍事クーデターでベネズエラと米国に亡命した。国連や米国の圧力で軍事政権は政権を返上し、アリスティド大統領が復帰した。1996年にアリスティッド派のルネ・ガルシア・プレヴァル(René Garcia Préval)が大統領に就任し、2001年に再びアリスティド大統領が就任した。しかし、2004年に「ハイチ解放再建革命戦線」(Front pour la libération et la reconstruction nationales)が武装蜂起し、アリスティド大統領は中央アフリカ共和国へ亡命した。その後、治安維持のために多国籍軍が展開する事態となり、2006年の大統領選挙でルネ・ガルシア・プレヴァル元大統領が当選し、大統領に就任した。
2010年にハイチでマグニチュード7.0の大地震が発生し、首都ポルトープランスで大きな被害が発生し、ハイチ大統領府も倒壊した。さらに伝染病コレラも大流行した。2010年の大統領選挙では歌手のミシェル・マテリ(Michel Martelly)が当選し、平和的な政権移行となった。2017年にはジョヴネル・モイーズ(Jovenel Moïse)大統領が就任した。2017年に国連平和維持軍が撤退したが、その後治安が悪化している。
ハイチはフランス語圏であることからフランスやカナダとの関係が深く、また反共政策や難民の主な亡命先である米国とも深い関係がある。キューバとは反共のため長らく国交が断絶していたが1996年に国交回復している。また、反共政策をとっていたため、台湾(中華民国)との国交を維持してきた。
ハイチは、労働人口の約3分の2が農業に従事しているが、その約70%は自給自足の小規模農業であり、国民の約80%が貧困状態であると見られている。灌漑等のインフラが未整備であり、生産性が低く、食料が自給できていない。デュヴァリエ独裁時代には国際的孤立でも生存のために食料自給が最優先されていたが、民主化後に安価な米国産米が輸入されるようになり、生産性の悪いハイチの稲田は放棄され、都市に人口が流入し、都市に失業者があふれるようになった。また、2010年のハイチ大地震がハイチ経済に甚大なダメージを与えており、雇用の創出と貧困の克服が課題となっている。
ハイチの都市部ではフランス系のムラートが多いことから、フランス文化が比較的重視されている。一方、農村ではアフリカ系黒人が大多数であるため、アフリカをルーツとする文化や、ハイチの土地に根付いたクレオールの多様な文化が重視されている。
ハイチはカリブ海地域にありながら、アフリカとフランスの文化の影響を受け、独特のハイチ音楽が生まれた。フランスのコントレダンスとアフリカ・コンゴ地方の踊り、バンジョー(Banjo)などの楽器を用いたメラング(メハング/meringue)と呼ばれる音楽ジャンルが発展した。また、隣国のドミニカ共和国のダンス音楽「メレンゲ」(merengue)の影響を受け、ハイチ語で歌うコンパ(compas)というジャンルが発達した。ハイチ音楽は米国のジャズなどとの関係も深く、ヴードゥー教のアフリカ伝統音楽などの要素も取り入れながら、ハイチ音楽は発展を続けている。
ハイチの首都はフランス語で「王子の港」を意味するポルトープランス(ポフトープハンス/Port-au-Prince)で、ハイチ語ではポトプガンス(Pòtoprens)と呼ばれる。ポトプガンスの人口は約125万人で、近年は人口集中が続き、郊外を含む人口は約280万人に達する。イスパニョーラ島西部におけるフランス領サン・ドマングの拠点として、独立後はハイチの首都として発展した。ゴナーヴ(Gonâve)湾の湾岸沿いに市街地が形成され、海側に商業地区、丘陵側に高級住宅街が広がっている。コーヒー豆や砂糖の積出港としてハイチ経済を牽引しているが、近年は仕事を求め、地方から首都に人口が流入するようになり、郊外で都市のスラム化が進み、治安の悪化が深刻となっている。
ポトプガンスの気候は、一年中暑いサバナ気候で、冬季は雨が少ない。平均気温は1月が23℃~31℃、7月は25℃~35℃である。
ハイチの空の玄関口は、ポルトープランス(ポトプガンス)国際空港(L'aéroport international de Port-au-Prince)は「トゥーサン・ルーヴェルチュール国際空港」(L'aéroport international Toussaint Louverture)という愛称があり、ハイチ独立運動家のトゥーサン・ルーヴェルチュール/トゥサン・ルヴェチ(Toussaint Louverture / Tousen Louvèti)から命名された。
ポルトープランス国際空港からは、マイアミ(米国フロリダ州)、フォートローダーデール(米国フロリダ州)、ニューヨーク(米国ニューヨーク州)などの米国方面、パリ(フランス)、ポワンタピートル(仏領グアドループ)、モントリオール(カナダ・ケベック州)などのフランス語圏方面、サントドミンゴ(ドミニカ共和国)、パナマシティー(パナマ)、プロビデンシアレス(英領タークス・カイコス諸島)、シント・マールテン(蘭領シント・マールテン)など中米カリブ海方面の路線が運航されている。
ハイチ第2の都市は、首都ポトプガンスの南西に隣接するカフ/カフフーフ(Kafou / Carrefour)で、人口約50万人。第3の都市は、ポトプガンスの東に隣接するデルマ(Dèlma)で人口約40万人。第4の都市はペシオンヴィル(Petyonvil / Pétion-Ville)で、ポトプガンスの南東に隣接している。第5の都市はポトプガンスの北に隣接するシテ・ソレイ(Site Soley / Cité Soleil)で、大規模なスラム街があり、犯罪やギャング抗争も多く、治安が課題となっている。これらの都市はいずれも西県ポトプガンス郡にあり、ポトプガンス都市圏を形成している。
このほか、ハイチの北部にゴナイーヴ(Gonayiv / Gonaïves)、サン・マク(Sen Mak / Saint-Marc)、カパイシャン(Kap Ayisyen / Cap-Haïtien)、ポドペ(Pòdpè / Port-de-Paix)、南部にジャクメル(Jakmèl / Jacmel)、南西部にオカイ(Okay / Les Cayes)などの都市がある。
ハイチ共和国(アイチ)
Repiblik d Ayiti(ハイチ語)
République d'Haïti(フランス語)
(1804年、フランスから独立)
面積:2.8万平方キロ
人口:1110万
通貨:グールド
主要言語:ハイチ語、フランス語
首都:ポルトープランス(ポトプガンス)
Pòtoprens(ハイチ語)
Port-au-Prince(フランス語)(人口125万)
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ハイチ(アイチ)共和国
ハイチ カリブ海の世界初の黒人による共和国
ハイチ共和国(Repiblik d Ayiti / République d'Haïti)は、カリブ海の大アンティル諸島(Grandes Antilles)のイスパニョーラ島(Ispayola / Hispaniola)の西部にある共和制国家で、東がドミニカ共和国と接している。また、海を挟んで西がキューバとジャマイカ、東が米領プエルトリコ、北が英領タークス・カイコス諸島と近接している。
日本では慣用的に「ハイチ」と呼ばれるが、フランス語は語頭の「H」を読まないため、「Haïti」は「アイチ」と発音され、ハイチクレオール語(ハイチ語)では「Ayiti」と綴られる。英語は「Haiti」と綴るが発音は「ヘイティ」に近く、日本語の「ハイチ」とは発音に差がある。「アイチ」とは、アラワク系先住民族タイノ人の言葉で「山ばかりの土地」を意味する。かつてフランス領時代は「サン・ドマング」(Saint-Domingue)と呼ばれていた。
ハイチ共和国の面積は約2.8万平方キロメートルで、人口は約1110万人。通貨はグールドで、フランス語では「gourde haïtienne」、ハイチ語では「goud ayisyen」と呼ばれている。ハイチの一人当たりのGDP(国内総生産)は約730ドルで、172位前後。一人当たりの購買力平価(PPP)は約1730ドルで174位前後。経済基盤がもろく、国民の多くが貧困状態にある。農業が主な産業であるが、農業インフラの整備が遅れ、自然災害も重なり、海外からの支援に依存している。仕事を求めて都市部に人口が集まるものの、雇用は十分ではなく、失業率も高い。
ハイチの国民は、約95%がアフリカ系の黒人であり、残りがムラート(Mulâtre)と呼ばれるアフリカ系黒人とヨーロッパ系白人の混血である。古くはアラワク系タイノ人が住んでいたが、16世紀にスペインからの入植者により滅ぼされ、その後、奴隷としてカリブ人が連れて来られが、過酷な労働で死に追いやられた。次にスペインは西アフリカの黒人奴隷を連れてきた。17世紀にはフランスがイスパニョーラ島の西部を占領するようになり、1697年以降、ハイチは仏領サン・ドマングとなり、アフリカの奴隷海岸(Côte des Esclaves)から多くの黒人奴隷が連れて来られた。そのような歴史的経緯からセネガル、ガンビア、ガーナ、ナイジェリア、ベナン、コンゴ、アンゴラなどの出身者が多い。そのうち、ベナンにあったダホメ王国のフォン人の文化が出身地や民族を越えてアフリカ系黒人の結束を固める役割を果たし、現在はキリスト教徒が多数派ではあるものの、ベナンのダホメ王国がルーツのブートゥー教の信仰文化も根付いている。
ハイチの言語は、ハイチ・クレオール語(ハイチ語)とフランス語が公用語となっている。以前はフランス語のみだったが、1961年にハイチ語も公用語に認められた。フランス語は公的機関や教育などで主に用いられるが、日常会話はハイチ語が主流である。ハイチ語はフランス語をベースに、アフリカのウォロフ語、フォン語、エウェ語などが交じり合ったクレオール言語で、ハイチで独自に発展した。ハイチ語はハイチおよび隣国のドミニカ共和国のほか、貧困から脱却するために海外移住したハイチ人のコミュニティーがあるバハマ、米国、カナダ、フランスなどでもハイチ系住民により話されている。
ハイチのイスパニョーラ島が初めてヨーロッパ人に「発見」されたのは、1492年のクリストファー・コロンブス(クリストーフォロ・コロンボ/Cristoforo Colombo)によるとされ、当時は先住民であるアラワク系タイノ人が住んでいたが、16世紀にスペイン人入植者らにより滅ぼされた。スペインはカリブ人やアフリカ人を奴隷としてイスパニョーラ島に移住させ、サント・ドミンゴ総督領(Capitanía General de Santo Domingo)としたが、17世紀半ばよりイスパニョーラ島西部に徐々にフランス人が進出し、1697年のライスワイク条約で、イスパニョーラ島の西約3分の1をフランス領とすることをスペインに認めさせた。この現在のハイチにあたる領域をフランスは「サント・ドミンゴ」をフランス語読みしてフランス領サン・ドマング(Colonie de Saint-Domingue)とした。
仏領サン・ドマングではアフリカ西部(トーゴ・ベナン・ナイジェリアなど)の奴隷海岸(Côte des Esclaves)から多くのアフリカ系黒人を奴隷として連れて来て、サトウキビやコーヒーの栽培を行った。この過程では奴隷の過酷労働による死亡者が多く、アフリカからさらに奴隷を供給した。フランス人らヨーロッパ系白人はプランテーション経営で大儲けしたが、仏領サン・ドマングの人口比率はアフリカ出身の黒人奴隷が大多数を占めていた。
奴隷労働から逃亡したアフリカ系黒人の逃亡奴隷はマルーン(Maroon)と呼ばれ、森の中に逃亡し、ゲリラ化してプランテーション農園をたびたび襲撃した。アフリカのさまざまな地方や部族の出身の黒人らは言葉が通じないため、徐々にフランス語とアフリカ諸言語が混じったクレオール言語が形成され、これがハイチ・クレオール語のもとになった。
アフリカ西部のブードゥー教司祭「ウンガン」(hùn gan)であるフランソワ・マッカンダル(François Mackandal)がマルーンの指導者として黒人の抵抗運動を組織化し、1750年代に反乱を指揮した。マッカンダルは1758年にフランス軍に逮捕され、処刑されたが、その後も抵抗運動が続いた。
仏領サン・ドマングでは、黒人奴隷およびマルーン(逃亡奴隷)のほか、フランス出身のフランス人が行政を支配し、そのほか白人(主にフランス人)農園主の富豪、労働者の貧しい白人(プチ・ブラン/petit blancs)、白人と黒人の混血(ムラート)、自由黒人(カラード)などに階層が分かれていた。
1789年のフランス革命により、フランス本国で人権宣言などが高らかに謳い上げられると、仏領サン・ドマングでも市民権を求める声や、奴隷制維持のためにフランスからの独立も視野に入れる富裕層など、さまざまな動きが加速した。カラードのジュリアン・レイモン(Julien Raimond)はカラードと白人の完全な平等を訴えた。また、参政権を求め、サン・ドマング当局から拒否されたため、反乱を起こしたカラードのヴァンサン・オジェ(Vincent Ogé)は、1791年に処刑された。これは白人とカラードとの対立であったが、黒人奴隷らが反乱に加わり、白人の農園主らに報復した。これはイスパニョーラ島東部(サント・ドミンゴ)を領有するスペインの介入を招いたが、1792年にフランス議会がフランス植民地の自由と平等を宣言し、1793年に奴隷制度が廃止された。
黒人の指導者トゥサン・ルヴェチ(Tousen Louvèti / Toussaint Louverture)はフランス側につくことを拒否し、1801年にサン・ドマング憲法を公布し、自治政府を開設し、自身が総督に就任した。フランス本国で権力を掌握したナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)は、再びサン・ドマングを支配するためにフランス軍を送り、トゥサンは最終的にフランス軍に投降し、捕らえられ、フランスに移送され、獄死した。その後、フランスによる奴隷制復活の動きに抵抗する反乱が起こり、1803年の「ヴェルティエールの戦い」をハイチ独立運動の指導者ジャンジャック・デサリーヌ(Jean-Jacques Dessalines)の下、ハイチ革命軍はフランス軍を破り、1804年にデサリーヌはスペイン領だったサント・ドミンゴ(現・ドミニカ共和国)を含むイスパニョーラ島全土を掌握してハイチ独立を宣言し、国名を先住民アラワク・タイノ人が呼んだ「山がちの土地」を意味する「ハイチ」(アイチ/Haiti)と定めた。デサリーヌはジャック1世(Jacques I)としてハイチ初代皇帝に即位し、「ハイチ(アイチ)帝国」(Empire d'Haïti)が成立した。
奴隷出身のジャック1世は、ハイチが黒人国家であることを宣言し、白人が土地や資産を所有することを禁じ、フランス人に対する報復で、ハイチに残るフランス人を処刑しようとした。奴隷制は廃止され、黒人が権利を取り戻したものの、経済の柱である砂糖やコーヒーのプランテーション農園の労働力の主力が黒人であることは変わらず、読み書きできる人材を経営者に求めるとムラート(白人との混血)がその地位を占めるようになった。
ハイチ帝国では、北部の黒人の支持を受けるアンリ・クリストフ(Anri Kristòf / Henry Christophe)と南部のムラートの支持を受けるアレクサンドル・サベ・ペション(Alexandre Sabès Pétion)の2つの派閥が勢力を築き、1806年にジャック1世が暗殺され、わずか2年でハイチ帝国が崩壊し、イスパニョーラ島西部(ハイチ)では北部の「ハイチ国」(État d'Haïti)と南部の「ハイチ共和国」(République d'Haïti)に分裂した。さらに、この混乱の中で1809年にイスパニョーラ島東部(ドミニカ)は、再びスペインが支配するようになり、スペイン領サント・ドミンゴとなった。
北ハイチの「ハイチ国」のアンリ・クリストフ大統領は1811年にハイチ国王アンリ1世となることを宣言し、北ハイチでは「ハイチ王国」(Royaume d'Haïti)が成立。アンリ1世は独裁体制を敷き、南ハイチの「ハイチ共和国」との対立も続き、クーデターを恐れて精神衰弱となっていたアンリ1世は1820年に拳銃自殺し、ハイチ王国が崩壊。ジャン・ピエール・ボワイエ(Jean Pierre Boyer)大統領のハイチ共和国が北ハイチを併合し、イスパニョーラ島西部の南北ハイチが統一された。
一方、イスパニョーラ島東部のスペイン領サント・ドミンゴでは現地の生まれのスペイン系クリオージョを中心に独立の機運が高まり、1821年に「スペイン・ハイチ共和国」(República del Haití Español)が独立した。しかし、コロンビア共和国への加入などをめぐり内戦となり、その隙をついてハイチ共和国が1822年にスペイン・ハイチ共和国を占領した。ハイチ共和国のボワイエ大統領が失脚すると、1844年に革命軍が蜂起し、1845年に東部で「ドミニカ共和国」(República Dominicana)が建国された。ペドロ・サンタナ(Pedro Santana)がドミニカ共和国初代大統領に就任した。
しかし、ボワイエ大統領の後のハイチ共和国大統領に就任した将軍のフォースタン・スールーク(Faustin Soulouque)大統領は1849年に帝政を宣言し、「ハイチ帝国」(Empire d'Haïti)の皇帝フォースタン1世を名乗り、国内では独裁体制を敷き、ドミニカ共和国へも侵攻した。フォースタン1世は1859年にファーブル・ジェフラール(Fabre Geffrard)将軍の蜂起により帝政が倒され、共和制の「ハイチ共和国」に戻った。
一方、ハイチとの戦争が続き、これに疲弊したドミニカ共和国のサンタナ大統領は1861年に再びスペインに戻ることで保守派の利益を守ろうとし、サンタナはスペイン領サント・ドミンゴ総督となった。しかし、これに自由派のドミニカ人が激怒し、再び独立戦争が勃発し、1865年に「ドミニカ共和国」がスペインから再独立した。その後もハイチ共和国がドミニカ共和国にとり脅威で、ドミニカ共和国はアメリカ合衆国(米国)への併合も求めたが米国議会に拒否された。1875年にようやくドミニカ共和国とハイチ共和国の平和条約が結ばれ、イスパニョーラ島に2つの国が共存することが確定した。
ハイチは砂糖貿易で経済の近代化を進めたが、ハイチ財政を圧迫したのが独立と引き換えのフランスへの賠償金返済であった。さらにドイツのカリブ海進出を警戒した米国は1915年に債務返済を口実に海兵隊をハイチに派遣し、ハイチを占領した。この際に米国海兵隊に抵抗したハイチから多くの難民がドミニカ共和国やキューバに逃れた。米国は1934年までハイチで軍政を続け、米国モデルの産業育成と首都機能の強化、軍隊の訓練などを実施し、ハイチの経済構造を改善することにより対外財政を強化しようとした。1934年に米国海兵隊が撤退後、ムラートの大統領が続いたが、1946年のクーデターで黒人のデュマルセ・エスティメ(Dumarsais Estimé)が大統領に就任した。
エスティメ大統領は黒人の政治的権利拡充、社会保障と労働政策の改善を図り、観光振興と国際協調のために1949年にポルトープランス(Port-au-Prince)で万国博覧会を開催した。しかし、エスティメ大統領の再選の動きを阻止しようとクーデターが発生し、黒人軍人のポール・マグロワール(Paul Magloire)による軍事政権となった。マグロワール大統領の時代はコーヒー産業および米国からの観光誘致で景気が良くなったが1956年のクーデターで失脚した。
その後、黒人の医師のフランソワ・デュヴァリエ(François Duvalier)が大衆的な人気を得て大統領に就任したが、1958年に独裁化し、アフリカがルーツのブードゥー教を個人崇拝に利用した。トントン・マクート(Tonton Macoute)と呼ばれる秘密警察で反対派の言論を弾圧した。一方でフランス語を基礎に西アフリカ諸語が交じり合ったクレオール言語であるハイチ語(ハイチ・クレオール語)が1961年に公用語として認められるようになった。
1971年にフランソワ・デュヴァリエ大統領が死去すると、息子のジャンクロード・デュヴァリエ(Jean-Claude Duvalier)が19歳で大統領に就任した。反共政策で米国との経済関係を深め、1977年から「ジャンクロード主義」経済開放政策を進め、米国の資本を積極的に導入し、技術官僚を重用し、工業化と近代化を進めようとしたが、農業や牧畜が衰退し、貧困と恐怖政治から逃れたい難民が米国に押し寄せる結果となった。困窮したハイチ国民らによる武装蜂起が相次ぎ、最終的には共産革命を恐れた米国やフランスに説得され、1986年にフランスに亡命した。これにより30年近くにわたるデュヴァリエ親子の独裁政権が崩壊した。
1987年に新憲法が制定され、民主的な選挙により左派のジャンベルトラン・アリスティド(Jean-Bertrand Aristide)が1991年に大統領に就任し、貧困層の教育普及に努めたが、軍事クーデターでベネズエラと米国に亡命した。国連や米国の圧力で軍事政権は政権を返上し、アリスティド大統領が復帰した。1996年にアリスティッド派のルネ・ガルシア・プレヴァル(René Garcia Préval)が大統領に就任し、2001年に再びアリスティド大統領が就任した。しかし、2004年に「ハイチ解放再建革命戦線」(Front pour la libération et la reconstruction nationales)が武装蜂起し、アリスティド大統領は中央アフリカ共和国へ亡命した。その後、治安維持のために多国籍軍が展開する事態となり、2006年の大統領選挙でルネ・ガルシア・プレヴァル元大統領が当選し、大統領に就任した。
2010年にハイチでマグニチュード7.0の大地震が発生し、首都ポルトープランスで大きな被害が発生し、ハイチ大統領府も倒壊した。さらに伝染病コレラも大流行した。2010年の大統領選挙では歌手のミシェル・マテリ(Michel Martelly)が当選し、平和的な政権移行となった。2017年にはジョヴネル・モイーズ(Jovenel Moïse)大統領が就任した。2017年に国連平和維持軍が撤退したが、その後治安が悪化している。
ハイチはフランス語圏であることからフランスやカナダとの関係が深く、また反共政策や難民の主な亡命先である米国とも深い関係がある。キューバとは反共のため長らく国交が断絶していたが1996年に国交回復している。また、反共政策をとっていたため、台湾(中華民国)との国交を維持してきた。
ハイチは、労働人口の約3分の2が農業に従事しているが、その約70%は自給自足の小規模農業であり、国民の約80%が貧困状態であると見られている。灌漑等のインフラが未整備であり、生産性が低く、食料が自給できていない。デュヴァリエ独裁時代には国際的孤立でも生存のために食料自給が最優先されていたが、民主化後に安価な米国産米が輸入されるようになり、生産性の悪いハイチの稲田は放棄され、都市に人口が流入し、都市に失業者があふれるようになった。また、2010年のハイチ大地震がハイチ経済に甚大なダメージを与えており、雇用の創出と貧困の克服が課題となっている。
ハイチの都市部ではフランス系のムラートが多いことから、フランス文化が比較的重視されている。一方、農村ではアフリカ系黒人が大多数であるため、アフリカをルーツとする文化や、ハイチの土地に根付いたクレオールの多様な文化が重視されている。
ハイチはカリブ海地域にありながら、アフリカとフランスの文化の影響を受け、独特のハイチ音楽が生まれた。フランスのコントレダンスとアフリカ・コンゴ地方の踊り、バンジョー(Banjo)などの楽器を用いたメラング(メハング/meringue)と呼ばれる音楽ジャンルが発展した。また、隣国のドミニカ共和国のダンス音楽「メレンゲ」(merengue)の影響を受け、ハイチ語で歌うコンパ(compas)というジャンルが発達した。ハイチ音楽は米国のジャズなどとの関係も深く、ヴードゥー教のアフリカ伝統音楽などの要素も取り入れながら、ハイチ音楽は発展を続けている。
ハイチの首都はフランス語で「王子の港」を意味するポルトープランス(ポフトープハンス/Port-au-Prince)で、ハイチ語ではポトプガンス(Pòtoprens)と呼ばれる。ポトプガンスの人口は約125万人で、近年は人口集中が続き、郊外を含む人口は約280万人に達する。イスパニョーラ島西部におけるフランス領サン・ドマングの拠点として、独立後はハイチの首都として発展した。ゴナーヴ(Gonâve)湾の湾岸沿いに市街地が形成され、海側に商業地区、丘陵側に高級住宅街が広がっている。コーヒー豆や砂糖の積出港としてハイチ経済を牽引しているが、近年は仕事を求め、地方から首都に人口が流入するようになり、郊外で都市のスラム化が進み、治安の悪化が深刻となっている。
ポトプガンスの気候は、一年中暑いサバナ気候で、冬季は雨が少ない。平均気温は1月が23℃~31℃、7月は25℃~35℃である。
ハイチの空の玄関口は、ポルトープランス(ポトプガンス)国際空港(L'aéroport international de Port-au-Prince)は「トゥーサン・ルーヴェルチュール国際空港」(L'aéroport international Toussaint Louverture)という愛称があり、ハイチ独立運動家のトゥーサン・ルーヴェルチュール/トゥサン・ルヴェチ(Toussaint Louverture / Tousen Louvèti)から命名された。
ポルトープランス国際空港からは、マイアミ(米国フロリダ州)、フォートローダーデール(米国フロリダ州)、ニューヨーク(米国ニューヨーク州)などの米国方面、パリ(フランス)、ポワンタピートル(仏領グアドループ)、モントリオール(カナダ・ケベック州)などのフランス語圏方面、サントドミンゴ(ドミニカ共和国)、パナマシティー(パナマ)、プロビデンシアレス(英領タークス・カイコス諸島)、シント・マールテン(蘭領シント・マールテン)など中米カリブ海方面の路線が運航されている。
ハイチ第2の都市は、首都ポトプガンスの南西に隣接するカフ/カフフーフ(Kafou / Carrefour)で、人口約50万人。第3の都市は、ポトプガンスの東に隣接するデルマ(Dèlma)で人口約40万人。第4の都市はペシオンヴィル(Petyonvil / Pétion-Ville)で、ポトプガンスの南東に隣接している。第5の都市はポトプガンスの北に隣接するシテ・ソレイ(Site Soley / Cité Soleil)で、大規模なスラム街があり、犯罪やギャング抗争も多く、治安が課題となっている。これらの都市はいずれも西県ポトプガンス郡にあり、ポトプガンス都市圏を形成している。
このほか、ハイチの北部にゴナイーヴ(Gonayiv / Gonaïves)、サン・マク(Sen Mak / Saint-Marc)、カパイシャン(Kap Ayisyen / Cap-Haïtien)、ポドペ(Pòdpè / Port-de-Paix)、南部にジャクメル(Jakmèl / Jacmel)、南西部にオカイ(Okay / Les Cayes)などの都市がある。
ハイチ共和国(アイチ)
Repiblik d Ayiti(ハイチ語)
République d'Haïti(フランス語)
(1804年、フランスから独立)
面積:2.8万平方キロ
人口:1110万
通貨:グールド
主要言語:ハイチ語、フランス語
首都:ポルトープランス(ポトプガンス)
Pòtoprens(ハイチ語)
Port-au-Prince(フランス語)(人口125万)
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